糸冬いずく
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彼女は椚ヶ丘中学三年E組の生徒[$名前が見つかりません]です。——三日月が爆誕した春、謹慎期間の明けの春、登校したら彼女がいた。何食わぬ顔で俺を見た。「久しぶりだね、赤羽くん」
アウトサイド
2024-02-02T19:00:00+09:00
<h1>奥田愛美、一月</h1>
<h2>一</h2>
<p>一月六日、冬休みも終盤の午後、班で駅に集まりながら、奥田は春の日を思い出していた。初めての暗殺の記憶である。</p>
<p>というと四月中旬、一斉射撃を朝の挨拶に代えたことがあった。<em>二十五人</em>が自動小銃で標的を狙ったのだ。報酬は山分けだといえば<em>生徒全員</em>が参加した。へたな鉄砲も数を撃てば当たろうという作戦である。現実にはかすめることもできなかったが。失敗したとは思わなかった。失敗すると思っていた。いや当たらないと考えていた。誰かは成功するといえども、それは決して奥田ではありえないと。</p>
<p>そして奥田は暗殺を諦めた。失敗すると思っていた。彼女だけは。殺せないと思っていた。殺したくないからではない。弱いからだった。単純に。身体能力が低いのだ。体育の授業を振り返っても、暗殺ならばと期待できるような活躍には覚えがない。実際その下旬には、体育の授業は暗殺訓練へと変わり、おおむね従来の成績優秀者たちが好成績を収めていった。</p>
<p>つまり奥田ではない。特製の武器による特殊な暗殺。ナイフと銃の暗殺訓練。彼女は単独では暗殺できない。彼女では暗殺に貢献できない。クラス全員の一斉射撃でもない限り。彼女に賞金の分け前はありえない。しかしクラス全員の一斉射撃は一発かすめることさえできなかった。</p>
<p>——今となっては思い出だ。殺せないと思った。標的が、殺せないほどに怪物だったから。今となっては、思い出だ。</p>
<p>結局、奥田は暗殺者になった。あれほど殺せないと思った四月の末に単独で計画して、単独で実行した。</p>
<p>「毒です! 飲んでください!」</p>
<p>標的は怪物だった。実弾も通用しない超生物だ。ゆえに「対先生」と頭につくようなナイフや弾丸を支給された。そして<em>本来なら最初に検討してしかるべきだった選択肢</em>を、奥田は無意識のうちに除外してしまったのだ。しかし理科の授業、最初の科学の実験で、標的はあたかも危険物のように水酸化ナトリウムを扱った。彼女は選択肢をとり戻した。もしかして毒物劇物は怪物にも有害たりうるのではないか。</p>
<p>奥田は喜び勇んで毒殺した。理科の教科書にも登場する三種の劇物を用意した。劣等生の集まったE組にあって、彼女は化学だけは胸を張って得意分野だと言える。だから不意打ちはやはり難しく、正面から堂々と差し出した。</p>
<p>真心を込めた正直な暗殺。それは当然に失敗したけれど、標的に服毒させられなかったことが理由ではない。奥田の初めての毒殺を、相手は正面から堂々と受けて立った。</p>
<p>結局、怪物だったのだ。水酸化ナトリウムも酢酸タリウムも王水も標的は迷わず飲み干して「表情を変える程度」だと言い切り、のみならず教師として生徒を指導する始末。当然、劇物の製造は危険行為そのものである。だから放課後にでも、今度は先生と一緒に先生の毒殺の研究をしましょうと。奥田は一も二もなく飛びついた。それも当然に失敗したけれど、とは今だからこそ思えることだ。</p>
<p>理科以外の成績はE組らしく劣等生。特に国語の正解がわからないことは、総合成績のみならず人間関係にまで影響を及ぼしていたはずだ。けれども短所よりも長所だと、当時の奥田は開き直っていた。いや諦めていたのだろう。</p>
<p>当然に奥田はだまされていて、標的と一緒に研究した毒殺は、あろうことか怪物に強化形態を与えてしまった。しかし、まるで教師のように、</p>
<p>「奥田さん、暗殺には人をだます国語力も必要ですよ」</p>
<p>何も驚くことはない。毒殺を試みたとはいえ奥田は中学三年生で、標的はクラス担任なのだ。はたしてそうだろうかと思うことがあったとすれば、それは、地球を破壊する怪物の割に、まるで本当の教師のように振る舞うことだ。——はたしてそうだろうか。だが当時の生徒の認識など、その程度のものにすぎない。</p>
<p>一年後に地球を破壊する賞金首で、マッハ二十と触手の怪物で、その割にはE組のクラス担任を全うする姿勢を示している——。</p>
<p>奥田もいよいよ担任教師を認め、以前にも増して理科に邁進するとともに、短所にも目を向けて、自発的に<ruby>暗殺<rt>クラス</rt></ruby>に関わるようになった。少しずつ。</p>
<p>一朝一夕には事は運ばない。初めての完敗から数週間、五月中旬に入っても、奥田の努力は表出しなかっただろう。中間テストも振るわなかった。修学旅行の班さえも、誘ってもらって切り出せず、誘ってもらっても言い出せず。さらに背中を押してもらえなければ、やはり自分から誘うことなどできなかった。</p>
<p>「あの! 同じ班になりませんか!」</p>
<p>そのとき初めてクラスメイトに話しかけた。もう午後には班が決定するという日の昼休みのことだ。大抵は事前に話がついているもので、しかし奥田は相手が<em>誘われていない</em>ことを確信していた。だから失敗しないと踏んで選んだ相手でもないけれど。ただ奥田の後ろの席のクラスメイトだったから。それでいて異様に浮いていたから。最後の一年を過ごす仲間として、まず彼女に声をかけたかったのだ。</p>
<p>暴力沙汰でE組に落ちて、四月下旬まで停学処分を受けていた、二十六人目のクラスメイト。一くくりに劣等生といっても、事件が事件だったから、うわさがうわさを呼んで、E組の中でも一際孤立した。うわさは、うわさにすぎなかったのに。ほとんど誰も関わろうとしなかった。前の席の奥田を含めて。ほとんど誰とも関わろうとしなかった。</p>
<p>中間テストの頃になって、ようやく奥田は気がついた。後ろの席のクラスメイトは自ら皆から距離を置いている。根も葉もないうわさ話でも、彼女に対する警戒心を抱かせるには十分だから。皆が余計な心配をせずに済むように。</p>
<p>もちろん本当の心情は違うかもしれない。これこそ余計な勘繰りかもしれない。だが奥田は無性に悲しくなって、いつかと機をうかがうようになった。そして、その「いつか」はまもなく訪れて、やがてクラスメイトはほほ笑んだ。</p>
<p>「奥田さん、ありがとう」</p>
<hr>
<p>奥田の中学三年生の友人関係のきっかけは、間違いなく五月の修学旅行だった。奥田を誘ってくれた茅野ももちろん、班長の渚も、杉野も神崎もカルマも。このときの班員とは何かと関わるようになり、また後ろの席のクラスメイトとは弁当を共にするようになった。明日も一緒に食べないかと、今度は彼女から奥田を誘ってくれたのだ。そして、それは日がたつにつれ徐々に人数を増やしていき——。</p>
<p>友人や暗殺を通じてクラスに対する積極性を深めること二、三か月、努力は夏の期末テストで実った。特に理科は学年一位で、初めて皆の役に立てた。テスト結果が暗殺での有利につながったのだ。夏休みの離島リゾート二泊三日と、そこで標的をあらかじめ損耗させる権利である。学年一位の数だけ超生物の触手を確実に撃ち落とすことができる。それだけのハンディキャップがあっても、暗殺は失敗してしまったのだけれども。</p>
<p>二学期も奥田の学校生活は日を追うごとに充実していった。決してよいことばかりではなかったが、放課後に友人と寄り道したり、休日に集まって暗殺したり、誘い、誘われ、春には想像もつかなかった日々を送ってきた。そして迎えた期末テストは再び理科学年一位。それも初めての百点満点で、奥田に自信と期待を持たせるには十分な成績だ。冬休みの暗殺はどうしよう、三学期の高校受験はどうなるだろう。</p>
<p>それから少々の学校行事を挟み、冬休み目前、茅野が暗殺をしかけた。いつも笑顔で、いつも人といて、最初に奥田を誘ってくれた初めての友人が、見たこともない表情を浮かべ、よく知った触手を振るっていた。否、奥田は何も知らなかった。いつでも茅野が笑顔の裏に、憎悪と苦痛を隠していたことを。つい二週間前のことである。彼女は雪村あぐりの妹で、茅野カエデは偽名だった。</p>
<p>あぐりは<em>殺せんせー</em>の前の担任教師だ。椚ヶ丘中学では学年末テストの結果が出ると、三月のうちから三年生のクラスが始まる。したがって奥田たちもその数日間だけ彼女の授業を受けた。四月からは暗殺教室が始まったため、そして<em>なぜか</em>学校からもいなくなってしまっていたため、まるきり会うこともなくなっていたのだが、</p>
<p>「人殺し」</p>
<p>かたきを討つ。茅野の暗殺は危険な触手と共に、いまだかつてなく標的の心臓に迫った。それが茅野自身の生命をも損ねようとしていることは、誰の目にも明らかだった。だから標的は——命を賭して救命活動に尽力した。幸い教師の処置は功を奏して、生徒は一命を取り留める。</p>
<p>そして超生物は語り始めた。なぜ人殺しと呼ばれたか、なぜあぐりの妹が現れたか、なぜE組の担任になったか。クラス全員の前で、過去のすべてを。</p>
<p>「二年前まで先生は、『死神』と呼ばれた殺し屋でした」</p>
<p>子供ながらに殺し屋の道を選んだこと、誰も信用できなかったこと、「死」のみが信頼に足ったこと、それほど劣悪な環境で育ったこと、いざ選んだ生業が天職だったこと、いつか通り名がついたこと。弟子をとったが裏切られたこと。しかし処刑ではなく実験を受けるようになったこと。そこであぐりと出会ったこと。</p>
<p>奥田はあぐりについても少しだけ知ることになった。短期間だが担任教師だった彼女には、実は婚約者がいたという。彼は国際研究機関の主任研究員で、己の研究のために夜な夜なあぐりを呼びつけていたそうだ。実験動物すなわち「死神」を見張らせるためである。二人の婚約は一種の政略結婚で、それゆえあぐりは立場が弱く、日中の教職を理由に断ることもできなかったのだ。</p>
<p>とはいえ、あぐりは激務をこなした。苦もなく、それどころか「死神」とも打ち解け、徐々に信頼関係を築いていく。「死神」の人体実験は着実に進行し、肉体が未知の変化を起こすようになったが、あぐりだけは態度も変わらず「死神」の独房を訪れた。</p>
<p>二人は互いに何でも話した。中学校で劣等生とされる生徒たちのクラスを受け持っていること、婚約者にとって召使のような存在であること、年の離れた妹が役者をしていること。「死神」もあぐりに身の上を打ち明けた。だが、そうした時間は長くは続かなかった。二人の出会いからちょうど一年、月面の動物実験が月を爆破したのだ。</p>
<p>研究員たちは、人体実験で「死神」に施した処置が、彼つまり宿主の老化によって、不具合を起こす懸念を抱いていた。その問題の検証のために、ヒトより老化の早いマウスに、「死神」の今やヒトならざる細胞を移植し、万に一つも被害が及ばないよう月面で飼育を始めたのだ。しかし結果は最悪だった。老いたマウスは爆発し、月は直径の七割を失った。</p>
<p>これが三日月の真相だ。そして爆破予告の真相だ。この最悪の実験結果を踏まえて、研究所は来る日を正確に算出した。一年後の三月十三日だ。同様の現象が「死神」を爆破し、今度は地球が消滅するのだ。</p>
<p>実験体は当然に処分が決定した。それを知ったあぐりは当然のように「死神」に伝えた。「死神」は当然に脱出を決行した。そして、あぐりは「死神」の脱出劇に巻き込まれ、その日のうちに亡くなった。</p>
<p>「私が殺したも同然だ」</p>
<p>茅野——雪村あかり——は姉の遺体のそばに、血を弄ぶ触手の怪物を見たという。実際にあぐりは「死神」の腕の中で息を引きとったそうだ。彼女は「死神」の脱出を妨害する<em>わな</em>に、腹部を貫かれ、致命傷を負っていた。「死神」が極めた医学でも、人体実験で得た精密な触手でも、もはや治療は不可能だった。否、人を殺すのでなく救うために訓練していれば、そしてもっと早く気づけていれば、あぐりが死ぬことにはならなかった。</p>
<p>だが現実には、あぐりは死んだ。「死神」にE組の生徒を託して。</p>
<hr>
<p>茅野は無事に病院に搬送された。入院生活を余儀なくされつつも、明後日から始まる三学期には問題なく登校できる見込みだ。</p>
<p>奥田たちは同じ班だったこともあって、クラスの代表として今日、一月六日に、見舞いのために集まった。挨拶は「あけましておめでとう」。何しろ冬休みには会うこともなかったので。</p>
<p>三年E組は冬休みの暗殺を中止した。いや、ほとんど自然消滅だ。</p>
<p>殺せんせーはどういう理由で生まれてきて、何を思ってE組に来たのか。殺せんせーの告白は、生徒の疑問のすべてに答えるようだった。しかし同時に新たな難題を突きつけられて、——この先生を殺さなくてはならないのだ。</p>
<p>毒殺されかけても授業してくれた殺せんせーが、真っ黒な顔をして怒ったことがある。生徒二十五人の住所から一瞬で表札を盗んできて、契約があるから生徒たちには手出しができないけれど、周囲の人物はその限りではないのだと。今でこそ十二分に理解のできる動機だが、当時とても怖かったことを覚えている。</p>
<p>毒殺といえば、毒殺の研究に誘われて、宿題まで出してもらって、何もかも騙されていたときは、奥田も少しは腹を立てた。おおいに悲しい思いもした。</p>
<p>だが、うれしかったこともある。夏の期末テストで成績が上がったこと。冬の期末テストでは、ついに理科で百点満点をとった。そしてクラス全員で目標を達成した。</p>
<p>クラスで暗殺旅行に出かけた。京都に行っても沖縄に行っても、暗殺したり襲撃されたり、大変なこともありながら、それ以上に殺せんせーとたくさん遊んだ。船の上でごちそうをいただいた。バーベキューをしたこともある。放課後に校舎の外で。夜空の花火を見あげて、殺せんせーの不意を突こうとして。</p>
<p>ぞっとするような思い出が、今でも渦を巻いている。頭の中で広がっては、奥田の意志を揺るがしている。——殺そう、だなんて。実行できないなどというものではない。どうして計画できたかさえ、今となっては理解が及ばないのだ。冬休みも明日までとなって、奥田は、いやクラスメイトも誰も、一度も暗殺をしかけることができなかった。</p>
<p>たとえ直前まで計画されていた冬休みの暗殺旅行だろうとも、引き合いに出せるような雰囲気さえない。こうして<em>四人</em>で集まっても、当たり障りのない会話に終始する。</p>
<p>もしかしたら病室では茅野から謝罪されるかもしれない。現状は彼女も知るところであるはずで、それは確かに彼女の行為によって引き起こされたものだから。彼女は茅野カエデはすべて演技だったと言ったが、何から何までうそだったとは言うまい。とりわけこの班に誘ってくれた彼女の優しさを、奥田は強く信じている。だから、もしも謝ってきたら、そのときは奥田から否を突きつけなければならない。</p>
<p>引き金はずっと奥田の目の前にあった。誰が最初に直視するか、誰が最初に引いてしまうか、ずっと、そういう問題だった。皆、楽しい暗殺を少しでも長く続けたくて、全力で背を向けてきただけだ。殺せんせーが意図したとおりに。</p>
<p>だが、それでも、殺せんせーを殺さなくてはならない。前任教師から託され、「死神」は考えに考えて「暗殺教室」を見いだした。E組と殺せんせーは、暗殺者と標的でなければ出会えなかった。暗殺者と標的でなければ、この<em>きずな</em>は生まれなかった。けれども。</p>
<p>年明け三が日も過ぎてからクラス委員の磯貝を通じて、茅野の見舞いの日を知らされて、奥田は久々にクラスのチャットを開いた。「あけましておめでとう」以来のチャットだった。奥田も含めクラスメイトは即座に反応したものの、皆、言いたいことの半分も入力できていない様子だった。モバイル律さえおとなしい。茅野の回復は素直に喜ばしかったのだが。</p>
<p>クラス代表の選出は、磯貝の提案で、特に反対意見も出なかった。大勢で押しかけるよりは、と奥田も同様に考えていた。そこに渚の立候補がなければ、今日ここにはクラス委員の二人がいたのだろう。そして渚もまるで反対にあわず、同じ班だったつながりから四班が代表を務めることになり、あとは見舞い品を決めたら、また静寂が訪れる。</p>
<p>班のチャットもとり立てて盛り上がることにはならなかった。日付が決定事項だったから集合時間と場所だけを決めることになって、ただ二件ほど謝罪を受信した。まるで示し合わせたかのようにそっくりの文章で、その日は用事があるから行けない、と。</p>
<p>「茅野ちゃんによろしくね」</p>
<p>「私の分までお願いできると幸いです」</p>
<p>だから四人で待ち合わせの確認をして、それで、やはりこちらのチャットも徐々に発言を失った。今日も久々に顔を合わせたが「三学期に間に合うみたいで本当によかった」くらいの会話になっただけだ。茅野の具合は本当に心配だったけれども、彼女の話題はどうしても先の暗殺、殺せんせーの告白につながる。それは彼の死とも結びつき、そして短くも奥田たちを見てくれたあぐりの死にまで向き合うことにも等しい。</p>
<p>あの優しかった前任教師に二度と会えない。四月にE組教師が入れ替わっていたときは当然のように感じられていたことが、今は別れの挨拶ができなかったことさえ悔やまれる。——それと同じことが再び三月に、今度は殺せんせーに起きようとしている。彼に二度と会えなくなる。学校を卒業するからではなく、絶対的に決定的に三月十三日までに彼が死亡するために。</p>
<p>あぐりが死んだことを信じたくない。殺せんせーが死ぬことが認められない。もちろん、いつまでもは、そうしてはいられない。明日で冬休みが終わり、明後日には三学期が始まるのだ。そして山を登ったならば、殺せんせー以外の先生にも会うことになる。防衛省から来ている烏間は、その立場から、生徒たちの態度を看過することができないだろう。</p>
<p>皆、同じことを考えているのか、四人そろって少し話して歩きだしたら、そこで空気が重くなった。空気を読むことに長けた者の多い和やかな班だから、なおのこと深刻な事態である。奥田は例外の筆頭だろうが、彼女でさえ今はあまりに気まずい。あるいは、筆頭ムードメーカーの杉野すら今は口を閉じてしまっていると言うべきか。七人がそろっていたなら、こうはならなかっただろうか。</p>
<p>いや。奥田は携帯端末をとり出した。隣の神崎は何も言わない。モバイル律もものを言わない。奥田は無音の端末を操作して、班のチャットを遡る。</p>
<p>——ごめんなさい。六日は用事があるから行けないです。</p>
<h2>二</h2>
<p>一月八日、休み明けの最初の朝、通学路の終端から明るい声が聞こえてきて、奥田の気持ちはいっそう沈んだ。殺せんせーが玄関口で生徒を待っていた。</p>
<p>「おはようございます。三学期もよく学び、よく殺しましょう」</p>
<p>空気を読んだわけではないが、やはり奥田も返事ができなかった。おはようございますと、告げて通り過ぎることしかできなかった。そこに正解も不正解もありやしないけれど、教室に入ったら、やはり正しかったことがすぐにわかる。</p>
<p>張り詰めて、息苦しい。しかし、つける文句は見当たらない。浮かない表情のクラスメイトと僅かに挨拶を交わしたら、重い足を動かして席に着く。皆がそうしているからではないけれど、やはり奥田も何もせず、ただ椅子に座ってじっと時間をやり過ごすようになる。挨拶するか、黙り込むか。</p>
<p>茅野が来たときだけは、教室も明るさをとり戻した。少しだけ、だけれども、たしかに皆が喜色を帯びて、口々に茅野の退院を祝った。茅野も笑顔で皆にこたえた。名前を口ごもったクラスメイトには、茅野で構わないと、やはり笑顔で告げる。一昨日、病室で奥田たちも言ってもらったことだ。E組で呼ばれているうちに、気に入ったそうだ。もちろんクラスメイトへの配慮もあるだろうと思いながら、六日の奥田たちも、やはり今朝のクラスメイトたちも茅野と呼び直して、——しばらくしたら誰もが席に戻った。</p>
<p>いずれ茅野が謝罪を始めるだろうことに思い当たったからかもしれない。単に気持ちが落ち着いて、落ち着いてきたら今度は落ち込んだからかもしれない。その両方かもしれない。いずれでもないのかもしれない。少なくとも奥田は、それらのすべてだった。物音だけのする教室で、物音もさせないように席にとどまる。時々クラスメイトが暗い表情で入口に立つ。</p>
<p>いや顔を見ることもできなかった。だから奥田は友人の登校を、真後ろの席からの物音で察知した。振り向くと、やはり彼女がいて、</p>
<p>「おはよう」</p>
<p>普段より控えた声で挨拶された。奥田ははっと目を見開きながら、同じ挨拶をかすかに返す。</p>
<p>「おはよう」</p>
<p>友人はまた言った。今度は隣の席に向けたようだった。その返事はつぶやくような声だった。常日頃より、ずっと強張った顔のイトナだ。奥田は何も言わずに前を向いた。きっとイトナもそうしただろう。まもなく誰の声も聞こえなくなり、かばんを開く音、荷物を整理する音、それから、——本を置いた音。</p>
<p>奥田は正面の時計を見あげた。黒板上の壁にかかって、三本の針を規則的に動かす。それらを数えていると、だんだん音まで聞こえるようになった。教室最後方の奥田の席まで。錯覚だろうか。一秒、二秒、十秒、二十秒、三十秒、三十一秒、かばんを閉じる音がする、三十四秒、三十五秒、本を開く音がする、四十秒、四十一秒、ページをめくる音がする。一つだけ後ろの席から。</p>
<p>クラスメイトは五分と間を置かずに登校してきた。およそ変わらぬ顔色で浮かない挨拶をして着席する。斜め後ろの席の友人とて、そこは皆と同じだった。隣の席と、前の席と、斜めの席と、せいぜいそのくらいと挨拶を交わすと、あとは口を結んで席にとどまる。ページをめくる音がしても、彼は何も言わなかった。奥田も再び前を向いた。もう時計は見ることができなかったけれど。</p>
<p>いよいよ殺せんせーが入ってくる。</p>
<p>机の天板を眺めて、時々ページの音を数えて。だが、</p>
<p>「一番愚かな殺し方は、感情や欲望で無計画に殺すこと」</p>
<p>英語教師の声がした。</p>
<p>「これはもう動物以下」</p>
<p>国に選ばれた殺し屋の。</p>
<p>「そして次に愚かなのは、自分の気持ちを殺しながら、相手を殺すこと」</p>
<p>奥田は思わず顔をあげた。ビッチ先生は入口の戸に背を預けていた。</p>
<p>「私のような殺し方をしては駄目」</p>
<p>一瞬、不意に視線が交わる。</p>
<p>「金のかわりに、たくさんのものを失うわ」</p>
<p>きっと生徒の<em>ほとんど</em>がそうだった。</p>
<p>「散々悩みなさい、<em>ガキ供</em>。——あんたたちの中の、一番大切な気持ちを殺さないために」</p>
<p>教師の背中が遠ざかっていく。奥田もそこから目を離すことができずに、やがて黄色に遭遇する。ああ、今度こそ始業時間だ。</p>
<hr>
<p>いざ始まったら時間は——飛ぶようにとは言えないが——過ぎるべくして過ぎていった。暗殺教室のことを考えるから気が滅入ってしまうだけで、通常の学校生活を妨害したい者などこのクラスにはもういないのだ。殺せんせーは相変わらずの調子だったけれども、「通常の学校生活」を思えば、それは幸いなことだった。</p>
<p>そして本当に幸いだったことは、烏間が暗殺に触れなかったことだ。一切、事実として話題を避けて、彼はただ表向きの担任教師としての役目に終始した。</p>
<p>ビッチ先生も、もう何も言わなかった。皆、待ってくれていた。時間をつくろうとしてくれていた。皆、もちろん殺せんせーも。</p>
<p>本校舎での始業式、旧校舎でのホームルーム。奥田たちは通常の三学期初日を滞りなく、しかし息苦しいほどの空気感で終える。</p>
<p>二学期が始まった頃にも同じようなことがあった。市内で下着泥棒が多発したというときに、まるで殺せんせーが容疑者らしくて、互いに居心地の悪い一日を送った。まったく同じでも何でもないけれど。だって今日は殺せんせーは笑顔で「さようなら」を告げて、堂々と戸を閉める。あのときは逃げるように廊下に出ていった。もう何もかもが違う。彼が人殺しと呼ばれたときでさえ、九月のようには疑えなかった。</p>
<p>「みんな、ちょっといいかな」</p>
<p>だから九月とは違って、誰かが全体に呼びかけた。椅子を引いて立ち上がった一際小柄な——渚だ。</p>
<p>渚は生徒を裏山に集めた。目的は尋ねるまでもない。クラスメイトは粛々と従った。誰も確認しなかった。だから奥田も振り返らないようにした。声の一つも出さなかった。渚もその時まで中身を言葉にしなかった。ただ提案があるとさえ。</p>
<p>提案したいことがあるのだと、渚は中央に立ってようやく話した。</p>
<p>「殺せんせーの命を、助ける方法を探したいんだ」</p>
<p>まるで奥田の気持ちを代弁するかのような言葉が、次々と渚の口から飛び出した。殺せんせーを今までのように殺すことができない。殺したくない。死なせたくない。だから三月に爆発しないで済む方法を探したい。元をたどれば地球の爆破は、殺せんせーの意志ではないのだから。助けたい。命懸けで教えられたから。ずっと楽しかったから。その恩返しがしたい。</p>
<p>当てはないと、渚は言った。それゆえか、どこか不安げな表情だった。奥田は思わず口元を緩めた。同じ気持ちだったのだ。しかし賛成の声が上がってすぐ、奥田はあっと口を結んだ。恐る恐る隣を見ると、茅野と神崎が目を細めている。杉野は言葉で渚に同意した。そして、さらに向こうの木の下にも、友人二人が隣り合って、</p>
<p>「こんな空気の中、言うのは何だけど」</p>
<p>奥田はただちに視線を直した。また別のクラスメイトが険しい顔で注目を集めていた。</p>
<p>「私は反対」</p>
<p>中央で渚が声をあげた。反射的に驚いたようだったが、厳しい表情は一つきりではない。二人、三人、四人、五人、数名が同調するために肩を並べる。</p>
<p>奥田には見つめることしかできなかった。もしかすると驚くこともできなかったのかもしれない。初めから知っていたのではないかとさえ、そのときには、そのように感じられたのだ。</p>
<p>反対派——殺す派の意見は理屈が通ったものだった。<em>暗殺教室を修了したい</em>というのである。</p>
<p>元をたどればE組と殺せんせーは、中学生と殺し屋、一般人と超生物、出会える由もなかった間柄だ。あぐりが「死神」に託さなければ、彼が命懸けで編み出した教育課程がなければ。<ruby>暗殺者<rt>アサシン</rt></ruby>と<ruby>標的<rt>ターゲット</rt></ruby>という<em>きずな</em>がなければ、出会わなかった、出会えなかった、向き合えなかった、向き合わなかった。</p>
<p>だから暗殺でこたえたい。それこそ恩を返すことだと。</p>
<p>つけ加えて言うならば、当てのない調べものにも承服しかねるということだ。まったく、もっともな言い分である。ただでさえ対象は超生物で、それも未知の研究の成果だ。科学に秀でている自負のある奥田とて、その水準にははるかに遠い。そのうえ<em>期日</em>は二か月後ときたら、何も見つからない可能性もある。一学期、二学期と積み重ねて迎えたこの三学期を浪費して過ごすような中途半端な結末は、誰より殺せんせーが望まないだろう。</p>
<p>結局クラスメイトの過半数は殺す意思を示した。</p>
<p>「私は、先生を生かすべきじゃないと思う」</p>
<p><em>殺さない派</em>は彼らより二人も少なかった。同じ気持ちがないわけはない。助けたい気持ちがないわけはない。それでも殺す派の意見に影響されて転向した者が少なからずいる。殺したい気持ちとてないわけはないのだ。何も知らなかったにせよ、E組は殺せんせーを殺すために、一年間を費やしてきた。奥田の中にも同じ気持ちがある。殺せんせーが殺されるなら、それは奥田が、奥田たちが殺すときでなければならない。</p>
<p>かような選択だったから、必ずしも友人関係を反映する結果にもならなかった。奥田は渚や茅野と同じ意見をとったが、それも二人に合わせてのことではない。二人もそうだ。渚は先の提案のとおり、一方で茅野は二週間前にいざ殺しかけたとき、殺せんせーが長く生きることを望んでしまったのだと話した。それは奥田には知り得ない後悔で、奥田は奥田で科学の力について考えていた。</p>
<p>最初の毒殺の放課後、奥田の理科を認めてくれた殺せんせーは、実は奥田をだましていた。翌日に種を明かされるまで、奥田はまるでわかっていなかった。完敗だった。毒殺を試みた奥田に対して、殺せんせーは教師として指導した。だが、おかげで奥田は成績を伸ばすのみならず、皆の役に立てるようになった。クラスの暗殺を少しでも助けられるようになった。</p>
<p>この力を今度は殺せんせーのために使いたい。たとえ実力が及ばないとしても、せめて確かめて諦めたい。いや、科学の力ならば。</p>
<p>可能性がある。そうして殺さない派に立った奥田とは、やはり言葉は違ったが、杉野も神崎も同じ立場をとった。同様に四班の残る二人もそれぞれ異なる口を開いて——殺す派として意見を述べた。</p>
<p>カルマは他に先んじて殺す意思を示した一人だ。つまりは渚に反対した。最初は中村だったが、そこに寺坂らが加わり、続けてカルマがはっきり<em>敵対</em>した。さながら喧嘩だった。意見にかかわらず周囲が困惑してしまうような喧嘩だ。奥田は思わず、カルマの隣にいたはずの、もう一人の友人の姿を探した。相変わらず木陰に立っていた彼女は、やがて取り押さえられる二人を見て、表情を取り繕うこともしなかった。</p>
<p>胸を押さえると、今でも鼓動がよくわかる。わかっていた、はずだったのに。奥田が視線をさまよわせているうちに、マッハ二十で殺せんせーが現れて、よりにもよって目的は仲裁で、その方法は全員参加のサバイバルゲームだった。生徒全員が意見を述べて、立場を選び、そしてクラスの総意を争う。渚と同じ殺さない派を選んだ奥田たちは青色を、カルマと同じ殺さない派を選んだ者たちは赤色を——。</p>
<p>先生を生かすべきではない。赤色の唇からこぼした彼女は、専用の武器をつかみ、颯爽と奥田に背を向けた。</p>
<hr>
<p>渚の提案に始まり、対立、喧嘩、サバイバルゲーム、その勝敗がクラスの三学期を左右するとなれば、もはや戦争だ。助けるか、殺すか。絶対に他人事ではありえないはずの殺せんせーは、皆の意見を尊重すると言い、自ら対決を促した。クラスが分裂したまま終わってしまうことだけは嫌だからと。そうまで言われて、異を唱える者はE組にはもういない。</p>
<p>中立の律を含め、全員が己の意見を示したら、多少の準備を挟んで、まもなく開戦となった。今回の実戦形式には覚えがある。対賞金首を想定して、クラス全員で教官を狙う二学期からの訓練だ。裏山を戦場とすることも珍しくない。だから各々円滑に用意を終え、審判を買って出た烏間の合図の直後、——早速これが訓練でないことを、訓練とは決定的に異なることを、絶対的に思い知らされた。</p>
<p>狙撃。開幕の。一発、いや二発。奥田ら殺さない派の青色から、二体の死者が両手をあげる。それは波のようにチームメイトの視線を集めた。打って変わって下手人の姿は見えないが、正体は明らかだ。クラスきっての狙撃手二人だ。彼らは戦争をすると決まって真っ先に、殺す派の赤色に名乗りをあげた。訓練教官どころかあの超生物をして警戒されるほどの狙撃は敵に回すとかくも恐ろしい。</p>
<p>急遽、青チームの耳元を、指揮官の指示が走る。狙撃を警戒するように。奥田は姿勢を低くして、武器を握りしめる。わかっていた、はずだった。だが相手も同様にこちらの布陣を警戒していたのだ。真っ先に殺された二人のうち、一人はクラス委員の片方で小隊指揮能力が高く、もう一人はそれこそ<em>爆発的</em>な打開力を持つ。幸いにして指揮官であるもう一人のクラス委員は生きているけれど、磯貝自身はそれを幸いだと思っただろうか。</p>
<p>これはクラスの総意を争う、クラスメイトとの戦争である。標的は教官でも賞金首でもない。共に暗殺のために切磋琢磨してきたクラスメイトを全滅させるか、降伏させるか、互いの陣地の旗を奪うか。勝利条件も訓練とは異なる。</p>
<p>磯貝は矢継ぎ早に指示を出した。ただでさえ人数が劣る中で、早速二人も、それも専門家の二人を失ってしまった。特定の分野に秀でているといえば奥田もそちら側ではあるが、今回は役に立てないだろう。もちろん青チームの専門家は三人や四人ではないけれど、その数も赤チームには劣る。そのうえ特に戦争を有利に進められる人材は、ほとんどが殺す派の赤色をとった。</p>
<p>しかし赤色の狙撃は続かなかった。かわりに奥田の耳に、四名死亡の報が届く。なんと赤チームから三名、内一名は例の狙撃手だ。それもクラス随一の狙撃可能距離を誇る彼は、青チームの大きな課題だった。だが彼らを、なんと神崎が一人で殺してしまったというのだ。一人で敵陣の深くまで切り込んだ彼女も、またあえなく殺されてしまったのだが、この活躍は青チームの士気を助けた。</p>
<p>——私もできることをしよう。</p>
<p>正直意外な戦績だった。暗殺での神崎といえば、これまでは暗殺も含めて後方支援が主だった。奥田が言えることではないけれど、進んで前に出ることがなければ、特に目立ったような印象もない。それが早々に一人で三人も、厄介な敵まで仕留めてしまった。</p>
<p>一方で決してまぐれ当たりでもなかった。神崎はたしかに印象のない暗殺者だったが、今にして思えば専門家ではあったのだ。今日の彼女の戦術は、彼女の言葉に直してしまえば、裏をとった、ということになるのだろう。つまりゲーム用語では。彼女の趣味にして特技、いわゆるゲームの全般において、その腕前はクラス随一である。その彼女が夏頃から熱をあげているものが、戦争のゲームだということだった。</p>
<p>暗殺とは一見関係なさそうで、しかし神崎も神崎の得意分野を暗殺のために伸ばしてきた。その成果だと多少なりともわかるから、なおさらチームの闘志に火がつく。</p>
<p>とはいえ劣勢を覆すには至らず、青チームはさらに数を失うことになった。その間に敵も倒したが差は開く一方だ。</p>
<p>茅野も死んだ。彼女は彼女でまるで別人のように身体を操り、また敵の主力を追い詰めたのだが、このことに関しては、むしろ以前が本調子ではなかったのだろう。イトナのように。触手から解放されて、ようやく真の実力を発揮できるようになったのだ。</p>
<p>奥田は意外にも、あるいは順当に、終盤まで生き延びた。いつもみたいに後ろから、それこそ支援に努めたから。それでも最後は前線に出た。</p>
<p>「いいか、みんな。この劣勢で勝つにはリスクをとる必要がある」</p>
<p>磯貝は、守備を捨てる決断をした。もはや敵の全滅は望めない。青チームが勝つ道は、旗をかすめとること、そこにしかなかった。そして、そのためには、赤チームが配置した狙撃手いや<em>移動砲台</em>を最優先で倒さなければならない。</p>
<p>「速水たち三人を全力で<ruby>殺<rt>や</rt></ruby>るぞ」</p>
<p>赤チーム二人目の狙撃手は大木を陣取って、青チームを狙い、牽制し続けていた。そして攻撃にして防御である彼女の射撃に加えて、傍らに二人の護衛。その二人もまた暗殺力の高い者たちで、</p>
<p>「三人さえ<ruby>殺<rt>や</rt></ruby>れれば、赤の旗を守るのはカルマ一人! 一気に方をつけるんだ! 行くぞ!」</p>
<p>降り注ぐ銃弾の中で、奥田は最初に死んだ。こればかりは運だと言えるような雨だったが、彼女は口を閉じて、戦場を離れた。皆を邪魔しないようにと。その皆は敵も味方も次々と一人ずつ死んでいったけれど。最後は一対一になった。ナイフ術クラス一位のチームメイトと、移動砲台の護衛のもう一人だ。</p>
<p>奥田は驚かなかった。細腕がナイフを振るったとき、その斬撃が阻まれたとき、逆にナイフ術一位の二刀流をかわしたとき、まるで互角みたいに殺し合っていたとき、赤色の唇が笑みをかたどったとき。もう奥田は驚かなかった。何も驚くことはなかった。何を祈ることもなかった。</p>
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第142話「迷いの時間」から第146話「激戦の時間」まで
奥田愛美、一月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2024-02-02T19:00:00+09:00
<h1>潮田渚、十一月</h1>
<h2>二</h2>
<p>「あえて言うなら『一体感』ですわ、お母様」</p>
<p>渚はその瞬間だけ感心した。机を挟んで向かいの椅子の、海外出身の英語教師だ。波打つ金髪はその象徴のようで、艶めく唇は流暢に日本語を紡ぐ。そして目を細めてほほ笑みをかたどられてしまうと、その瞬間だけ彼女の正体も忘れてしまう。</p>
<p>「じゃあ、うちの渚にはどういった指導方針を?」</p>
<p>その瞬間だけ。</p>
<p>「まず渚くんには——キスで安易に舌を使わないよう指導しています」</p>
<p>その瞬間、隣の<em>母親役</em>が銃を抜いた。渚は慌てて押さえにかかる。しかし外野の評決も「問題外」の三文字だ。</p>
<p>「訴えられっぞ、こんな痴女担任」</p>
<p>渚は暗澹たる気分になった。元よりビッチ先生は担任教師ではない。彼女はあくまで英語教師で、正体はプロの潜入暗殺者、さらに言えば痴女である。どだい無理な話だった。だが渚には、今日それも放課後までにヒト担任教師が必要なのだ。</p>
<p>E組の担任教師はヒトではない。マッハ二十の賞金首で、強いて言うならタコ、まあ怪物だ。ということで、表向きの担任の用意がある。副担任の烏間である。彼はいわゆる部外者の前に担任教師が出なければならないとき、たびたびE組生徒を率いてくれた。しかしながら彼も学校教師ではなく、正体は防衛省のヒトである。副担任も訓練教官も務めてくれるが、元は怪物暗殺の監督役として派遣されており、常に多忙で、時には一週間の出張が入ることも——。</p>
<p>思わずため息がこぼれた。</p>
<p>烏間は今週いっぱい出張、渚に「一体感」あるキスを指導してくれているビッチ先生は論外。尊敬できるできないと、紹介したいしたくないとは、まったく別の問題だ。特に渚の母ならば、担任を痴女と認めたその瞬間に、本当にビッチ先生を訴え、ますます決意を固めるだろう。——彼女は昨晩、三者面談を思い立った。目的は一つ。長男のE組<em>脱出</em>だ。</p>
<p>当然、三者面談があったからといって本校舎に戻れる道理はない。復帰条件はあくまでテストだ。学校のテストで学年上位の成績を収めて初めて、可能性が浮上する。</p>
<p>しかし昨晩の母は、渚に向かって言い放った。——寄付金を持って必死に頼んだら特例がいただける。前例も存在する。</p>
<p>まずは明日——つまり今日——の放課後に三者面談してもらうからと宣言されたら、渚に逆らうすべはなかった。常々のことだ。母に異議を唱えようものなら、その瞬間、多くは言い争いに発展し、必ず進展しなくなる。彼女の夫でさえそうなって、やがて彼は嫌気が差して離婚を選び、家を出た。</p>
<p>渚は母も父も嫌いではない。だが。</p>
<p>「お疲れ様、渚くん」</p>
<p>背中で声がした。振り返ったら、渚は少しだけ見あげなければならなかった。女子生徒の中では二番目に背が高いクラスメイトだ。付近では茅野と奥田と神崎が額をつき合わせて何か話し込んでいる。渚は何か返事をと思って、言葉を探し、首を横に振った。</p>
<p>「僕は何も」</p>
<p>「それなら、これからだね」</p>
<p>クラスメイトは綺麗にほほ笑んだ。そして渚が意味を尋ねる前に、僅かに首を動かす。渚も同じく首を動かす。彼女の顔色は<em>明るい</em>から。渚はまもなく教室の入口を目でとらえる。その瞬間、笑い声が聞こえてきた。ヌルフフフ。ちょうど見ていた引き戸の向こうに、ヒトならざる巨大な影が一つ。</p>
<p>「簡単なことです」</p>
<p>ついに怪物教師の登場らしい。渚はごくりと唾を飲んだ。マッハ二十の賞金首、殺せないから殺せんせー。頼れるときは本当に頼れるタコなのだが、</p>
<p>「烏間先生に化ければいいんでしょう」</p>
<p>こと扮装に関しては期待より不安が勝るところだ。教室中であらかじめくぎを刺す声が上がる。いつものクオリティ低い変装では、とか、すれ違うくらいならまだしも、とか。</p>
<p>しかし当の殺せんせーは自信満々に戸を開けた。それはもう勢いづいて。</p>
<p>がららっ。</p>
<p>「おう、ワイや、烏間や」</p>
<p>その瞬間、渚は言葉を失った。</p>
<hr>
<p>烏間に化けようとして失敗した怪物。それ以上でも以下でもない、つまりは「いつものクオリティ低い変装」で、再現する気などないような代物だった。だが怪物以上の代役は見つからない。あくまでビッチ先生はこの上なく論外で、生徒に務まる役でもなかった。そうして瞬く間に時間が流れ、ついに迎えた運命の放課後、渚は玄関口に立ち、まもなく母を出迎える。</p>
<p>「言うとおりにするのよ、渚」</p>
<p>母の決定は昨晩から微塵も揺るがないようだった。つかつかと歩いてきた彼女を前に、渚の口は自然と閉じられる。僕はE組にかよいたい。しかし、それがつぶやきでも耳に入ればどうなるか。たとえ息子の教室の前であろうと、理性を手放すに違いない。そうしたら、もしかして殺せんせーとも話にならないかもしれない。それでは困る。ここにきて渚が頼れるものは、後は殺せんせーだけなのだ。</p>
<p>もっとも、今となってはそれこそ巨大な不安要素の一つでもある。母を教員室へ案内しながら、渚の中の不安は一歩ずつ膨れ上がった。教員室ではいよいよ烏間——に扮した殺せんせー——が対面の時を待っている。あれから試行錯誤を重ね、クラスメイトたちは殺せんせーをヒトに変えようとしてくれた。渚は完成形を目にしていないので、最悪の場合は関西弁でさえなければよしとしようか、などと祈りと共に前進するしかないのだ。</p>
<p>教員室に続く戸は、先に前に出た母が開けた。がらりと音を立て、開いた戸の先、</p>
<p>「ようこそ、渚くんのお母さん」</p>
<p>ヒトのような形をとった何かが、殺せんせーの声で話していた。渚を見た。その母を見た。腕を動かし、五指を操り、四つ合わせた机の中央に、ジュースの入ったグラスを二つ、銀の蓋の皿を一つ。</p>
<p>何か、ではない。操り人形などでもない。殺せんせーだ。あの三メートル弱の怪物的巨体が、百八十センチ程度まで、驚異の減量を成し遂げたのだ。それが顔の表面に耳と鼻をはりつけて、つぶらな瞳はともかく眉を化粧、烏間の髪型のかつらをかぶっているのだから、これは——<em>烏間せんせー</em>と呼ぶべきかもしれない。</p>
<p>まだ烏間からもヒトからもかけ離れているようではあったが、肝心の<ruby>部外者<rt>はは</rt></ruby>が疑いを向ける様子はなかった。理由が扮装の品質か机の中央か、どちらかは定かでない。しかし母が机の中央、ことさらグラスに気をとられたことは確実だろう。山の上の寂れた校舎で、いったいどこのレストランかという茶請けだけれども、それよりも、グラスの中身がグァバジュースだ。</p>
<p>「私これ大好きなんです」</p>
<p>母は大いに喜び、顔色も<em>明るく</em>した。蓋の下から現れたマカロンの山も、彼女をいたく満足させた。対する烏間せんせーは「存じております」とうなずいて、よどみなく会話を広げていく。</p>
<p>「渚くんに聞きましたが——」</p>
<p>烏間せんせーは驚くほど上手に会話の舵をとった。好きな食べ物に始まって、競技選手、テレビ番組、上手に母の機嫌をとり続けている。</p>
<p>「そう、先生もわかりますか!」</p>
<p>「もちろん!」</p>
<p>しかし烏間せんせーが「まあしかし」と手をこねたときだ。</p>
<p>「お母さん、お綺麗でいらっしゃる。渚くんも似たんでしょうかねえ」</p>
<p>「——この子ねえ」</p>
<p>あっとも言えずに急転直下。</p>
<p>「女でさえあれば私の理想にできたのに」</p>
<p>母の顔色が<em>暗く</em>なる。</p>
<hr>
<p>口癖だった。理想を言えば女の子が欲しかった。</p>
<p>母はしばしば渚を姿見の前に立たせる。息子の全身を鏡に映して、女性の服を重ねるのだ。娘にはおしゃれを教えてやりたかったのだと。息子だろうと髪を伸ばせばこれほど似合うのにと。彼女は短髪だけを許されて、女の子らしさが磨けなくて、外見重視の総合商社に落ちて、それもかの商社の上位を占める一流大学に入れなかったからで、その点、椚ヶ丘学園は進学実績が目覚ましくって。</p>
<p>三者面談は失敗だ。殺せんせーは短い会話の端々からこの母子家庭の事情を、そして他ならぬ渚の意思をくんでくれた。だから母は一転、大いに怒り<em>真っ暗な</em>顔で勢いよく出口の戸を閉めた。</p>
<p>渚の母が校舎を去ると、殺せんせーは扮装を解いた。怪物的巨体は、どうやら机の下に詰め込まれていたらしい。そして、あちらこちらに潜んでいたクラスメイトたちも顔を出した。彼らはおっかなびっくり見てきたが、渚は苦笑するしかない。あるいは喜んでおくべきだったのだろうか、殺せんせーが正体を隠し通せたことを。</p>
<p>それでも、あまりに明白な理由のために帰宅が億劫で、渚は旧校舎で長らく時間を潰した。まさか家に帰ったら機嫌よく出迎えられることになろうとは、彼にはまだ知る由もなかった。</p>
<h2>三</h2>
<p>最悪の三者面談は最悪の結果に至り、渚をも最悪に至らせようとしたが、彼はいろいろあってE組残留を許された。卒業後に髪を切る宣言もして、学園祭にもE組として参加できたのだが、</p>
<p>「おーい! 渚ちゃーん! 遊びに来たぜー!」</p>
<p>「げ、ユ、ユウジくん!?」</p>
<p>今は卒業どころか年越も前の十一月で、髪は長いまま。渚は校舎の窓から上半身をのぞかせて、外の同年代の男の子に対応しながら、ズボンをスカートに着せ替えられる。</p>
<p>「見えないとこで、こっそり食べよう」</p>
<p>学園祭でE組外の知人も少なくない今日の旧校舎では、渚の提案は苦肉の策だった。ユウジは何も疑うことなく軽薄な声で喜んでくれたが。——ユウジは<em>渚ちゃん</em>に好意を寄せている。</p>
<p>言うまでもなく渚は男子である。ただ、わけあって女装しなければならないことがあった。ユウジは、そうして潜入した先にいた。彼はよりにもよって女装した渚に一目ぼれして、よりにもよって学園祭の時期に<em>渚ちゃん</em>の学校を突き止めてくれたのだという。</p>
<p>「学園祭、来てよかったな。渚ちゃんに接客してもらえるなんて」</p>
<p>ユウジは顔を赤くして、渚を見ながらつけ麵を食べた。全クラスが店を出す学園祭で、E組も旧校舎に飲食店を開いた。その看板商品の、どんぐりつけ麵だ。あのビッチ先生も太鼓判を押した自信作だが、ユウジに味が伝わっているかはわからない。彼ときたら、いつでも渚を視界に入れようとする。もっと、おいしいつけ麵に気をとられてほしい。とはいえ<em>接待で</em>そのようなことを訴えてよいものか。</p>
<p>これでもユウジは上客なので。</p>
<p>渚としても、ただで女装を繰り返したわけではない。すべてはE組優勝に貢献するためである。椚ヶ丘の学園祭は、クラス対抗商売合戦の側面を持つ。優勝候補の三年A組の催しは飲み食い無料で、芸能人も出演し、すでにあふれんばかりの観客から繰り返し入場料をとり立てているらしい。E組の客の入りは悪くないが、A組に勝つためにはより多くの売上が必要だった。</p>
<p>そこにきて、このユウジである。裕福なご家庭の坊々らしいお客様が、たまさか渚(ちゃん)にほれている。だますことには気が引けるけれど、使えるものは使うべきだ。現状も、渚の容姿も。幸い渚は一人ではなく、</p>
<p>「『私のオススメぜーんぶ食べてほしいなー♡』」</p>
<p>時にはカンペが来ることもある。ユウジは全品注文すると言い財布を出した。万札が出てきて、渚は変な声を出しかけた。カルマからもカンペが来た。——デートで一万、払えるか聞いて。</p>
<p>それはもう違う商売だ、とは戸惑っても言い出せず、やがてすべての品が届く。さすがにユウジも食事に集中した。商品ごとに何やら写真を撮影し、おいしいおいしいと胃に収めていく。幸い、E組外の知人が<em>渚ちゃん</em>を発見することはなかった。しかし散弾銃とキジは現れた。</p>
<p>ユウジも渚も噴き出した。そのうち渚だけが、殺せんせーを殺せなかった殺し屋の一人であることに気づく。彼は渚たちには気づかずに、烏間や他の生徒と話す。なんでもプロの狙撃手であるところの彼は、世界中の狩猟免許を取得しており、今日はE組のために裏山で肉をとってきてくれたそうだ。</p>
<p>「な、なんだあいつ。警察にかけたほうがいいんじゃ——」</p>
<p>「わーっ!」</p>
<p>どう考えても<ruby>部外者<rt>ユウジ</rt></ruby>にはまるで説明が足りなかった。携帯端末をとり出すユウジを、渚は慌てて引き止める。たしかに警察が必要な相手だけれども、今は(おそらく)殺せんせーの招待客なのだ。(おそらく)部外者の多い今日の学校で無闇に暗殺をしかける輩ではないのだ。問題はいかにユウジを説得するかだが、</p>
<p>「あの人は——『地元の猟友会の<em>吉岡さん</em>』」</p>
<p>カンペが来た。</p>
<p>「吉岡さん、どうみても外人だけど!?」</p>
<p>うっと渚は言葉に詰まった。たしかにどう見ても外国の方だった。慌てて次のカンペを探す。しかし今度は出てこなかった。渚は苦し紛れに絞り出した。</p>
<p>「帰化、したんだ」</p>
<p>日本の文化が気に入ったみたいでと、思いつきを並べていく。ユウジはどうにか端末をしまってくれた。</p>
<p>ところがその後も珍客は続いた。カンペも続いた。どう見ても一般人ではない殺し屋屋、改め「浅草演芸場重鎮の<em>マイルド柳生</em>」、弟子の一人がE組で教師をしている。さらに<em>芸人</em>仲間が一人、二人、三人、麵でなく銃(モデルガン)をスープにつける仲間、毒(比喩表現)を混ぜても食える仲間、わさび入りモンブランを食べる(マイルド柳生直伝リアクション芸)仲間——。</p>
<p>「わりと私たち、そういう人に縁があって」</p>
<p>まさか絶対に殺し屋とは紹介できない。とはいえ相当に厳しい言い訳だった。</p>
<p>「渚ちゃんさあ、うそ、ついてるよな」</p>
<p>さすがに露呈した。いつのまにかユウジの顔色が<em>暗く</em>なっていて、</p>
<p>「わかっちゃうんだよ」</p>
<p>と言う。</p>
<p>——ユウジは父親にすり寄る者たちを幼少期から見続けてきた。上辺、ごまかしの造り笑顔をずっと、ずっと見てきたのだ。だから、わかった。落胆もした。初めて会ったときの渚はそのような顔をする<em>女の子</em>ではなかった。</p>
<p>渚はユウジの観察眼を褒めた。ユウジは少しも喜べない。いやらしい環境が育てた望まぬ才能である。すると<em>彼女</em>はユウジを見て、自分の短くない髪に触った</p>
<p>「ごめんね、僕、男だよ」</p>
<hr>
<p>「またまたァ」</p>
<p>ユウジはなかなか信じなかった。渚は二度、三度と否定され、胡坐をかいても疑われた。カンペが来た。見せれば納得、文章横に手書きのゾウ。幸いにして<em>何か</em>を見せる前に、ユウジも信じてくれるようになったが。そこまで女子の制服が似合うのかしらと思えば、多少は悲しい気持ちになる。惨めではないけれど「かわいい」よりは「かっこいい」と言われたい。</p>
<p>渚も男だから。</p>
<p>ユウジはまもなく山を下りた。だましていた分の返金は、彼の背中に拒絶された。渚の内側でいよいよ罪悪感が膨れ上がる。だがユウジの背中は渚を拒絶したまま、徐々に、徐々に見えなくなる。</p>
<p>それからどれほどの時間が流れたのか、渚の背中で声がした。</p>
<p>「あれ、もう帰っちゃったの」</p>
<p>カルマだった。息を切らして、両手に何かをつかんでいて、</p>
<p>「コスプレ撮影会で金とろうと思ってたのに」</p>
<p>「カルマくんは僕でいくら稼ぐつもり!?」</p>
<p>カルマは一本ずつ指を立てていく。一本で済まないことを驚くべきか、桁を恐れておくべきか。しかし顔色が<em>明るい</em>からそれほど身構えずにいたら、さらに後ろからクラスメイトが走ってきた。彼女はカルマの隣で足を止めると、肩で呼吸して「ごめんなさい」と言った。</p>
<p>「あっ、でも、この様子なら、間に合ったのかな」</p>
<p>「ちっとも間に合ってない」</p>
<p>カルマがいかにも不満げに、顔色も僅かに<em>暗く</em>する。一方その隣のクラスメイトは、いつもの<em>明るい</em>顔色で柔らかく笑う。</p>
<p>「じゃあ、よかった、渚くん。その、赤羽くんがさっきまで、渚くんの『オプション』で一儲けするんだって」</p>
<p>「あー、うん。薄々そうだろうな、とは。けど、ユウジくんは帰ったよ」</p>
<p>「帰っちゃったんだ」</p>
<p>なぜか寂しげな反応が返ってきた。いぶかしむ渚に、クラスメイトは説明する。</p>
<p>「キッチンが大盛り上がりだったの。沖縄のホテルで会った男の子でしょ、お金持ちの。実際に全部注文してくれたから、村松くんも原さんも大張り切りで。私たちも、どういう順番でお出ししようって考えてたんだ」</p>
<p>「そうだったんだ」</p>
<p>たしかにこのクラスメイトは今日は調理班だった。どうだったと接待の様子を聞かれ、渚は顎に手を当て振り返る。</p>
<p>「全部おいしそうに食べてたと思うよ」</p>
<p>何も思い出すことができなかった。感想を話してくれたような覚えはあるが、正直なところ渚も緊張しきりだった。ただ、面と向かってまずいと言われた記憶はない。好意を寄せている相手に対して言い出せなかっただけかもしれないけれど。</p>
<p>渚が緊張していたことを正直に伝えると、クラスメイトは「それもそうだね」と眉を下げた。続けて再び謝ろうとするので、渚は慌てて制止する。彼女が謝るようなことは何もないのだ。</p>
<p>「謝らせとけば」</p>
<p>これは、その隣で<em>衣装</em>の束を抱えるカルマだ。いつしか顔色はますます<em>暗く</em>。いったい「オプション」価格は幾らだったのだろう。渚はなんだか別の意味で緊張してきて、努めて彼の顔を見ないようにした。そうすれば、もう一人のクラスメイトと顔を合わせることになるのだが、彼女の顔色はめったに<em>暗く</em>ならない。渚はそっと安心する。</p>
<p>そう、いつまでも落ち込んではいられないのだ。まずは喫緊の問題を解決すべきだろう。このスカートの持ち主を探さなければならない。</p>
<h2>一</h2>
<p>「僕の中でのなんとなくのイメージだけど、他人の顔が明るく見えたり暗く見えたりするときがあります」</p>
<p>明るいときは安全で、暗いときは危険で、たぶん、鷹岡と対峙したときは暗いときを避けて攻撃した。母と会話するときは暗いときを避けて意見した。たぶん。<em>それ</em>はかつて渚にとって、本当に感覚的で無意識的な行動だった。なぜ、どうして、そうするのか、深く考えることもなかった。つい最近になるまでは。一人の殺し屋に出会うまでは。それが、</p>
<p>「意識の波長」</p>
<p>渚が明暗で感じていたものの正体だ。</p>
<p>呼吸、視線、表情、人間の反応の節々から、決定的な意識の隙間を見つけることができる。才能だった。母親の顔色をうかがう生活が育てた、これ以上は望めないような才能。</p>
<p>渚には人を殺す才能がある。</p>
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第112話「2週目の時間」から第117話「珍客の時間」まで
潮田渚、十一月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2023-10-20T19:00:00+09:00
<h1>神崎有希子、十月</h1>
<h2>一</h2>
<p>顔を上げたら日直が黒板の月日を書き直していて、神崎はひどい胸騒ぎを覚えた。当番を忘れていたからではない。黒板を整理されたからではない。今朝はまだ始業前。殺せんせーも来ていない。ではなぜか。</p>
<p>神崎は顔をうつむける。落書きの一つもない木製の机が、彼女の視線を受け止める。年季の入った机である。実用上の問題がないと言うと、いくらかの虚偽が挟まることになるけれど、もう六、七か月のつき合いだ。だが疑問に答えてはくれなかった。</p>
<p>そのうち殺せんせーがやってきて、刻限のとおりに授業が始まる。そうなって初めて忘れ物のことを考えて、緊張とともにかばんを探った。杞憂であった。何もかも必要なだけ、宿題も予習も過不足なく済んでいた。テスト勉強も順調だ。二週間後の中間テストに向けて、今日は早速、担任教師が付き切りで——生徒全員に対して付き切りで——懸念点を一つずつ解消してくれた。</p>
<p>それで、どうして落ち着かないのだろう。昼休みの弁当をおいしく食べて、なおも神崎は考えた。箸を忘れたわけでも、クラスメイトの誕生日を失念していたわけでも、何か争いの兆しを見逃していたわけでもない。今日は四班の女子で食べる約束をしていた。神崎は正しく覚えていた。だが、ふと気が散った。何かが言葉にできずにいる。視界の端でクラスメイトが担任教師に斬りかかる。</p>
<p>神崎は、はっとなって顔を上げた。まっさらな黒板が次の授業を待っている。</p>
<p>「どうしたの、神崎さん」</p>
<p>友人の一人が神崎を見ていた。神崎は緩やかに首を振った。</p>
<p>「ただ、十月になったんだなって、考えたの」</p>
<p>「——そうだね」</p>
<p>友人は弁当箱を包み直す手を止めた。白色のカーディガンが、弁当箱に影を生んでいる。</p>
<p>「中間で忙しくなる前にどこか行っとく?」</p>
<p>「わあ、いいですね」</p>
<p>別の友人がうなずいた。学校指定のブレザーに二本の三つ編みを垂らしている。最後の一人も手をあげた。</p>
<p>「私も賛成!」</p>
<p>同じくブレザーで、十月といえば秋だもんねと、何やらうんうん考え始める。食欲の秋のことかしらと、密かに次を予想しながら、神崎も心中でうなずいた。中間テストまで、あと二週間。先学期中間、期末と激化の一途をたどる当校第三学年テスト事情を思えば、今のうちに英気を養っておくことは決して悪い考えではない。友人も同様に宣言した。</p>
<p>「秋といえば食欲の秋! 新作スイーツで——英気を養うのだ!」</p>
<p>友人は食べたい甘味を次々とあげた。新しいプリン、今までのプリン、風変わりなプリン、プリンパフェ、プリンケーキ、プリンドリンク。彼女はプリンが好きなのだ。高じてプリン爆殺計画を一から一人で立ててしまった程度に。他の甘味も好んでいるが、今朝ちょうど歩きながらいくつも目星をつけてきたらしい。</p>
<p>「私も気になるわ」</p>
<p>そのように神崎がうなずくと、あとはだんだん話がまとまって、放課後に四人で店に入ることになった。意識をそらしてくれたのだと、午後の授業が始まる前には気づいていた。あのまま思考を続けていては、取り返しのつかない間違いさえ起こしたのではないか。わからないけれど、たしかに気は紛れて、授業も午前より集中して取り組むことができた。しかし、誰もが同じ焦燥感にさいなまれていたと気づくためには、早くとも放課後を迎える必要があった。</p>
<p>「あと五か月だよ」</p>
<p>一本道の下り坂で、それは神崎の言葉ではなかったけれど、正しく彼女の懸念だった。クラスメイトの動きが一斉に鈍くなる。テスト期間に入ったこともあり、この場には相当な人数がいた。にもかかわらず、だ。勉強している場合だろうかと、誰もが不安を抱いていたのだった。</p>
<p>「暗殺のスキル高めるほうが優先じゃないの?」</p>
<p>「——仕方ねーだろ」</p>
<p>別のクラスメイトが苦々しく返事する。</p>
<p>「勉強もやっとかねーと、あのタコ来なくなんだからよ」</p>
<p>それこそ先学期中間テストのことだ。百億円の賞金首が現れて一か月、E組制度の影響もあり、暗殺があるからとテストひいては勉強の価値を軽んじていた生徒の前で、賞金首が言い出したのだ。生徒全員が上位五十位に入れなかったらクラスを出ていくと。結果をいえば、E組に劣等生であってほしい本校舎側の工作を受け、目標は達成できなかった。だが、当時の担任教師の言葉は、今も生徒の心に深く刻まれている。</p>
<p>他の殺し屋に先に殺されたらどうなるのか。今のままでは、E組の劣等感だけが残ることにはならないか。優れた殺し屋は常に失敗を想定して、予備の計画を用意している。自信を持てる次の手があるから、自信に満ちた暗殺者になれる。</p>
<p>第二の刃。殺せんせーはE組の暗殺者にとっての勉強を、時にそう表した。今、生徒たちは本心から、第二の刃を大事に磨いている。</p>
<p>一方でこの暗殺には期限があった。殺せんせーは地球を爆破する。それは次の三月、五か月後だ。</p>
<p>すると一人がくつくつ笑いだした。</p>
<p>「難しく悩むなよ、おまえら」</p>
<p>と言う。</p>
<p>「俺に任せろ。すっきりできるグッドアイディア見つけたからよ」</p>
<p>いったい何のことだろう。まるで見当がつかなかったので、全員の頭に疑問符が浮かぶ。当人はまたくつくつ笑って、手招きをした。なんと山の中に入っていく。神崎たちは放課後の予定のことで顔を見合わせたが、予想できない分、どうにも心配が勝ってしまった。</p>
<p>クラスメイトはどんどん先を行った。今となっては裏山は庭だ。訓練成績の良し悪しにかかわらず皆、危なげなく着いていく。そうして、街が見える所までやって来て、彼は知らない建物の屋根に飛び移った。</p>
<p>「すげー通学路を開拓したんだ」</p>
<p>ここから屋根を伝って隣駅まで行けるのだという。フリーランニングである。先月、二学期に入ってから、暗殺技術として新しく訓練を受けている。四月からの積み重ねもあり、神崎たちは忍者のような動きができるようになった。今しがたの提案は、だから無理難題では決してない。もちろん経路を知らないから確実なことは言えないが、屋根を伝って移動すること自体は、神崎でも瞬時に想像できる。</p>
<p>同時に躊躇もした。この後の約束を差し引いても。フリーランニングは実際に暗殺の幅を広げに広げたが、他ならぬ訓練教官が二学期まで導入を遅らせた技術だ。一学期中は取り入れられないと判断されたのである。理由も単純に予想がつく。たとえば今回の提案に沿うと、落ちたときに危ないだとか。足場から足場へ確実に飛び移る技術、確実な移動経路を見極める技術、そういった技術が身に着いたと判断するために要した時間。</p>
<p>「危なくない? もし落ちたら——」</p>
<p>「そーだよ、烏間先生も裏山以外でやるなって言ってたでしょ」</p>
<p>同様の危惧を訴えた者もいたが、発案者は引き下がらない。通学するだけで訓練になる、難しい場所は一つもない、勉強を邪魔せず暗殺力も向上できる、二本の刃を同時に磨く。賛同者も一気に増え、その勢いのままに多くが飛び出してしまう。</p>
<p>「ちょ、ちょっと、みんな!」</p>
<p>慌ててクラス委員も追いかけ、</p>
<p>「地面に降りる前に安全確認するんだよ!」</p>
<p>追わなかった友人はいつになく大きな声で見送った。</p>
<p>「——たぶん聞こえてないよ」</p>
<p>「——やっぱり?」</p>
<p>結局、約束のあった神崎たちを除けば、他は女子生徒が二人しか残らなかった。大丈夫だろうかと話しながら下り坂の帰り道へ戻る。</p>
<p>「でも通学しながらの訓練は魅力的——。今朝、十月に入ったって殺せんせーに言われて、私も思っちゃったよね。あと五か月だって。時間には限りがあるんだって」</p>
<p>きっと、あの場の全員が同じことを考えていた。</p>
<p>神崎は友人たちを見た。ちょうど顔を見合わせる形になった。こちらも考えることは同じらしい。四人で、予定になかった二人を見る。状況が読めずにいる彼女たちの前で、プリン好きが一人にっこり笑った。</p>
<p>「これから秋の新作スイーツなんていかがでしょう!」</p>
<p>そうして英気を養って、まさかテスト勉強を禁止されるとは、今は知る由もないことだ。</p>
<h2>二</h2>
<p>夕飯を済ませて部屋に戻ったら、神崎の端末にもインストールされたモバイル律が、画面の中で手紙に埋もれて待っていた。食事の前に確認したはずが、今や未読メッセージは三桁にも上ろうとしている。律の表情も悲しげで、少々尋常ならざる様子だ。何があったのと尋ねつつ、神崎は端末を操作した。アプリを開いて、クラスのメッセージを先頭から確認して、連続する謝罪を認めたところで、スピーカー越しに律が話した。</p>
<p>いわく、明日から中間テストまでの二週間、E組生徒は課外授業を受けることになった。経営者が二週間の入院を伴う骨折を患った<em>わかばパーク</em>で働くのだ。加害者はフリーランニングで下校した生徒、つまり<em>彼ら</em>である。</p>
<p>「ねえ律、松方さんの容体はどうだったのかしら」</p>
<p>「右大腿骨の亀裂骨折。烏間先生が仰るには比較的軽症だということです」</p>
<p>ほっとするべきか、ぞっとするべきか。治療費その他の現実的な問題には烏間が対処してくれるそうだ。彼はいい加減なことをしない、言わない。きっと被害者は大丈夫。とはいえご高齢の方らしい。</p>
<p>「自転車で走行していたら子供が空から降ってきて驚いて、自転車ごと——」</p>
<p>——転倒してしまった。律の声が遠くなる。</p>
<p>神崎は端末を置き、かわりに勉強道具を手に取った。これからテストの前日まで教師の指導を受けられない以上、特に勉強の時間を作らねばならない。今度の中間テストの内容は、先学期末に輪をかけて難しいことが予想される。だが参考書を机に広げたところで、老人の名前が脳裏をよぎった。ノートを開けば症状が、筆記具を持てば<em>知識</em>が。比較的軽症だというけれど、手術は成功するだろうか、無事に回復するだろうか。</p>
<p>事故は<em>地面に降りる</em>ときに起きた。</p>
<p>その晩、神崎のテスト対策が進むことはなかった。遊びに逃げるような気も起きず、普段より早くに床に就いた。三桁弱のメッセージを思い返しながら、目を閉じた。——今日から二週間、クラス全員のテスト勉強を禁止するって、殺せんせーが。</p>
<p>翌朝、目を覚ましたとき、いつもより早くに寝た分だけすっきりできた、などということはなく、いつもより早かった分、時計の針も進まなかった。気分もむしろ、よろしくない。悪い夢を見ていた感覚がある。しかし食事の席まで引きずるほどのものではなかった。今朝一番のおはようございますが口から出ようかというとき、神崎は平常心を取り戻していた。</p>
<p>当事者たちは顔を合わせるなり謝罪をくれた。極端に思い詰めたような様子はなかったが、それぞれ落ち込んだ表情に、追い打ちをかける者はいない。誰が彼らを責め立てようなどと考えようか。どうしてそのような権利があると錯覚できようか。</p>
<p>そして二週間の<em>職場</em>の従業員は、</p>
<p>「ボランティアだなんて助かるわ。<em>園長先生</em>と二人でやってるから、昨日は明日からどうしようかと思ってたの。まさか椚ヶ丘みたいな学校に知り合いの先生がねえ。今日から二週間くらいかな、園長先生の退院まで一緒にがんばりましょうね」</p>
<p>このようにE組を笑顔で迎え入れた。被害者は身内に真実を伝えなかったのだ。たとえ家族であっても。<ruby>国家機密<rt>フリーランニング</rt></ruby>に関わるからと、烏間や殺せんせーが謝罪と説得を重ね、被害者は対外的には、独りでに負傷したことになった。自転車で大荷物を運んでいる最中だったと言えば、特にこの職員はたやすく納得する。</p>
<p>職員はE組に感謝していた。彼らはそろって反応に困った。本来ならば土下座を迫られても文句のつけようもない立場である。だが国家機密を守るためにも、否定することはできない。幸い彼女は中学生の微妙な反応について気に留めることをしなかった。この職場では目にすることのないまもなく高校生になろうという中学生の姿にほほ笑ましさを見出しており、あるいは単に暇がなかった。</p>
<p>中学生たちも一旦は自身らの複雑な立場を忘れざるを得なかった。とりあえず紹介された一日の流れのために両手の指をすべて折り、また、とりあえずこれだけと案内された危険区域のために折った指をすべて伸ばさねばならず、かと思えば小さな塊が一直線に<em>上司</em>に向かって突っ込んだ。</p>
<p>「先生!」</p>
<p>幼稚園児か小学生かの幼い声。後ろから急ぎ足の大人が現れ、まずは挨拶だと子供をたしなめる。子供は悪びれた様子もなく、おはようございますと元気に叫んだ。それから保護者は職員といくらかの言葉を交わして子供と別れるが、入れ替わるように新たな子供がやってきた。今度は中学年程度の小学生で、どうやら保護者はなし。その次は三、四歳ほどの子供が大人に手を引かれてきて、もう入れ替わり立ち替わりの様相だ。</p>
<p>しばらくは奇異の目の中で職員を手伝って、今頃は教室で授業を受けているはずだったと思う頃ようやく、彼女が<em>児童</em>に集合をかけた。ちょうど一クラス分くらいの人数である。彼女は「みんな」の前で中学生を紹介する。</p>
<p>「園長先生はお怪我しちゃって、しばらくお仕事できないの。かわりにね、このお兄ちゃんたちがなんでもしてくれるって!」</p>
<p>わかばパークは保育施設。椚ヶ丘市の一画で幼児や児童を預かっている。</p>
<hr>
<p>二十九人もの中学生は手分けをして事に当たったが、まずは補修班が決まった。元気よく踏み出した児童の足が床を突き破ってしまったのだ。続いて修繕班も決まる。施設の床が抜けたというのに、中学生以外は驚かなかった。幼児も児童も職員も皆、老朽化が進んだ建物だからと、穴が開いた天井を見上げたり、床の敷物を見下ろしたりするだけだ。元を正せば、</p>
<p>「お金がないのよ」</p>
<p>わかばパーク唯一の従業員は眉尻を下げる。設備の修繕ばかりではない。従業員を増やすことも<em>できていない</em>のだ。今日から危うく一人になるところだったが、それも経験のないことではない。園長一人、従業員一人で結果的には回せてきた。ならば限りある予算は子供たちのためにと、待機児童や不登校児を安値で受け入れ続けている。</p>
<p>「園長先生いっつも動き回ってるよねー」</p>
<p>神崎はもっぱら、その子供たちの相手をした。話し相手になったり、遊び相手になったり。だが一番の仕事は彼らから決して目を離さないこと。厳命を下される前から覚悟はしていたけれど、言うは易く行うは難し、だ。幸いにして彼女が主に見た男の子たちは、年齢相応に甘えた部分があるくらいだった。しかし中にはやんちゃな園児もとんがった園児もおり、特に小さな子供たちは中学生にかみついたり、ズボンを下ろしたり、</p>
<p>「渚、はーやーくー! あたしのこと東大連れてってくれるんじゃなかったの?」</p>
<p>小学生にも一人ずつ教師役がついたが、たとえ高学年程度の児童が相手だろうと、一筋縄では行かなかった。</p>
<p>無論、通常業務は他にもある。正直なところ、どうして二人きりで回せていたかがわからない。いや少なからず無理があったのだ。そしてE組はそれほどの労働力を<em>潰した</em>——。</p>
<p>給食の時間を迎えるまでに、神崎は否応なしに理解させられた。食事の用意だって、二、三人が買い出しに出て、三、四人が厨房に立った。それでも一苦労に見えるのに、</p>
<p>「神崎さん、大丈夫?」</p>
<p>「ごめんなさい。ぼうっとしてたみたい」</p>
<p>「普段こんなことしないからね」</p>
<p>いつのまにか、友人が横でエプロンを外していた。神崎は思わず目を瞬いた。エプロンの下からすぐにワイシャツが現れて、当のエプロンも紫色だったから。瞬間でも誰だかわからなかったと言えば、薄情な友だととがめを受けるだろうか。しかし神崎は告げなかった。そうすれば、反応をいかにとらえたのか、彼女はさらに言葉を重ねた。</p>
<p>「私もちょっと疲れちゃった。調理実習でもこんなには作らないよ」</p>
<p>「そうね——私も」</p>
<p>友人はそのまま神崎たちの班で昼食を取った。他にも中学生はいたが、彼女は瞬く間に注目を集めた。午前の間に神崎たちと仲よくしてくれた男の子たちは、彼女とも仲よくなりたいようだった。</p>
<p>「ねー、お姉さん、今来たー?」</p>
<p>「朝からいたよ。ずっと先生と一緒だったんだ。洗濯とか、給食とか」</p>
<p>「え、給食?」</p>
<p>「そう、給食。今日の給食は先生と一緒に、中学生のお兄さんとお姉さん——あそこの村松くんと向こうの原さん——が作りました」</p>
<p>「——お姉さんは?」</p>
<p>「お姉さんは、お野菜を切ったり、お皿を出したり」</p>
<p>友人は質問責めにあいながらも、ことごとく穏やかに対処する。明るくというよりは温かくほほ笑みを浮かべ、しかし先生というよりは親戚のお姉さんといった姿で。ことさらに優しいお姉さんである。子供たちはますます彼女を気に入った。そのまま彼女は少しだけ彼らと共に過ごした。午後に入って一時間とたつ前に、惜しまれながら別れたけれど、彼らはまもなく出し物に夢中になる。</p>
<p>定番のあらすじをなぞった演劇ではあったが、騎士カルマと魔物テラサカによる「ハリウッド顔負けの本格アクション」と、魔女オクダが<em>もたらした</em>「やられ役の迫真の演技」で人気を博した。捕らわれのカヤノ姫のことも忘れてはいけない。絶妙に子供に受けた茅野は、長らく空気をつかんで離さず、神崎たちを助けてくれたのだ。茅野の上手な気配りの秘訣は、もしかすると、そのあたりにあるのかもしれない。</p>
<p>それから、どうにか最初の一日が終わった。すべての園児を無事に帰すと、数時間ぶりに全クラスメイトが顔を合わせる。皆、敷地内にはいたものの、それぞれの役割を果たそうとしていた。職員が「助かった」と「ありがとう」を繰り返したときは、大いに気まずい思いをしたけれど、彼女は中学生の気も知らず相好を崩す。最後の「ありがとう」の直前に「そういえばね」と。</p>
<p>——被害者の容体は幸いにして、事前に知らされたとおりの推移をたどる。</p>
<hr>
<p>園長は中間テスト前日の午後に帰ってきて、中学生たちは約二週間の損害賠償を終える。そしてテスト前日の生徒らしく、机にかじりつき、当日を迎えた。退院は全快を意味しない。まだT字杖もついている。だが神崎は集中して勉強できて、しっかりと睡眠も取ることができた。気持ちよく。おはようございますから行って参りますまで。のどかさに反して、テスト結果は見えていたけれど。</p>
<p>あの二週間を言い訳にするつもりはない。当然の報いを受けたのだ。元より正当化は難しい。</p>
<p>一か月後には、ひとまず元の生活に戻れた園長が、園児と共に元気な姿を見せに来てくれるのだが、それはまだ神崎にも誰にも知る由のないことだ。</p>
https://tetraminion.org/ff/killing-mutant/main/n-2/n-7.html
第95話「間違う時間」から第97話「アフターの時間」まで
神崎有希子、十月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2023-07-21T19:00:00+09:00
<h1>堀部イトナ、九月</h1>
<h2>一</h2>
<p>白色だろうか。堀部イトナはふと考えた。今や男子の影に隠れてしまった右隣の席の机に、彼は色付きの文房具を見たことがなかった。といっても彼が登校した日数など、指を三本だけ折れば事足りるのだが。</p>
<p>イトナは転校生暗殺者である。元は一般人の中学生だったが、マッハ二十の触手生物を殺すべく、同じ(あるいは似たような)触手細胞を植えてもらった。肉体改造の成果は著しく、六月の転入以来、彼は標的の超生物に多くの傷を負わせている。今となっては過去の話だけれども。イトナは触手を失った。一昨日の夜のことだ。</p>
<p>さて<em>復学</em>に至ったイトナは、二日目の学校生活を電子工作に費やした。彼は家業の影響で多少は器用な手先を持ち、たとえばラジコン戦車を改造できる。カメラ搭載、射撃可能、標的はもちろんクラス担任。何せ昨日、一学期分の遅れがあるだの何だの、めちゃくちゃ小テストを課してきたのだ。俺が殺して賞金もいただく。イトナは強く決意した。</p>
<p><em>カメラの視野が狭すぎる</em>ということで、途中からクラスメイトも協力してくれた。魚眼レンズや録画機能の提案に始まり、参謀がつき、復元士がつき、設計補助、偽装効果、ロードマップ。そうこうするうち腹が減ったと誰かが言い出し、ゴーヤーチャンプルーを作ってもらえることになった。彼の実家のラーメンはまずいが、料理の腕は確からしい。と、クラスメイトを見送り、カメラ映像に視線を戻したら、一瞬だけ遠くにクラスメイトが見えて、——地面がひっくり返った。</p>
<p>「木村!」</p>
<p>「もう動いてる!」</p>
<p>協力者が一斉に動き出す中、イトナは右側に目を向けた。協力者の一人と目が合った。だが、そいつではなくて。スカートの制服、白色のタイツ、右隣の席の女子生徒。ふと考えた。それでは彼女は白色だろうか。</p>
<p>イトナはまだ全員の名前を覚えていない。教師陣は覚えたが、生徒となると、親しくなった寺坂ら、クラス委員の磯貝と片岡、あとはおおむね席の近い順に覚えている最中だった。だから右隣の席のクラスメイトは割に早く覚えたことになる。</p>
<p>触手が植わっていた間、イトナはE組の面々に、有り体に言ってひどいことを繰り返した。触手の副作用は原因の一つだが、クラスメイトには関係のないことだ。けれども、彼らはイトナをクラスメイトと認めてくれた。</p>
<p>右隣の席のクラスメイトも、朝はてらいなくイトナと挨拶し、授業では席を寄せ、教科書を見せてくれた。実際のところイトナが遅れている部分について、教師陣は配慮してくれたが、隣のクラスメイトも教えてくれたのだ。白色の付箋と、白色のペンで。</p>
<p>無論、シャープペンシルは黒、インクも単色ではない。だがボディは白色だ。ノートの表紙も白色、下敷きも白色、筆入れも白色。休み時間に取り出した携帯端末も、昼の弁当も、ハンカチも白色なら、タオルも白色。ワイシャツの白色は学校指定だけれども、自由に選べる靴下も白タイツ。それが外に出てみたらローファーの色は白ではなく、かえって目を瞬いてしまった。</p>
<p>だから白色でない可能性も否定はできない。それに、何か重要なことを見落としている気もする。</p>
<p>「おいイトナ」</p>
<p>そのとき寺坂の声がして、イトナはディスプレイを見た。空の位置が上側にある。復元作業が完了したのだ。また急かされる前に手を動かす。しかし、またすぐ足場が悪そうな地面が見えてきて、協力者たちも口々に反応した。やはり足回りは大きな課題らしい。これでは攻撃どころか移動もままならない。復元させるにしても、こう頻繫では、相手に予告しているようなものだ。</p>
<p>だが最大の課題は、もう少し後になって明らかになる。転倒と復元の繰り返しの最中、突如として映像が暗くなったのだ。景色に割り込む巨大な影。</p>
<p>「化け物だーッ!」</p>
<p>逃げろ、いや撃て、大混乱の操縦席でとりあえず両方を実践するものの、これがなかなか困難を極めた。逃げるか撃つかの一方ならまだしも、と思いながらもせっかく発射した弾丸(BB弾)は、しかし<em>巨獣</em>の体毛に押し返される。そして無駄を悟ったところで、敵は巨大な腕を振り上げた。</p>
<p>終わりは呆気ないものだった。化け物もといイタチにより破壊された機体は、まもなく回収され、イトナの机に戻ってきた。使える部品は残っているが、修理は難しいだろう。こうなったら改良案は二号機に持ち越し、どうせなら素体も再検討しよう。</p>
<p>それからイトナは思いついてボディを拾った。ペンも握る。<ruby>糸<rt>イト</rt>成<rt>ナ</rt></ruby>一号は失敗作だが、ここから紡いで強くする。</p>
<hr>
<p>「よっしゃ! 三月までにはこいつで女子全員のスカートの中を偵察するぜ!」</p>
<p>——これはイトナの言葉でもなければ、男子の総意でもない。悪しからず。</p>
<h2>二</h2>
<p>決して男子の総意ではなかったが、それから数日中にイトナは二度も正座させられた。もっと乗り気だった者は、イトナが知る限りにおいて五度。中でも約一名は、さらに言語化もはばかられるほどの罰を受け、その晩なおも改良案をくれた。岡島大河、おまえの犠牲は無駄にはしない。まあコードネームを考えろと言われたら、変態、盗撮、性犯罪、どちらにしようかな、天の神様の言うとおり。</p>
<p>——神様などいやしないが。</p>
<p>休学明けの学校生活はイトナにとって試練の連続だった。まずその休学期間が一学期分。来る日も来る日も補習、小テスト、特別課題。暗殺訓練も基礎のキから始まり、それ自体は身体能力も手伝って容易に習得できているが、もはやイトナは超人ではない。昨日はできたことが、今日はできない。今日はできたことが、明日はできない。イトナはやがて肉弾戦では使われなくなる。</p>
<p>当然の結果だった。自業自得ともいえる。触手がために得られた<em>強さ</em>は、触手と共に失われる。だが、イトナが選択した。自分自身で決断した。だからラジコン戦車を引っ張り出した。</p>
<p>まだ強いうちに殺さねばならない、弱くなったら役立てなくなる、などとくすぶるつもりは毛頭ない。イトナより弱いはずのクラスメイトは、復学初日の僅か数時間で、手を変え品を変え暗殺に取り組んでいた。左斜め前の女子生徒は料理で殺す。前の席の男子生徒は美術で殺す。右斜め前の女子生徒は化学で殺す。なら俺は。</p>
<p>クラスメイトはそろいもそろって意外な反応を見せてくれたが、イトナは電子工作技術を身に着けている。肉体改造以前に親元で覚えたものだ。これはこの教室でいくらも先を行くクラスメイトとの開きをわずかでも埋めてくれるようだった。いや、それだけではない。男子生徒を中心に何人かが協力してくれた。女子生徒も何人かは正座を強要してくれた。イトナは徐々にクラスメイトを覚えた。</p>
<p>全員の顔と名前が一致するようになったのは、ちょうど今朝のことである。最後の一人は木村<ruby>正義<rt>ジャスティス</rt></ruby>。漢字を見れば一目瞭然、ずっとマサヨシだと思っていたが、本当はジャスティスと読むらしい。下の名前まで読み上げるから病院も入学式も卒業式も好きではないとする木村の悩みを発端に、その朝とうとう顔と名前を一致させたイトナの前で、担任教師は高らかに宣言した。</p>
<hr>
<p>「今日一日、名前で呼ぶの禁止!」</p>
<hr>
<p>それで一日をどう過ごすのかって、コードネームで呼び合う、って。</p>
<p>全員が全員のコードネームを考え、くじ引きにして決定するというのである。マッハ二十で用意された担任手製の用紙の前で、イトナの手はすぐに止まった。</p>
<p>悩んでいてもしようがない。教師三名、生徒は自身を除いても二十八名。制限時間はホームルームいっぱい。思いつきで書くしかない。特にイトナは。わかっている。だが寺坂の欄に<em>バカ</em>とは書けず、同じく親しくしている男子生徒の欄にも<em>ラーメン</em>とは書けなかった。バイク屋の息子が<em>バイク</em>でよくても、「ラーメン」の実家のラーメンは、いかにも昭和のラーメンで、進歩も発展もなく、お世辞にもうまいとは言えないのだ。</p>
<p>イトナは世辞を言わないが、それとこれとは話が別だ。今回のコードネームの発端は、あくまでクラスメイトの悩みである。いくら匿名で確率も二十八分の一だとはいえ、思いつきで傷口に塩を塗るような真似はしたくない。ラーメンもバカもそれぞれ悩んで、それぞれ悩みに向き合っている。</p>
<p>結局、クラスで最も親しい部類のラーメンに対しては、頭の形から<em>へちま</em>と名付けた。同様に二、三名分の記入欄を埋める。</p>
<p>と、また筆が進まなくなる前に、親しいクラスメイトの名前を探した。狭間<ruby>綺<rt>き</rt>羅<rt>ら</rt>々<rt>ら</rt></ruby>。そういえば彼女もジャスティスではないが、名前については言いたいことがあるようだった。この顔で「きらら」よ、とは今朝の本人の言葉で、たしかにお世辞でもなければ「きららっぽい」とは評されないような顔と立ち居振る舞いの女子生徒である。</p>
<p>——最初は細い糸でいい。徐々に紡いで強く成れ。</p>
<p>イトナは立ち止まらないようにキララのコードネームを書き込んだ。</p>
<p>ジャスティスのコードネームも決めた。特に親しい相手ではないが、短い学校生活で特に共通の経験があった。彼はラジコン暗殺の協力者だった。足が速い生徒で、倒れた車体を戻してくれる。復元士、とその役割を書き込む。悩む暇もないから、他の協力者たちの欄も同様に埋めていく。暗殺してよかったと、こんなところで思う。</p>
<p>さて男子の相当数を埋めたところで、イトナはいよいよ短い学校生活の記憶をひっくり返す作業に入った。授業より訓練、得意科目より得意暗殺。どうにか際立った殺し技を元に書き込んでみるも、まだ女子の半分も埋まらない。復学から数日、どうしても全員の暗殺を知る機会などなく、また大半の獲物はナイフと銃なのだ。イトナはペン先で用紙をつついた。</p>
<p>教室は筆記音であふれている。イトナの筆が進まない間も、隣の席で、前の席で、誰もが無言で<em>回答欄</em>を埋める。俺だけが取っ掛かりすらつかめずいる<em>問題</em>を<em>会場</em>の皆は解き進めている。そんな錯覚がした。懐かしい空気だった。緊張感と字面が浮かぶと、自ずと<em>以前の</em>学校生活が思い出される。</p>
<p>一旦おとなしく顔を上げてみた。遡りすぎても仕方がない。それよりは後ろ姿でも眺めたほうが思いつくことは多いだろう。幸いちょうど顔と名前を覚えたところだ。席も教室の隅にあり、見える背中は少なくない。男女交互に各三列の計六列。まずは、左隣、左斜め、前、右斜めは埋めたから——右隣の席。</p>
<p>早くもイトナは考え込んだ。思いついたコードネームが、言い繕っても悪口に他ならなかったから。</p>
<h2>三</h2>
<p>シロ。全身白装束のシロ。しばらくイトナの保護者だった——誰かだ。白色で顔まで覆い隠す徹底ぶりは、被保護者だったイトナにさえ素顔も本名も知らせなかった。考えるまでもなく不審者だったが、およそ一学期前のイトナは彼の与えうるものを求めていた。シロもまた、イトナの持ちうるものを求めていた。かくしてイトナは触手を獲得し、シロは戦術を実現させる。</p>
<p>強さを証明したかった。何が何でも。怪物を死なせてしまいたかった。</p>
<p>イトナはシロと何でもした。イトナは触手などを受け入れ、シロもシロで中学生などに声かけをしている。二人は三度にわたって暗殺をしかけたが、そのうち二度は中学生の命を脅かす作戦だ。標的の暗殺にこのうえなく有効だったから。と、シロは中学生だろうと捨て駒にできる人間で、七月だったか、何も知らない中学生に起爆装置を握らせた。彼のクラスメイト全員を殺しかねない爆弾の。</p>
<p>すべてシロが用意した暗殺計画だ。けれどもイトナも積極的に従った。何も知らない寺坂にクラスメイトの命を握らせたことなど、強さの証明の前ではあまりに些細な問題だったから。クラスメイトの思いを踏みにじることも、下着泥棒で被害者に恐怖を与えることも、何もかも。触手生物本体いわく、イトナの思考力は触手に根こそぎ奪われていた。だとしても。</p>
<p>クラスメイトはイトナのことを受け入れてくれたが、イトナはたしかに残酷だった。</p>
<p>「——たしかに、あいつらの目的は気になるな。イトナ、ちょっといいか」</p>
<p>「ん。偵察なら、ちょうどいい機体がある」</p>
<p>イトナは<em>それ</em>を自覚した。一週間ほど前に。</p>
<p>今は復学から一週間以上がたち、クラスメイトが退学の危機に瀕している。</p>
<hr>
<p>諸事情の積み重ねでそうなった。クラス委員の磯貝である。E組生活の浅いイトナにもわかるほど人間ができたイケメンだけれども、それはそれとして退学になるかもしれないらしい。磯貝を救い出すには、体育祭男子団体競技、棒倒しで三年A組を倒さねばならない、らしい。諸事情の積み重ねでそうなった。</p>
<p>本校舎——旧校舎のE組に対して——との折り合いが悪いことはイトナも基本情報として知っていた。が、少々認識が甘かったようだ。クラスメイトはただちに本校舎A組の狙いを疑って、流れるように糸成二号が偵察に駆り出され、帰ってきた録音結果がこちら。</p>
<p>「カミーユはフランスの有名レスリングジム次代のエース、サンヒョクは韓国バスケ界の期待の星、ジョゼはブラジルの世界的格闘家の息子、そして全米アメフトジュニア代表ケヴィン。いずれもれっきとした同い年さ」</p>
<p>年齢を隠さず、常識のルールをきちんと守り、たまたま偶然にも研修留学に来てくれた、A組リーダー浅野学秀の「猛者の友人」たちである。検索すれば画像も出てきた。大柄な高校生より大きかった。おまけに、すでに偏っていた参加人数の比率が、彼らの加入でついに二倍。もちろんE組が少ない側だ。</p>
<p>浅野は言った。</p>
<p>「最優先目標は棒を倒すことじゃない」</p>
<p>ここまで戦力差が開いているのだ。棒などいつでも倒すことができる。</p>
<p>「僕はね、<em>これ</em>を通してE組のみんなに反省してほしいんだ」</p>
<p>ここで浅野は少しだけしおらしい声を出した。</p>
<p>「クラスのほとんどが素行不良。誰とは言えないが、こっそり校則違反を繰り返している者もいる。——そんなE組にね、棒を倒す前にじっくり反省してもらう」</p>
<p>ところで外人部隊を紹介されたA組の生徒は——やはり大いに驚いたようだった。彼らがたまたま偶然にも体育祭に合わせて訪れたことには、むしろ白けた様子さえあった。棒倒しのためにここまでするのか、と。そこで浅野は言ってやるのだ。<em>期末テストで悔しい思いをした皆</em>に向けて。</p>
<p>「<em>中間の前に少しお返ししておきたい</em>」</p>
<p>そんな気持ちがみんなにあっても、決して僕は責めないよ。</p>
<p>——こうしてA組は次の中間テストに向けてE組を痛めつけるべく一致団結、外人部隊を快く歓迎し、秘密特訓のために体育館へ。</p>
<p>ふと悪口に他ならない形容詞がひらめいたけれど、何にせよここまで成しうる中学生が実在することは、復学しなければわからなかったのだろう。浅野も外面はよさそうだから。</p>
<hr>
<p>しかし幸か不幸かE組は、そのすばらしい外面を向けてもらえる側ではない。浅野はE組男子を勉強できない体にするべく、A組一同をたきつけたのだ。</p>
<p>「棒倒しは——<ruby>野戦<rt>いくさ</rt></ruby>と思え」</p>
<p>精鋭部隊出身の烏間教官は、その日からしばらく棒倒しの練習に付き合ってくれて、基礎をたたき込んでくれた。防衛学校での豊富な経験は鬼教官の鬼を累乗したけれど、男子の誰かは<ruby>殺<rt>ころ</rt></ruby>監督でなくてよかったと言う。</p>
<p>作戦も立てた。鬼教官は、人数差が戦力差に直結することを、体にたたき込んでくれた。特に今回、二倍の不利を克服しなければならない。磯貝を中心に戦術が練られ、時に殺せんせーも助言して、イトナは私生活に至るまでを<em>制限</em>されることになる。</p>
<p>「念のため聞いておくけど、イトナ、帰り道で曲芸なんかは——」</p>
<p>「——したことがない。問題ない」</p>
<p>また、ハイジャンプの特訓も始まって、選抜競技出場も決定した。種目は借り物競走だ。徒競走と合わせて、下位入賞が目標である。</p>
<p>女子からは隣の席の生徒が出場するらしいので、イトナはよろしくと挨拶した。念のため、左隣の黒色ではなく、右隣の白色である。彼女は相変わらずてらいなくイトナにほほ笑み、同じ言葉で、こちらは一等賞の目標を掲げてくれた。綺麗な顔で、イトナくんの分までがんばるねと。</p>
<p>「ちょっと烏滸がましかったかな」</p>
<p>「そうか? そんなことはないと思うが」</p>
<p>彼女は目を見開いた。</p>
<p>「そんな風に思ってくれてたんだ」</p>
<p>少しだけ照れた声を出した。</p>
<p>イトナは素直にうなずいた。</p>
<p>「おまえは戦える人間だ」</p>
<p>隣の席の少女ははにかむ。</p>
<p>「じゃあ、なおさら一位を目指してがんばらないとだ。そうして、気持ちよく棒倒しを応援する。イトナくんならできるよって」</p>
<hr>
<p>体育祭当日、晴れ空の下、イトナは借り物競走に臨んだ。クラスメイトと一緒に集合場所へ向かい、男女で別れて整列、入場。したら、イトナの前でD組の選手が、距離を取るように前に詰めた。少しだけ詰めた。運営委員も何も言わない。意図するところはわかったから、それは無視して女子の列を見た。もっと露骨に間隔を空けられていた。嫉妬かその他の因縁か、イトナにはとんと判別がつかなかった。</p>
<p>困り顔のクラスメイトは、肝心の競走では相手を圧倒した。彼女は身体能力が高く、またお題——何か飲食物だった——を同じクラスのカルマから速やかに借りられたおかげで、二位以下に大きく差をつけたのだ。結果に満足したのか因縁が解決したのか、席に帰ってきた一等賞はいくらも安らかな表情をつくっていた。イトナは何にも触れなかった。ただ勝利を祝って、彼女はありがとうと目を細める。</p>
<p>イトナくんも。クラスメイトに見つめられた彼自身は、やはり目標のとおりに最下位だった。幸いにしてお題は「賞味期限が近い物」だった。イトナはのろのろE組の元へ走って、のろのろ英語教師を引っ張った。潜入暗殺者はわけのわかっていない顔で「賞味期限が近い物」として紹介、認定され、二人は見事に最下位ゴール。</p>
<p>このクラスメイトは徒競走も首位だったが、イトナは徒競走も最下位だった。練習の甲斐もあって、棒倒しが始まっても最後の最後まで攻撃を仲間に任せ、防御という防御にも貢献せず。最後の最後、磯貝に名前を呼ばれたときに見た初対面の敵将、A組の浅野の意外性で歪められた綺麗な顔がすべてである。</p>
<p>外人部隊でこそなかったが、イトナは実質的には体育祭直前の転校生で、そのうえ肉体改造をしていた。国家機密の観点からいっても、その身体能力で体育祭を総なめすることは、まったく不本意だった。浅野が外人部隊を率いていなければ、最後の切り札としての活用でさえ釣り合いは取れなかっただろう。</p>
<p>イトナは助走をつけて磯貝の手に飛び乗り、さらに高く、高く跳躍した。練習のとおりに目標に取りついて、勢いのままに体重をかける。仲間たちの攻撃と合わさって、倒すべき棒はたちまち傾いた。イトナの体の一つ下で、浅野がどうしようもなく体勢を崩す。だが、次はきっと——。スピーカーが勝敗を告げる前に観客席が沸き立って、イトナは静かに地面に降り立つ。</p>
<p>歓声の中で整列した。スピーカーも遅れて渋々といった調子で声を響かせ、E組の勝利を言葉にする。一同整列、礼、ありがとうございました。不承不承といった挨拶の最中に向けられた、何か恐ろしいものを見るような視線の数々は、甘んじて受け入れることにする。</p>
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第88話「紡ぐ時間」から第94話「敗北の時間」まで
堀部イトナ、九月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2023-06-02T19:00:00+09:00
<h1>赤羽業、八月</h1>
<h2>一</h2>
<p>毒を盛られた。それが言葉になる前に、クラスの異変を見渡した。立っている者、立てない者、渚は前者、杉野は後者。茅野は少し離れた所でクラスメイトを支え、あとの三人は——二人が神崎の容体を見ている。カルマはそれだけ確認すると、後者の生徒をゆっくり椅子から下ろしてやった。皆、体が熱を持っている。紛うことなき異常事態だ。先刻までカルマたちは海にいたのだ。</p>
<p>海で暗殺を決行して、また失敗したとはいえ、やっと<em>ホテルのテラス</em>に戻ってきたところだった。着替えることもできていない。もちろん疲労はある。カルマもかなり消耗した。<em>今夜</em>の計画はかつてない規模になった。少なくない時間を、今日にいたっては一日中を、暗殺のために費やした。だがカルマの体はまだ冷たい。そして彼らの体は熱すぎる。</p>
<p>それから数分の間に、クラスメイト十人程度が同様の症状を訴えた。ひとえに高熱。今のところ、せきや嘔吐は見られない。カルマにはそのようなことしか判別がつかない。どうやら風邪ではなさそうだ、と。カルマには医学の知識がないのだ。だが脳はしきりに警鐘を鳴らす。その正体はすでに輪郭を持っている。やがて烏間が深刻な表情で皆に告げる。</p>
<p>夏の合宿の一日目の夜の事件である。</p>
<hr>
<p>「俺の端末に犯人と思しき人物から電話があった。人工的に作り出したウイルスだそうだ。感染力はやや低いが、感染者は——一週間程度で死に至る」</p>
<hr>
<p>夏休みに入って、船に乗った。東京から六時間、沖縄で離島リゾート二泊三日の旅。カルマたちはクラス全員で来たが、よそのクラスや学年はいない。ただし費用は学校予算から出ている。字面だけでも三年E組にはふさわしくないようだが、クラスメイトはある種の正当性の下に、また正攻法でこの合宿の権利を勝ち取ったのだ。</p>
<p>クラスメイトが勝ち取ったものはそれだけではない。殺せんせーの運動能力を実に触手七本分、確実に削る権利も得た。さらにクラスメイトの提案によって、二つの権利を組み合わせることになり、今夜に至る。数々の弱点で標的を追い詰め、最大の弱点たる海に囲まれたこの島で、万全を期して——決行した。</p>
<p>結果は完敗。だが、かつてない成果も得ることができた。標的が<em>奥の手中の奥の手</em>を切ったのだ。その名も完全防御形態。またも暗殺から逃れた殺せんせーは<em>無敵の結晶</em>で身を守っていた。二十四時間程度で自然崩壊するが、それまでは核兵器でも傷がつかない。現場の責任者である烏間さえも初めて知った姿である。</p>
<p>「犯人の要求は<ruby>百億円の賞金首<rt>こいつ</rt></ruby>だ。こいつと引き換えなら治療薬を渡すと言っている。期限は一時間。場所は山頂のホテル。動ける生徒の中で最も背が低い男女に持たせること」</p>
<p>さて烏間は静まり返ったテラスの外で、二人の生徒に目をくれた。どう見ても指定の男女、渚と茅野だ。烏間とて二人をむざむざ向かわせることの意味をわかっているが、犯人は治療薬を即座に破壊する準備があると、もちろん脅してきたらしい。用意周到なことだ。それも標的の性能を思えば当然のようだけれど、今夜ばかりは最悪だ。</p>
<p>殺せんせーの「完全防御形態」には明確な欠点がある。「無敵の結晶」は中学生でも片手でつかめる程度の球体で、殺せんせーは言わば捕らわれており、身動き一つも取ることができない。さらに自力で解除する手段もなく、動けるようになるためには、二十四時間後の自然崩壊を待たねばならない。取引の期限には間に合わない。</p>
<p>口を結んだ烏間の元にちょうど部下が駆けつける。</p>
<p>「案の定、駄目です。政府としてあのホテルに宿泊者を問い合わせても——『プライバシー』を繰り返すばかりで」</p>
<p>「——やはりか」</p>
<p>「『やはり』?」</p>
<p>と、今はテーブルに置かれた殺せんせー。烏間は観念したように答えた。</p>
<p>「警視庁の知人から聞いた話だが」</p>
<p>この島はマークされている。ほとんどの施設は全うだが、あの山頂のホテルだけは違う。違法行為が横行しているのだ。さらに政府高官とも通じており、警察といえども迂闊に手が出せない。当然、政府の二文字を並べられたところで、味方などしない。うってつけの潜伏先らしい。</p>
<p>それでも烏間は努めて冷静に振る舞ったが、眉間に手を当てることもした。彼にも難しい事態なのだ。外部との連絡を禁じられたうえ、島内のには小さな診療所が一つ。それも医者はよその島の人間で、今夜はとっくに帰ってしまった。そして船は朝の十時まで来ない。犯人の言葉では一週間かけて死に至るということだ。裏を返せば一週間程度は猶予があり、ただちに死ぬこともないとはとれるけれど、だからといって安心できる道理はない。</p>
<p>犯人の言葉が真実なら、彼または彼らが持つ治療薬は必要だ。本当に未知のウイルスであれば、この島の診療所はもちろん、大きな病院に連れて行っても薬がないだろう。二十四時間後には殺せんせーが復活するけれど、仮に薬を作れるとして、それに多大な時間を要さないとは限らない。マッハ二十で解決できない問題は、むしろ存在する可能性は高い。</p>
<p>犯人は標的が動ける状態を想定していたはずだから。</p>
<p>俺だってそうする。カルマは言葉をのみ込んだ。周囲は次第に落ち着きを取り戻していた。つまり感染しなかったと見られる側のことだが。患者たちはすでに混乱を表す体力を失ってしまっている。真っ赤な顔、病人の息遣い、姿勢の維持も務まらない体。もはや座っておくこともできないのだ。致死性のウイルスによらないものだと言い切ることは難しい。</p>
<p>カルマに医学の知識はない。誰より烏間と殺せんせーが深刻な様子で、どちらも犯人の脅迫を一蹴しなかった。事は一刻を争う。</p>
<p>だからといって烏間は、取引に応じようとは口にしない。渚や茅野だからではないだろう。相手はすでに、中学生を人質にとっている。いずれにせよ危害を加えることによって。ゆえに犯人に最低限の信用も置けない。根本的な問題である。渚や茅野が戻らない可能性、さらなる要求の可能性、治療薬が存在しない可能性。考えるだに取引が守られるとは思えなかった。</p>
<p>殺せんせーはどうだろう。カルマはふとテラスを見た。しかし目が合った相手はクラスメイトの一人だった。均整のとれた顔が青白いようだが、カルマの姿を認めると、薄く唇が弧を描いた。それが、いやに<em>はかなく</em>感じられて、だから——いや。ひらめいた形容詞を瞬時に振り払う。今は<em>そんなこと</em>を考えている場合ではない。どうせ視線をそらされた。テーブルの上から呼ばれたらしい。</p>
<p>「いい方法がありますよ」</p>
<p>そらされた視線のその先で、まさにカルマの探した球体が、吞気な笑顔を浮かべている。</p>
<h2>二</h2>
<p>汚れてもよい恰好で来い。吞気な笑顔に従って、部屋に戻って支度した。外に出ると、分かれて自動車に乗り込んで、数分後、岩壁の前で停車する。</p>
<p>「<em>あのホテル</em>のコンピュータに侵入して、内部の図面を入手しました。警備の配置図も」</p>
<p>画面の中のクラスメイトは、崖の上を指差して微笑む。例のホテルが高みからE組を見下ろしている。<em>モバイル律</em>は皆の手元で報告した。正面突破以外は不可能だろうと。配置図を見ても、たしかに相当数の人員を割いている。侵入はたやすく露見する。と、説明した律は、しかし別の図面を表示した。</p>
<p>「この崖を登った所に通用口が一つあります。まず侵入不可能な地形ゆえ——警備も配置されていないようです」</p>
<p>カルマは内心で舌を巻いた。律、自律思考固定砲台。最先端の軍事技術の結晶にして転校生暗殺者。バスケットコートに立つには<em>四角い</em>が、思考能力と武器を有している。標的の触手を撃ち落としたり、<em>反抗期</em>を迎えたり、端末の中に<em>入って</em>きたり。そして彼女をたきつけた張本人が、今は小さな袋に収まって、渦巻く疑問に片をつける。</p>
<p>「敵の意のままになりたくないなら手段は一つ。患者十人と看病に残した二人を除き、動ける生徒全員でここから侵入し、最上階を奇襲して治療薬を奪い取る!」</p>
<hr>
<p>不可能と言った手前、何だが、E組は訓練を受けている。烏間教官の暗殺訓練だ。グラウンド一つで済ませたり、新たに器具を設置したり、時には環境を生かしたり。クライミングの訓練も、裏山の崖を利用している。目的は、あらゆる場所での暗殺を可能とすること、だとか。たしかに幅は広がるだろう。侵入不可能だったはずの場所を堂々と歩けたのだから。訓練だけが理由ではないけれど。</p>
<p>ビッチ先生が助けてくれたのだ。崖を登るときは烏間の背中にしがみついていた彼女だが、屋内の最初の関門では一身に注意を引きつけた。侵入の経緯と複雑な設計ゆえ、警備の前を通らなければならなかった一階ロビー。彼女はすべての<em>男</em>を<em>誘惑</em>した。イリーナ・イェラビッチ、三年E組の英語教師、正体は一流の潜入暗殺者である。</p>
<p>ビッチ先生を一階に残しながらも、E組は五階まで上がることができた。ホテルの構造のために、最上階までは長距離を歩くことになるが、一階の警備を通過した後は、まるで客のように振る舞うことができた。すれ違う利用客は中学生の団体客を気に留めない。悪党が集まるようなホテルに、実は結構いるらしい。今の烏間も、ラリって子供に世話される保護者、くらいにしか見られないのかもしれない。</p>
<p>「普通に歩くふりをするので精一杯だ」</p>
<p>と、苦しい表情の烏間は、三階で殺し屋と戦った。黒幕の手先は当然、中学生の団体客に注意を払う。クラスメイトの記憶力いや推理力と、烏間の戦闘力がなければ、カルマたちも無事では済まなかっただろう。殺し屋は毒使いだった。烏間はゾウも気絶するガスを食らった。諸事情につき真正面から。だが気絶したのは毒使いだ。烏間が最後の力で膝蹴りを食らわせたのである。</p>
<p>現在の烏間はというと、磯貝の肩を借りて歩くのがやっとで、三十分は戦闘ができそうもないとか。ビッチ先生は一階、殺せんせーは言わずもがな。そして、ここ五階、展望回廊には、殺し屋が一人、窓にもたれて立っていた。正確に言えば、殺し屋と思しき長身の誰か、だが。</p>
<p>E組の面々は慎重になっていた。烏間の体調を含めなくても、この五階は敵と遭遇する可能性の低くない場所だった。侵入者が六階へ上がるためには、必ずこの展望回廊を通らなければならないのだ。三階の広間もその一つで、毒使いもその前提で三階に潜んでいた。誰にも気づかれなければ、客に紛れてE組にガスを浴びせられただろう。——そう、もちろん殺し屋は、私が殺し屋ですと名乗りながら歩いてはいないのだ。たぶん。</p>
<p>高い天井、一面の窓、規則的に並ぶ柱と観葉植物。その間にたたずんでいた長身の大人は、しかしE組の生徒に確信に近い予感をもたらした。先頭のクラスメイトは、その影が後続の目にも留まらぬうちに、停止の合図を出した。カルマはその気配を肌で感じて、目にしてはもはや疑いの余地も失われてしまう。彼は、毒使いとは対照的に、全身を殺気で満たしていた。</p>
<p>窓にもたれて、一見、何も持っていない。そのことを隠しもしていない。だが、おもむろに素手を窓に触れ、指の力で亀裂を生んだ。全員の耳に届くほどの音だった。凝視したところで景色は変わらない。窓にひびが入っている。犯人は素手にもかかわらず、まるで植木鉢をたたきつけたかのような跡だ。まさかこのホテルで窓だけがプラスチック製などということはあるまい。常識と違わないか、あるいはそれ以上か。</p>
<p>考え込んでもいられなかった。</p>
<p>「つまらぬ」</p>
<p>侵入は、気取られている。</p>
<p>「足音を聞く限り——『手強い』と思えるものが一人もおらぬ」</p>
<p>ということだが、</p>
<p>「精鋭部隊出身の引率の教師もいるはずなのぬ——だ」</p>
<p>はて、カルマは瞬いた。</p>
<p>「どうやら——<em>スモッグ</em>のガスにやられたようだぬ。半ば相討ちぬといったところか」</p>
<p>クラスメイトも瞬いた。同時に、妙な緊張感が立ち込める。いかな状況だとしても、考えることは考えてしまうのだ。</p>
<p>「出てこい」</p>
<p>そこは「出てこい<em>ぬ</em>」ではないのか、と。誰も口にはしなかったが、カルマは言った。</p>
<p>「『ぬ』多くね、おじさん」</p>
<p>狭くて見通しがよい通路。あるものは、高い天井と一面の窓、それから柱と観葉植物。行く手で殺し屋が一人、目を見開く。どうやら間違いに気づいたようだ。</p>
<p>「『ぬ』を付けると<em>サムライ</em>っぽい口調になると小耳に挟んだ」</p>
<p>それが恰好よさそうだったと、外国から来たらしい殺し屋は中学生の前で明かした。薄く笑って、間違いを認めた。これ見よがしに指も曲げる。</p>
<p>「この場の全員殺してから『ぬ』を取れば恥にもならぬ」</p>
<p>関節の音が、ごき、と少し尋常ではなくて、さすがに誰しも確信した。手ぶらもそのはず、素手こそ彼の武器なのだ。身体検査を素通りできて、標的に近づいては頸椎を一ひねり。頭蓋骨を握り潰すと言われても、思わず中学生が頭に触れる。窓に亀裂が走っている。おもしろいもので<em>ぬ</em>と言葉が続いたとて、もはや何もおもしろくはない。</p>
<p>ふと疑問をよぎらせたけれど、ちょうど敵の手が懐に向かって、意識が傾いた。通信機器だ。カルマは観葉植物をつかむ。勢いをつけて、振り抜いて——。</p>
<h2>三</h2>
<p>「あのときは、ひやひやしたな」</p>
<p>少しだけ<em>昨日</em>の話をしたとき、もちろんカルマと<em>グリップ</em>の戦闘にも触れることとなった。グリップとは五階の殺し屋の名で、つまり<em>おじさんぬ</em>のことだ。かくかくしかじか、カルマはおじさんぬに勝利し、それから少しだけ楽しい時間を過ごしたのだが、クラスメイトは眉をひそめた。</p>
<p>「赤羽くん、頭を潰されてたかもしれないんだよ」</p>
<p>すうっとカルマの頭は冷える。</p>
<p>「心配してくれたんだ」</p>
<p>当然、彼女は否定しない。私たちはクラスメイトだと答えて、スプーンでパフェをすくった。彼女が注文したチョコレートパフェだ。横にはジュース、中央にはクッキーの皿、そしてまたカルマの手元に空のグラス。カルマが注文したものはこれだけで、他は、ここに来たときにはテーブルに配置されていた。船旅、準備、暗殺、事件、怒涛の一日の次の朝、目の前のクラスメイトは普段のとおりに目を覚ましたという。</p>
<p>カルマは午後も三時を回るまで、寝具で眠りについていた。カルマだけではない。生徒は皆そうだ。疲労困憊なのだ。今日に限っては、カルマはむしろ早起きだった。何なら二番目に目を覚まして、ここに下りてくるまでは一番だと思っていた。律も金メダルを授与してくれたし。——寝る前に電源を切ったのだと、一番目に起きたクラスメイトは言った。思い出す素振りが実に白々しかった。そして端末を起動すれば、また白々しくも告げるのだ。</p>
<hr>
<p>久しぶりだね、赤羽くん。</p>
<hr>
<p>あの日の夕方、初めての教室、その後ろ。だからクラスメイトが大勢いて、自分の席を探し当てたら、三年目のクラスメイトの隣だった。</p>
<p>用意してきた挨拶が春風に吹かれたことにならないものか。そのときカルマは、たぶん目に見えて言葉を選んだ。カルマは彼女について一つのことしか知らない。だが、それは理由にはならない。何を話すつもりもなかったのだ。真にカルマだけが知っていることだとしても。彼女が無実であるとして、だから申し訳ない、などと当時のカルマに思えるわけがなかった。</p>
<p>あの校舎は緩やかに、人を、カルマを、死に至らしめる。</p>
<p>とはいえ当時のカルマも、その理屈が他者に共通しないことくらいは理解していた。よって、その日その時、その場所で、その挨拶は必要だった。相手との間に真に特別な関係がなかったとしても、三年連続のクラスメイトではあって、どうしても例の事件は付きまとう。まかり間違っても謝りなどしない、けれども、おはよう、隣の席だね、一年間よろしく——。</p>
<p>体感の上ではようやく、実際のところは大した間もなく、カルマが口を開こうとした瞬間、彼の言葉は遮られた。そういえば人気があったんだっけ。カルマはまるで他人事のように思い出した。耳障りのよい声だった。より優れた造形の上で、薄く唇が弧を描く。それが、いやにはかなく感じられて、ふと<em>錯覚</em>させられた。俺だけを見ている。</p>
<p>カルマは反射的に舌をかんだ。</p>
<p>再びクラスメイトの顔を見た。</p>
<p>彼女は。</p>
<hr>
<p>南国の五時過ぎ、いつまでも青い空の下で、チョコレートパフェが底をついた。</p>
<p>「今日はごめんね」</p>
<p>「そういうこともありますよ」</p>
<p><em>クラスの女子たち</em>の会話は呆気なく、端末をしまった彼女がストローに口をつける。パフェとは異なり、ジュースの残量には余裕さえあった。だが一口だけで、カルマと目が合う。</p>
<p>「どうしたの」</p>
<p>クラスメイトはストローから口を放すと、グラスも置いた。トロピカルジュースが波を打った。ここは沖縄だ。夏休みで、暗殺に失敗して、事件に遭遇したのだ。</p>
<p>耳を傾ければ、嫌でもふさわしくない喧噪が聞こえてきた。昨晩の事に始末をつけるために、ほとんど名前も知らないような人々が集まったのだ。クラスメイトが助かっても、烏間は不眠不休で指揮を執る。彼が、彼らが、カルマたちの暗殺を支えてくれている。敵だったはずの殺し屋さえ。作戦の成功も失敗も、クラスメイトの無事も、すべては積み重ねによってもたらされている。</p>
<p>その実感が失われる瞬間が、ある。</p>
<p>たとえば、こうして顔を上げて、表情をかたどった瞳に見つめられたとき。見つめるとき。春の風にでも吹かれたように、カルマの言葉はやはりがらんどうになる。あの日と同じに、<em>あの日</em>とは異なって。</p>
<p>あれからカルマは彼女について多くを知ることとなった。修学旅行、奥田と親しい。転校生、改造人間より人工知能が嫌い。水殺、おびえた演技が卓越している。期末テスト。何一つとして忘れやしない。だがカルマは、やはり一つのことしか知らない。</p>
<p>「むかつく」</p>
<p>隣の席のクラスメイトは、かつて出会った誰より傲慢で、誠実さに欠けており、人を信じることもなく、常に保身を図っている。だから、あの日、春の気配が白々しくも通り抜けたとき、彼女は気づいていて、何も言わなかった。整然と、まるで<em>大人</em>しく退屈になることができたのだ。</p>
<p>「むかつくね、本当に」</p>
<p>カルマだけを見ている彼女の前で、彼女だけを見て告白する。クラスメイトは教科書みたいに戸惑ってくれた。道徳の授業みたいに、正直な感情と伝えるべきでない言葉との間で頭を悩ませでもしているみたいに。彼女は、あたかもうまく言えなかったみたいに開きかけた口を閉じる。もうカルマも相手にはしなかった。</p>
<p>成すべきことは、わかっていた。</p>
<p>動詞が一つ。</p>
<p>カルマの刃は、まず一つ。</p>
https://tetraminion.org/ff/killing-mutant/main/n-2/n-5.html
第60話「異変の時間」から第73話「大人の時間・2時間目」まで
赤羽業、八月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2023-04-28T19:00:00+09:00
<h1>片岡メグ、七月</h1>
<h2>一</h2>
<p>ナイフがやっと烏間に当たって、岡野ひなたと手を合わせた。やったね、と得点を記録しつつ反省会。次の目標がいくらか立つと、模擬暗殺も終盤に差し掛かっていた。半袖の体育着が一人、二人、烏間に立ち向かい、いなされたり弾かれたり。</p>
<p>「私たちは順番待ちだけどさ、烏間先生、ぶっ続けなんだよね」</p>
<p>「私たちのほうが息荒いよね」</p>
<p>やがて堅牢な表情が手短に終了を告げた。あいさつの後、クラスメイトが遊びに誘っていた。時々こたえてくれるのだ。忙しい人だから断られることも多いけれど。</p>
<p>「誘いはうれしいが、この後は防衛省からの連絡待ちでな」</p>
<p>今日も後者であるらしい。</p>
<p>背中が遠ざかっていく。</p>
<p>「疲れてないのかな」</p>
<p>岡野のつぶやきに、はははと乾いた音が漏れた。</p>
<p>「私らじゃまだ真似できないってことだけは確か」</p>
<p>最後の授業だったからって、片岡は時間を気にせず歩き出す。だがその足もすぐに止まることになった。二人より先にいたクラスメイトが軒並み立ち止まったのだ。いったい何事だろうかと、二人もつられて視線を追う。と、校舎の方から見知らぬ姿が一つ。ジャージにポロシャツ、スラックス。大荷物を抱えて烏間を通り過ぎ、どうやらこのグラウンドを目指しているようだった。</p>
<p>皆、動くに動けなくなった。烏間はこちらを振り返ったが何も言わず。なぜかこちら側にいた殺せんせーも特に無言だ。幸いにして来訪者は歩幅が大きく、片岡たちが混乱する前に輪に到達して、一気に荷物を下ろした。ダンボール一箱、両腕に提げていた多数の袋。持参者を見上げると、それよりも少し高い所に顔があって、にっこり笑みを浮かべていた。</p>
<p>「俺の名前は鷹岡明! 今日から烏間を補佐して働く! よろしくな、E組のみんな」</p>
<p>片岡は首をそらすことをやめ、隣の友人を見下ろした。すぐに戸惑いの表情と顔が合ったけれど、二人とも口は開かない。仮に言葉を交わしたとして、体格か荷物の話になっていただろう。それよりはクラス委員として、教師陣の反応や、あるいはもう一人のクラス委員を探して。しかしクラスメイトも動き始めていた。</p>
<p>「なんだ、ケーキとか飲みものだ」</p>
<p>生徒は一斉に鷹岡明を囲んだ。片岡も磯貝悠馬と視線だけ交わして流れに従う。まもなく岡野が指を差した。有名ブランドのロゴである。岡野がしゃがみ込む傍ら、片岡は再び磯貝を探す。彼はちょうど鷹岡の元にいた。そして二、三の口をきくと、片岡を見てうなずき、クラスメイトの輪に戻った。差し入れであるとの言質がとれたらしい。鷹岡も一緒に座り込んで手を伸ばす。</p>
<p>「おまえらと早く仲よくなりたいんだ。それには、みんなで囲んで飯食うのが一番だろ」</p>
<p>その日は<em>みんな</em>で差し入れをいただき、鷹岡と一緒にグラウンドで遊んだ。彼は烏間の同僚で、急な話だが、明日から体育の授業を担当するそうだ。</p>
<p>「烏間の負担を減らすための分業さ。あいつには事務作業に専念してもらう」</p>
<p>とのこと。</p>
<p>片岡は後に、非常な落胆の声を聞いた。烏間は生徒の一部から特別な好意を寄せられているのだ。高学歴・高身長・高収入——はともかく、誰と言わずとも比較にならないほどの常識人で、非常に頼り甲斐があり、顔も立ち居振る舞いも有り体に言って恰好がよい。肝心の授業も普通に好評だ。その手の生徒たちにとっても決して休めない時間らしく、特に模擬暗殺は見逃せないとか。</p>
<p>片岡も落胆しなかったと言えばうそになる。烏間は確かに生徒との間に線を引いているだろう。だが、それは立場を考えれば当然のことで、その中で彼は生徒それぞれに真摯に向き合ってくれていた。とも思う。それに、やはり片岡も彼の訓練を支持している。一方で、変化を期待する気持ちも少なからず存在する。鷹岡は烏間とはまるで異なる性格の人物のようだ。</p>
<p>「あの鷹岡先生って根っからフレンドリーじゃん。案外ずっと楽しい訓練かもよ」</p>
<p>——極端な話、そういうことだが。</p>
<p>「<em>楽</em>にはならないだろうけどね」</p>
<p>どこかの誰かの行間を読んで、岡野は辛辣に吐き捨てた。片岡はまあねと同調しておいて、</p>
<p>「けど内容は気になるな。うちの先生の中だと——ほら、殺せんせーの授業とかさ」</p>
<p>「分身横跳び——あやとりを添えて——?」</p>
<p>「ふふっ」</p>
<p>片岡は思わず笑った。だって、それだけは絶対に嫌だ。</p>
<h2>二</h2>
<p>まあ鷹岡は烏間の同僚つまり軍人、ヒトであるはずなので、マッハ二十も分身も不可能だろう。と、片岡はその点は安心して翌朝を迎えた。</p>
<p>教室の話題はやはり新しい体育。夜をまたいで多少は整理がついたのか、声高に不満を叫ぶ者はいない。ただ久しぶりにカルマが教室に来なかった。殺せんせーによると病欠らしい。せっかく今日から新しい体育が始まるのに、と誰かがささやく。だからかな、と片岡は思った。カルマは鷹岡のノリを嫌っていそうだ。もしかすると本当に病気であるのかもしれないが、この点に関してカルマには多くの前科がある。</p>
<p>あとは寺坂竜馬も来なかった。こちらもやはりサボりだろう。昨日も早々に場を抜けていた。カルマではないが、彼も鷹岡のノリが受け付けなかったのではないか。寺坂は授業にも暗殺にも非協力的で、先月の球技大会においても不参加の姿勢を貫いた。片岡は、共感は難しいが、察しはついている。彼はそもそもE組の現状——前向きな空気が、居心地を悪くしているのだ。</p>
<p>どうにかできないものか、磯貝とはクラス委員同士よく話すが、解決の糸口はつかめていない。もちろん今日もどうすることもできないから、このことはひとまず置いておくとする。E組には他に先月初日に休学を決め込んだ転校生暗殺者もいるわけで。訓練への不参加ということなら、自律思考固定砲台も当然そうなる。</p>
<p>「よーし、みんな集まったな。では今日から新しい体育を始めよう」</p>
<p>幸いにして鷹岡は数名の不在について、気を悪くした様子は見せなかった。グラウンドの外れで昨日と同じに大きく口を開き、</p>
<p>「ちょっと厳しくなると思うが、終わったら、またうまいモン食わしてやるからな」</p>
<p>片岡は岡野と顔を合わせた。やはり楽にはならないらしい。だが、続いた文句がよかったのか、不満を唱える者はいなかった。冗談は飛んだけれど。それに鷹岡もおどけて答えて、生徒たちの笑いを誘う。さらにかけ声を決めようと、どこかで聞いたようなネタを持ち出してきた。</p>
<p>「うわ。パクりだし古いぞ、それ」</p>
<p>「やかましい! パクりじゃなくてオマージュだ!」</p>
<p>何はともあれ楽しい授業にはなりそうだ。</p>
<p>がやがや言い合って場が温まり、さて、と鷹岡が声を張った。切り換え時だと生徒も察して静かになる。鷹岡は満足げに背を向け、かばんから紙束を取り出した。何かと思えば時間割だった。彼は烏間とは異なる計画を立てているようだ。時間割を変更するほどとなると、片岡には想像もつかないが。前から現物が回ってくるので、ひとまず受け取り、後ろに回す。</p>
<p>これまで使われていたものとは異なる形式だったけれど、見方は容易に把握できた。題字の下に、月曜日から土曜日までの表があって、一見して訓練の時間が、——その過半数を占めている。片岡ははたと顔を上げたが、そこには鷹岡の笑顔が待っているだけで、すぐに表に向き直る。しかし改めて見たところで「訓練」の二文字があまりに多い。手違いだろうかと隣の友人へ目を向けたのに、彼女はすでに片岡の時間割をのぞき込んでいた。</p>
<p>「うそ、でしょ」</p>
<p>つぶやく声が聞こえてきた。岡野の口は閉じたままだ。彼女の両手が「椚ヶ丘中学校三年E組新時間割」を持ち上げる。まったく同じ表題の、まったく同じ列と行。月曜日から土曜日まで。一時間目から<em>十時間目</em>まで。片岡は今だけは岡野の顔を見ないようにして、横目で見比べた。駄目押しとばかりの、小さく添えられた開始時間と終了時間が、朝の九時から<em>夜の九時</em>まで。</p>
<p>誰かがそれを尋ねる前に、しかしあたかも今しがた気づいたかのように、</p>
<p>「このぐらいは当然さ」</p>
<p>鷹岡は告げた。</p>
<p>「理事長にも話して承諾してもらった。『地球の危機ならしょうがない』と言ってたぜ」</p>
<p>両手の中で、くしゃりと潰れる音がする。</p>
<p>「この<ruby>時間割<rt>カリキュラム</rt></ruby>についてこれれば、おまえらの能力は飛躍的に上がる」</p>
<p>何か、何かを言わなければ。急な使命感が片岡を襲う。だが、その正体が言葉にならず、片岡はただ岡野の手をつかんだ。岡野が体を硬直させる。浮きかけた体が、ぎこちなく片岡の隣で沈む。</p>
<p>「待ってくれよ。無理だぜ、こんなの!」</p>
<p>ああ。止めなければならなかったのだ。</p>
<p>片岡の隣で浮きかけていた体が、さっと声の主を探す。片岡も、もちろん鷹岡も彼に目をつけた。彼は構わず抗議を続ける。片岡はアッとも言えずに見守るしかなくて、だのに瞬きのうちに、彼の腹に、鷹岡の膝が——。</p>
<p>——入れて、鷹岡は放り出した。<em>つかまれていた</em>前原陽斗が、地面に捨てられ、腹を押さえる。磯貝が駆け寄った。鷹岡は目もくれなかった。だが唇は弧を描き、</p>
<p>「『できない』じゃない。『やる』んだよ」</p>
<p>大柄な大人だ。最初に抱いた印象が、今になって片岡の脳裏にひらめいた。</p>
<p>今さら必要もなかったのに、鷹岡は切り換えるように手をたたく。</p>
<p>「さあ、まずはスクワット百回かける三セットだ」</p>
<p>できない。片岡は反射的に口を開きかけるが、音にすることもできなかった。これまでの暗殺と訓練がどうという次元の話ではない、と。むしろ烏間の訓練を踏まえるなら、と。どうして進言できようか。鷹岡は<em>わかっていて</em>命じているのだ。</p>
<p>前方に前原がうずくまっている。苦痛にあえぐ声がする。</p>
<p>他は、皆は無事だろうか。やっと考えついたとき、片岡の横を足音が通り過ぎた。鷹岡はあっさり提案した。</p>
<p>「抜けたいやつは抜けてもいいぞ」</p>
<p>その声は、からりと晴れた空模様に似ていた。生徒の間を練り歩きながら、けど、と同じ口から音がする。そんなことはしたくないんだと、ずっと穏やかな色をさせて。足音が遠ざかっていく。片岡から一列、二列、三列。離れるほどに、胸中には一つの願いが浮かび上がる。いっそスクワットを始めてはくれないかと。前方で、前原がまだ起き上がらない。</p>
<p>時間が経過すればするほど状況が悪くなることに、片岡は気づいていた。鷹岡は全員に語りかけているようで、特に周囲の五、六人の反応をうかがっている。口を開くたび、足音がずれる。生徒に<em>声を上げてもらう</em>ためだ。幸いまだ前原の<em>見せしめ</em>が効いているが、それも時間の問題だろう。徐々に恐怖に整理をつけて、冷静になるばかりならよいけれど、——隣の友人はもう限界かもしれない。</p>
<p>岡野には直情的なきらいがある。間違いなく彼女の長所の一つだ。ただこの場では、それがよく作用するように思われないのだ。片岡とて現状をよしとはできないが、それを実行に移したところで、待っているものはわかりきっている。友人に傷ついてほしくない。いや誰にも。あるいは自分だけが傷つくならよいけれど、いつ連帯責任の四文字を出すとも知れない。</p>
<p>鷹岡の立てる音だけが響く中、彼は誰の期待にも反して立ち止まった。場違いなほどの親しみを込めて、背後から生徒たちの肩を抱く。その手がまもなく後頭部を捕らえ、彼は彼女に問いかけた。おまえはついてきてくれるよな、と。片岡も、岡野も、あらゆる生徒が見守った。<em>彼女</em>は——まるでうなずくように目を細めた。</p>
<p>「私は嫌です」</p>
<p>あたかも従順であるかのように。</p>
<p>「烏間先生の授業を希望します」</p>
<p>鋭い音が空気を裂く。奥田と神崎がすぐさま駆け寄った。鷹岡は片手を広げて、握って。</p>
<p>そして、ようやく待ち望んだ足音がする。</p>
<h2>三</h2>
<p>烏間が助けにきてくれた。ただ制止を願うだけで収束する事態ではなかったが、烏間は生徒を助けてくれた。生徒の中では渚が大いに活躍した。それから理事長まで出てきて——助けにきてくれたのかはともかく——鷹岡は解雇された。教官は烏間のままということで、</p>
<p>「財布は出すから食いたいものを街で言え」</p>
<p>生徒は<em>臨時報酬</em>をもらえることになった。この一時間を打ち消すように、駆け足で校舎に戻った。急いで着替えると、ホームルームもそこそこに、また外に出て山道を皆で下る。</p>
<p>中ほどで烏間が数名に囲まれている。ビッチ先生は片岡より後ろで男子を侍らせており、殺せんせーは最後尾よりも後ろで土下座しながら追いかけてくる。烏間は殺せんせーについて何も明言しなかったのだ。——また正面を見直すと、少し前を、磯貝と前原が歩いていた。</p>
<p>「メグどうしたの、誰か探してる?」</p>
<p>これは岡野。片岡の隣を歩いている。片岡がうなずくも、岡野は答えを待たずに片岡と同じ所を見た。片岡はそれを見届けて、視線をさらに斜め前へ。</p>
<p>体罰を受けたクラスメイトは、いずれも教師陣により無事を確認されている。現に一人は磯貝の隣でぴんぴんしており、もう一人も奥田や神崎とよどみなく歩いている。</p>
<p>「ちょっと行ってくる」</p>
<p>近づくと、真っ先に彼女が振り向いた。</p>
<p>「片岡さん」</p>
<p>どうしたのと、目の高さを調節する必要のない所で、クラスメイトが小首をかしげた。奥田や神崎、その奥で茅野も、同様に片岡をうかがっている。</p>
<p>皆元気そうだと、すぐに見てとれたが、念のため口で尋ねておく。わかっていたことだが、彼女は静かにうなずいた。</p>
<p>「このとおり。殺せんせーのお墨付きだよ。ありがとう」</p>
<p>両手は握り拳を作って、肘は曲げて。元気であることの主張のつもりだろうか。片岡は思わず笑みをこぼす。彼女が打たれた部位は腕でなく頰だ。そして顔を見たところで、その白い肌には傷の一つも見当たらない。いや、いずれにしろ問題は、——なんだか愛らしい挙動だったから、表情がつられてしまったのだ。片岡は改めて言葉にした。</p>
<p>「そっか。よかった」</p>
<p>「うん、かっこよかった」</p>
<p>いつのまにか岡野が隣にいた。岡野と片岡の前で、彼女が目を見開く。岡野は、ほら、と言うけれど、続く言葉は持ち合わせがないらしい。しかし彼女は拾い上げて、また目を細めた。</p>
<p>「奥田さんと神崎さんがいたから」</p>
<p>「えーっ、私は?」</p>
<p>「もちろん茅野さんも」</p>
<p>「おお」</p>
<p>隣から感嘆の声。岡野はそのまま片岡を見た。</p>
<p>「かっこいいじゃん」</p>
<p>「なんで私を見て言うの」</p>
<p>まもなく傾斜が緩やかになって、二人は切りよく彼女たちと別れた。磯貝たちと合流しようかと、片岡は隣の友人を見下ろす。すると岡野も片岡を見上げて、よかったね、と口にした。</p>
<p>「気にしてたでしょ」</p>
<p>ごまかすつもりもなかったから、片岡は素直に肯定した。別れたばかりのクラスメイトの元を、新たなクラスメイトが訪れている。——そうだ。片岡は気にかけていた。あのクラスメイトはクラスで異様に浮いていたから。</p>
<p>言うまでもなく昨冬のうわさが原因で、以前の真逆の評判も相まって、彼女はまるで腫れ物のように扱われてきた。初めて旧校舎に来た日から約一か月もの間、彼女は限られた人間以外と会話をしなかった。すなわちクラス委員の磯貝と片岡、三年目のクラスメイトだという渚、そして先入観のなかった茅野である。話してみたら以前の評判のとおりの人物だったのに、その悪いうわさの主役のカルマでさえクラスに馴染んだのに。</p>
<p>だが片岡自身、クラス委員でなければ話しかけなかったかもしれない。話してみたらわかったとは言ったが、一か月も同じ教室にいれば気づいたはずだ。きっと、あのうわさは、少なくとも彼女に関する部分は根も葉もない中傷だろうと。それでも彼女に話しかけられない理由は、要は、だからこそ得体が知れないのだ。彼女が否定をしないから。</p>
<p>彼女が言及しないから、うわさの真偽がわからない。少なくともカルマに関する部分が正しいだろうことも、もちろん影響しているだろう。そして、そのカルマが、これまた言及しなかった。何なら最初の一か月、そもそもうわさの二人が会話をしなかった。隣同士の席なのに。今でこそ珍しくない二人組は、修学旅行の班がきっかけで交流を持ったようだった。</p>
<p>これはクラス全体にも言えることだが、修学旅行は彼女の交友関係を広げたようで、特に隣の席のカルマ、前の席の奥田とは多く昼食も共にしている。先日の球技大会も悪くなかった。よく練習相手を務めた中村は、先ほど彼女の横に並んだところだ。</p>
<p>とまあ最近は改善の兆しが見えつつある。不謹慎なようだが、今日の事件でまた誰かが彼女を知ってくれたことを願っておく。</p>
<p>「声かけてくれたらいいのに。暗殺とか」</p>
<p>「誘ったら参加してくれるんだけどね」</p>
<p>その後、二人は磯貝と前原と合流して、街ではうんとおいしい思いをした。彼女はずっしりと重厚なチョコレートケーキを注文したようだ。殺せんせーが結局どうなったかは知らない。</p>
<p>次の日はカルマも寺坂も教室に来た。カルマはそこそこ周囲に声をかけ、まっすぐ席へ向かう。隣の席はすでに埋まっており、隣同士すぐに話し込んだ。いつもの旧校舎のいつもの朝のいつもの景色の一部である。</p>
https://tetraminion.org/ff/killing-mutant/main/n-2/n-4.html
第38話「訓練の時間」から第42話「迷いの時間」まで
片岡メグ、七月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2023-02-10T19:00:00+09:00
<h1>中村莉桜、六月</h1>
<h2>一</h2>
<p>来た。</p>
<p>六月、梅雨明けすぐ、見出しよりも大きなアルファベットが四つ。E組にもやってきたその知らせを受けて、中村莉桜の内心だけの第一声だ。瞬時に意味が理解できたから、その瞬間くらいはうんざりさせてもらった。A対Cと、B対D。勝ったアルファベットが<em>決勝戦</em>に進出して<em>優勝</em>を争う、学年四クラスによるトーナメント。——球技大会の到来である。</p>
<p>この時期お決まりの学校行事。夏が始まってしまう前にと、椚ヶ丘中学では学年ごとにA組からD組まで、何らかの球技を競い合う。基本四クラスの構成はこのような場合に単純にトーナメント方式を採用できて便利、というより、その合理性をも重んじたものだろうが。昨年も一昨年も、体育祭の団体競技もそうだった。</p>
<p>「E組は?」</p>
<p>今年赴任してきた担任教師はトーナメント表を凝視したけれど、中学三年生には慣れっこだ。ちょうど中村の隣人も肩をすくめる。</p>
<p>「本戦にはエントリーされないんだ」</p>
<p>十時、A組とC組による第一試合。十一時、B組とD組による第二試合。そして昼休憩を挟み十三時、勝ち進んだクラスで決勝戦。以上をもちまして試合は終了! トーナメントバスケ三年はA組が優勝です! それでは最後に——E組対バスケ部選抜の<em>余興試合</em>を行います。</p>
<p>大会の締めの<em>エキシビション</em>。勝っても負けても最後は楽しく、三年E組の栄えなき舞台。</p>
<p>一般生徒のための大会ゆえ、当該種目の部活動生は本戦にエントリーすることができない。かわりの彼らの見せ場がここ。梅雨明けの頃の学校行事は、我が校の誇る選手たちによって、華々しく最後を飾られる。</p>
<p>——例によって中村も各行事を楽しんだ思い出が多い。元々催し物は楽しむよう心がけていたけれど、駄目押しがこのE組制度だ。</p>
<p>本校においてE組は存在自体が笑い種で、そして見かけるたびに苦しんでいる。たかだか全校集会だって、山の上だからと免除されずに、その数十分のためだけに長い山道を上り下りするのだ。笑いものにするまでもない。<em>でもE組よりマシ</em>だと考えられる、そのことに救われるものがいかほどあるか。それは警告でもあるのだが。</p>
<p>「E組に落ちたらこんな恥かきますよって」</p>
<p>「なるほど、いつものやつですか」</p>
<p>三か月目の新米教師も完全に理解した。</p>
<p>中村の左耳に、努めて明るい声が届く。</p>
<p>「心配しないで、殺せんせー。暗殺で基礎体力ついてるし、いい試合して全校生徒を盛り下げるよ。ねー、みんな」</p>
<hr>
<p>部活動生が当然圧勝、最悪の場合においても勝つ。そういう展開が求められているからして、E組が誰か一人でも活躍しただけで場は白け、善戦などしようものなら通夜を迎えることだろう。逆転勝利の暁にはいったい何が起こることやら。もちろん前例は一つもない。昨年までも、そして今年も相手は部活動生で、そのうえ実力で選び抜かれた。</p>
<p>作戦会議でエースの名前が出た途端、</p>
<p>「あー、あのライオンみたいな——」</p>
<p>エースがライオンならキャプテンはトラ、他の主力はクマ、ワシ、パンダ。控えまでゴツくて、マネージャーまでデカい。ライオンもといエースにいたっては女子のくせ<em>たてがみ</em>を錯覚させるほど威圧感があり、相対しては素人集団E組などさながらパンダの笹のごとし——。などとは、中村たちのリーダーは決して言いやしないけれど。</p>
<p>E組の劣勢は明白だ。<em>さすがに</em>部活動生が負うことになるハンディキャップの存在さえ<em>有利な条件で惨敗するE組</em>のための布石に過ぎなかった。部活動生のハンデ、球技大会のためのルール。そういったものたちを歯牙にもかけない、日々の部活動に裏打ちされた自信、大会の成績に示された実力。</p>
<p>無理もない話だが、過去二年間で中村が見てきたE組は戦う前から負けていた。いや中村でさえ、すでに敗北を確信している。</p>
<p>——猛獣の連想ゲームは、クラス委員が手を鳴らすまで続いた。</p>
<p>「でも私たちにも<em>武器</em>がある」</p>
<p>E組のクラス委員にして頼れるリーダー、片岡メグは笑顔で女子を励ましていく。</p>
<p>「女バスはたしかにデカくてゴツい。けど、ハンデはハンデ。他のルールも、未経験者も楽しめるように変わってる。もちろん私たち自身も日々暗殺で鍛えてる。活路はあるよ。いつもの暗殺とやることは一緒。弱点を探って、作戦を立てて、刃を磨いて、——目にもの見せてやろう。殺す気で」</p>
<p>球技大会においても片岡はリーダーだ。授業にしろ暗殺にしろ、クラス委員の肩書は彼女を中心に据えたがる。異論が挟まることはない。文武両道で特に運動神経は抜群、暗殺訓練も成績が目覚ましく、もっと言うとE組女子(ヒト・四角くない)で最も背が高い。後でグラウンドに出てみたら、バスケットボールも一番うまかった。</p>
<hr>
<p>中村も当然に諸手を挙げた。実際に体を動かしてみると、片岡のみならず性格が見えてくる。</p>
<p>「やっぱり莉桜は動けるね」</p>
<p>たとえば中村は運動に苦手意識があるでもなく、シュートの要領も得ており、身長は上から三番目。うれしいことに主力に数えてもらえそうで、</p>
<p>「メグも——あんた<em>やってる</em>ね」</p>
<p>「人聞きが悪い!」</p>
<p>結局、片岡は頭一つ抜けている。未経験ですと言われるより、経験者ですと言われたいくらい。背が高く、得点力もあり、リーダーシップまで兼ね備えている。格差対決に挑むE組にとっては、どうしたって必要不可欠だ。そして片岡がフォワードを担うときは、中村自身は一歩くらい引いたところからシュートなどして貢献したい。</p>
<p>「とはいえ、メグも出ずっぱりってわけにはいかんでしょ」</p>
<p>「あー、うん、それね」</p>
<p>練習初日、その終盤、中村と話していた片岡はおもむろに周囲を見回した。誰かを探し、やがては当たりをつけて歩き出す。茅野や奥田の方向だと気づいて間もなく、中村は瞬時に思考を修正した。何か声をかけたかったのに、何も音にならなかった。グラウンドの方々でバスケットボールが跳ねている。</p>
<p>「どうしたの」</p>
<p>片岡が呼び出したクラスメイトは、素直に顔を上げ、おとなしく着いてきた。十分に<em>四班</em>から離れたところで、片岡は改めて口を開く。中村は目を細めて二人を見た。かくかくしかじか、片岡が言葉を切ると、相手が首を縦に振った。</p>
<p>「なるほど、わかった。片岡さんにはなれないけど、任せてほしいな。私なりに全力を尽くすから」</p>
<p>片岡の表情が僅かに緩む。<em>彼女</em>もほほ笑みを浮かべてこたえ、</p>
<p>「うん、一緒にがんばろう」</p>
<p>同じ言葉を交わし合った。</p>
<p>中村は一人<em>それ</em>を追いやる。</p>
<p>——来た。</p>
<h2>二</h2>
<p>上から三番の中村が主力なのだ。片岡には及ばないながらも、中村に差をつける背丈の女子(ヒト・四角くない)が、なおかつ運動神経もよいときたら、当然貴重な戦力である。わかりきったことだった。けれども実際の人選を前にしたときは、その瞬間くらいは息をのませてほしい。</p>
<p>球技大会の練習は男子も女子もつつがなく進んだ。女子のバスケットボールに対し、男子は——<ruby>殺<rt>ころ</rt>投手<rt>ピッチャー</rt></ruby>は三百キロの球を投げ、<ruby>殺<rt>ころ</rt></ruby>内野手は分身で鉄壁の守備を敷き、<ruby>殺<rt>ころ</rt>捕手<rt>キャッチャー</rt></ruby>はささやき戦術で集中を乱す!——阿鼻叫喚のマッハ野球だったが。</p>
<p>なんだか四月が懐かしい。同時にこうも考える。しかし<em>彼女</em>は知らないだろう。今でこそ烏間の暗殺訓練だが、初めは殺せんせーの体育だった。反復横跳びをやってみましょう、まずは基本の視覚分身から、慣れてきたらあやとりも混ぜましょう。という具合に、妥当に教師が交代したのだ。最初の暗殺訓練は、彼女の登校初日だった。</p>
<p>昨冬のうわさの真偽はともかく、彼女の新三年生の初日は事実として遅かった。冬休みも春休みもまたいでなお、新学期の始業式にさえ間に合わなかった。これほどの処分、それほどの事件。真偽のほどはともかくとしても、警戒するには十分だ。実際にもう一人の登場人物は、うわさに違わぬ危険をはらんでいた。</p>
<p>だが練習は順調だ。<em>カルマ</em>は多少不真面目だとて和を乱さない程度に取り組んでおり、女子バスケットボールの部においても同じく問題は起きていない。そもそもうわさの暴力性は、今日までクラスメイトに向かっていない。片岡が朗らかに指示を出す。</p>
<p>「中村さん」</p>
<p>ちょうど彼女が走ってきた。次は二人組での練習だ。</p>
<p>「うん。ペア、今日もよろしく」</p>
<p>かけ声に合わせて、皆が一斉にボールを投げる。二人も遅れず参加する。一通り済むと、一息ついて、もう一回。もう一回。繰り返すうち、動作がそろわない組が出てくる。中村たちも少しずつ息が荒くなる。とはいえ二人の脱落よりは、終了の合図が先だった。二人は互いにねぎらって次の内容へ。</p>
<p>そもそも彼女は真面目に練習に取り組んでいた。以前の評判のままの、美人で模範的な優等生。勝手な遅刻や早退をせず、授業には出て、宿題は提出する。名指しで𠮟られるよりも褒められる。そして四月の初日から今の今まで、距離を詰めてきたことがない。</p>
<p>彼女が初め教室に来たとき、気づいた端から言葉を失って、たちまち神妙な空気が流れた。なぜか一緒だった茅野だけが困ったように眉を下げ、当の本人は無言で席を見つけると、荷物を置いて、涼しい顔で本を開いた。うわさはうわさだったのか、はたまた爪を隠しているのか、そのとき誰にも判断がつかず、一、二か月を過ごしてしまった。</p>
<p>結局まともに接した生徒は、通学路で一緒になったという茅野と、同じクラスだったことがあるという渚と、あとはクラス委員の二人ではなかったか。最近は他のクラスメイトと話す姿も見るが、それも修学旅行がきっかけで、彼女の班員だったから、茅野と渚を除いて四人。奥田、神崎、杉野、カルマ——。</p>
<p>何から何まで以前の評判のままだった。何から何まで下衆の勘繰りだった、ような。</p>
<h2>三</h2>
<p>その六月、梅雨明けの週末、E組はうまいこと球技大会の日を迎え、女子は目標どおり善戦、男子はなんと勝利を収めた。こちらも目標どおりと言えば目標どおり、<ruby>殺<rt>ころ</rt></ruby>監督もついていた。とはいえ、</p>
<p>「まさか一回オモテから<ruby>理事長<rt>ラスボス</rt></ruby>が登場したときはどうなることかと」</p>
<p>理事長。この学校を十年足らずで名門に仕立て上げた敏腕経営者。マッハ二十の超生物にも引けを取らない教育の名手。で、その教育をめぐって殺せんせーと対立している。</p>
<p>たとえば先月の中間テスト。三年E組は全員が学年五十位以内を目指していた。これは殺せんせーの指導の下、かなり現実的な目標だった。対して理事長は、テスト前日に範囲を変更することで、E組の成績を引き下げにかかった。A組からD組までは理事長の直々の授業を受けたが、E組は変更の事実すら知らず。さて成績は、よくて七割。もちろん学年五十位は夢のまた夢。さらに「いつものやつ」で一切はE組の自己責任とされた。</p>
<p>で、どうしてここまで<em>した</em>かというとだ。理事長いわく、E組は常に下を向いて生きていなければならない。</p>
<p>今球技大会の野球においては、この理事長にも引けを取らない殺せんせーが全面的に采配を振るった。一回オモテ、素人のE組が、野球部の選抜チームから、ななななんと三点先取。女子だって片岡が先制点を取ったけれど、男子はより大きな衝撃を受けただろう。椚ヶ丘の野球部は強豪で、そのうえ投手は超中学級なのだ。<em>いくらE組に元野球部がいるといっても</em>勝負は決まりきっているべきだった。</p>
<p>そして信念に反する事態だからといって、野球部側の指導者が交代する。</p>
<p>「なんだっけ、顧問が<em>重病</em>だったんだっけ」</p>
<p>以降は殺せんせーと理事長の采配対決だ。もちろん戦力差は甚大だった。経験者の実力は侮れない。E組とて<em>杉野</em>がいなければ守備は困難を極めただろう。そのうえで数々の戦略が張り巡らされ、野球部はE組のさらなる得点を許すことなく、E組はE組で野球部から優勢を守り抜いた。</p>
<p>「あの<em>前進守備</em>はヤバかったな」</p>
<p>「なになに、前進守備返し?」</p>
<p>「——そっちもヤバかったけど」</p>
<p>その夕方、旧校舎で打ち上げをした。杉野と片岡が人気を集めていた。勝った野球が注目を集めがちだけれども、バスケットボールも善戦したのだ。中でも片岡の功績は大きく、彼女一人で三十得点、十リバウンド、十二アシスト。結果は四十八対五十六だったのだから、なかなかの貢献度だ。何度か勝てそうだったよね、次はリベンジを目指そうね、とは試合後の片岡の激励である。</p>
<p>中村も片岡の近くで楽しんだ。そこにいると、女子同士で試合や練習を振り返ったり、男子の振り返りに口を挟んだり、逆に口を挟まれたり、話が尽きることはなかった。特に男子は女子のバスケットボールを見ていない。チームメイトの活躍を聞かせると、男子は新鮮な反応を示してくれた。</p>
<p>「ちょうど真ん中にいたんだけど、そこで覚醒したってわけ」</p>
<p>「まさか——」</p>
<p>「そう——長距離3Pシュート」</p>
<p>「うひょー、かっけー!」</p>
<p>とかなんとか冗談を言い合ったところでペットボトルが空になった。切りもよいので席を立つ。片岡の後ろを通って、——杉野の所にはちょうど四班の過半数がそろっていた。</p>
<p>渚と茅野、そして神崎。さすが神崎さん! バスケットボールの話かな、杉野は瞳孔をかっ開いて神崎を褒めた。神崎もいたって淑やかにこたえた。杉野くんもすごかったよ。杉野は神崎に想いを寄せており、神崎も杉野に友情を抱いている。中村が通り過ぎた後で、杉野は悲鳴に似た声とともに拳を突き上げた。すれ違いざま、たまたま渚と目が合った。何か言えばよかっただろうか。捕手を務めきった渚に。</p>
<p>中村は何も言えなかった。</p>
<p>正面を向いたら、今度は視界に四班の残りが映りこんだ。</p>
<p>「あー渚くん? 変化球の練習に付き合ってたんだって」</p>
<p>ちょうど野球の話をしていた。けれども、その場にいない人間の話は、女子二人がうなずいたら終わる。その場にいた人間と「<em>極端な</em>前進守備」の話だって、長続きはしなかったようだが。——カルマくんも大活躍でしたよね。訓練の成果が光ってたよね。ん-、ありがと。</p>
<p>空のペットボトルを袋に入れて、おかわりを引っつかんで、</p>
<p>「あっ、中村さん」</p>
<p>引き返したところで名前を呼ばれる。</p>
<p>「なになに、どったの」</p>
<p>努めて軽い調子で返事をしたら、あの二人が、そろって中村を見た。一人は薄く笑って、もう一人はかすかに眉を下げて。</p>
<p>「中村さん、すごいシュート決めたんだって?」</p>
<p>「勝手にごめんね、中村さん。バスケのプレーの話になって。ほら、後半に、ハーフラインから連続で」</p>
<p>二人の間で奥田がこくこくうなずいた。中村に言えることは少なかった。</p>
<p>「あれね、自分でも驚いてるところ。まさか入るとは思ってなかったのよ」</p>
<p>それから、会話には加わらず、杉野と片岡の後ろを抜けた。杉野の所にはまだ四班の四人が集まっていたけれど、渚とは目が合わなかった。席に戻ると、マッハ野球の話が聞こえてくる。球速三百キロ、分身守備、ささやき戦術。</p>
<p>「まあバントは習得できたけど」</p>
<p>「バントだけな」</p>
<p>「二度とやりたくねえよな」</p>
<p>「ありそうだもんな——バットが当たる位置で守備するときの対処法」</p>
<p>「いや、あれは磯貝とカルマのクソ度胸だって」</p>
<p>さすがに、と付け足した男子の横で、練習してたわけじゃなかったんだ、と中村は口を挟んだ。そりゃな、と返ってきた。</p>
<p>「それもそうか」</p>
<p>中村はもう一度だけ四班を探した。四人組と三人組はそれぞれまだ同じ場所にいた。「クソ度胸」のカルマは紙パックにストローを挿していた。煮オレかな。中村はその正体に見当がついていた。やたら甘ったるいブランドだが、昼休みや放課後に話すとき、カルマがよく飲んでいる。「うわさ」に含まれなかった部分だ。その事実がカルマの危険性を損なうことはないけれど。</p>
<p>カルマの元にクラスメイトが歩いていく。クラス委員でも四班でも、席が近いわけでもない、男子生徒。カルマは気安く立ち上がって、一緒にどこかへ去ってしまう。残された二人はしばらくそこにいたが、やがてどちらからともなく四班の四人に合流した。</p>
<p>中村は<em>それ</em>の正体に見当がついている。</p>
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第33話「球技大会の時間」から第36話「近い時間」まで
中村莉桜、六月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2023-01-31T19:00:00+09:00
<h1>杉野友人、五月</h1>
<h2>一</h2>
<p>来週末の一大学年行事に当たって、杉野友人は何も心配していなかった。クラスを四つに分ける班の長の三人が友人で、一人は特に仲がよい。相手にとっても同様だろう自覚もある。班分けに困ることは考えつくこともしなかった。杉野は誘いたい相手のことだけを心配していればよかったのだ。</p>
<p>強いて言えば、それと中間テストが杉野の心配事だった。</p>
<p>中学生になってから心配のないテスト期間など一度もなかった。三年E組の制度のおかげだ。杉野だけではないだろう。この学校は成績不振の新三年生を三年E組に落としてしまう。教室は旧校舎に、クラスメイトは劣等生に、環境は最悪に。つまり今現在のクラスのことで、杉野のことであるのだが。だからといってもなお気を抜けないのがこの学校で、今年のE組の担任である。</p>
<p>E組の生徒は定期テストにE組脱出を懸けている。そのうえ先日は担任の進退まで懸かっていた。E組の生徒は成績次第で本校舎に戻れるかもしれない。しかし成績が悪かったとしても、さすがに担任がただちに解任されることはない。はずなので、まあ担任から言い出したことだが、生徒全員が上位五十位に入らなければ辞任する、と。</p>
<p>かくして杉野たちは先日の中間テストで百億円をかけることになった。クラス担任の殺せんせーは国家機密の賞金首なのである。額はぴったり百億円。杉野たちは何やかやで目標は達成できなかったが、その何やかやが原因で殺せんせーは担任教師を続けてくれている。</p>
<p>ということで、杉野はあとは<em>誘った</em>相手のことだけを心配していればよくって、</p>
<p>「カルマくん! 同じ班なんない?」</p>
<p>「ん、オッケー」</p>
<p>——本当に心配などないも同然だったのだ、この時までは。</p>
<p>杉野はぎょっとして潮田渚を見て、軽快な返事に耳も疑った。どちらも平然として、まるで友人のような空気感だ。そういえば二年までも同じクラスだったんだっけ。杉野はまもなく思い出したが、それとこれとは別問題! エエッと思わず出た声に、渚と赤羽業が気安く振り向く。</p>
<p>「旅先で喧嘩売って問題になったりしないよな?」</p>
<p>「へーき、へーき。ちゃんと目撃者の口も封じるし、表沙汰にはならないよ」</p>
<p>渚はともかく、カルマという人物は、こういう性質で名を知られていた。E組落ちも成績不振が理由ではない。ただの喧嘩でもなく暴力沙汰で、停学処分まで食らったとのうわさだ。実際、三年生が始まって四月になっても、しばらく登校しなかった。そして約一か月をクラスメイトとして過ごしても、まあ先の返事のとおりとしか表せない。</p>
<p>ところが、杉野が同意を求めた渚は、多少は同調してくれたが、それだけだった。</p>
<p>「気心、知れてるし」</p>
<p>杉野は渋々と矛を収めた。たしかにこの一か月、理不尽に喧嘩をふっかけられたクラスメイトの話も聞いたことがない。現にカルマも二人の態度に文句をつける素振りを示さない。ほっと一息つくべきか。いや、それはそれで不気味だが。不気味なことに、カルマは班分けの進行に協力する姿勢を示してきた。</p>
<p>「メンツは?」</p>
<p>カルマは渚と杉野を見て、それから渚の隣の茅野を見た。席も渚の隣のクラスメイトは、修学旅行の班も渚と一緒なのだ。それから杉野と茅野が顔を見合わせ、まずは茅野が奥田愛美を手招きした。杉野も満を持して、前々から誘っておいたクラスメイトを紹介した。</p>
<p>「クラスのマドンナ、神崎さんでどうでしょう!」</p>
<p>カルマは知らなかったことだろうが、今朝あらかじめ顔のわかっていた奥田と、一人ずつ誘おうと話していたのだ。もっとも杉野は中間テストさえはるか未来に感じられる時分から、神崎有希子に声をかけていたのだが。</p>
<p>ほっそりとした百六十センチ弱、さらりと揺れる背中の黒髪、模範的な制服姿、よって短すぎないグレーのスカート、タイツは真っ白。今「よろしくね」とほほ笑んだ神崎は、すこぶる人気が高かった。おもに男子生徒の間で。それこそ本校舎時代から。かく言う杉野も、もちろん下心がございました——。</p>
<p>気を取り直して杉野は奥田にバトンを渡す。</p>
<p>「それで、奥田は誰を誘ったんだ?」</p>
<p>「わ、私は、あの」</p>
<p>奥田は遠慮がちに振り返り、会釈のような仕草を取る。</p>
<p>——やっぱやめようぜ、カルマ誘うの。</p>
<p>杉野は言葉を飲み込んだ。顔色を変えずにいられただろうか。しかし奥田の顔は見づらくて、そろりと渚の様子をうかがう。そうしたら渚と目が合った。やはりぎこちない表情を浮かべていた。どうか気づかれていませんように。杉野は何でもないよう努めて奥田ともう一人を視界に入れる。</p>
<p>「よろしくな」</p>
<p>「よろしくね」</p>
<p>いつぞやの暴力沙汰のうわさだが、そこには二年生がもう一人だけ登場する。</p>
<h2>二</h2>
<p>カルマがE組に落ちたとき、驚愕するより納得した。彼の不良は何も喧嘩ばかりではない。もっと些細な——喧嘩と比べたら微細な——素行を積み重ねている。提出物を出さないとか、行事に出ないとか、遅刻、早退、無断欠席。通知表的に言えば、関心・意欲・態度がよくない。むしろ、それでいて二年の冬まで転級通知のなかったことが、杉野にとっては不思議だったのだ。</p>
<p>さて<em>もう一人</em>は全然ちっとも、まったくの、まるで真逆のような優等生だった。今は耳の真っ赤なクラスメイトの隣に立って「よろしくね」と落ち着きの下にほほ笑んでいる。杉野はふと目を合わせてしまって、少しだけ照れて、すぐに自分から目をそらした。カルマとは正反対の人物像で、それよりも美人で評判だった。杉野も話題にしたことがあった。</p>
<p>容姿がよくて、態度もよくて、成績もよくて、運動神経もよさそうで、A組入りさえ確実視されており、E組落ちなど寝耳に水だ。まさかそんな人だったなんてと、多くの生徒がうわさした。信じられない裏切られたを通り越して、だまされた、と。ついに暴かれた<em>本性</em>は次第に低俗な言葉で修飾された。</p>
<p>だが四月半ば、彼女は数日遅れながらも刻限通りに現れると、無言で席につき、本を開いた。よりにもよってカルマの隣の席だったのだと、のちに皆が知ることになる。そしてカルマも大遅刻で教室に現れると、二人は、——特に何事もなく翌日を迎え、翌週を迎え、翌月を迎えた。テスト期間を迎えた。それから修学旅行も迎えた。</p>
<p>「おはよう、杉野くん」</p>
<p>出発の朝、駅のクラスの集合地点に、彼女は二番目にやってきた。</p>
<p>「おはよう」</p>
<p>杉野の口は事務的に、同じ挨拶のために動いた。早いんだねと相手がほほ笑む。杉野も返事をする。そう、ちょっと早起きしてさ。</p>
<p>杉野は本当は目覚まし時計を頼って起きた。一番乗りでの到着はもう三十分も前のことだ。早起きして、少々以上に家族に協力してもらって、息を切らしてまで走った。到着直前になって、息切れでは恰好がつかないことに思い至って、物陰で息を整えた。そうこうして現着した三十分前、杉野は一番乗りだった。二番目にやってきたクラスメイトは神崎ではなかった。</p>
<p>すべては杉野の下心である。淡い期待を抱いていた。偶然にも神崎と二人きりになれたら、などと。杉野は今になって思い出したが、日頃の神崎は登校が早い部類ではなかった。むしろ杉野が友人と遊ぶために靴を履くようなときに、玄関口で挨拶を交わすくらいの日常だった。</p>
<p>「大丈夫?」</p>
<p>不意に現実に顔をのぞき込まれる。整った顔が心配そうな声音で杉野を呼ぶ。</p>
<p>「だっ、大丈夫、大丈夫!」</p>
<p>「ならいいけど。ため息ついてたから」</p>
<p>「えっマジで?」</p>
<p>こちらは声がひっくり返った。</p>
<p>「同じ班になったんだし、困ったときは頼ってね」</p>
<p>それに何と言って答えたのだったか。二人はそれから、たまたま一着と二着だった班員同士の話をした。</p>
<p>明日明後日の班別行動は言わずもがな、今朝は新幹線、着けば京都飯、午後もクラスで京都見物。おまけに杉野がいるからして、話題の尽きる道理はない。いや相手がたとえばクラスの乱暴者なら多少は事情も変わろうが、二着だった班員は<em>暴力沙汰で落ちてきただけの</em>いたって温厚な生徒である。</p>
<p>「後でババ抜き一緒にどう?」</p>
<p>「もしかしてカード持ってきたんだ」</p>
<p>「そうそう、UNOとか花札とか」</p>
<p>「私も持ってくればよかったな」</p>
<p>「班のみんなで——電車の中で遊べるかなって」</p>
<p>勝手に杉野が息を詰まらせるだけで。</p>
<p>会話はもった。適度に続いた。だが、杉野の気分は次第に重くなっていった。三等賞を待つ間、それがカルマでもよいからと、願っていた。実に奇妙なことだった。二等賞がいっそカルマで、俺の早起きを揶揄でもしてくれたら、などとは。</p>
<p>幸いにして、次のクラスメイトは四、五分後に現れ、そのうえカルマでも乱暴者でもなかった。神崎でもなかったが、もはや杉野は構わない。</p>
<p>「それにしても、二人とも早かったんだな」</p>
<p>「ちょっと早くに目が覚めてさ」</p>
<p>「私は、お父さんが今朝は早くて」</p>
<p>四等賞は、そういう会話をするうちに訪れて、数えるうちに五着、六着、徐々にクラスメイトが集まってくる。神崎の到着までに、あと五分ばかりも待つことはなかった。</p>
<p>「おっ、おはよう! 神崎さん!」</p>
<p>「おはよう、杉野くん」</p>
<p>杉野の心配はすべて消し飛んだ。</p>
<p>「早いのね」</p>
<p>「それほどでもっ!」</p>
<p>「私も今朝は少し早くに目が覚めちゃった」</p>
<p>神崎さんはまぶしいなあ。</p>
<h2>三</h2>
<p>当然、神崎に投票した。さすが彼女は首位独走。得票数はクラスの男子だけでも片手の指。杉野の恋敵は極めて多い。気になる女子ランキング。修学旅行二日目、消灯前の自由時間のことである。</p>
<p>対象をクラスの女子に絞っても、意外な結果にはなっていない。複数票を集めた女子は、大抵は二年までにも評判だった。杉野も話題にしたことがある。もっとも彼の関心はもっぱら神崎に向かっていたが。</p>
<p>そうして結果が固まった大部屋にカルマが入ってきたとき、杉野はなぜかどきりとした。いや、もはや<em>あのうわさ</em>に根も葉もないことはクラス全員が認めている。しかし、</p>
<p>「お。おもしろそうなことしてんじゃん」</p>
<p>杉野はカルマの声音にひどく安心した。しかし鼓動が鳴りやむことはなかった。急に芽生えてきたのである。不安が。何かいけないことをしているような気持ちが。隣の渚も神妙な面持ちでカルマとクラスメイトを見守っている。</p>
<p>「おまえクラスで気になる子いる?」</p>
<p>「みんな言ってんだ。逃げらんねーぞ」</p>
<hr>
<p>「それ、女子にも聞くんだよね」</p>
<p>カルマはまっすぐ尋ね返した。夕方、教師部屋の蛍光灯の下で。普段の軽薄な雰囲気はない。表情にはむしろ険があった。杉野は答えようとした口を、どうにも動かせなくなって、教師三人をうかがった。殺せんせーの表情はわからなかった。イリーナ・イェラヴィッチは少なくともおちゃらけてはいない。烏間惟臣はいつにも増して深刻に、しかとうなずく。</p>
<p>「当然だ。彼女たちにも同じく、できる限り説明する」</p>
<p>「国家機密のために、警察には突き出せないって?」</p>
<p>散々な班別行動だった。悪いことばかりが起きたわけではない。しかし、たまたま最悪に至らなかっただけで、トラブルだったし、事件だった。他校生に襲撃されたのだ。それも修学旅行の男子高校生で、男子一同は暴行を受け、女子はなんと拉致された。唯一奥田が逃げきったけれど、無事でいてくれて本当によかった。</p>
<p>意識を取り戻し、教師陣に連絡を取り、殺せんせーの指示の下たどりついた京都の廃墟で班員が暴力にさらされていた。神崎さんが無事でよかった。みんな大事にならなくてよかった。感じたことは様々あったが、二番目に思ったことは、取り返しのつかないことが起きていなくてよかった——。到着直後、状況を把握できるまでは、まさか、と恐れたものだ。</p>
<p>殺せんせーの到着により事件は無事に解決し、再び観光に戻ることができた。散々な時間だったと思うと同時に、たいへん楽しい一日であったこともわかる。だが、夕方になって旅館に戻ると烏間に呼び出され、種々の確認作業を経て、真っ向から頼まれた。今回の事件を表沙汰にしないことを。</p>
<p>烏間は防衛省の人間である。E組での暗殺の監督役で、今日のような事件についても責任を取る立場にある。生徒を担任が助けたというと、E組の場合は国家機密が登場する羽目になるので。今日の国家機密は黒子の変装で登場し、秘密は守られたと本人が自信満々でいるけれど。監督役は、大事にできないと、あくまで他言無用を求める姿勢だ。</p>
<p>杉野は当然そのつもりでいた。正確には頼まれるまで考えもしなかった。しかし頼まれたところで特に意見はない。通報するつもりも、家族に相談するつもりもなかった。口外無用は四月頭から繰り返し言われている。烏間にも都合があろう。何より彼は誠実な大人だった。だから異をとなえるつもりはなかった。きっと渚も同じだった。</p>
<p>カルマだけが違ったのだ。だからといっても烏間の答えは変わらないけれど。</p>
<p>「このことによって不利益が生じないよう最大限配慮することを約束する。件の高校生たちには、すでに監視をつけている。さらに申し出があれば、医師、病院を手配する用意もある」</p>
<p>「ふうん、それなら」</p>
<p>カルマはただでは引き下がらなかった。</p>
<p>「もちろん返事は後でもいいよね」</p>
<hr>
<p>全員で話して決める、とカルマが言って、渚も杉野も同調した。部屋を出たら、ちょうど女子と入れ違いになった。背中でふすまが閉まる音がしてしばらくしてから杉野は尋ねた。どうして、と。カルマは答えた。——二人とも、どうせ協力するつもりだったでしょ。</p>
<p>それから今日の事件について、女子とは話ができていない。風呂上がりに談話室で会ったけれど、そこでは全員そろわなかったし、しばらくゲームで遊んでしまった。聞いて驚け、なんと神崎はゲーマーだった。いやマジで。腕前ときたら、うまいなどというものではない。彼女はいずれプロゲーマーになるのかもしれなかった。いやマジで。</p>
<p>——さてカルマは、渚と杉野の心配をよそに、思案する素振りを見せると、あっさり奥田の名前を出した。意外な答えである。と、杉野でなくとも考えたが、</p>
<p>「彼女、怪しげな薬とかクロロホルムとか作れそうだし。俺のいたずらの幅が広がるじゃん」</p>
<p>カルマは照れることもなく言ってのける。一転、大部屋の面々は顔を青くした。奥田といえば、この手の話題ではまず目立たない同級生だが、奥田といえば、毒殺なのだ。奥田はマジで毒を調合する。カルマはいろいろ問題児である。絶対にくっつけてはならない二人だ。</p>
<p>そんなこんなでランキングは終了、秘密を約束し合ったところに、殺せんせーが現れて、マッハで結果をメモって消えた。男子は駆け出して武器を抜いた。殺せ殺せ、今夜こそ殺す。大合唱のうちになぜか女子とかち合って、挟み撃ちにできてしまう。</p>
<p>なんだかんだ始まった暗殺が終わる頃、杉野たちはなんだかんだ班で集まっていた。二人ばかり足りなかったが、せっかくだからと明日の話をすることになる。足りない二人のことは手分けをして探したらすぐに見つかった。杉野と奥田が二人で見つけた。たまたまのぞいた空き部屋に二人で立って話していた。</p>
<p>何を話していたのだろう。二人の表情は読み取れない。</p>
<p>「あっちで明日の計画を見直そうぜって、話してて」</p>
<p>「邪魔しちゃいましたか」</p>
<p>それぞれ振り返った二人は、</p>
<p>「いや、べつに」</p>
<p>「ちょうど、そっちに行くところだったから」</p>
<p>それぞれ答えて、先にカルマが部屋を出て、すたすた杉野を通り過ぎる。</p>
<p>「あっ、部屋どこか知らないだろ!」</p>
<p>杉野は慌てて追いかけた。カルマは歩みを緩めないから、杉野が慌てて追いついた。カルマは部屋の前に着いてから口を開いた。</p>
<p>「で、部屋がどこだって?」</p>
<p>「ここだよ!」</p>
<p>国家機密については結局、協力する方向で話がまとまった。女子は女子ですでに答えを出していた。だから消灯前の残り時間を、明日の計画に費やせた。</p>
<p>見直しの結果、再び神崎の案が最終候補に。場所の探し方がうまいと感心していたら、カルマが「マップ選択も得意なんだ?」と声をかけた。神崎は満更でもなさそうで、後で調べてみたところゲーム由来の言い回しだった。杉野の修学旅行二日目は、俺も本格的なゲームをやろう、などと決意したあたりで終了する。</p>
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第15話「旅行の時間」から第19話「好奇心の時間」まで
杉野友人、五月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2022-11-11T19:00:00+09:00
<h1>茅野カエデ、四月</h1>
<p>茅野カエデの、まだ新鮮な通学路に、すらりと伸びた後ろ姿が現れた。はたして、いつからそこにいたのか。気づいたときには彼女も茅野も本校舎を過ぎていた。道を誤ったわけではない。茅野のクラスの教室だけは、道の先、さらに山の上、旧校舎——特別校舎——に存在する。椚ヶ丘中学校特別強化クラス三年E組。それが彼女の所属である。</p>
<p>この中学校では三年生だけが五つのクラスに分けられる。今年も違わず、そうだった。四月。茅野がE組に来て早十数日。クラス仲は、おおむね良好。顔と名前は、すべて覚えた。つまり旧校舎の利用者を茅野はすべて記憶している。だから、その背中が疑わしかった。指定のブレザーのかわりの白色のカーディガン、靴下のかわりの白色のタイツ。そしてクラスの女子とも二、三を争う高身長。</p>
<p>彼女は茅野の知っているクラスメイトではありえない。</p>
<p>そう結論を導いたときには、あちらの見知らぬ女子生徒は山道に足をかけていた。茅野は、とうとう声をかけた。</p>
<p>「あなた、もしかしてE組に用事?」</p>
<p>陳腐な問いかけだった。旧校舎は事実として三年E組だけに利用される。本校舎の人間には旧校舎を訪ねる動機が起こりえない。もしE組に用事ができたら、E組が本校舎を訪れるのだ。椚ヶ丘中学校の設計だ。E組の道具が必要になれば、E組がそれを運ぶのだ。生徒手帳にも、そう書かれている。旧校舎訪問は禁じられてはいないけれども、一キロの山道を上りたい人間がどこにいるというのだろう。</p>
<p>だから奇特な生徒だなと失礼にも感心した部分が三分の一。もう三分の一は、簡単な用事なら手伝ってやろうという親切心。これが、そのときの彼女の正直な気持ちだった。そのとき、見知らぬ彼女が振り返るまでの。</p>
<hr>
<p>立ち止まった後ろ姿に駆け寄った。まもなく相手が振り返って、顔を見上げて、はっとした。</p>
<hr>
<p>想像よりはるかに均整の取れた容姿をしていた。目測と違わぬ背の高い生徒だった。そして、やはり茅野は知らなかった。知らない生徒だった。その人物を知らなかった。茅野は彼女を知らなかった。茅野は<em>きっと彼女を暴かない</em>。だから彼女も<em>きっと茅野を暴かない</em>。刹那、視線が交差する。期待よりはるかに怜悧な眼差しをしていた。</p>
<p>黙してしばらく、相手が先に口を開いた。茅野が答えるより速く、そして袖口を見せつけた。<em>無害な</em>ナイフが隠されていた。私もE組の生徒だよと、彼女は口でも名乗ってくれた。だが何より明白な回答だった。だから茅野も鞄を開けた。同じナイフを、しまっていた。そして茅野カエデを名乗って、すぐに彼女の横に並んだ。</p>
<p>茅野さんと彼女に呼ばれた。</p>
<p>「大変だったね」</p>
<p>茅野は笑って肯定した。茅野カエデは客観的に見て、たしかに大変な思いをした。せっかく椚ヶ丘の生徒になったのに素行不良と断じられてしまった。あるいは、いざ登校してみたら、今度はクラス担任が月を爆破したと知らされた。次の三月には地球をも爆破するという<em>怪物</em>を急遽、殺さなければならないのだ。まさか学校が、このようなことになっているとは。なんて笑い話にもなりはしない。</p>
<p>「でも殺せんせー、教えるのは上手だから。体育以外は、だけど、ちょうど今日から人間の先生が体育の担当になるの」</p>
<p>「烏間先生、だっけ」</p>
<p>隣の新たなクラスメイトは、思い出すように名前を当てた。言葉を探すようで、片手は丁寧にナイフをもてあそんでいる。</p>
<p>「そっちは今まで——ただ休んでたってわけでもなさそうだけど」</p>
<p>尋ねると、彼女も笑って肯定した。</p>
<p>「自宅謹慎だったの」</p>
<p>——ひと目、表情を見て悟った。彼女は彼女を演じている。そして同時に悟られた。茅野は茅野を演じている。</p>
<p>彼女を旧校舎から遠ざけたかった。それは、三分の一くらいは、E組の生徒としての義務感から出た思いだった。殺せんせーのことは、暗殺教室のことは、国家機密なのだから。茅野の正直な気持ちだった。そのとき、見知らぬ彼女が振り返るまでの。</p>
<p>茅野には、きっと<em>それ</em>をかなえる力があった。</p>
<p>「ペナルティってE組落ち以外もあるんだね」</p>
<p>「E組の生徒は、E組に落とせないから」</p>
<p>「でも」</p>
<p>「よっぽどのことがあれば、一、二年でも謹慎処分にはなるんだよ」</p>
<p>彼女にも、きっと「それ」をかなえる力があった。</p>
<p>「今の二、三年は、みんな知ってる。よっぽどの暴力沙汰だったから」</p>
<p>だから互いに何も知らないことにした。彼女は彼女を演じている。茅野は茅野を演じている。</p>
https://tetraminion.org/ff/killing-mutant/main/n-2/n-1.html
第4話「基礎の時間」頃
茅野カエデ、四月 – アウトサイド – キリングミュータント – 二次創作
2021-10-29T19:00:01+09:00