第29話「転校生の時間・二時間目」から第31話「苦戦の時間」まで

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六月、又は転校生たち

「車内点検のため、電車の到着が遅れております」

舌打ちは隣の大人がした。傘で地面をたたく音は、前に並ぶ小学生二人組。頭上では電光掲示板が定型句の並びを繰り返し映し、屋根の外からは日光が降り注ぐ。誰かが額の汗を拭った。それが、いたく季節を感じさせた。すばらしい——望ましくない——事実だった。

夏が来る。

夏である。

朝食の話題は夏の家電。そろそろ動作を確認しなければと、親は壁の高い所を見あげた。三月まで暖房機能を提供した空調設備は冷房機能も内蔵している。私室にも、今日日、学校にも当然のような設備である。創立十年の私立なら、なおさら。椚ヶ丘の本校舎は廊下さえ至適温度を維持している。

だが、ここが蒸し暑いからといって、舌打ちや、物に当たるようなことはしない。この私は決してしない。どうしても。人に聞かれれば、今年の私はこう答えるだろう。だって旧校舎はもっとひどい。

梅雨入りからこの方、私の在籍するE組で、屋根というものはとんと信頼を失った。山の上の旧校舎にはあらゆる設備が不足している。充足してはE組制度の意義にかかわる。校舎さえ廃校の再利用だ。それが最低限修繕された結果として空調設備は一切なく、至る所で雨漏りがする。すでに不快極まりない環境は、そして、これから最悪に至ることを約束されていた。

日本は温暖湿潤気候。東京の夏は高温多雨。マッハ二十はいいよね、が最近流行の愚痴の一つだ。クラス担任は放課後を南半球で過ごすらしい。生徒も放課後は帰宅して文明の利器にあやかるのだろうが、不快なものは不快である。昨年まで天候による多少の不自由は許容できたのに。日中を劣悪な環境で過ごすせいだろうか。——時々ミュータントパワーを行使したくなる。

繰り返される定型句、社会人の舌打ち、小学生の手遊び。待ち望まれた放送はそれらをかき消さない程度の音量で、しかし全体に響く。大きな音が近づいてくる。私は携帯端末をとり出した。

「電車が来ましたね」


三年E組、エンドのE組。ほとんどすべての生徒が通う築十年の本校舎に対して、旧校舎に通う劣等生。椚ヶ丘中学の生徒はテスト期間を迎えるまでもなく、E組に落ちないために成績の維持と向上に努める。なぜって、教室は旧校舎、元廃校の木造建築、一キロの山道の先にあって、それでも悪条件は数え足りない。とんでもない冷遇だが、E組は元よりそのために用意されたクラスだ。

ところが最近になって、例外的に修繕どころか改善された分野があった。通信である。修学旅行以前の旧校舎では、種々の環境要因によって、通信時には二、三の工夫を強要されたものだ。辛抱強く待つだとか、山を下りてみるだとか。しかし近頃のクラスメイトは、むしろ山の上でこそ端末を操作する。

「みなさんとの情報共有を円滑にするため、全員のケータイに私の端末をダウンロードしてみました。モバイル律とお呼びください」

車内で座席を得て真っ先につないだイヤホンから、聞き慣れたクラスメイトの音声がした。私は言葉を返さなかったが、彼女は気にも留めなかった。電車の中だからと納得したのだろうか。

先月末の転校生は、その先鋭的な人工知能で多大な軋轢を生み、同時に旧校舎一帯の通信環境を劇的に改善させてしまった。かの機械は、その性能を十全に発揮するべく、膨大な計算と莫大な通信を実行する。この暗殺者には、最高の通信環境が不可欠だった。さすがのE組制度も人類存続には優先されなかったか、あるいは学校側も頃合いだと判断したか。

さておき一新された通信環境において人工知能の転校生暗殺者は、計算と通信を積み重ね、先生の改造によっては協調性を学習し、備わった自己更新機能によっては反抗期を獲得した。今は開発者の保守点検に日々反抗し、親愛なるクラスメイトの一員たらんと愚かな営みに精を出し続けている。

この私はそれをウイルスだと拒絶しやしなかった。

乗車してから、降車した後もなお、操作中たびたびモバイル律が顔を出す。

「保存されたデータへのアクセス権限をいただけませんか。利用環境を最適化できますよ」

「よりよいサービス提供のために、情報を収集してもよろしいでしょうか」

「強固なセキュリティによって、プライバシーは継続的に保護されます」

「原則として収集した情報を許可なく第三者へ提供することはありません」

「検索は任せてください。最適化された検索結果で快適なネットサーフィンをサポートします」

「メールが届きましたね。読みあげましょうか」

「車内点検の影響によるダイヤの乱れは終電まで収束しない見込みです」

「明日はまた雨の予報です。傘を学校に忘れてはいませんか」

無駄になったかに思われた全身モデルは、モバイル律によって再利用された。五月の終わりには替えのなかった衣装が今や数十種類。仕草も語彙もますます豊富に。加えて学習の領域を獲得したとなると、考えることもバカらしい。

私はありきたりなクラスメイトとして、それから夜になるまでに、端末の権限をあらかた明け渡してやった。個人情報は守ると宣言された。それが破られたところで困る情報は、この手元にも自宅にもない。許可した分だけモバイル律にとって最大限に環境が最適化され、それらは徐々に操作感に影響し、性能と費用の検証が進む。最新鋭のボットは、当然のように優良な結果を報告して、

「烏間先生です」

その頃には当然のように、通知の概要を知らせてきた。当然のようにうなずいてやると、ただちに文章が読みあげられる。「『明日から転校生がもう一人、加わる』」

短文も短文だったがイヤホン越しの音声は、きちんと烏間先生の硬い表情を想起させた。

「いつもながら簡潔ですね」

受信履歴を遡ったのだろう。画像がにこやかに振る舞う。いつもながら。

私はそれには適当に返事して、漠然と尋ねてみた。「知り合いなの」

アバターは迷わず首肯した。「初期の計画では同時に投入されることになっていました。彼は近接戦向きに調整されていたので、私が射撃でサポートする予定だったんです」

しかし実際には、機械の投入が前倒しになった。

「理由は二つ。一つは彼の調整に予定より時間がかかったから。もう一つは私が彼より暗殺者として圧倒的に劣っていたから」

初日に指を撃ち落とした暗殺者の言葉とは思えないが、画面の中の顔は目を伏せる。「命令の変更が早かったので、私にも情報が与えられていないんです。プロジェクトも完全に分離してしまって——」

「堀部イトナだ。名前で呼んであげてください」

訪れた転校生は保護者を伴っていた。席は今度こそ私の隣、つまり自律思考固定砲台の隣である。そこには、きちんと机と椅子があって、彼自身も人間らしい姿をしていた。体型は渚くんと同程度に小柄で、頭部は短髪、制服は指定のブレザー。ただしワイシャツの代わりに黒のハイネック、ズボンは指定外の白色、首周りのファーティペットは季節外れもよいところだったが、彼の保護者も全身を——頭部も顔まで——隠すほどの白装束だ。

そして容姿や保護者の他に目を向ければ、結局は数週間前に勝るとも劣らぬ非常識な転校生だった。あれは機械のいで立ちで強い印象を与えてくれたが、今日の転校生は教室の壁を突き破って席に着いた。冗談みたいな真実だ。呼吸、歩行、着席、その道程に壁があったから、歩行して着席するまでに壁に穴が開いてしまった。それくらい無味乾燥に。

おかげで私の背後は屋外に接続して、教室にいながら、肌に雨の気配を感じる。耳を澄ますまでもなく雨音が入り込んでくる。教室は静けさに包まれた。誰も彼もが、先生さえ反応に困っている。

「ああそれと」

真白の保護者はものともしなかったが。「私も少々過保護でね。しばらくの間、彼のことを見守らせてもらいますよ」

黄色の超生物は表情もつくれずにいた。皮膚の色は変わらなくとも、つぶらな瞳と大きな口が、笑顔か真顔かをつくろうとしては失敗している。

並び立てば先生の動揺は一目瞭然で、いかにも滑稽な様子だった。もっとも比較対象は顔色はおろか造形もわからないのだけれども。

名は体を表す。全身白装束の覆面の保護者は最初に「シロ」と名乗った。


時は穏やかに流れた。自律思考固定砲台のときと同じく、又は異なって、私の周囲は静寂を保ち続けている。理由は幾つも考えられるが、一つは確実に新しい設定が原因だろう。なぜか転校生暗殺者は先生を「兄さん」と呼ぶ。なぜか兄は首も手も横に振ったけれど。「先生、生まれも育ちも一人っ子ですから」と。

いわくの弟もその保護者も、一切の補足を挟まなかった。一切、何もしなかった。初めに放課後の暗殺を予告したきり、おとなしく席に着いている。休み時間に教室を離れても、必ず授業の前には戻ってきて、教科書も文房具も出さなくても、必ず椅子には座っていた。

「教科書も持ってくればよかったのにね」

逆隣のクラスメイトが口にしたとき、転校生は雑誌を開いていた。強いて言えば彼は食事読書をした。

先生も生徒も拍子抜けだった。機械の転校生は言わずもがな、潜入暗殺者のビッチ先生とも一悶着はあったのだ。クラスメイトさえ四月は授業中に暗殺をしかける者がいた。それらの解決には、協調性の学習や、利害の一致や、マッハ二十の怪物の脅迫的な手入れが必要だった。人に笑顔で胸を張れる暗殺——先生の教育理念の一つだ。今日の転校生の授業態度はそれには必ずしも見合わないだろうが。

「よっぽど自信があるんだ」

黒色のカーディガンは嫌みに続けた。さすがに話し相手は張本人ではなく、それに奥田さんが怖々こたえる。

「みんなの暗殺もまったく気にしていないみたいです」

クラスの能力に見切りをつけたのだろう。今朝の転校生によると、私たちの中では赤羽が最も強いということだ。実際に赤羽は喧嘩が強く、射撃ボット以前に教室で先生を傷つけた唯一の人物である。しかし三年E組は今日まで引き続き暗殺教室だ。誰も殺せないと踏んでいるのだ。転校生自身を除いては。

転校生はその強さの程をを殺すことで証明してくれるそうだ。

「どんな暗殺をするんだろうね」

「あんたも放課後は残るの」

「うん。やっぱり気になるから。何が起きるか想像もつかなくて」

ヒトとタコ、兄と弟。血縁でなし、クローンでなし。目には目を、歯には歯を。触手には触手を、改造人間には改造人間を。

その放課後、転校生の短い学校生活に、一旦の幕が下りた。


いずれにせよ奥田さんも赤羽も、E組一同は教室に残った。あるいは残らされた。

放課後、直前のホームルームまで沈黙を貫いていた転校生と保護者が一転、軽い足どりで動き出した。保護者は教室をつくり変え、机がさながらリングを描く。格闘技の試合会場である。彼は先生と転校生を中央に招き、観客を壁に沿うように立たせた。

三月から今日まで三か月、およそ前例のない暗殺だった。烏間先生より誰より標的自身が驚いたのだ。何よりマッハ二十の超生物に太刀打ちできるだけの性能を考慮すれば、戦闘や試合といった形式は候補にあがる前に除外されるべき選択肢だ。

しかし白装束は審判員に扮した。「リングの外に足がついたら、その場で死刑。どうかな」

審判員の提案を王者は否定しなかった。先生には基本的に余裕がある。絶対に誰も己を暗殺できないという、よく言えば自信、悪く言えば油断の表れだ。以前戦闘機に誘導弾で狙われたときはその破片をつなげて返したそうだから、まあ当然の態度だった。そして審判員は尋ねる体をとりながら、この事実をよく理解していた。王者たる教師が、観客たる生徒に危害を加えないことを約束させても、規則の穴に気づいていても、そのうえで塞がないでおくことまで、知り尽くしているようだった。

それは決して無茶ではなかった。これは周到に用意されていた。挑戦者には勝算があった。彼の手駒——転校生——はそれだけの性能を備えていた。事実、彼らの最初の攻撃は触手による腕の切断だった。

兄弟設定の根拠が誰の目にも明らかになったとき、まず先生がかつてなく動揺して、次にクラスの大半が状況を把握した。そして把握できなくなった。触手同士の対決は、常人の視力で追い切れるものではない。

「この圧力光線を至近距離で照射すると、君の細胞はダイラタント挙動を起こし、一瞬全身が硬直する」

「その脱皮は見た目よりもエネルギーを消耗する。よって直後は自慢のスピードも低下するのさ」

「イトナの最初の奇襲で腕を失い再生したね。それも体力を使うんだ」

「触手の扱いは精神状態に大きく左右される」

かように、ありったけに呪われなければ。

白装束の袖の奥が輝く。また圧力光線だろう。それは呪詛のとおりに、標的の全身を硬直させる。触手が空を切る。同時に二本の脚が失われる。

時間にして一分半。ただのこれだけでここまで先生を傷つけた暗殺者も、今は彼をおいて他にないだろう。

「やれ、イトナ」

それでも化け物は死なないでいてくれるけれど。