第163話「確定の時間」頃

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三月、又は終章

右隣の席のクラスメイトが適当に済ますと言って教室を出たので、私も席を立って廊下で待った。外套のおかげで寒くはないが、彼は本当に短時間で出てきて、私は入れ替わるように戸をくぐる。

三月、いよいよ最後の進路相談だ。

全員が合格通知を受けとり、第二志望以内で進学できることになった。もう授業はなく、課題だけ出されて、ある日は卒業アルバムをつくった。手数の多い担任が映った、E組だけのアルバムだ。撮影された記憶もない写真たちがうず高く積みあがること三万枚。先生は楽しげに選定を呼びかけ、生徒は速やかに隠滅を試み、結局、彼の目標に達しないことが判明して、私たちは服を替えられ、最後は国まで替えられた。

そうして何十万と写真撮影を強要してきた担任教師が、いつもの笑顔で私を迎えた。信号のごとく黄色の皮膚に、球のごとくに丸い頭、まるでわざとらしいアカデミックドレス。ただ衣装だけがその職業を保証するようで、袖から裾から触手、触手また触手。それが椅子に座って、の上にを重ね、「目標は見つかりましたか」

私は担任教師の前に立った。視線の先に椅子が出ていた。直前のクラスメイトにも示しただろう、空の椅子だ。彼が使ったかは定かではないが、私はそこに通学かばんを載せることにして、空いた左手を振り抜いた。

袖の下から飛び出した刃を、標的はわずかな動作で避ける。構わず私は武器をつかんで再び、三度、四度、五度、閉め切られた室内で暗殺の手をかわされること六度、ついに七撃目を絡めとられる。

すかさず右手を繰り出した。二刀流で狙うは標的の急所、教師装束のネクタイの真下の、触手生物の心臓だ。だが相手は暗殺者の左腕を解放しないまま、あくまで攻撃を回避する心算らしい。最高速度マッハ二十の超生物ならではの超人的な余裕である。だから私も右腕を、標的のその高速動作に追従させる。すると今度こそ左腕を絡めとった触手が緩んだ。

ので、左腕の触手は振りほどいてみることにする。引きちぎるほどに勢いをつけたら、ちょうどその辺りで何か音がして、かと思えば解放感を伴い、足元には黄色のが一本。体勢を整えた二刀流の先には、驚愕の表情がある。一瞬のことだったが。

標的は飛び退いて、窓に張りついた。当然に暗殺者との距離が開く。しかし思わずといった様子で触手の数本を窓から離すと、おもむろに確かめて顔を険しくした。本来なら振り返って確かめたのだろうか。だが、それだけは許してやらない。べつに背を向けてくれても構わないけれど。かわりに標的が死ぬだけだから。

だから、距離を即座に詰めても、さすがに打開される。ただし標的はを一本、置いていった。続け様に、逃げた先にもう片腕を。さらに場所を移した標的に、そこでも武器で斬りかかって、やがて教員室を一周しようかという頃、最後の脚が一発、二発、どこからか撃ち抜かれた。

先生の身体が、袖の先を、裾の先を、損なってしまった。

絶好の機会に見えた。

標的は、手も足も再生させようとはしなかった。体力を温存しているのだろうか。超人的な再生能力は、それでも身体能力だ。行使すればするほど触手生物であろうとも消耗する。

当然、体力を温存しようとも、肢体の欠落が及ぼす影響は小さくないだろう。だが標的は触手生物だった。肢体といっても所詮は彼自身がそう見せようとしている部位に過ぎない。現に彼には右足も左足もない。そしていくら切り分けようとも、大抵の白兵戦では、最後は自ら彼の懐に飛び込むことになる。現に私がそうだった。

私たちは目と鼻の先で見詰め合った。

一年間の訓練でも披露したことがない二刀流と、友人の一人だけに暴露したような身体能力の、合わせ技による単独暗殺。最初で最後の暗殺だ。先生は気づいただろうか。気づいてはいないだろうか。だが、いずれにしても手段は変わらない。決して割れない窓、決して開かない戸、門番まで立てたのだ。今日という最後の機会に。

ネクタイには穴が開いていた。三メートル弱の超生物にお似合いの、巨大なネクタイの、小さな穴だ。周囲には、巨大なネクタイにお似合いの、巨大な三日月が描かれている。そのネクタイの真下が、その三日月の真下が、その小さな穴の真下が、触手生物の最大の急所たる心臓だという。

そこに刃を突き立てた。

眼前の丸い顔は、今は三日月のように笑っている。

私は確信していた。「失敗した」

アカデミックドレスの袖から裾から触手という触手が飛び出していた。それも粘着質な触手が。私たちは顔を突き合わせながらも、伸びて伸びた触手と触手が、背後をとってきて、羽交い絞めをしかけてくる。貫いたかに思われた二刀流は、寸前で別の触手に狙いを阻まれ、また背後からの締め技の勢いのままに距離を離されてしまった。

「あっ、そんなに見ないでください。すごく恥ずかしい体勢なんです」

「心配しなくても見えませんから。首が動かせなくて」

「にゅやッ」

耳元で大声があがった。「すぐに助けますからね」

はたしてマッハ二十の超生物のすぐとはいかほどか。特に数える気も起きなかったが、なぜか十秒ほど経過した頃、かかる力がやや強まった。ほどなくして甲高い悲鳴。

「いえいえ、どうかご心配なさらず。ええ。触手が触手に絡まって、べとべとねばねば化学反応が、ぬるぬる作用しただけですから」

「また引きちぎりましょうか」

ということがあって、一分かかったか、かからなかったか、私は解放されることになった。きしむ床に降ろされてナイフをしまううちに、担任教師はいつのまにか混乱の極限にあった室内を、音速で直してしまう。私は人並みの速度で歩いて、通学かばんを肩に提げた。彼もすっかり再生しきった体で、元の椅子に腰かけている。

「もう暗殺は終わりですか」

「しばらくは計画の練り直しかな」

返事はいつもの笑い声だ。ヌルフフフ。と、しかし暗殺が失敗した後で聞くと、なるほど神経を逆なでされるようで、だから銃を抜こうとしたら、かばんが開いていなかった。

「手入れしておきました」とは緑色の縞模様。「また暗殺に来てください」

「余裕かよ」

「あなたの先生ですから」

ヌルフフフ。笑い声に「そうだね」と私は背を向ける。


「殺せんせーの生徒でよかった」


戸を開けて廊下に出ると、カルマが壁に背をつけて立っていた。次の生徒を呼ぶためにのぞいた教室では、ただクラスメイト一人が立ちあがるだけだ。カルマと私は適当に別れの挨拶をして、並んで歩いて玄関へ向かう。

靴を履き替える前に、ふと、かばんを開いてみた。目ざとく顔を寄せてきたカルマは、直後、体を震わせて笑い出す。私は思わず手にとる。

仕込んだ拳銃が二丁共、信号のような黄色に塗り潰されてしまっている。

カルマが笑い交じりにからかってくる。

私は黄色の拳銃をしまい込みながら、口では何か言い返そうとして、——しかし、こらえきれずに息が漏れた。

黄色のグリップの片隅で擬人化されたタコが笑っていた。

ただ、それだけのことが。なんだか喜ばしくて、楽しくて、おかしかったのだ。