八月、又は特別夏期講習
一
毒を盛られた——かもしれない——グラスをどうにか落とさずに、あたかも観光客のごとくにテラスを見渡す。給仕はいない。ただ同じグラスを手にしたクラスメイトが、そして現在唯一の大人が、ただ楽しげに内容物を味わっている。
「おいしい」
横で奥田さんも口元を緩めた。ストローで甘酸っぱい液体をすいあげ、グラスにはもう半分も残されていない。「おいしいです」と奥田さんが繰り返す。それはそう、だったのだ。おいしいトロピカルジュースだったのだ。ただし毒入りのと、注釈がつくだけの。
船に揺られて六時間、東京の椚ヶ丘中学の三年E組は沖縄に来てごくごくと毒を飲み干した。今にして思えばサービスの飲料水などに口をつけるべき——ではなかった——だろう。アルファコンプレックスでザ・コンピューターは、すべての市民の安全と利益のために奉仕していた。安全と利益は幸福である。だから市民もまたザ・コンピューターに奉仕した。
だから私はその得体の知れた液体を奥田さんと同じだけ喉奥へ流し込む。同じ表情をつくって浮かべる。同じ言葉を口にする。「おいしいね」
クラスメイトははた目には普段と変わらない。弧を描く唇も、大事にグラスを支える両手も、慎ましく閉じられた脚も、同じ食卓を囲む全員が、同じテラスの全員が、生徒も、先生も。当然にここに不幸の影はない。反逆は存在しない。あるいは時間経過を考えれば、今は当然の景色かもしれない。今度の殺し屋も腕利きだろう。腕利きの、科学者だろう。
私はただ昼食のために品書きをとった。それから、祈った。もはや、そうするよりほかになかった。毒は盛られた。先生には盛られなかった。だからといっても生徒一同は飲み干した。今の私には最悪でない結果を望むこと、ただそれだけが許されていた。
「二人はもう決めたの」と茅野さん。
「私はこのジュースと、あとサラダかな」
「私はまだちょっと迷ってて。茅野さんと神崎さんは決まったんですか」
「ごはんはいいから、私パフェ頼もっかなあ。見て、このプリンパフェ」
「いいね、私もサラダはいいからパフェにしようかな。トロピカルパフェとか」
「二人は甘い物が好きよね」
神崎さんが口元に手を当てながらくすくすと笑った。「そういう神崎さんは」と茅野さんが身を乗り出す。当人も品目を教えてくれた。実に均整のとれた昼食だった。奥田さんが「なるほど」とつぶやいて、再び品書きへ視線が落ちる。
こうして昼食を選んだ二、三人が、たとえば計画が失敗した夜に、そろいもそろって毒に倒れたら。生徒の中でただ一人、私だけが平然と立つ結末を迎えたら。整合性がとれるだろうか。通用する反証があるだろうか。あるいは退路を確保するべきか。そうだろう、それは、そうだろう。ミュータントパワーが私を生かすのだ。そのときはミュータントパワーを行使せねばならない。
外を見たら青々とした世界が今は毒々しく目に映って、私も再び視線を落とす。
二
E組は期末テストでA組と賭けをした。突発的な対決だったが主要五教科の各点数を競ったのだ。結果は三対二でE組の勝利。勝者は事前の取り決めに従い、敗者に一つの命令を下した。これがこの夏まさに今現在の沖縄旅行につながっている。
特別夏期講習といった。当校の誇る優等生たちが、さらなる向上のために、たとえ夏休みだろうといや夏休みだからこそ環境を変えて将来のために励む合宿。つまり三年A組に選ばれたら、夏に離島旅行二泊三日が楽しめると。それも学校予算の内から。
とはいえ今年はこうしてE組に与えられた。そしてE組はこの権利をもう一つの賭けで得た権利と組み合わせることにした。海に囲まれた南の島で、水を弱点とする賞金首を満を持して暗殺する。
ふと口の中で味を感じた。一年に一度、広がる空気。海のにおいだ。海水浴は夏の恒例行事だった。二歳頃から両親と、小学校高学年頃からは友人と、一昨年も、昨年も。今年は沖縄旅行の予定で、このとおり私はE組に落ちてしまったが、このとおり私だけが南国の海に来た。歩きながら顔だけ横に向けてみる。水着も砂浜も見えないものの、世界はいまだ毒々しい。
「海のにおいだ」
ふと反対側で声がした。振り向いたら目が合ったから、どうも対象は私らしい。潮臭い磯臭いと訴えたいのか。それならば当然にわかりきったことだろうが。私たちはつい十分前までダイビング——海に潜っていたのである。体はシャワーで流したけれど、満足するには宿泊施設に戻らなければならない。このことも当然にわかりきったことだろうが。
赤羽はその明白な事柄について笑みさえ浮かべるものであった。横では奥田さんもくすくすと笑みを漏らすのだから、私もくすくすとこたえなければならない。
「赤羽くんもでしょ」
「俺はクリック音とか使えないから」
赤羽は数百メートル先を見据えた。私たちの班の目的地だ。私は首を横に振った。
「私もイルカじゃないよ」
「あ、そう」
赤羽はとぼけた。
「奥田さんは」と矛先を向けられて、奥田さんが慌てて否定する。だが彼女は体の前で両手を合わせると、指を交差させ、「イルカ、クジラ——は言語を持つんじゃないかって研究ですよね」
話題は実に科学的に発展した。情報伝達能力、知性の可能性、体重に占める脳の割合。赤羽が何気なく会話を進め、奥田さんは当然に、この私も便乗した。
この先に建つ小屋からはイルカを観察できる船が出ている。合宿予算で利用できる施設で、標的を島から引き離す機会につながるため、私たちの班にあてがわれた。結局のところ、これも今日の暗殺の一環なのだ。
修学旅行と同様に班をつくり、修学旅行と同様に班別に行動し、修学旅行と同様に班ごとに担任教師と遊ぶ。修学旅行と違うところは、職業暗殺者との共同計画ではないところ、班別の暗殺計画でもないところ。
今日はクラス全員で暗殺する。
E組生徒は今夜の超生物暗殺を念頭に、一日の計画を立てた。一つの班が標的の注意を引きつけ、残りの班が準備をする。その繰り返しを、どの班も滞りなく済ませたと報告してきて、瑕疵は一つもあがらない。標的も監督者も殺し屋も、何を注意することもない。私の横では奥田さんと赤羽が心身とも健全に談笑している。
——時々、奥田さんと席が逆だったときのことを考える。
私は頭をゆるゆると振った。顔をあげると目的地までいつしか数十メートル。ちょうど渚くんが声をかけた。班員がそれぞれ準備して、やがて足並みをそろえて待つこと少し、先生が飛んでくる。開襟シャツに麦わら帽子。すっかり南国を満喫した様子だ。妙な日焼けまでつくっている。
「えっと、殺せんせー、その日焼けは」
さっそく班長の渚くんが先陣を切った。担任の先生はぬるりと笑った。
「グライダーで遊んだらすっかり焼けてしまいました」
三
船旅、昼食、班別行動、そして予約の晩餐会。極めて順調に計画が進む中、先生の日焼けも進行した。船上で食事をとる頃には妙を越して全身が黒く焦げていたほどだ。とはいえ大きく想定を外れた部分はなく、時間には余裕さえあり、既知の奥の手を切らせることに成功する。舞台は計画のとおりに水上へ。宿泊施設を含め周辺一帯は今やE組の貸し切りだ。
これからE組は水上の小屋で精神攻撃を実行して暗殺に移る。小屋ではすでにクラスメイト数名が、攻撃の準備にとりかかっている。
「いよいよですね」
満天の星空の下、他に利用客もない道で、奥田さんが声を震わせた。
「そうだね」
私はこたえて次を待った。
奥田さんは肩を丸めている。幾らでも小さくなれそうなほどに。無理もない。彼女は理科の学年一位だった。期末テストにおける標的との賭けにより彼女、彼女ら七名は、触手を一本ずつ損なわせる権利を得た。これは今回の計画の要でもある。暗殺は彼女たちの必中の一撃をもって、次の段階へ移行する。万に一つも外すことはない、とはいえ、奥田さんでなくとも緊張するものだろう。
一方で奥田さんの首の上には確かな笑顔が存在した。緊張はあった。しかし恐怖はない。彼女が震わせる喉はかすかな期待をにじませている。「今日は殺して、明日一日、遊びましょうね」
心身ともいたって健康そうな中学生。奥田さんだけではなく、誰も彼もが平然と明日の話をする。今夜を終えての、明日の話を。いとも楽しげに。
私はただ同じ笑顔でうなずいた。ちょうどそのとき、いよいよ舞台に到着する。
奥田さんとは入口で別れた。これも計画の内で、学年一位を獲得した者とできなかった者とでは役割が異なるためだ。彼女は他六名と、そして先生と共に、これから精神攻撃の鑑賞会だ。設営の完了した小屋で席に着き、正面中央には画面が一つ。再生時間は一時間。一時間後、彼女たちは一斉に触手を破壊する。それが合図だ。やがて、そのとおりに、まず小屋から明かりが失われ、画面が爛々と輝きだす。
——ここまで来たらもう一時間は発症しないのだろう。
最後の最後までクラスメイトは誰も不調を示さなかった。ともすると毒のことを忘れてしまいそうになるくらい。誰より先生が黙していた。マッハ二十で生徒に気を配り続ける、あの担任教師が。しかし確実に毒は盛られた。改めて頼んだトロピカルジュースは毒を含んでいなかった。
犯人はE組の暗殺を許すつもりだろう。当然に失敗すると踏んでいるのだ。どうせ失敗する暗殺なら、その失敗の直後、怪物が消耗したところに絶好の機会が訪れる。
この島には小さな診療所が一つだけあるそうだ。島の外から来た医者が日中だけ患者を受けつけている。おそらく夜は島の外に帰るだろう。仮にそうならなかったとしても、処置には限度があるはずだ。未知の毒である可能性も十分に考えられる。標的の有能性を踏まえれば、むしろ検討するべき選択肢だ。あの担任教師を相手に、人質を用意するならば。
結局、先生を殺すつもりなら、生徒を人質にとるべきだった。先月、シロが実証したように。
だから誰もすぐには死なない。人質は生きてこそ用途を見いだされる。
どうにもならない思考の間にも、最後の準備は着々と進んだ。予定の時刻まであと十分となって、水着とフライボードを装備する。顔をあげれば同様の装いが、あと八つ。クラス委員の合図で、九人で水上の小屋を囲む。周囲にはクラスメイトが銃やホースを備えていた。陸上から、海上から、海中から。クラスメイトの他にはイルカまで控えており、一方で烏間先生やビッチ先生は遠くで暗殺を見届けるという。
それから、まもなく最後の合図が打ち鳴らされた。
装置を利用して飛びあがると、先生の姿は視認できたが、小屋が様変わりしてしまっていた。屋根も壁も失って、床ばかりが残されている。併せて私たち九人はその頂点に到達する。水圧のおりである。
閉じ込められた先生を四方八方から銃弾が襲った。それらは決して先生には当たらない。いつしか浮上した自律思考固定砲台は、はっきりと宣言する。
「照準、殺せんせーの周囲全周一メートル」
精神攻撃、水のおり。今夜の暗殺計画には、標的の弱点が詰め込まれている。当たらない攻撃もその一つだ。先生は殺気に過敏に反応する一方で、自らを殺さない、当たらない攻撃には反応を鈍らせる傾向がある。現に眼下の黄色の頭はすっかり落ち着きをなくしてしまった。今となっては小さな床だけが彼の居場所となってしまって、水のおりに囲まれては飛んで逃げ出すこともできない。
こうして存分に標的を追い詰めたところで、水中から本命が顔を出す。
すべては一瞬のうちに、目がくらむように終わった。突然ひらめいた光に私も思わず目蓋を合わせる。直後、体勢が崩れて背中から海に倒れ込んだ。——本命の狙撃手の発砲で、先生の身体が弾け飛んだのだ。
私はすぐに海面から顔を出した。周囲を見回すと、クラスメイトが次々と頭をのぞかせる。大方の生徒は衝撃で海に落ちたようだが、離れた所で暗殺を見届けた教師二人は無事らしい。しかし誰もが視線をさ迷わせた。小屋があった場所、今いる海、遠い陸、空を見あげて、ただ一人、先生の姿が見つからない。
「油断するな」と烏間先生が即座に指示を飛ばした。本当に標的の身体が弾け飛んだとしても、彼には再生能力が備わっている。闇夜とはいえ、マッハ二十の超生物は全長が三メートル弱。隠しおおせる体型ではない。
そう。とても隠しきれる体格ではない。誰が何を言おうと、先生が見つからなければ見つからないだけ、徐々に空気が浮ついていく。先生が一瞬でかき消えたことなど幾度もあった。だが爆発を起こしたところは見たこともない。かつてなく大規模な暗殺と、前例のない現象と、標的が見つからない現状と、それらが組み合わされば、それはそう。死ぬということは、二度と——
「あっ」
——そのときクラスメイトが声をあげた。目を見開いて微動だにしない。大きくもない音だったのに、そこにあらゆる視線が集まった。彼女の視線のその先に、ぶくぶくと、あぶくが立っている。
私は銃を抜かなかった。だって持ってこなかったから。
満天の星空の下、小さな球体が浮上する。「これぞ先生の奥の手中の奥の手——完全防御形態」
硝子のような膜の内側に、先生の頭だけが入り込んでいる。
四
朝だか昼だか夜だか、いや深夜だったか、橙色のチームメイトが顔色を変えた。コアテック視野に輝く星が映し出される。橙色のチームリーダーも笑顔を浮かべた。頭上の星は忠誠評価だ。トラブルシューターは常に他者の忠誠評価を確認することができるのだ。私は眼球内ディスプレイの隅に目をやって、それから再び表情をつくる。
翌朝は誰も起きなかった。女子全員の大部屋だったが、皆、休日は朝が遅いのだろうか。身支度を整え、少なからず物音が立ったものの、一向に起きる気配がない。そのうち空腹に訴えられて結局一人で部屋を抜け出した。修学旅行なら起こしただろうが、今日は夜まで自由時間だ。ひとまず細かい取り決めはなく、朝の制約も一つだけ。まず烏間先生の部下に挨拶をすること。
というと防衛省の者たちだが、数名は生徒とも顔見知りだ。彼らは時々旧校舎を訪れる。おかげで互いに顔と名前を一致させられるほどの者もいる。今朝挨拶をした相手もその内の一人だった。なぜか驚いたような顔をされたけれど。
「早いんですね」
「いつも同じ時間に起きるんです。園川さんこそお疲れ様です。——烏間先生はどちらに」
「ずっと現場で指揮を執っています」
砂浜の方向へ視線が移る。
「会うのはやめたほうがよさそうですね」
「——食事はまだ、ですよね」
「これからですけど、何かありましたか」
「では手短に」
こうして昼頃また顔を出すことを約束して、私はしばしの自由時間にありつく。宿泊施設一帯にいるなら自由に過ごしてよいというので、独りで朝食を済ませた後は、せっかくだから各施設を利用して回った。客がいないだけで従業員はいるらしい。だが昼まで暇を潰してもクラスメイトは起きてこなかった。
正午ちょうどに顔を出したら、係は別の部下に交代しており、生徒が男女を合わせても私一人だと教えられる。さすがに私もわかってきた。皆、疲労困憊なのだ。
昨日はかつてない規模の暗殺を決行した。これは標的の「奥の手中の奥の手」の前に完敗を喫したわけだが、結果にかかわらず、相当に消耗する程度の日程ではあった。くわえて撤収したところで毒を盛られていたことが判明した。感染力は強くなかったものの致死性があり、生徒のおよそ半数が発症。治療薬を手にするために、E組は新たな作戦に挑んだ。
朝は船旅、昼は準備、夜は暗殺、次いで潜入作戦。今にして思えば、生活習慣によるものと早合点するべきではなかった。誰かが起きるまで布団をかぶっていなければならなかったのだ。こうなると夜まで起きない可能性も否めない。
とはいえ後悔してもすでに遅い。午後は開き直ってテラスで過ごした。元は砂浜に出るつもりだったけれど、あまりにも過ごせる場所がなかった。一方このテラスなら腰を落ち着ける場所があり、食卓があり、品書きがあった。
そして午後三時、ケーキを食べる私の前にビッチ先生が現れる。
「おはようございます。素敵な水着ですね、ビッチ先生」
私は社交辞令を述べた。最大限の肌面積に花をあしらった英語教師は、対して私を上から下まで眺めると、露骨にあきれた表情をつくる。
「体育着じゃないの」
「他にお客さんもいませんから」
たぶん後から来るクラスメイトも体育着だろう。何とはなしに、まったくの勘だが。
「『客』ね」
ビッチ先生は砂浜を見渡した。
砂浜を闊歩する作業員たちは、E組の生徒よりも数が多く、朝も昼も肉体労働に励んでいた。中央では巨大な重機がコンクリートの塊を積みあげており、海では巨大な箱が完成を待つ。対触手物質のプールだろう。先生は今「完全防御形態」のまま、コンクリートの箱に閉じ込められており、数時間後にはそれらを吹き飛ばして復活する予定だ。
おかげで砂浜の景観は台なし、ろくに遊ぶ場所もない。海水浴などもってのほか。作業員の一人が安全な区画を教えてくれたけれど、ほんの砂浜の片隅だ。砂浜用の日傘は設置できそうだったが、現状が現状だから気乗りしない。ビッチ先生は随分と素敵な水着をお召しでいらっしゃるが、こんな場所で何のつもりだろう。
するとビッチ先生は私の正面に座って横目で食卓を見下ろした。ケーキとジュースが載っている。私の物だが「何か頼みますか」と尋ねたら彼女は素直にうなずいた。私も特に文句を言わず、おつかいを引き受けて注文まで済ませてやる。
「あんた、これからどうするつもり」
頼んだ物を待っていると、ビッチ先生が尋ねてきた。砂浜は変わらず騒がしく、私のケーキは残り僅かだ。
「しばらくのんびりして、今度はパフェでも頼もうかな、と思ってます」
「あら、そう、よく食べるわね」
「ビッチ先生は」
「決まってるでしょ。悩殺よ」
「じゃあパラソル差しますか。私、借りてきますよ」
「そうね。お願いしようかしら」
最後の一切れまで食べ終えたら、ビッチ先生の飲み物が届いた。彼女はさっさと砂浜に出た。私も新たなおつかいに繰り出したが、道具一式を借りて行ったところでふて腐れた立ち姿に出迎えられる。
「ちょっと聞いて、烏間が——」
不眠不休の烏間先生を挨拶ついでに誘惑したらえらい雷が落ちてきた、と。相槌を打ちながら設置していたら、そろそろ午後四時。テラスに戻って椅子に背を預け、目を閉じて、砂浜の喧騒に耳を傾けて、三十分ほど。呼んでもいない給仕が来る。
給仕はやけに砂浜へ注意を払って、私の前に皿を出した。クッキーだった。「サービスです」と続けた彼は、そういえばビッチ先生に対応した給仕であった。「悩殺」計画は順調らしい。私は砂浜へ顔を向けて、謝礼ついでにチョコレートパフェを注文する。
さて、そのパフェが届く頃のことだ。「サービス」の給仕と入れ替わるようについにクラスメイトが現れた。恰好はやはり体育着で、彼は正面に立つなり、
「いつから」
「朝からだよ、おはよう」
「おはよ」
クラスメイトはその場で椅子を引く。ビッチ先生が座った席だ。彼は一度、食卓を見た。
「女子、あんただけだよね」
「たぶん。ここに来たのはビッチ先生だけだよ」
担任たちのことは話さなかったが、クラスメイトは勝手に外へ目を向ける。砂浜にいると聞いていたか、いや、ここまで来れば聞くまでもないことか。赤羽なら。
私は赤羽をよそにチョコレートパフェに手をつけた。スプーンですくって一口、二口、三口、運んだところで急に、赤羽が目障りになってきた。端末でも触ってくれればよいものを、正面で何もせず、いつのまにかクッキーを見つめている。
「食べてもいいよ」
「ここのメニューじゃないよね」
「うん、もらったの。ビッチ先生のおかげ」
赤羽が顔をあげた。しばし目が合った。
「注文も聞いてくれるよ。このパフェとかジュースとか」
「じゃあ遠慮なく」
赤羽はクッキーに手を伸ばした。それから飲み物も注文した。彼の飲み物はすぐに届く。私のチョコレートパフェは少しずつ量を減らしていく。
「俺が最初だと思ってたんだよね」
赤羽は二個目のクッキーを口に運んだ。何がと彼は言わなかったけれど、私は起床時間の件だろうと当たりをつける。
「ええと、なんだか、ごめんね」
競争をした覚えはないが。当然、赤羽も勝手に競争したとは言わない。手を拭いて体育着から携帯端末をとり出す。
「あら。起きていたんですね。おはようございます」
モバイル律だった。私はスプーンを置いた。今日、初めての挨拶だった。ゆえに同じ言葉を返しておいて、
「寝る前に電源切ったの忘れてたかも」
赤羽は怪訝な顔で端末をしまった。
「毎晩スマホの電源切る人」
「そんなことは。昨日、疲れちゃったから、ちゃんと寝たかったんだ」
向かいでグラスが持ち上げられる。私もまたスプーンを握った。とうとうパフェが残り半分になる。赤羽のグラスはたった今、空になった。しかし彼は立たなかった。
赤羽は端末はしまっておいて、二本の指でクッキーをつまんだ。三枚目だ。はたして三人目が下りてくるまでここに居座るつもりだろうか。まもなく午後五時。かように彼が目覚めた以上は、三人目も時間の問題ではあろうが。
とはいえ、しばらく三人目は訪れないようで、結局二人でぽつぽつと話した。私がパフェを食べている分、会話の調子は若干まずい。赤羽はいつまでも席を立たない。私たちの関係は進展してしまった。修学旅行の頃から、同じ班で、隣の席で、日常的に話すようになってしまった。だからこそ話題は限られてきて、昨日の船旅、準備、暗殺、事件、そして今日のこと。
割合としては今日の話題が圧倒的に多くを占めた。当然といえば当然だ。私たちは昨日中一緒だったのだ。その間に起きたことについて新規性の高い共有はどうしても難しい。一方で今日のこととなるとまず私たちは起床時間に大きな差異があった。朝昼の食事、利用した施設、砂浜の様子、ビッチ先生、烏間先生。
日中を簡単に振り返ってやると、赤羽は新たに二枚のクッキーをつまむ。一方で私はスプーンを手放した。
「ごちそうさま」
「まだジュースがあるよ」
「そっちは空だけど。どうするの」
「どうしようか」
いよいよ五時を過ぎた。外はまだ明るい。クラスメイトは下りてこない。先生は元に戻らない。
喉がかわいてグラスを引き寄せる。液体がほとんど減っていない。だがストローは存外自由に水をかいた。氷は溶けてしまったようだが、一つ吸うだけで口の中に甘酸っぱい味が広がる。三口ほどで喉も潤う。グラスを置くと、また目が合った。私はふと腕をさすった。涼しいのか、肌寒いのか。冷たい物ばかり摂取したから——いや、これは冬の外気だ。
いつかの夕方、いつもの帰り道、その外れ。だから独りで歩いていて、人の気配に顔をあげたら、同じ学校の生徒がいた。
「どうしてほしい」
風が吹く。
「やりたいことがあるなら、やっておいたら。まだ使わせてもらえる施設があるんじゃないかな」
私は端末をとり出した。電源を入れずに持ち歩いていたものだが、指摘された以上は起動するよりほかない。既定の手順によって立ち上げると、画面に複数のロゴが入れ替わり現れる。そしてロック、ホーム、モバイル律、と。「今日はごめんね」などと心にもない謝罪は簡単に受け入れられる。
「そういうこともありますよ」
今度は電源を落とさずに待機状態へ。暗くなった端末をしまって、ジュースを一口。すると、まだ赤羽が白い顔でこちらを見ていた。南の島でやけに涼しげな表情だ。あるいは表情の抜け落ちたような顔色か。赤羽は今日も今日とて退屈らしい。それとも、
「どうしたの」
私はやっとグラスを置く。
「やっぱ——」
赤羽はさして間も置かずに口を開いた。「——むかつく」
つぶやくように声をこぼした。「むかつくね、本当に」
聞かせるために敵意を漏らした。
私はさも当然のように表情をうかがった。言葉はない。この私は今ふさわしい返事を持ち合わせない。それは、この私にはそぐわない。——やっぱ、むかつく。むかつくね、本当に。
冬の外気はあの場所でも私の息を白く変えた。そして白色の向こう側、ずっと奥に、同じ学校の制服が一つだけ見えた。続いてその足元に折り重なった二つの影。姿勢も悪く走り抜ける、一人の上級生。私は星を探そうとした。誰をも照らす頭上の星を。
——私たちは黙りこくって端末を出した。それぞれ操作したところにモバイル律が現れる。クラスの端末に導入されたクラスメイトは、それぞれのインカメラから私たちの顔を見比べて「実は」と声を出した。
「行ってみたい場所があるんです」
画面の外の生徒二人はいつもの顔を見合わせて、二つ返事で了承する。屋外だと言うので砂浜に出る。砂浜には相変わらず作業員たちがあふれていた。赤羽がそこに烏間先生の姿を認めたものの、声はかけなかった。かわりに日傘の下のビッチ先生に挨拶した。モバイル律は彼女の水着を学習したがったけれど、私たちは挨拶だけでその場を離れる。
そうして人工知能の指示で近辺を歩くうちに、ようやくクラスメイトが起きてきた。夕焼けの中、宿泊施設に引き返し、私たちはそれぞれ体育着のクラスメイトたちの談笑に混ざっていく。やがて自然と高台にのぼった。夕日が水平線に隠れる頃、E組全員が見下ろす先で、ついに大きな爆発が起きる。その衝撃は私たちの所にまで届いて——一番後ろで声がした。
「おはようございます。では旅行の続きを楽しみましょうか」
夏の夜、南の島が徐々に闇に包まれる。