三田ダンテの日常は、屋上で少女を抱きとめた、その十二秒後に終わりを告げた。転校生の美少女、隣の席の美少女、一緒に帰る美少女、一つ屋根の下の美少女!「君っ、どっどっどっ——うきょまで!?」「あたりまえです。まずは、おまえを堕とします。このわたくしが決めたんだわ」——『堕天使に誘惑されている!』/今川大葉

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堕天使に誘惑されている!

親方! 空から女の子が!

あまりに有名な物語の導入。ボーイ・ミーツ・ガールの典型。空から女の子が降ってくる。五秒で受け止めるかはさておき、黛千尋も好きだった。——ヒロインを屋上にとすライトノベルが。

世間一般の常識にならえば、人間は屋上に落ちてきやしない。どちらかといえば、むしろ人間は屋上からこそ落ちるもので、それさえ日常とは呼びがたい。屋上に落ちる人間も、屋上から落ちる人間も、並大抵の人間には皆等しく非日常。当の黛にとってのことは、さておくとして。

とにかく、そのライトノベルを好んで読んだ。高校時代など屋上で読んだ。屋上は、落ちるだけの舞台ではない。悲劇的な非日常だけが降りかかることなど、ありはしない。屋上は出逢いの舞台なのだ。ボーイ・ミーツ・ガール。主人公とヒロインが屋上への落下でそれを果たしてみせたように。

屋上に堕ちてきたヒロインを主人公が受け止めて始まったそのライトノベルは、この四月ついに最新十一巻を発売した。現れた十一番目の堕天使。ヒロインもつまり十一人目を数えるところとなり、主人公の学校にはまたしても美少女転校生がやってくることになって、てんやわんや、かくかくしかじか。中盤以降、三巻頃からちら見えしていた敵組織の、とうとう首領と対峙する。

四月になった。黛の現実の——リアルの——話だ。四月になった。黛はこの三月から四月にかけての時間を、ライトノベルを読み費やした。春になって、そうするだけの時間が生まれた。そう。ついに手に入れたのだ。大卒の称号を。黛は大学を卒業した。だから、とうとうハンターになった。専業の。だから黛はこのライトノベルを発売初日に読めなかった。

新卒ハンターの黛は、田舎の実家に帰ってきた。新卒だからと、両親は仕方なく長男を迎えた。三月の終わりのことである。新卒だからと、黛はそれから二週間ばかりの暇を許された。一週間前までのことである。新卒ハンター黛千尋、最初の狩りは、両親の言うには新人研修、悪霊退治と相成った。悪霊だろうと送り出され、本当に悪霊を退治して、新人研修は以上で終了。黛は文句をつけて引きこもった。

よりにもよって『堕天使に誘惑されている!』発売日に狩りをかぶせてくるなんて!

ネタバレの害は被らなかった。幸運ではない。不断の努力の結実だ。初日に読めないと悟った黛は、ありとあらゆるSNSのミュート設定を強化し、通知を停止、あるいはログアウトして、場合によりアカウント削除を即決した。オンラインゲームも一切やめた。チャットは無論、現代のプレイヤーにはプレイヤー名でコミュニケーションする文化がある。黛は十一巻の内容すべてを自分の目で確かめたかったのだ。

唯一購入だけはした。発売日の開店ちょうどの現地の書店に駆け込んで、新刊置き場に直行した。十一番目の堕天使が表紙だった。帯には声優決定のおしらせ。主人公もヒロインも俺の知ってる役者が演じてくれるって。それを買ってすぐにしまい込んだ。開きもせずに荷物の底に。丸一週間! 次巻を読むしかない引きで終わってくれた十巻の続きを! 全人類が待ち望んだ十一巻を! 隙間時間に読めよって? 誰が、渇望さえした新刊の初読を襲撃に邪魔されたいって!?

新人研修を終え、自室に戻ると、黛はようやく誰にも邪魔されない時間を手に入れた。自由でなんというか救われていて、独りで静かで豊かで——。荷物の底から出てきた、馴染みない書店のブックカバー。一週間前にしまったそのままのライトノベル。それを外し、眺め、付けなおし、黛は黙々と読書を始めた。

十一番目の堕天使、十一番目のヒロイン。現れた敵組織、現れた首領、手も足も出ない主人公たち、主人公を守ろうとして倒されていくヒロインたち。無力に打ちひしがれる主人公。首領は彼の前に降り立つと、悪魔的にささやく。「 」

そうして。読み終えた黛は。声優決定の帯を目にした瞬間からは想像もつかないほどの、絶望を抱いていた。

わかってはいた。正直なところ。いつか訪れるべき場面だった。主人公がヒロインに決別を告げることなど、わかっていたのだ。わかっていたではないか。こういうときばっかり決断できてしまう主人公はいる。『堕天使!』の主人公もその類の主人公だった。いや、いや、でもな、でもなあ! クソッ! クソッ! 何が優柔不断な主人公だ! 注意書きとかないのかよ! 要らないけど! 欲しかった! アー! 次の巻を読みたくない! 絶対に! 今すぐ! 読ませてください!

黛は久々にSNSにログインした。それまでに何十秒を、いや何十分を要したかは定かではない。十一巻を読み返した気もしないでもない。ひとつ確かに言えることはその投稿がこの日つい十二秒前、ぴったり十二時に送信されたということだ。

すべての設定を元に戻しても、タイムラインはちらとも内容を変えなかった。当然だった。発売日は一週間も前なのだ。昨日のトレンドさえ忘れ去られるのがSNSの日常だ。黛のタイムラインもおおむね今日のトレンドに従っており、ゲームのイベント、その配布ユニット、ガチャ、ガチャ、ガチャ、美少女絵師の美少女イラスト。黛は話題が一番盛り上がった時を逃したのだ。まれにラノベの話題が目についたときには、今回の対策の効果の程度を強く思い知らされるだけだ。

最新十一巻の展開はかつてない苦悶をはらんでいた。予測できていた部分はあった。フラグ回収というやつだ。しかし予測できていなければ黛は立ち直れなかったかもしれない。気の迷いだとしても注意書きが欲しくなった。それほどの絶望だった。けれども十一巻の内容を欠片でも別の場所で最初に目にするようなことが起きていたなら、黛は両目をえぐったかもしれなかった。血迷って。

まあその投稿は、決して第十一巻の内容に直結するものではなかったが。一連の対策を講じていなければ、黛は些細な投稿の一つ一つに精神を乱されたことだろう。バスケで鍛えた? 知るか、そんなもん。俺は新刊を読まない一週間を耐え抜いたんだ。強靭な精神力だろうがよ十二分に。

ので、今、黛は最悪よりうんと健常な精神状態でその投稿を、


——今川大葉、飛び降りってマジ?


秒でブロックした。これは反射である。反射的に、そして投稿者のプロフィールを確認した。フォロー関係にないアカウントだった。ので、拡散に加担したアカウントも端からブロックしていった。それでも黛は邪悪なタイムラインを遡った。今川大葉、飛び降り、自殺。投稿時間はただの十二秒前、ぴたりと十二時。体の脇を見下ろすと、置いたばかりの物理書籍が一冊。

美少女の表紙を見せて鎮座する先週の新刊『堕天使に誘惑されている!』第十一巻。著——今川大葉。