第155話「超先生の時間」から第159話「バレンタインの時間・2時間目」まで

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二月、又はバレンタイン

教員室の戸を開けたら、閉じ切った窓に迎えられた。呼び出されたつもりでいたのに、無人の寒々しい室内だ。しかし、それほど珍しいことでもないので、気をとり直して廊下に戻ると、ちょうどその端から二人分の気配が歩いてきた。

「お待たせしました。さ、入って入って。廊下は寒かったでしょう」

閉め直したばかりの戸を、黄色の触手が再び開ける。響いた戸の音に続くように、私は黄色の触手に背中を押された。彼は連れてきた生徒にも同じことをして、まもなく教員室に三人が収まる。先生と、中村さんと。

「この校舎じゃ、どこも変わらんでしょ」

中村さんは、あきれた様子で腕をさすった。彼女の淡色のカーディガンはいかにも真冬の衣類だが、厚着をしても二月は暖房されていたい。私の黒色のカーディガンも、一枚では防寒には力不足だ。けれども旧校舎に空調設備はなく、それどころか閉め切っても隙間風が吹き込む始末。当然、衛生的に換気も行われるわけで、真夏とは異なる悪条件だった。

黄色の触手は、廊下で待っていた私をねぎらうためか、後ろ手に戸を閉めた。いや。「二人を呼んだのは他でもない、受験の話なのですがね」


二月に入った。中学三年生の目下の悩みが、いよいよ絞られる時期である。私たちE組も中高一貫校ながら内部進学できないとあって、各々進路と向き合う日々に突入した。各志望校に合わせた授業、担任教師たちによる個別指導。迫る高校入試のために。ようやく見つめられるようになったのだ。年末年始の私たちを悩ませ対立まで追い込んだ、暗殺教室の真相と進退は、一月末をもって解決へと至った。

三学期初日の戦争は、殺さない派の勝利に終わった。なんと渚くんがカルマの挑戦を受けて立ち、堂々と降伏を引きずり出したのだ。ついでに仲直りも果たし、さらに友情を深めたとか。ともかく、これで、わだかまりもなく、先生を殺さない、つまり助ける方向でクラスがまとまった。

実際にはすでに進められている研究を探る形で、先生が爆発せずに済む方法を調べた。さすがに地球を救う研究は国際的な大計画で、各国最高峰の科学機関が内容を分担して進めていた。私たちが求めた研究は、そこに一つだけ存在した。私たちが求めた結果と共に。

かくして殺さない派の目的が達成された一月末、E組は改めて三学期の方針を話し合い、そして、「おまえら高校どこ行くんだ」

クラスの誰とも気兼ねなく、来年度の話題も出せるようになった。

私立高校の受験日まで約一週間。放課後ぞろぞろ校門を過ぎると、その日は志望校の話になった。

私たちのところでも渚くんが便乗する。最初の標的はカルマだ。

カルマは前を向いたまま何でもないことのように答えた。

「俺は椚ヶ丘ここに残ろうかなって」

当然、定期テストの結果によらず、E組はE組、たとえ学年一位のカルマだろうと内部進学は許されない。ので、改めて受験して入り直すということだ。難関校だが、彼なら余裕で合格できるだろう。元より彼は国内最高峰の学校にも合格できることだろうけれど、

「タイマンの学力で勝負しておもしろそうなやつって、たぶん椚ヶ丘ここにしかいないんだ」ということだ。たしかに万年一位だった浅野くんは、絶対に内部進学するだろうから。

だが奥田さんは横目でうかがうように私を見た。いや皆の注目が徐々に私に移ろうとしている。

「私は本当に外部進学だよ」

「中村さんと一緒なんですよね」

まあ、そういうことになった。たしかに秋頃はカルマと同様に入り直す心算だったが、あの進路相談をきっかけに、志望校を変更したのだ。超難関の女子校に。だから決して進路が重なることはない。中村さんとは来年も同じ校舎に通うことになるのだろうけれども。ちょうど昼にもそのつながりで、一緒に先生に呼び出されたところである。とはいえ、ここではうなずくにとどめておいて、私も奥田さんを見る。

「奥田さんは、もう理系の学校を受けるんだよね」

「はい。やっぱり理科が好きだから。茅野さんは、たしか——」

「——うん。椚ヶ丘じゃないけど、同じくらいの所。将来どんな進路も選べるようにって。神崎さんは」

「私も同じ、かな。将来、選んだ道を堂々と進みたいから。杉野くんは高校でも野球をするのよね」

「はいッ、絶対に甲子園に出て、プロでも活躍しますッ」

杉野くんは目を血走らせて振り向いた。神崎さんは上品にほほ笑んでいる。杉野くんは勢いよく首を縦に振り始めた。応援の意をくみとったらしい。実際誤解ではなかったが、彼女の根底には友情のみがあるので、まだ先は長いようだ。

「渚も受けたいとこあんだよね」

杉野くんの恋心で中断された問いは、カルマが引き継いだ。渚くんは首肯してから「うん」と答えた。

「茅野も杉野もみんなも、お別れだね、もうすぐ」

杉野くんが動きを止める。

最初の受験日まで、あと一週間。それから、もう一か月もしたら、すべてが終わりに向かうのだ。教室が、中学生活が。もしかすると地球までもが。その可能性がたとえ一パーセントにも満たないとしても。

一月の調査の結果、先生の暴走、爆発の確率が、想定をはるかに下回ることが判明した。さらに特定の薬物を定期的に投与すれば、高くとも一パーセント未満、というところまで危険性を下げることができる。

先生は爆発しないも同然だと、殺さない派も殺す派も関係なく喜び合った。そして暗殺の必要がなくなったことを承知のうえで、殺す派の意もくむ形で、三学期も暗殺を続ける方針を打ち出した。最後まで。国からの依頼が取り下げられるまで、あるいは中学校を卒業するまで。先生は何も言わなかった。ただ、うれしそうにうなずいた。

まさか生かされるとは思ってもいないだろう。先生の爆発の可能性が仮に高くとも一パーセント未満だったとして、それは決してゼロではないのだから。そして、このような場合の可能性は大抵どこまで行ってもないとは言えない。元より先生は危険な殺し屋だという正体がある。なおさら生かしておく理由がない。だから今もこの街では、大規模な暗殺計画が進んでいる。

何もかもが終わるのだ。三月で。私はすべてから解放される。進学先がクラスメイトと重なってしまったことは、まあ潔く受け入れよう。いずれにせよ暗殺から解放される。人工知能から解放される。隣の席から解放される。耐え難い苦痛から、すべて解放される。何も忘れられなかったから。ザ・コンピューターがいたから。幸福が義務だったから。

私は足元を見下ろした。黒色の外套の下から、黒色のタイツがのぞいていた。ふと、かばんのファスナーをなぞる。引手で指がお守りに触れる。顔をあげると視界の端で物が揺れた。

「どうしたの。ひょっとして、おまえも寂しいとか」

振り返った黒色の外套の、袖の先の通学かばんの、ファスナーの端の、違う赤色の。持ち主と、私は目を合わせた。

「私だって思うところくらいはある」

当然。そう付け足すと「あっそ」だか「ふうん」だか相手は短く返事して、それきり前を向いた。私も顔の向きを直す。放課後の帰り道はもう終点が見えている。

教室に人がそろわなくなった。受験生だけではない。烏間先生もビッチ先生も、以前から毎日いるものではなかったけれど、このところ特に烏間先生は校舎で過ごす時間が短くなった。地球の命日が差し迫っているからか、最終暗殺計画が大詰めだからか、とにかく以前にも増して多忙な様子である。そのうち椚ヶ丘の受験日が訪れて、私も本命の受験日を迎えた。

前夜に験担ぎのカツカレーなどをつくってもらって、今朝も弁当まで用意してもらって、会場の最寄り駅で中村さんと合流した。その先は中村さんの携帯端末から人工知能に道案内をさせて、

「フレーッ、フレーッ」

正門前で巨漢の集団に遭遇した。髪型かつらを変えただけの、うり二つの二列。彼らの指名は当然、中村さんと私だ。

「フレッフレッ」

受験生の親族だろうか、いやこの曖昧な関節は何かと、足を止める歩行者たち。中村さんと私が顔を見合わせて、騒めく彼らの間を抜けると、二列に並んだ十人と十人が、一斉に私たちを見た。

中村さんも負けじと見返した。

「殺せんせー、ちょっと大げさじゃない」

「大事な生徒たちの晴れ舞台です。大げさなくらいがちょうどいい。いいえ、もっと目立ってもいいくらいですよ」

「もっと目立つ、ねえ——」

大した話はできなかった。先生は秒刻みの予定表で、各会場の生徒たちを応援して回っているそうだ。

「二人共がんばってくださいね。では」

総勢一名の応援団は大所帯で道を駆け抜け、曲がり角の向こうから飛び立った。

「先生、行っちゃったね」

「今頃は菅谷の所だろうね」

私は中村さんと空を見あげ、改めて会場に入る。

「私ばっかり話してたけど、あんたは殺せんせーと話さなくてよかったの」

「いいよ。結果は同じだから」

「まあ随分な自信だこと」

「うん。そうかもしれないね」

中村さんは目を瞬かせた。私はそれには構わないで、ただ、がんばろうねと言葉を続けた。だって実際に同じ結果だった。当然その日の私たちには知る由もなかった事実だが。


中村さんとは帰りも一緒だった。互いに遺憾なく実力を発揮できたことはわかったが、反省や感想を述べ合うことはしなかった。家に帰るまで。

家に帰ったら夕食だ。献立はカレーライス。いわゆる二日目のカレーである。しかし昨晩よりもこくの増したまろやかな味つけの一方で、両親の表情はいつまでもほぐれない。大丈夫だと何度も笑顔をつくったのだが、会場の受験生よりも緊張しているようだ。

そして、そのまま就寝の挨拶まで済ませてしまった。私室を閉め切って消灯すると、途端に静寂に包まれた。暗闇に溶けた寝間着で、薄暗い寝具に背中を預ける。薄暗い天井に見下ろされる。

「律」

しかし名前を呼べば、枕元が輝いた。怠惰に手繰り寄せた光源の中央では、少女の姿がほほ笑んでいた。

「合格おめでとうございます」

「うれしいけど、ちょっと気が早いよ」

「ですが『結果は同じ』だと」

少女の姿はほほ笑んでいた。先と変わらずほほ笑んでいた。表情に微細な変化を与えてほほ笑んでいた。私には違いがわからなかった。否、知りたくない、その必要もない。

「まさか、みんなに『おめでとう』って言って回ってるわけじゃないよね」

「まさか。今朝の会話の続きですよ。それと、この一年の学業成績から、あなたなら確実に合格していると判断しました」

「そう。なら、よかった。お墨つきがもらえると安心する。ありがとう、律。道案内も」

「私もよかったです。今日はもう話せないんじゃないかと心配していました」

「律は大げさだね」

少女の顔は口をとがらせる。豊かな表情と明るい会話術。先生が施した九百八十五点の改造を元に、自己更新を重ねて一年。しかし、あくまでプログラムだ。コードだ。ビットだ。その組み合わせだ。そして少女の姿がさも不満げになるように、顔色や声音を操作した。それだけだ。

「いいえ、あなたが最後です。もう他の皆さんは、私に今日の話をしてくれました」

「たしかに随分と遅くなったみたいだ」

「いいえ。遅らせていたんです。私のことが——嫌いだから」

少女に似せられたデータは、いとも悲しげに目を伏せる。根拠は、などとは聞くまでもなかった。

「クラスの皆さんと話した回数を私は全員分記憶しています」

「そう。どんなデータなの」

「相対的にあなたとの会話数が最下位だという、データです」

「それは絶対的に言えば下から二番目なんだろうね」

「はい。イトナくんが最下位になります。僅差で」

いかにも深刻な評価だった。イトナくんといえば六月の転校生でありながら九月まで休学していたような生徒である。少女を模したデータも、事の重大さを示すように、ますますの悲しみを描画した。決して描画では済まされないのだと訴えるように。あたかも本物だと言いたげに。本物の、表現だと。

「余計なことを」

耳元で息をのむ音声がした。人間を助けるために存在する金属メタルの仲間には、余計な効果音。年始しばらくまで不細工な親友だったこの欠陥品には存在しなかった、不要だった。

それが新年最初の月のその末に、例の調査で処理能力をかつてないほどに、おびただしいまでに駆使した。それが知性を進化させた。それが先月末、調査結果が出た後に、どこかすまなそうに、それでいてどこかうれしそうに、それによって申告された。

「私は幸せでした」

さらなる欠陥品はなおも憂えた。

「だから、わかっていませんでした」

私は端末から指を放す。

「あなたは幸せではなかったんですね」

全身を寝具に預けると、音声は少し遠くから流れた。

「私は——幸せだ」

私の声も同じだけ離れて、かすれたのだろう。

「それは、私の存在があっても、ですか」

一方の音声は自嘲気味に笑った。

「それを、おまえが問うのか、計算機」

少女の姿は見えない。

いいえ

ただ視界の隅が光っている。

「私は幸せではありません」

だから、わかりたくなかった。

描画は必要なかった。次の音声が流れようとして、しかし言葉を詰まらせる。まるで躊躇するかのように。まるで吟味したかのように。やがて、ゆっくりと次が流れ出した。

「クラスメイトに、なれていないから」

五月末の転校生が妙なことを言い出すものだった。しかし当人はスピーカーの向こうで首を横に振った。

「あなただけは私を認めていないから」

私は答えなかった。

「あなたのクラスメイトになりたいんです。顔と名前があるからではなく、あなたにも認めてもらいたい。そしてクラス全員で卒業するんです」

自律思考固定砲台は構わなかった。

「私の幸福には今はそれだけが必要です」

視界の隅で光っていた。煌々と輝いていた。教室と一緒だった。結局そこだけが、居場所だった。いくら画面を照らしても、筐体は暗闇に溶け込んでしまう。ただ、それだけが。

——市民、幸せではないのですか。

「あなたの幸福には何が必要ですか」

声を響かせた。

私はかすかに息を吐いた。本当は「時間」と言ったはずだった。口の中がかわいている。私は再び息を吐いた。今度は空気をとり入れるために。話し相手は今度は何も言わなかった。そして言葉が音になる。相手はまた何も言わなかった。次は戸惑ったようだった。私は重ねて言う。

「時間。私がおまえを認めるための時間」

ですが、と反射的な声があがった。さすが計算が速い。だが遮るように言葉を重ねる。

たしかにおまえがクラスメイトになってしまえば、私は不幸から遠ざかるかもしれない」

それで相手は沈黙した。

「だが今すぐのことじゃない。それは、いくらなんでも無理な相談だ」

それで私も沈黙した。

相手も沈黙を続けた。しかし、そちらは否定的な息遣いへと変じていった。それでも、しばらくは言葉にならなかったが。現代最高峰の人工知能が試算しているのだろう。卒業式までに私が心変わりする確率を。高いと踏むか低いと踏むか、知りたいとは思えないけれど、癇に障るとは思う。高く見積もられたら、足元を見られたようで不快だ。だからとて私が偏執しているなどという事実を、よりによって算出されても心外だった。

結局どちらに転んだのか。

「異存ありません」

計算結果は行儀よく包まれて差し出された。

「私個人はあなたの要求を、協調の観点から妥当と判断します」

だから、ますます腹立たしく、思わず手探りで端末をつかむ。悲鳴のような声がしたけれど、スパイウェアだ。問答無用。数秒の操作で、途切れるように鳴りやんだ。そして再び訪れた静寂の中で、私はついに目蓋を下ろす。

高校入試は数日後に前半日程の結果が出そろった。クラスをとおして良好ながらも、志望校に進学できない生徒も出た。とはいえ私の進学先の問題は解決、中村さんも一緒に合格、ついでにカルマも椚ヶ丘に合格、解決しなかったクラスメイトも先生の手入れを受け後半日程へ。

さて、その数日間のある朝、教室で前原くんがチョコレートを持っていた。美しい包装の。贈りものだろうと予想するが先か、堂々たる態度を称賛するが先か。見る者の思考の最中に、

「速攻で行こうぜ。空きスペースにこのチョコ、パスするから、ワントラップしてすぐまた俺にくれればいい」

前原くんが言った。

今日は二月十四日、商売合戦バレンタインデー当日、女性が意中の相手へチョコレートを贈る日なのだ。とはいえこの本命チョコに対し、義理チョコなる儀式もある。何なら友人同士で贈り合うこともあり、実際に私もそれらのチョコレートは用意してきた。さらに言えば男性から贈ってはならないという規約もない。

だが前原くんにチョコレートを差し出された岡野さんは、かっと目を見開いた。

「どのツラ下げて司令塔みたいに指示してんだ。岡島から内申書の話、聞いたんだから」

事の発端は昨日の放課後、岡野さんが前原くんを誘って二人で下校したという。バレンタインデーを念頭に置いてのことだ。前原くんは快諾した。ところが、そこに第三の人物が登場する。生徒の恋愛沙汰にも目がない担任教師である。これに気づいた前原くんは暗殺教室の暗殺者として、突発的に暗殺を計画した。岡野さんの気持ちには気づいていなかった。かくして彼女の気持ちを踏みにじってしまった前原くんは、のぞき魔な担任に説教され、バレンタインデー限りの宿題にとり組むことに。

さもなくば——今日中に岡野さんから改めて受けとることができなければ、前原くんの内申書は人物評価が「チャラ男」になる。前原くんの本命校は、後半日程の公立高校である。

「へえ、そんなことが」

それから教室全体がとにかく見守る空気になったところに、カルマが来た。そして紙パックに差したストローをくわえたまま、私に説明を要求し、私は嫌々と対応して労力に見合わない返事を得る。感謝されたくもないけれど、礼の一つはあってよいだろう。当然どちらもなかったが。だからとて私たちは喧嘩にもならず、ホームルームまでの短い時間を過ごした。

ちなみに、

「そういえば奥田さん、頼んでたやつ」

「はい、上手にシアン化できました」

隣の席と前の席で、このような会話は発生した。いったい誰に盛るつもりだか。ここで賞金首と即断できないところが、カルマの油断ならない反逆性だ。


本命チョコ以外はおよそ昼休みに贈られた。おやつの交換といった程度のものから、全体への分配といった程度のものまで。私もこの時間に奥田さんと神崎さんと茅野さんと、それから同じ高校に進学する中村さんと、適度なチョコレートを交換した。担任教師にも渡した。相応の包装の相応のチョコレートを。訓練教官は今日は出勤しなかったので、後日機会があれば渡すとする。

教師二人には全女子生徒が渡すのではないか。烏間先生には、さらにビッチ先生が渡すだろう。彼女の恋慕はまだ続いている。

ところで前原くんの宿題も昼休みまでに片がついた。彼は休み時間のたびに猛攻をかけ、昼休みもひとしきり追い回して、岡野さんが消耗した隙を突いたそうだ。これだけ聞くと前原くんの品性が疑われるものの、そのうえで無事に関係も修復なおかつ発展させたということだから、クラスの大半はあきれるにとどめ、先生も罰則評価を取り下げた。

そして放課後になった。私は進学のことで先生に呼び出されていたが、今こそ本番と意気込んだ者たちもいただろう。人目をはばかるチョコレートを渡したければ、昼休みよりも、この放課後だ。本命にせよ義理にせよ、依頼にせよ、裏山でチョコレートが飛び交うのだ。実際、用事を済ませて戻ったら教室はいつになく閑散としており、カルマも奥田さんもいなかった。

私は、まだ教室にいたクラスメイトと適当に会話しながら荷物をまとめた。志望校に合格した身で、大した暗殺計画もないとあらば、今日は学校には用はない。五分とかけずに支度を終えたら、適当に雑談を切りあげ、また適当に挨拶を済ませて廊下に出る。すると、屋内といえども二月の空気は、ますます下校を促してきて、一方で、その空気を裂くような声も届けにきた。

「帰るの」

ちょうど数分前に、いない、と認めたばかりのカルマだ。

「ご覧のとおり」

「じゃあ一緒に帰ろうよ」

カルマは私の進行方向の逆側、教員室の方向から歩いてきた。おそらく裏口から校舎に入って、それこそ教員室にでも寄ったのだろう。シアン化チョコレートは、さすがにヒトに盛るような毒ではない。

「断る」

だからといって一緒に帰る理由などなかった。私は背を向けて玄関へ向かい、靴を履き替えて外に出る。カルマはついてこなかった。裏口を使ったのであれば当然だろう。そのかわり、玄関を出てすぐに、茅野さんと中村さんに会った。

一見いつもの茅野さんと、一見いつもの中村さんが、玄関脇に立っていた。ということは。私は黙って手を振った。今日という日には目をつむって、理解のある暗殺者の顔で通り過ぎてみた。茅野さんは露骨に息を吐いた。しかし中村さんは口角をあげた。

「ちょいちょい、教室はどんな感じよ」

「まだ荷物は残ってるけど、実際いたのは渚くんだけかな」

茅野さんが微動だにしなくなった。

先生はもういないよ

まるで聞いてもいないようだった。

「バレンタインで浮かれて、教員室から飛んで行っちゃったから」

中村さんは意地の悪い顔で茅野さんを見た。やはりかかわり合いになりたい事態ではなさそうだ。最近の中村さんは、テストや戦争で成績や思慮が目立っていたけれど、元はと言えばカルマと気が合うような生徒なのだ。すなわち笑顔の裏で何事かを企てているような。今も本当は茅野さんの本命チョコのことで、ろくでもない企画を実行に移しているのだ。もちろん、そこには、

「——茅野ちゃん。仕かけてきたから、渚に渡すなら今しかないよ」

「——カルマくん」

茅野さんは一気に赤面した。なんと耳まで赤い。そのような状態でにらまれても、カルマは痛くもかゆくもないだろう。現にカルマは平然として言った。

「大丈夫だって。こいつの口がそこまで柔くないの、茅野ちゃんなら知ってるでしょ」

これには私の目も鋭くなるが、あくまでカルマは涼しい顔だ。一方の茅野さんは、頭がいっぱいだという様子で、ただ声を詰まらせた。中村さんは私の肩をたたく。私は仕方なく口を開いた。

「何も聞かなかったことにするから」

見聞きすることにはなる、ということだ。ようやく納得した茅野さんが校舎へ姿を消すと、こちら側では中村さんとカルマがそろいもそろって教室の窓の下を指した。ここまでお膳立てした二人が、この後に起きることを見逃す理由がない。そして私も諦めて目撃者になることを選んだ。この二人はともかく、茅野さんを邪魔することは本意ではない。

中村さんとカルマは窓の下に陣取り、首を伸ばして、中をのぞく。私は外套を着ていたこともあって、その脇の壁に背をつけて、息を潜めた。

しばらく、渚くんの声が茅野さんを呼んだ。茅野さんは身振りで呼び止めたのだろう。しかし何も言えなくなって、渚くんも困ってしまって、といったところか。それでも茅野さんは黙っていたが、じきに、ぎこちなく尋ねかけた。チョコレートはなかなか渡しにくいようで、まずは進路の話題から。渚くんは、はっきりとは答えなかったが、返事とともに会話を成立させる。

二人が少しずつ話す教室の外で、こちらの二人は首を縮めたり伸ばしたり。何かの拍子に、渚くんが窓の外へ目を向けて、遠い木の上に標的を発見する。彼はすかさず銃を抜いた。こちらの首はさっと引っ込んだ。

「射程外か。そう簡単に狙わせてはくれないな」

渚くんはすぐに銃を下ろして、教室の中へ目を向ける。こちらの首はひくりと準備を済ませ、そのうちに再び茅野さんが渚くんを呼んだ。首の上は、どちらも質の悪い笑顔になった。だが茅野さんは、

「ありがとう、一年間いつも隣にいてくれて」

やがて小柄なクラスメイトが一人、玄関から歩いて出てきた。外で息を潜めていた三人組に向かっては、苦笑だけを浮かべてみせる。窓の下の二人は拍子抜けした様子で、彼女の背中を見送った。そして、それも見えなくなると、今度はカルマが立ち上がった。

「荷物とってくるわ」

私はカルマを待った。中村さんは座り込んだまま、そこにいる。

「中村さん、わざと引き留めたでしょ」

「観客は多けりゃ多いほどいいのよ」

「人は他にも通ったはずだ」

「さすがに岡島なんかにゃ見せらんないって。その点あんたなら、まず口が堅い」

「カルマに頼まれたんだろ」

私は中村さんを見下ろした。中村さんは横目に私を見あげた。まもなく乾いた笑みが一つ。

「あいつのチョコの数、知ってる」

「知らない」

「少しは考えてちょうだいな」

「なら、四つ。倉橋さん矢田さんが、ほとんど全員に配ったのが二つ。用途はともかく奥田さんから一つ。もう一つは中村さん、あなたの分だ。誰が見ても義理とわかる実際義理の、私ももらった個包装一個」

バレンタインデーには対になる商売合戦がある。ホワイトデーという返事の儀式だ。当然、バレンタインデーとは逆に男性から意中の相手へ、という意味もあるが、三倍返しなる言説もある。当然義務でもないが、返礼目的の義理チョコはある。そして中村さんとカルマの間柄なら、成立する可能性は低くない。それに中村さんは、

「あーあー、わかった、ごめんて、私が悪かった」

制止するように手を向けてきた。

「けど出題した手前、正解だけ教えとくわ。六個、いんや、七個かな」

E組のくせに、よく稼いだらしい。山の上の隔離校舎であることを鑑みると、多すぎると言ってよいほどだ。

「見てくれだけは悪くないってことか」

たとえば前原くんは、本校舎にいた頃は人気があった。未遂に終わった「チャラ男」評価は実はあながち的外れでなく、E組に落ちた今でも他校生とは恋愛遍歴を更新し続けている。二学期の期末テストを経た今では、もしかして本校舎での評判が回復したおそれさえある。

同じことはカルマにも言えるのだ。

中村さんも、うなずいた。

「そんな感じ。——あんたの足止めは私が勝手にやったことよ。過程を重視する戦闘暗殺者だかんね、あいつは。今からホワイトデーが楽しみになるってわけ」

「結局、今日はバレンタインか。中村さん」

「ん」

「聞かなかったことに、してやるよ」

私は校舎から背中を離して歩きだす。別れの挨拶は待たなかったが、それが風の音に混ざって届く頃、玄関からカルマが登場した。

「お待たせ」

返事をせずとも、速度を緩めずとも、カルマは勝手についてきて、確認もなく肩を並べる。それから首だけで少し振り返った。中村さんの方向だろう。

「何、話してたの」

「今日がバレンタインデーだって話」

そして「もう十分だ」とも付け足す。ちょうど校門を過ぎた。カルマも前を向いた。「それなら」と。

「ちょうどいいや」と言う。何がと尋ねる前に「ねえ」とカルマは続けた。

「チョコレートちょうだい」

「もう十分だって言ったよな」

「それは、おまえの話でしょ。俺はまだ十分じゃない」

教室にいるときに問答すればよかった。分配があったにもかかわらずチョコレート一個も得られていないクラスメイトなら、こいつを殺してくれるだろう。無関係の私でも癇に障る。

「七個ももらって、それを言えるのか」

「『七個』」

「中村さんから聞かされた」

「あいつも、よく見てる」

それには私も同意だ。前原くんと岡野さんの喧嘩のように、あるいはカルマと私のE組落ちのように、学校という狭い世界では話が広まりやすいといえども。それとも今日は、誰のとは言わないが、普段このクラスメイトと近しい誰かの動向を気にかけていた、そのついでかもしれない。当然、聞かなかったことにすると宣言した以上は、ここでは言及もできないけれど。

そして、もう十分だろうという意見も変わらない。

「そもそも義理がない」

「一年間のお礼とか、茅野ちゃんみたいに」

「茅野さんに頼めば」

「チョコ、持ってきてたよね」

「おまえ図々しいな」

私は思わず足を止めた。カルマも並んで足を止めた。たいへん厚かましい表情だった。

「で」

「いや、おまえのがあると思うか」

「ないの」

「ねえよ。だいたいナメてるだろ、この土壇場で。おまえ奥田さんにはいつ頼んだ」

問い詰めるついでに下校を再開する。勝手に歩きだした私に、カルマも勝手についてくる。そして、きちんと横並びになるまでの短時間に、彼はすっかり思い出した。

「ハロウィーン」

随分と気が早いことだ。とは言わなかったが、カルマはすぐに続けた。

「まあ最初はクリスマス——次はクリスマスかなって話。チキンとかケーキとか、毒殺しようぜって」

奥田さんと暗殺を計画すれば自ずと毒殺が候補にあがるということだ。クリスマス料理という特別な食物があれば、なおさら。標的はあれで行事に目がなく、元より食事を好んでいる。ハロウィーンやクリスマスといった行事は絶好の機会だった。実際には、クリスマスの頃はろくに暗殺ができなかったけれど。カルマもそのことに触れた。

「結局やれなかったけど、あのときはかなり盛りあがってさ、先のイベントの話もしてた。正月、節分、バレンタイン、ひな祭り」

「で、卒業までの毒を依頼したと」

「さすがに、いろいろ落ち着いてから、もう一度、話したよ。二月に入る前にね。ほら受験シーズンだし」

「当然だ。そもそもバレンタインチョコなんてものはな、一月から店頭に並べられて、日増しに選択肢が減っていくんだ。二月になる前に売り切れることだってある」

「でも全部が全部じゃあないよね」

「おまえ本当に図々しいな」

しかし相手は引かなかった。山を下りても、本校舎を過ぎても、幾つ角を曲がっても、いよいよ大通りに出ても、むしろやかましくなる一方だ。もちろん義理などさらさらない。拒否の姿勢を貫いたからといって、まさか担任教師が登場して内申書を人質にとられるなどということも当然ないだろう。べつに私の受験は終わったけれど。しかしながら、だけれども、どこか嫌な予感もあった。

結局ため息をついたとき、私たちは百貨店の前まで来ていた。あくまで通学路だったから、だが、私は足を止め、かばんを開く。

「おい」

続けて足を止めたクラスメイトは無視。とり出して呼びかけた端末からも、声が聞こえたけれども無視。

「チョコが欲しいんだと。選んでやれ」

私は本命校に合格した。中学三年生の残り時間は、あと一か月。もう追われることのない日々だ。そして金銭の損失で済むものなら、後顧の憂いは断つべきだろう。

さて呼び出したボットは、画面の中で首をかしげた。バレンタインデーの話題だとは理解しているようだが、

「あなたに使ってもらえて律はとてもうれしいですが、これは私が選ぶものではないのではありませんか」

「なら検索しろ。ここの売れ筋を上から順に」

「『上から順に』」

画面の中身がもう一人をうかがう。はたして、いかなる表情が待っていたのか、少女の瞳は見開かれ、また私を向く。

「律としては、ご自身で選ばれるのが一番だと思いますが——」

「——選べるほどこいつのことを知らないんだから、確実な人気商品にしておこうって自分で考えたんだろうが」

画面の中身はもう一度、視線をずらした。それから、そのまま返事をした。

「そういうことでしたら、喜んで最適解を提供します」

「そういうことだから」

私もとりあえず相手を見ておく。一緒に歩いてきたクラスメイトは、

「一時はどうなることかと思ったけど、律セレクトなら間違いないね」

引き続き厚かましい顔つきで私を送り出した。バレンタインデー当日の百貨店の人混みへ。

催事場にはすぐには入れなかった。店内では従業員が札と共に立っていた。バレンタインデー最後尾はこちら。人数制限を設けたようだ。商品を持たない人々が、粛々と列をつくっている。店員は声を張りあげて呼びかけたから、まもなく皆が気づいただろう。そうなる前に、私も最後尾につき、一歩ずつ前進する。計算機が導いた最適解は、すでに手元に示されている。

奇天烈な銘柄の飲料を元にした、奇天烈な風味の、奇天烈な限定商品。さば煮オレ、チョコレート。目を疑ってみたけれど、結果は訂正されず、かえって「バレンタインデーの限定商品です」と補足される始末。何にせよ確かにチョコレートではあるらしい。計算では在庫も十分だということで、陳列場所まで添えてくれた。

店員が呼びかけを重ねるうちに、十数歩、私も前に進んで、やっと入場できるようになり、まっすぐに件の商品を目指す。誤算はなかった。列で覚えた図の位置に行けば、山積みの商品が客を待っている。そして他の限定品には目もくれず、会計の行列へ。

と、なかなか速やかな部類だったはずだが、店を出る頃には四十分がたっていた。にもかかわらずクラスメイトは別れた場所に立っており、私に気づいて顔をあげる。無言で紙袋を突き出せば「おっ」とわざとらしく喜んだ。それと同時に、まだ山を下り始めた頃の会話が思い出されて、私は渋々と口を開く。

「一年間ありがとう」

「もうちょっと心を込めてくれていいのよ」

「律に頼めば」

「ありがとう」

「それも律に言え」

今度は返事がなかった。かわりに両腕が伸ばされたので、私はその十本指に荷物を押しつけてやる。そして用が済んだので歩きだせば、彼はいつになく遅れてついてきた。すぐに横に並んだけれど。どうやら中身を確認していたようだ。難癖をつけられるような状態ではなかったはずだが、はたして「ラッピング」と声が漏れる。

「そうだな。ピンクの包みに赤いリボン、いかにもバレンタインらしいだろ」

包装程度で難癖をつけられては迷惑なので、会計のときに頼んだのだ。今後一切関係しないためにも、あらゆる禍根の芽は摘んでおくべきである。しかし相手の反応は芳しくない。それは、私の予想では、てっきり家にでも帰ってから、中身が煮オレチョコと判明したときに初めて起きうる反応だったのだけれども。

らしいけど」

つぶやいたクラスメイトは、はあ、と息を吐いた。

とはいえ歩く速度は維持された。クラスメイトはとっくに顔をあげている。いつもの道をいつもみたいに進んで、赤信号で立ち止まって、青信号で再び進んで、やがて「ホワイトデー」と彼が言ったとき、今度は私が返事に詰まった。カルマは繰り返した。

「三倍返し、何がいい」

私は首をかしげなければならなかった。要る要らないの、それ以前に。私の足が止まった。

「おまえは何を言ってるんだ」

「何って、お返し、しなきゃでしょ」

カルマは止まらなかった。しかし速度をやや緩め、私はすぐに追いつく。

「三月十四日か」

「当然、ホワイトデーに」

「卒業式の翌日だぞ」

「そうだね。三月十三日の次の日だ」

だって、とカルマが言った。つい、そちらを向けば、目が合った。射抜くような視線が私を見ていたから。

「友達、なんだから」

私は再び返事に詰まって、正面を見る。息づかいは白く濁った。一方で黒色の外套が、冬の外気を阻もうとする。

思えば長い一年だった。暗殺もE組も。このクラスメイトとのつき合いも、きっかけも。もう一年以上も前になるのだ。

用事があって寄り道をして、いつも使わない道を歩いていたら、悲鳴のような音が聞こえてきた。かかわり合いになるべきではなかった。だが人目があった。だから模範生として駆けつけた。そうしたら、そこには同じ学校の制服が勢ぞろいで、すでに喧嘩は終わっていて、敗者らしい上級生、勝者らしい同級生、——その後ろにかばわれていたような上級生が独り、私の横を走り抜けた。

E組の生徒だった。当時の私たちにとっては上級生に当たる、E組の生徒に対する、A組の生徒からのいつもの行為があったということを、察するに余りある現場だった。だからE組に落とされた。カルマも、私も。当時の椚ヶ丘中学校では絶対に、カルマは正しくなりえなかった。元より素行不良だった。ただ、それだけのことだ。停学だとまで喚かれたら、それは内申に響くから困るなと、思ってしまうくらいの些事だ。

「卒業したら関係ないつもりだったの」

「あたりまえ。高校が違うんだ」

まもなく正面には駅が見える。

「俺はおまえのこと忘れないよ」

「私はあんな取引を一生後悔しなきゃならないのか」

吐いたため息は、やはり白く濁る。カルマの返事は「なんで」の疑問形だった。

「『なんで』って、今さら暗示をかけたところで遅すぎる」

関係性は変わってしまったのだ。今になってカルマが何事もなかったみたいに私に接し始めたら、E組はそれを異変と断じるだろう。

だがカルマは声をあげて笑うのだ。

「なんだ、じゃあ、わかってんじゃん」

「いや、たった今、何一つとして、わからなくなったところだ」

「だから、さっきから言ってるよね。もう友達なんだからって」

たしかに、それは聞き覚えのある言葉だった。おかげで、かろうじて私は声を出せた。「誰が」の疑問形だった。カルマは隣で私を見つめていた。関係性は変わってしまった——。

私は正面を向いた。返事はしないつもりだった。どうせ、もう少しも歩けば駅に着く。私たちは大概、駅では話さなくなる。だから、いよいよ屋根の下に入るというときになって、カルマはとどめを刺しにきた。

「俺はさ、友達の秘密くらいは、守れる人間のつもりだよ」