第38話「訓練の時間」から第42話「迷いの時間」まで

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片岡メグ、七月

ナイフがやっと烏間に当たって、岡野ひなたと手を合わせた。やったね、と得点を記録しつつ反省会。次の目標がいくらか立つと、模擬暗殺も終盤に差し掛かっていた。半袖の体育着が一人、二人、烏間に立ち向かい、いなされたり弾かれたり。

「私たちは順番待ちだけどさ、烏間先生、ぶっ続けなんだよね」

「私たちのほうが息荒いよね」

やがて堅牢な表情が手短に終了を告げた。あいさつの後、クラスメイトが遊びに誘っていた。時々こたえてくれるのだ。忙しい人だから断られることも多いけれど。

「誘いはうれしいが、この後は防衛省からの連絡待ちでな」

今日も後者であるらしい。

背中が遠ざかっていく。

「疲れてないのかな」

岡野のつぶやきに、はははと乾いた音が漏れた。

「私らじゃまだ真似できないってことだけは確か」

最後の授業だったからって、片岡は時間を気にせず歩き出す。だがその足もすぐに止まることになった。二人より先にいたクラスメイトが軒並み立ち止まったのだ。いったい何事だろうかと、二人もつられて視線を追う。と、校舎の方から見知らぬ姿が一つ。ジャージにポロシャツ、スラックス。大荷物を抱えて烏間を通り過ぎ、どうやらこのグラウンドを目指しているようだった。

皆、動くに動けなくなった。烏間はこちらを振り返ったが何も言わず。なぜかこちら側にいた殺せんせーも特に無言だ。幸いにして来訪者は歩幅が大きく、片岡たちが混乱する前に輪に到達して、一気に荷物を下ろした。ダンボール一箱、両腕に提げていた多数の袋。持参者を見上げると、それよりも少し高い所に顔があって、にっこり笑みを浮かべていた。

「俺の名前は鷹岡明! 今日から烏間を補佐して働く! よろしくな、E組のみんな」

片岡は首をそらすことをやめ、隣の友人を見下ろした。すぐに戸惑いの表情と顔が合ったけれど、二人とも口は開かない。仮に言葉を交わしたとして、体格か荷物の話になっていただろう。それよりはクラス委員として、教師陣の反応や、あるいはもう一人のクラス委員を探して。しかしクラスメイトも動き始めていた。

「なんだ、ケーキとか飲みものだ」

生徒は一斉に鷹岡明を囲んだ。片岡も磯貝悠馬と視線だけ交わして流れに従う。まもなく岡野が指を差した。有名ブランドのロゴである。岡野がしゃがみ込む傍ら、片岡は再び磯貝を探す。彼はちょうど鷹岡の元にいた。そして二、三の口をきくと、片岡を見てうなずき、クラスメイトの輪に戻った。差し入れであるとの言質がとれたらしい。鷹岡も一緒に座り込んで手を伸ばす。

「おまえらと早く仲よくなりたいんだ。それには、みんなで囲んで飯食うのが一番だろ」

その日はみんなで差し入れをいただき、鷹岡と一緒にグラウンドで遊んだ。彼は烏間の同僚で、急な話だが、明日から体育の授業を担当するそうだ。

「烏間の負担を減らすための分業さ。あいつには事務作業に専念してもらう」

とのこと。

片岡は後に、非常な落胆の声を聞いた。烏間は生徒の一部から特別な好意を寄せられているのだ。高学歴・高身長・高収入——はともかく、誰と言わずとも比較にならないほどの常識人で、非常に頼り甲斐があり、顔も立ち居振る舞いも有り体に言って恰好がよい。肝心の授業も普通に好評だ。その手の生徒たちにとっても決して休めない時間らしく、特に模擬暗殺は見逃せないとか。

片岡も落胆しなかったと言えばうそになる。烏間は確かに生徒との間に線を引いているだろう。だが、それは立場を考えれば当然のことで、その中で彼は生徒それぞれに真摯に向き合ってくれていた。とも思う。それに、やはり片岡も彼の訓練を支持している。一方で、変化を期待する気持ちも少なからず存在する。鷹岡は烏間とはまるで異なる性格の人物のようだ。

「あの鷹岡先生って根っからフレンドリーじゃん。案外ずっと楽しい訓練かもよ」

——極端な話、そういうことだが。

にはならないだろうけどね」

どこかの誰かの行間を読んで、岡野は辛辣に吐き捨てた。片岡はまあねと同調しておいて、

「けど内容は気になるな。うちの先生の中だと——ほら、殺せんせーの授業とかさ」

「分身横跳び——あやとりを添えて——?」

「ふふっ」

片岡は思わず笑った。だって、それだけは絶対に嫌だ。

まあ鷹岡は烏間の同僚つまり軍人、ヒトであるはずなので、マッハ二十も分身も不可能だろう。と、片岡はその点は安心して翌朝を迎えた。

教室の話題はやはり新しい体育。夜をまたいで多少は整理がついたのか、声高に不満を叫ぶ者はいない。ただ久しぶりにカルマが教室に来なかった。殺せんせーによると病欠らしい。せっかく今日から新しい体育が始まるのに、と誰かがささやく。だからかな、と片岡は思った。カルマは鷹岡のノリを嫌っていそうだ。もしかすると本当に病気であるのかもしれないが、この点に関してカルマには多くの前科がある。

あとは寺坂竜馬も来なかった。こちらもやはりサボりだろう。昨日も早々に場を抜けていた。カルマではないが、彼も鷹岡のノリが受け付けなかったのではないか。寺坂は授業にも暗殺にも非協力的で、先月の球技大会においても不参加の姿勢を貫いた。片岡は、共感は難しいが、察しはついている。彼はそもそもE組の現状——前向きな空気が、居心地を悪くしているのだ。

どうにかできないものか、磯貝とはクラス委員同士よく話すが、解決の糸口はつかめていない。もちろん今日もどうすることもできないから、このことはひとまず置いておくとする。E組には他に先月初日に休学を決め込んだ転校生暗殺者もいるわけで。訓練への不参加ということなら、自律思考固定砲台も当然そうなる。

「よーし、みんな集まったな。では今日から新しい体育を始めよう」

幸いにして鷹岡は数名の不在について、気を悪くした様子は見せなかった。グラウンドの外れで昨日と同じに大きく口を開き、

「ちょっと厳しくなると思うが、終わったら、またうまいモン食わしてやるからな」

片岡は岡野と顔を合わせた。やはり楽にはならないらしい。だが、続いた文句がよかったのか、不満を唱える者はいなかった。冗談は飛んだけれど。それに鷹岡もおどけて答えて、生徒たちの笑いを誘う。さらにかけ声を決めようと、どこかで聞いたようなネタを持ち出してきた。

「うわ。パクりだし古いぞ、それ」

「やかましい! パクりじゃなくてオマージュだ!」

何はともあれ楽しい授業にはなりそうだ。

がやがや言い合って場が温まり、さて、と鷹岡が声を張った。切り換え時だと生徒も察して静かになる。鷹岡は満足げに背を向け、かばんから紙束を取り出した。何かと思えば時間割だった。彼は烏間とは異なる計画を立てているようだ。時間割を変更するほどとなると、片岡には想像もつかないが。前から現物が回ってくるので、ひとまず受け取り、後ろに回す。

これまで使われていたものとは異なる形式だったけれど、見方は容易に把握できた。題字の下に、月曜日から土曜日までの表があって、一見して訓練の時間が、——その過半数を占めている。片岡ははたと顔を上げたが、そこには鷹岡の笑顔が待っているだけで、すぐに表に向き直る。しかし改めて見たところで「訓練」の二文字があまりに多い。手違いだろうかと隣の友人へ目を向けたのに、彼女はすでに片岡の時間割をのぞき込んでいた。

「うそ、でしょ」

つぶやく声が聞こえてきた。岡野の口は閉じたままだ。彼女の両手が「椚ヶ丘中学校三年E組新時間割」を持ち上げる。まったく同じ表題の、まったく同じ列と行。月曜日から土曜日まで。一時間目から十時間目まで。片岡は今だけは岡野の顔を見ないようにして、横目で見比べた。駄目押しとばかりの、小さく添えられた開始時間と終了時間が、朝の九時から夜の九時まで。

誰かがそれを尋ねる前に、しかしあたかも今しがた気づいたかのように、

「このぐらいは当然さ」

鷹岡は告げた。

「理事長にも話して承諾してもらった。『地球の危機ならしょうがない』と言ってたぜ」

両手の中で、くしゃりと潰れる音がする。

「この時間割カリキュラムについてこれれば、おまえらの能力は飛躍的に上がる」

何か、何かを言わなければ。急な使命感が片岡を襲う。だが、その正体が言葉にならず、片岡はただ岡野の手をつかんだ。岡野が体を硬直させる。浮きかけた体が、ぎこちなく片岡の隣で沈む。

「待ってくれよ。無理だぜ、こんなの!」

ああ。止めなければならなかったのだ。

片岡の隣で浮きかけていた体が、さっと声の主を探す。片岡も、もちろん鷹岡も彼に目をつけた。彼は構わず抗議を続ける。片岡はアッとも言えずに見守るしかなくて、だのに瞬きのうちに、彼の腹に、鷹岡の膝が——。

——入れて、鷹岡は放り出した。つかまれていた前原陽斗が、地面に捨てられ、腹を押さえる。磯貝が駆け寄った。鷹岡は目もくれなかった。だが唇は弧を描き、

「『できない』じゃない。『やる』んだよ」

大柄な大人だ。最初に抱いた印象が、今になって片岡の脳裏にひらめいた。

今さら必要もなかったのに、鷹岡は切り換えるように手をたたく。

「さあ、まずはスクワット百回かける三セットだ」

できない。片岡は反射的に口を開きかけるが、音にすることもできなかった。これまでの暗殺と訓練がどうという次元の話ではない、と。むしろ烏間の訓練を踏まえるなら、と。どうして進言できようか。鷹岡はわかっていて命じているのだ。

前方に前原がうずくまっている。苦痛にあえぐ声がする。

他は、皆は無事だろうか。やっと考えついたとき、片岡の横を足音が通り過ぎた。鷹岡はあっさり提案した。

「抜けたいやつは抜けてもいいぞ」

その声は、からりと晴れた空模様に似ていた。生徒の間を練り歩きながら、けど、と同じ口から音がする。そんなことはしたくないんだと、ずっと穏やかな色をさせて。足音が遠ざかっていく。片岡から一列、二列、三列。離れるほどに、胸中には一つの願いが浮かび上がる。いっそスクワットを始めてはくれないかと。前方で、前原がまだ起き上がらない。

時間が経過すればするほど状況が悪くなることに、片岡は気づいていた。鷹岡は全員に語りかけているようで、特に周囲の五、六人の反応をうかがっている。口を開くたび、足音がずれる。生徒に声を上げてもらうためだ。幸いまだ前原の見せしめが効いているが、それも時間の問題だろう。徐々に恐怖に整理をつけて、冷静になるばかりならよいけれど、——隣の友人はもう限界かもしれない。

岡野には直情的なきらいがある。間違いなく彼女の長所の一つだ。ただこの場では、それがよく作用するように思われないのだ。片岡とて現状をよしとはできないが、それを実行に移したところで、待っているものはわかりきっている。友人に傷ついてほしくない。いや誰にも。あるいは自分だけが傷つくならよいけれど、いつ連帯責任の四文字を出すとも知れない。

鷹岡の立てる音だけが響く中、彼は誰の期待にも反して立ち止まった。場違いなほどの親しみを込めて、背後から生徒たちの肩を抱く。その手がまもなく後頭部を捕らえ、彼は彼女に問いかけた。おまえはついてきてくれるよな、と。片岡も、岡野も、あらゆる生徒が見守った。彼女は——まるでうなずくように目を細めた。

「私は嫌です」

あたかも従順であるかのように。

「烏間先生の授業を希望します」

鋭い音が空気を裂く。奥田と神崎がすぐさま駆け寄った。鷹岡は片手を広げて、握って。

そして、ようやく待ち望んだ足音がする。

烏間が助けにきてくれた。ただ制止を願うだけで収束する事態ではなかったが、烏間は生徒を助けてくれた。生徒の中では渚が大いに活躍した。それから理事長まで出てきて——助けにきてくれたのかはともかく——鷹岡は解雇された。教官は烏間のままということで、

「財布は出すから食いたいものを街で言え」

生徒は臨時報酬をもらえることになった。この一時間を打ち消すように、駆け足で校舎に戻った。急いで着替えると、ホームルームもそこそこに、また外に出て山道を皆で下る。

中ほどで烏間が数名に囲まれている。ビッチ先生は片岡より後ろで男子を侍らせており、殺せんせーは最後尾よりも後ろで土下座しながら追いかけてくる。烏間は殺せんせーについて何も明言しなかったのだ。——また正面を見直すと、少し前を、磯貝と前原が歩いていた。

「メグどうしたの、誰か探してる?」

これは岡野。片岡の隣を歩いている。片岡がうなずくも、岡野は答えを待たずに片岡と同じ所を見た。片岡はそれを見届けて、視線をさらに斜め前へ。

体罰を受けたクラスメイトは、いずれも教師陣により無事を確認されている。現に一人は磯貝の隣でぴんぴんしており、もう一人も奥田や神崎とよどみなく歩いている。

「ちょっと行ってくる」

近づくと、真っ先に彼女が振り向いた。

「片岡さん」

どうしたのと、目の高さを調節する必要のない所で、クラスメイトが小首をかしげた。奥田や神崎、その奥で茅野も、同様に片岡をうかがっている。

皆元気そうだと、すぐに見てとれたが、念のため口で尋ねておく。わかっていたことだが、彼女は静かにうなずいた。

「このとおり。殺せんせーのお墨付きだよ。ありがとう」

両手は握り拳を作って、肘は曲げて。元気であることの主張のつもりだろうか。片岡は思わず笑みをこぼす。彼女が打たれた部位は腕でなく頰だ。そして顔を見たところで、その白い肌には傷の一つも見当たらない。いや、いずれにしろ問題は、——なんだか愛らしい挙動だったから、表情がつられてしまったのだ。片岡は改めて言葉にした。

「そっか。よかった」

「うん、かっこよかった」

いつのまにか岡野が隣にいた。岡野と片岡の前で、彼女が目を見開く。岡野は、ほら、と言うけれど、続く言葉は持ち合わせがないらしい。しかし彼女は拾い上げて、また目を細めた。

「奥田さんと神崎さんがいたから」

「えーっ、私は?」

「もちろん茅野さんも」

「おお」

隣から感嘆の声。岡野はそのまま片岡を見た。

「かっこいいじゃん」

「なんで私を見て言うの」

まもなく傾斜が緩やかになって、二人は切りよく彼女たちと別れた。磯貝たちと合流しようかと、片岡は隣の友人を見下ろす。すると岡野も片岡を見上げて、よかったね、と口にした。

「気にしてたでしょ」

ごまかすつもりもなかったから、片岡は素直に肯定した。別れたばかりのクラスメイトの元を、新たなクラスメイトが訪れている。——そうだ。片岡は気にかけていた。あのクラスメイトはクラスで異様に浮いていたから。

言うまでもなく昨冬のうわさが原因で、以前の真逆の評判も相まって、彼女はまるで腫れ物のように扱われてきた。初めて旧校舎に来た日から約一か月もの間、彼女は限られた人間以外と会話をしなかった。すなわちクラス委員の磯貝と片岡、三年目のクラスメイトだという渚、そして先入観のなかった茅野である。話してみたら以前の評判のとおりの人物だったのに、その悪いうわさの主役のカルマでさえクラスに馴染んだのに。

だが片岡自身、クラス委員でなければ話しかけなかったかもしれない。話してみたらわかったとは言ったが、一か月も同じ教室にいれば気づいたはずだ。きっと、あのうわさは、少なくとも彼女に関する部分は根も葉もない中傷だろうと。それでも彼女に話しかけられない理由は、要は、だからこそ得体が知れないのだ。彼女が否定をしないから。

彼女が言及しないから、うわさの真偽がわからない。少なくともカルマに関する部分が正しいだろうことも、もちろん影響しているだろう。そして、そのカルマが、これまた言及しなかった。何なら最初の一か月、そもそもうわさの二人が会話をしなかった。隣同士の席なのに。今でこそ珍しくない二人組は、修学旅行の班がきっかけで交流を持ったようだった。

これはクラス全体にも言えることだが、修学旅行は彼女の交友関係を広げたようで、特に隣の席のカルマ、前の席の奥田とは多く昼食も共にしている。先日の球技大会も悪くなかった。よく練習相手を務めた中村は、先ほど彼女の横に並んだところだ。

とまあ最近は改善の兆しが見えつつある。不謹慎なようだが、今日の事件でまた誰かが彼女を知ってくれたことを願っておく。

「声かけてくれたらいいのに。暗殺とか」

「誘ったら参加してくれるんだけどね」

その後、二人は磯貝と前原と合流して、街ではうんとおいしい思いをした。彼女はずっしりと重厚なチョコレートケーキを注文したようだ。殺せんせーが結局どうなったかは知らない。

次の日はカルマも寺坂も教室に来た。カルマはそこそこ周囲に声をかけ、まっすぐ席へ向かう。隣の席はすでに埋まっており、隣同士すぐに話し込んだ。いつもの旧校舎のいつもの朝のいつもの景色の一部である。