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# 七月、又はプール開き

## 一

梅雨が明けた。途端、鮮烈な日差しに襲われる。時々の晴れ間とは比較するべくもない。夏である。夏が来た。それでも暑さが本格化する前に夏服に切り換わったけれど、それも結局その場しのぎにすぎないものだ。風を冷房のように感じられた時期もあったが、じき熱風に変わってしまった。やはりミュータントパワーを使おうか。ハァ。

言わずもがな、私には六度の死の記憶がある。これはアルファコンプレックス市民として正常にメモテックが機能したと考えるべきだろう。

アルファコンプレックス市民にはバックアップが存在する。クローン、そして記憶のバックアップだ。死んでも活動を*再開*できるよう、クローンは常に最新の状態に保たれる。メモテックにより、市民の記憶はクラウドに保存されている。*よって私のこの記憶についても疑問を挟む余地はない*。かつて私も*五体*のクローンと共に出生したのだから。

それで——私に様々な機能が欠けていることはともかくとして——何はともあれ——最悪の事態を——想定しておくべきなのだ。たとえここがアルファコンプレックスでなかったとしても——私はミュータントパワーを行使できる。なら他にも存在する可能性を想定して生活するべきで、やはり無闇に発動するべきではない。

ミュータントパワーを検知できるミュータントが他に存在する可能性は、決して捨てられるものではない。ハァ。

夏の旧校舎はこのような自己暗示を必要とするまでに劣悪である。なにせ、とうとうプール開きの日が訪れてしまった。

もっとも隣の席のクラスメイトには、他に関心を向ける対象があるようだが。

「鷹岡が辞めたんだってね」

その朝、教室に入って来るなり、彼は白々しくも尋ねてきた。昨晩、烏間先生から一斉送信で連絡された内容である。しかし私はそうは言わずに答えてやった。

「最初の授業でクビになったよ」

「早っや!」

というと、昨日、一昨日、ただの二日間のできごとである。鷹岡明なる体育教師がやってきた。烏間先生の後任だった彼は当然、防衛省の職員である。

E組の生徒は、体育の授業の時間に、かわりに暗殺の訓練を受けている。体育教師とはその教師もとい教官で、烏間先生だった。素人を相手にうまく指導をしてくれて、授業の評判は問題がないどころか上々といったところ。そこに鷹岡が派遣された理由は、ひとえに烏間を本来のより重要な仕事に専念させるためだった。

*鷹岡先生*の寿命は授業時間になおして一時間もなかったけれど。*ちょっとした*トラブルが起きたおかげだ。この男はなんと暴力教師だった!

——なんて、私こそ白々しいか。

夜になるまで知ることもなかった隣のクラスメイトは、昨日は久しぶりに欠席していた。新しい教官のすばらしい人格とそれによる訓練模様を、前日から肌で感じてしまって熱でも出したのに違いない。

さておき経緯をかいつまんで説明すると、赤羽は目を見張って、僅か斜めへ頭を動かす。本当にどれも初耳だったようだ。たしかに一昨日の放課後は、体育教師の人事に関して簡潔に明かされたのみだったが。

「誰にも聞いてなかったんだ」

疑問が口をついて出る。彼は別の方向を気にしながらうなずいた。

「どうせ教室に来ればわかるじゃん」

「律にも?」

彼はまた肯定する。が、今度はこちらに視線をくれて、おかしそうに笑った。

「どうしたの」

「なんでも。怒らないでよ——まあ、怒らないだろうけど」

「そうだね?」

「今日は何読んでるの」

「何って」

私は表紙を見せる。

「SF、ミステリ——」

「——そうだけど」

「俺も映画はわりとチェックするよ」

「渚くんとよく話してるよね」

「まあね」

そう返事をする頃には退屈に切り換わっていたが。いったい何の話だろう。ミュータントパワーを使えば造作もなくわかっただろうけれど、もちろんやすやす使うわけにはいかない。

「渚くん、どうだった?」

話題が一つ前に戻る。

「これぞ暗殺って感じだったよ」

——鷹岡は暴力教師だった。

烏間先生とまるで異なる過重の準備運動に加え、度重なる暴力。しかしそれなりの建前が用意されており、烏間先生もあの担任も迂闊に手を出すことができない。けれども、忍耐にも限界がある。教師か生徒か、決壊寸前といったところで、鷹岡は自身の進退を賭ける。つまり、その*対戦*には烏間先生の進退が懸かっていた。

烏間先生と鷹岡、二人の教育の正当性を証明する一対一の勝負である。相手はもちろん鷹岡だったが、あくまで*教育*の証明だということで、烏間先生はその成果——生徒——の供出を余儀なくされた。鷹岡は言った。ハンデがある。自分は素手だが、生徒にはナイフを使わせてやる。生徒は殺し屋であるからして、もちろん人間を殺せるナイフを使わせてやる。

「寸止めでも当たったことにしてやるよ」

暴力教師は笑って告げた。おそらく彼は訓練生の否定的反応に慣れている。いや、それを前提としている。生徒との勝負の提案も常套手段だったのだろう。アルファコンプレックス市民の中にも——処刑目的であってさえ——殺害に足る武器の所持を躊躇し、あまつさえ扱いきれない者はいた。一方の鷹岡は素手で凶器を相手取る訓練を施す立場の人間である。

しかし彼は負けた。そして渚くんが勝った。

烏間先生は熟慮のすえ、けれども長考はせず、半ば確信の元で渚くんを選んだ。赤羽には伝えなかったが。烏間先生もそこまでだとは疑ってもいなかっただろう。渚くんには暗殺の才能があるのだ。彼の鮮やかな手際より、むしろそれほどのことをした後でクラスの輪に溶け込めたことに、私も驚かされた。

それとも赤羽なら違和感の一つでも抱いていただろうか。だから友人関係を築いておいて、自然消滅的に遠ざかったのか。赤羽にもある種の才能が備わっている。今朝ずっと気にかけている方向には渚くんの席がある。

いずれにせよ私から教えるつもりはないけれど。せいぜい殺されかけたときに気づけばよい。

「あー、プールめんどくさ」

「しょうがないよ、E組だもん」

## 二

中学生の流行は、ちょうど夏の雨のように過ぎ去る。鷹岡の前は衣替え、衣替えの前は球技大会、球技大会の前は梅雨明け、梅雨明けの前は転校生暗殺者。まあ教員のトラブルは実は二度目で、衣替えは定期的で、球技大会は終わりがよかった、梅雨明けは行事の前ではちりに等しく、第二の転校生暗殺者の到来と*休学*は——中学生には遠い過去だ。

今はプール、プールまたプール。プール開きの憂鬱も、まったくなかったことになった。理由は割愛。重要な事実だけ述べると、裏山にE組のプールがある。温暖湿潤気候の夏の午後は、プール開きによって、誰からも等しく待たれる時間となった。例外を除いては。

「俺がこいつを水の中にたたき落としてやっからよ!!」

たとえば、この寺坂竜馬。殺す、殺せなかった、次こそ殺す。そうした物騒な言葉も日常茶飯事のこの教室で、ただ今、水殺を提案したクラスメイトだ。舞台は当然プールである。そして当然、反発が起きた。また様々な理由によるものだが、問題の一つは誘い文句か。

「てめーらも全員手伝え」

寺坂くんは誰の暗殺にも協力したことがない。断言できよう。今となってはクラスで一番、人工知能よりも協調性がない。暗殺だけではない。訓練においても、行事においても、授業においても。

「どうやって先生を落とすんでしょう?」

昼休み、寺坂くんの去った教室で、奥田さんが疑問を呈した。全クラスメイトの代弁といっても差しつかえないだろう最大の謎だ。日頃の行いはこの際さておくとしても、協力を要請するわりに説明が少ない。たたき落とすの一点張りでは協力のしようがない。

舞台がプールなら、たたき落とすこと自体は妥当な暗殺手法だろう。プール開きによって担任の弱点が判明した。水である。彼は泳げない。触手の体は水を含むとほとんど動けなくなるのだ。だからといっても溺死はしないが、これまでに判明した中では最大の弱点だった。

「もったいぶることないのにね。失敗したらもう使えないんだし」

こちらの赤羽の苦言もまたそのとおり。最高速度マッハ二十の賞金首は、その速度だけで生き延びているわけではない。彼は経験した暗殺を必ず回避する。同じ暗殺は二度と通用しない。驚異的な学習能力だ。

敵を欺くにはまず味方からと言うが、水中に落ちただけでは担任は死なない。水中に落とせたところで、無策では彼を殺せない。策を講じても、やはり生徒の実力では彼を捉えられない。そもそも、たたき落としたくらいでは、彼は水中には落ちない。先生に水が*かかる*方法ならある、けれども。まあ、生徒全員くらいをプールに誘えば。

続く疑問は、それを寺坂くんが計画できるか、ということだ。寺坂くんといえば一年の頃からの乱暴者、嫌われ者。そのうえで事前に転級通知を出すまでもなく、成績によりE組落ちを確実視されていた劣等生。私たちの学年でE組落ちを回避したい理由の一つは、寺坂竜馬と同じクラスになりたくないから、だっただろう。

行動力はあるが、想像力に欠けている。寺坂くんだけが自律思考固定砲台転入二日目に筐体をテープで縛ったけれど、それは他者には選択しがたい暴挙だったからだ。あれが人類存亡を懸けたプロジェクトの成果物であることを考慮できない寺坂くんだからこその。実際にメンテナンス後に警告を受けている。一番の問題は担任の改良だったとはいえ。

いっそ骨折り損で終わればいい。

私の思うに、担任に水がかかる時とは、先生が生徒を助ける時だ。

---

非難囂囂の昼休み、まさか標的が一方的に寺坂くんの行動に感動し、乗り気になった。E組生徒は半ば強制され、今、放課後のプールに水着で立っている。

標的と首謀者が、アカデミックドレスと夏服で、プールサイドに立ち、向かい合った。

「ピストル一丁では先生を一歩すら動かせませんよ」

担任は顔に緑の横縞を浮かべて笑う。E組の生徒にはよく知られている表情だ。大抵の暗殺は彼にとって取るに足らない内容であるからして、——この状況をナメてかかっているということだ。

もちろん寺坂くんも挑発されているとわかりきっているはずだが、短絡的な寺坂くんらしからぬ余裕を保っている。あれから何も聞かされることのなかった私たちが、それでも協力する以上はと勝手に作戦を詰めたことを、もちろん彼は知らないだろうに。

どうか当たってくれるなよ、と。

それは、寺坂くんが担任に向けた凶器の行く末などではない。

「覚悟はできたか、モンスター」

「もちろん、できてます」

プールで先生が生徒を助けるとき、私がどういう状況に陥っているか。

ところで裏山のプールは、担任が沢をせき止めて造ったものである。仮にそれが決壊したとき、たまった水は勢いよく流れ出すに違いない。仮にそこに人間がいたとき、人々はやがて岩場に打ち付けられるだろう。

寺坂くんに授けられた引き金は、どん、とただ表すにも生易しい衝撃を呼んだ。ざぶりと、次第にごうごうと、水が揺れ、体を押し流していく。横で奥田さんが悲鳴を上げた。ばたばたと手を動かしている。彼女たちがわからずとも、もちろん寺坂くんが知らずとも、そして*首謀者*にその気がなかったとしても、この先には生命の危機が待ち受けている。

クソ、顔を見てやりたい。赤羽のように逃げればよかった。ミュータントパワーを使おうか。いや、もはや私はこのまま流されて、担任の力で難を逃れた存在になるしかない。それが普通のE組の生徒だ。どうせ私も奥田さんも、他のクラスメイトも助かる。

せいぜい自己暗示でもかけて、奥田さんを見習って、顔を青くして声を上げ、慌てるにも焦って、ぞっとするにもじっとできず。景色がどんどん流れていく。声をかけて安心させるには、ありきたりな生徒では力不足だ。奥田さんが手を動かせなくなった。一方、周囲のクラスメイトが徐々に触手に巻き取られていく。

まもなく、心臓が冷たくなる前に、目の前で奥田さんが絡めとられて、私はその次だった。

先生の触手は随分と頼りなく、膨れ上がっていた。私の体が浮き上がったとき、またたっぷりと水を吸っただろう。すぐに私を、優しく地面に落としたが、先生は最低限の注意を払い、弱点にかかるために戻っていく。まだ多くの生徒が流されている。

「これって」

近くで流されていた奥田さんは、助けられてもそばにいた。

「爆弾だろうけど」

と私は答えて「どうやって」と付け足しておく。

それが頭上からの声に遮られた。

「大丈夫?」

*この場にいなかった*クラスメイトのものだ。水着でないどころか、水滴の一つも付けていない。しかし、どうやら遠くない所にはいたらしい。

横で奥田さんがうなずいていたから、私も彼女にならって首肯する。実際に先生の自己犠牲のおかげで、かすり傷さえないわけだし。このような状況で、やはり彼は生徒の心配に多くの性能を割いている。後に何が待っているかを、もはや予期できていない道理もないのに。

赤羽は息をついて、プールだった所を指した。

「あそこ」

一目で合点のいく光景。

「えっ、イトナくん!?」

シロである。

やはり顔を見てやりたい。内心でいくら望んでも、相変わらずの全身白装束。梅雨時の転校生の過保護な暗殺者は、距離を取りつつ見晴らしのよい高所に一人たたずんでいる。彼の下には、触手で切り結ぶ先生と子供。

寺坂には無理でも、シロには計画できただろう。彼にはそれだけの手駒がいる。堀部イトナなら、動きが鈍った標的を、ただの単騎で制圧できる。そういう改造人間を用意できるシロのことだ、爆弾の用意など造作もあるまい。

「寺坂くんは利用されてたんだ」

わかりきったことを言っておけば、

「バカだよね」

と返ってきた。

先生の劣勢は誰の目にも明らかだった。生徒全員の救出に加え、触手の改造人間との戦闘。先生は水びたし、暗殺者は生徒、ごく近距離にも救助の完了しなかった生徒たち。この担任教師は契約により生徒を加害することができない。そうでなくとも彼は生徒たちに攻撃が当たらないよう気を配る。だが対戦相手は違う。

滅多に触手を振り回せない標的に対し、堀部イトナは存分に触手を振るった。前回、転校初日より動きがよくなったように見える。触手の数が減り、その分、一撃が鋭くなったのではないか。少ない触手に意識を集中させたのかもしれない。——ともあれ効果は抜群だ。先生は順調に追い込まれている。

「あんたなら、どうする」

赤羽が尋ねてきた。私は答えてやった。

「できるなら、あの二人の注意を引くけど」

返事はなかった。無言で、背を向けた。あまつさえ立ち去った。

奥田さんがおろおろして、赤羽と私とを見る。

私の口からは、あっさり冷静な声が出た。

「何か考えがあるみたいだね」

これから赤羽を追うことを考えれば、結局、自己暗示は必要だったけれど。確認に過ぎなかったことも、わかっていた。

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「してやられたな」

---

二度目の暗殺者はつぶやいた。プールだった水場の上から、暗殺の結果を忌々しく見下して。

「ここは引こう。——触手の制御細胞は感情に大きく左右される危険な代物。この子らを皆殺しにでもしようものなら反物質臓がどう暴走するかわからん」

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