秋
「まさか」
何事もなかったバスケ部の練習の帰り道、一年生一同は誰一人として信じなかった。まるごとなんて食べにくいだけで、そのうえ、つまり、まるごと漬けたということだ。通常の工程では二日も漬ければ十二分でさえあるが、はたしてまるごと漬けるとなると、何日かけて味を浸透させればよいのやら。
ところが食べにくいと言えば、
「でも食べられました」
味が浸透しないと言えば、
「時間をかけたそうですよ」
さらに片手で空気をつかんでみせて、かじってみせて。
一同は幻視する。片手でつかめる大きさの黄色の皮の柑橘類。まるごとレモンのはちみつ漬けだ。
というと、蜂蜜に漬けたレモンである。すぐ食べられて、疲れもとれる。バスケの合間におすすめの一品。誠凛高校バスケ部定番の差し入れ。カントクや水戸部、そして花宮がよく持ってくるけれど、ここにいる全員が味も食べ方も知っており、つくって持参したこともある。レモンと蜂蜜を用意して、切ったレモンを容器に詰めて——。
「どうして切らなかったんだ?」
当然の疑問。何個目だっけ。
黒子は答えた。
「そのほうが漢らしいから——と言っていました」
「誰が!?」
「誰って、さて誰でしょう」
一同は再び幻視した。今日も花宮が持ってきてくれた差し入れのタッパー。最初に花宮にもやがかかる。誰でもない指先が蓋を開ける。タッパーになみなみ注がれた蜂蜜が、もがれたままのレモンを沈めようとしている。輪切りのレモンが思い出せなくなる。そんなことってある? 四人は黒子の顔を見た。黒子の表情はいつもどおりで、何を考えているかも読めやしない。
「はい、これでおしまいです」
その言葉にも脈絡がないように感じられた。
「ひどいですよ。マルバツクイズ。最初に始めたのは降旗くんです」
「そうだっけ」
「次が火神くん」
「あー、そうだった」
かも。と、降旗光樹は頭をかいた。往生際が悪いとまでは、黒子は追及しなかった。
たしかに降旗が最初だった。ちょっと唐突に感じられるくらいの「そういえば!」を切り出して、何も考えていなかったことを実感させるくらい間をとって、やっと話した内容がこちら。主将の部室ロッカーはジオラマになっているらしい。
夏休みに花宮に聞かされた。たまたま二人で帰った日、たぶん先輩が気を利かせてくれた。それとも日頃の仕返しか。花宮が自分のことを語らない分といえばそうだが、他の二年生が勝手に花宮のことを話すから。もっぱら小金井の所業だが、小金井以外がまったく話さないわけではない。そのときは、たまたま主将のロッカーの話になったのだ。話の流れは覚えている。元々、部室ロッカーの話をしていた。
とにかく主将はロッカーをジオラマにしたらしい。「ロッカーを?」と聞けば「底をそのまま地面にしてる」と返ってきた。目撃したことがないと疑えば、鍵を開けてから一年やカントクが来るまでに進めているのだと。「それ時間なくないですか」「だから最近は昼休みにやってんだ」
終盤そこはかとなくヤバそうだったから、降旗はそこまでは話さなかった。そのことがよくなかったのか、現実的でないと考えられたのか、一年生四名には信じてもらえなかった。正直ほっとしている部分もある。話してしまった後になって、話してよかったのか思い出せなくなったせいだ。夏休みの話なんて、もう月単位の時間の向こうなんだから、仕方のないことだけれど。
それに続いた火神も問題だった。そこはかとなく疑われた降旗が黙りこくったら、火神が思いついたような顔をして「花宮先輩は——犬が嫌い」「ダウト」
火神はめいっぱい詰められた。犬が嫌いなのはおまえだろって。
たしかに火神は苦手だった。犬にかまれたことがある。あれがめっぽう怖かった。時間がたっても忘れられない。子犬だろうとかわいく見えない。体格差など関係ないのだ。理屈は問題にならないのだ。時の流れはいくらかの耐性も与えてくれたが。たとえば遠目に犬が映っても、泣いてわめきはしないということだ。そして速やかに道を変更するなどの対処法も身につけた。それで支障なく生きてこられたのだ。今年の夏休みの途中までは。
「そういえば明日は俺が二号の当番だった」
「ぜってー一緒に帰らねえ」
「ほらな」
火神は誰にも信じてもらえず、その弁明の最中にもまた一人が「じゃあこれはどっちだ」と話の真偽を問いにいく。伊月家はダジャレ一家である、マルかバツか。完全にクイズの流れだった。ちなみに一同はかなり悩んだ。伊月という先輩はバスケにおいて冷静な司令塔だが、実もクソもなく筋金入りのダジャレ好きなのだ。残念というか部での受けはよろしくないが、家族間では好評らしい。——可能性としては十分にありえた。
そして四人目が「花宮先輩は霊感がある」で絶妙に周囲をぎょっとさせ、しかし同時に一段落ついたような錯覚も与えたところに、黒子がぬっと顔を上げたのだ。直前の話題が話題だったので、一同はもっとぎょっとした。理解していても忘れてしまう、幻の六人目の希薄な存在感である。言っちゃ悪いが幽霊のようで、心臓によくない気さえした。実際、声も出せずに硬直してしまったやつらがいる。
べつに彼らのためにその手の話が避けられたわけではなかったけれど。だから怖い話が続いたことは、彼らにとっての不幸である。花宮先輩は除霊ができる、いや伊月先輩のダジャレで悪霊が逃げていく、誠凛にはすでに七不思議がある、トイレの太郎くん、生物室の人体模型、図書室の幽霊、体育館の幽霊、グラウンドの幽霊、屋上の幽霊、売店の幽霊。苦手な者を怖がらせたり、チームメイトを元気づけたり、黒子が釈然としない気持ちになったり。
その日はそんな帰り道だった。
四人と道が分かれてから、黒子はまっすぐ帰路をたどった。のに、気づいたら前を見知った後ろ姿が歩いていた。いるはずがない、わけではないが、多少驚くには値する。
「花宮先輩」
「よう黒子」
「僕たちより後だと思ってました」
「たしかに後から学校を出たが、おまえらがちんたら歩いてたんだろ」
黒子は駆け寄って横に並び、先輩の姿をじっと見た。立ち止まってくれた先輩は、黒子が並ぶと歩き始める。見たところ息は整っていた。しかし走った様子もみられた。練習帰りに走るなんて、黒子の体力には厳しいが、花宮の身体能力なら可能だろう。目撃したこともある。そして走れば、黒子より先んじることも不可能ではない。黒子に気づかせずに先回りする道も、この地点ならまだ複数ある。黒子はよく知っている。帰り道が一緒だから。でもどうして。
「犬に追われた」
尋ねなかったのに先輩は答えた。
「聞いていたんですね」
黒子もすぐに正解した。「どっちだと思う?」と意地悪宮先輩は質問で返したが、いったい何のクイズだろう。正解の選択肢はやはり目に見えている。
僕はバツだと思います。
黒子は歩いた。先輩も歩いた。口を閉じて、一言も発さず、黙りこくって前進した。ただ歩いた。帰り道が一緒になるといつもこうだ。ながら歩きの気配もない。実は居心地は悪くない。悪くない空気が流れている。かといって、よい空気は流れない。居心地よくもなりはしない。慣れたのかもしれない。慣れることなどないかもしれない。確かなことは、黒子には一つしかわからない。
「では、僕はここで」
黒子の曲がり角に差しかかるまで、二人は沈黙を貫いた。いつもと同じ帰り道だった。お疲れさまでした。別れを告げる黒子の前で、足を止めた先輩が軽く手を上げる。
「おー、お疲れ。車には気をつけろ」
「——先輩は犬にもお気をつけて」
「そーだな、お互い、また明日」
「また明日」