概要

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# 八月、又は特別夏期講習

## 一

毒を盛られた——かもしれない——グラスを私はどうにか落とさずにいた。給仕の姿は見つからなかった。テラスにはトロピカルジュースの味を楽しむクラスメイトばかりがおり、現在唯一の大人もそれは変わらない。

「おいしい」

隣で奥田さんが口元を緩める。ストローで甘酸っぱい液体を吸い上げ、グラスの中身はもう半分。おいしそうだ。おいしいトロピカルジュースなのだ。ただし毒入りのと注釈が付くだけで。

船に揺られて六時間、椚ヶ丘中学三年E組一同は沖縄に来て、毒を盛られてごくごく飲んだ。今にして思えば*サービス*の飲料水などに口をつけるべきではなかったのだろう。ザ・コンピューターはすべての市民の安全と利益のために<ruby>奉仕<rt>サービス</rt></ruby>している。安全と利益は幸福である。よって市民もザ・コンピューターに奉仕して、それは幸福だからであって、幸福はすなわち奉仕であって、——おや市民、幸福ではないのですか。

私はその液体を奥田さんと同じだけ喉奥へ流し込み、同じ表情をつくって浮かべて、同じ言葉を口にした。

「おいしいですね」

「おいしいね」

クラスメイトは傍目には普段どおりだ。弧を描く唇も、大事にグラスを支える両手も、慎ましく閉じた脚も、同じテーブルの他の二人も、同じテラスの他のクラスメイトも。先生も当然に、ここには不幸も反逆もない。さしたる時間経過でもないのだから、これもやはり当然か。

この私にできることといえば、昼食の品を選ぶことで、祈り続けることだった。もはや、そうするより他にないのだ。感染力よどうか微弱であってくれ。

「二人はもう決めた?」

「私はこのジュースと、あとサラダかな」

「私はまだちょっと迷ってて。茅野さんと神崎さんは決まったんですか?」

「ごはんはいいから、私パフェ頼もっかなあ。見て、このプリンパフェ」

「いいね、私もサラダはいいからパフェにしようかな。トロピカルパフェとか」

「二人は甘いものが好きよね」

神崎さんが口元に手を当てて、くすくす笑う。そういう神崎さんはと茅野さんが身を乗り出すと、彼女は実に均整のとれた昼食を選定していた。奥田さんがなるほどとつぶやき、同じ品目を探し始める。こうして昼食を選んだ三人が、たとえば計画が失敗した夜、そろいもそろって毒に倒れたら。生徒の中でただ一人、私だけが立ち尽くすことになったら。

整合性がとれるだろうか。反証が通用するだろうか。あるいは退路を確保しておくべきか。そうだろう。そうだろう。ミュータントパワーが私を生かすのだ。そのときはミュータントパワーを行使せねばなるまい。

外を見た。南の島に来た。その青々とした世界が今は毒々しく目に映って、背を向ける。

## 二

エースのA組だけの学校行事、特別夏期講習。たとえ夏休みだろうとさらなる向上のために、環境を変えて*将来のために励む*合宿。かかる費用は学校予算の内で、各施設も利用できる。今年はE組が来ることになったけれど。

期末テストの対決でA組に勝ったE組は、この旅行の権利を要求した。私たちはこの権利を、同じくテストで得たもう一つの権利と組み合わせることにした。海に囲まれた南の島で、性能の下がった賞金首を、弱点を突き、満を持して殺す。

夏休みに入ってもE組は頻繫に集まり、計画と訓練に明け暮れた。

ふと潮の味が口に広がる。海のにおいだ。

一年に一度は海水浴をした。二歳頃から両親と三人で海に来て、小学校の高学年になると、さらに友人とも海で遊ぶようになった。昨年も一昨年も。誰かしらの保護者を頼る形で。そういえば今年は沖縄旅行の予定だったっけ。歩きながら顔だけ横に向けてみる。水着も砂浜も見えないが、世界はいまだ毒々しい。

「海のにおいだね」

反対側で声がした。振り向いて目が合ったから、どうやら私に言ったらしい。潮臭いとでも訴えたいのか。当然にわかりきったことを? 私たちはつい十分前までダイビング——海に潜っていたのである。体はシャワーで流したが、満足するにはホテルに戻る必要がある。

しかし赤羽はこの明白な事柄について笑みさえ浮かべているのであり、横では奥田さんもくすくす声を漏らしている。私もくすくす笑うしかない。

「赤羽くんもでしょ」

「俺はクリック音とか使えないから」

赤羽は脈絡のない返事をした。だが数百メートル先には目的地があった。

「私もイルカじゃないよ」

その小屋はイルカが見られる船を出している。

赤羽はとぼけた。

「あ、そう? 奥田さんは?」

奥田さんが慌てて否定する。だが体の前で両手を重ね、指を交差させると、考える素振りを見せて、

「イルカ、クジラ——は言語を持つんじゃないかって研究もありますよね」

もっとも今回はイルカのコミュニケーション能力だの知性だの脳だのではなく、担任と一緒に近くで見ようという*計画*だ。私たちの班は先生と遊ぶ場所を船上と定めた。時間が過ぎたら、先生は他の班の元へ行く。修学旅行のときの班行動と同様の流れである。修学旅行と違うところは、プロの殺し屋との共同計画ではないところ、班別の暗殺計画でもないところ。

今日はクラス全員で暗殺する。

皆、健康そうだった。他の班からも欠員が出るような報告は上がらない。先生たちも何も言わない。私の横では赤羽と奥田さんが楽しげに話している。

奥田さんと席が逆だったらなあ。もちろん私たちは前後の席だから、逆だったところで位置情報は大差ない。だが奥田さんの席は、百七十九センチのヒトの右隣で、百七十二センチのヒトの左隣だ。夏休みが明けたら交渉しようか。奥田さんの意思は重要になるが、受け入れられる可能性は高い。また一番後ろの席は人気が高い傾向にあり、さらに赤羽は彼女にとって親しい部類の生徒らしい。

いや理由は聞かれるだろうなあ。——どうしたんですか。何かありましたか。困りごとですか。決定に疑念が生じたのですか。おや市民、幸福ではないのですか。

ないな。私はかぶりを振って目的地を見た。あと数十メートル。ちょうど渚くんが声をかけて、班員はそれぞれ準備する。そのうち足並みをそろえて到着して、待つこと少し、先生が飛んできた。アロハシャツにカンカン帽。すっかり南国を満喫した様子で、妙な日焼けまで作ってきた。グライダーで遊んで焼いたそうだ。

## 三

計画は極めて順調だ。船旅、昼食、班別行動、そして予約の船上ディナー。この頃には先生は妙を越して全身を黒く焦がしていたが、大きく想定を外れた部分はなく、時間には余裕があった。ディナーを通して乗り物酔いを与えることもできた。ついでに奥の手も切ってくれて、計画のとおりに暗殺の舞台へ向かう。ホテルの離れの水上パーティールームである。

ホテルを含め、周辺一帯はE組の貸し切りだ。かの施設も暗殺のために使えることになっており、すでにクラスメイト二名が*精神攻撃*のための映画を準備している。

「いよいよですね」

人のいない道で、奥田さんがおずおずと口を開く。

「そうだね」

答えて、私は次の言葉を待った。

奥田さんは肩を丸めていた。いくらでも小さくなりたがっているみたいだ。だが、首の上には笑顔があり、緊張していても無理はしていない。心身ともにいたって健康そうな中学生。

誰も彼もがそうだった。決意にはうそがない。奥田さんの言葉に偽りはない。

「今日殺したら、明日はいっぱい遊べますね」

大好きな担任を殺した後のことを、奥田さんは平気で話している。私は特には言わず、代わりに同じ笑顔でうなずいておいた。それを最後に、私たちは小屋にたどり着いた。

奥田さんとは入口で別れた。奥田さんはこれからテストの権利で先生の触手を破壊する。小屋は設営が完了しており、彼女は役割を同じくする六名と、先生と一緒に、席に座った。正面中央にはディスプレイが一つ。再生時間は一時間。一時間後、暗殺開始の合図は、七人による触手の破壊である。

奥田さんの背中から視線を外すと、ちょうど小屋から明かりが失われた。

最後の最後までクラスメイトは不調を訴えなかった。ともすると毒のことを忘れてしまいそうなくらい、異常な様子を示さなかった。誰より先生が黙っている。クラスメイトは今の今まで順調だったのだ。しかし確実に毒は盛られた。改めて頼んだトロピカルジュースは毒を含んでいなかった。

ここまできたら、もう一時間は発症しないだろう。おそらく犯人は私たちの暗殺を許すつもりだ。いや失敗すると踏んでいるのだ。どうせ失敗する暗殺なら、その失敗の後、怪物が消耗したところが好機ではないか。

この島には小さな診療所が一つだけあるらしい。それも今は時間外で、さらに——悪いことに——医者が*島の外に帰った*可能性も十分にある。もっとも仮に医者がいたとして、処置には限度があるだろう。もしかしたら未知の毒かもしれない。あの先生を相手にするなら、むしろありうる選択だ。先生を相手に、人質を用意するなら。

結局、先生を殺すつもりなら、生徒を人質に取るべきだった。先月、シロが実証したことだ。

だから、すぐ死ぬことはないだろう。

——無言で最後の準備をした。予定の時刻まであと十分。水着とフライボードを装着し、顔を上げると、同様の装いがあと八つ。クラス委員の合図で、九人で小屋を囲んだ。周囲にはクラスメイトが銃やホースを構えている。陸上から、海上から、海中から。クラスメイトの他にはイルカもいて、一方で烏間先生やビッチ先生は遠くで見守ってくれるという。まもなく最後の合図がする。

九人が一斉にフライボードで飛び上がった。先生の姿は視認できるが、小屋は様変わりしてしまった。屋根も壁も失って、床ばかりを残している。一方で私たちは、その頂点に達した。水圧の*おり*の完成である。

先生を、四方八方からの銃弾が襲う。しかし決して先生に当たることはなく、いつしか水上に姿を現した自律思考固定砲台は、はっきりと宣言した。

「照準、殺せんせーの周囲、全周一メートル」

今夜の暗殺計画には、先生の弱点をこれでもかと盛り込んだ。水は言わずもがな、精神攻撃も、当たらない攻撃も、その一つだ。これらは彼を殺さないが、弱らせることはできる。現に眼下の黄色い頭はすっかり落ち着きをなくしてしまった。小さな床だけが彼の居場所で、飛んで逃げ出すこともできない。こうして存分に標的を追いつめたところで、水中から本命が顔を出す。

すべては一瞬のうちに、くらんで終わった。突然、光がひらめいた。私は思わず目蓋を合わせた。直後、体勢が崩れて、背中から海に倒れ込む。——本命の狙撃手が発砲したのだろう。先生の体が弾け飛んだのだ。

すぐに海面から顔を出して、周囲を見回した。クラスメイトが次々と頭をのぞかせる。だが先生はどこにもいない。小屋の位置にも、海の上にも、遠い陸にも、空を見上げても。

烏間先生の指示が飛ぶ。標的の再生能力を警戒してのことだろう。闇夜だが、マッハ二十の超生物、全長およそ三メートル弱。隠しおおせる体形ではない。しかし一向に彼は見つからなかった。

みるみる浮ついた空気が流れた。先生が一瞬でかき消えたことなら何度もあった。だが、あのような爆発を起こすところは見たことがない。かつてなく大規模な暗殺。前例のない現象。標的が見つからない。それはそう。死んだら二度と——

「あっ」

——声の主は目を見開いて、あとは微動だにしなかった。彼女の視線のその先に、ぶくぶくと、あぶくが立っている。私は人知れず唾を飲む。

やっぱり先生は死ななかった。

銃は抜かなかった。だって持ってこなかったから。

---

やがて小さな球体が浮上した。

「これぞ先生の奥の手中の奥の手——完全防御形態!」

球体の、そのガラスのような膜の内側に、先生の頭だけが入り込んでいる。

## 四

翌朝は誰も起きなかった。ここには女子全員がいるはずだが、休日は朝が遅いのだろうか。身支度を整え、それなりに物音を立てても、一向に起きる様子がない。そのうち空腹を感じてきて、結局、一人で部屋を抜け出した。修学旅行なら起こしただろうが、今日は夜まで自由時間だ。ひとまず細かい取り決めもない。朝の制約は一つだけ。まず烏間先生の部下に挨拶をすること。

というと防衛省の人間だが、生徒は顔を知っている。彼らは時々旧校舎を訪れる。互いに顔と名前を一致させられる者もいる。今朝、挨拶をした者もその内の一人だった。人の気配のしないリゾートホテルで、私の姿を認めると、彼女は驚いたような顔をする。

「早いんですね」

「いつも同じ時間に起きるんです。園川さんこそお疲れ様です。——烏間先生はどちらに?」

「ずっと現場で指揮を執っています」

ビーチの方向へ視線が移る。

「会うのはやめたほうがよさそうですね」

「——食事はまだ、ですよね」

「これから、ですね。何かありました?」

「では手短に」

こうして昨夜より詳細な説明を受けた。昼頃また顔を出してほしいとのことだが、この一帯にいるなら好きに過ごしてよいそうな。私は従うことを約束して、あとは一人で朝食をとった。

客がいないだけで従業員はいる。各施設も稼働している。実際、昼まで暇を潰せた。しかしクラスメイトは起きなかった。正午ちょうどに顔を出したら、係は別の部下に交代していたが、生徒は男子と女子を合わせても私一人きりらしい。さすがに私もわかってきた。皆、疲労困憊なのだ。

昨日はかつてない規模の暗殺を決行したものの完敗。さらにその後に*毒を盛られていたことが判明*する。感染力は強くないが、生徒のおよそ半数が発症。治療薬を手にするために、E組は新たな作戦に挑んだ。一筋縄ではいかなかったけれど、結果としては全員が生きている。

生活習慣によるものと早合点せず、誰かが起きるまで布団をかぶっているべきだった。もしかすると夜になっても起きないつもりかもしれない。可能性は否定できない。

午後は開き直ってテラスで過ごした。元はビーチに出るつもりだったが、あまりにも過ごせる場所がない。一方このテラスなら、腰を落ち着ける場所があり、テーブルもあり、注文すれば甘いものが出てくる。

午後も三時を回った頃、私はケーキを食べていた。

「あら、あんた一人?」

ビッチ先生が現れた。最大限の肌面積に花をあしらっただけの姿で。

「はい。おはようございます。素敵な*水着*ですね、ビッチ先生」

これは社交辞令である。このテラスはビーチへと続いている。対するビッチ先生は私を上から下まで眺めて、露骨にあきれた表情を浮かべた。

「体育着じゃないの」

「他にお客さんもいませんから」

たぶん後から来るクラスメイトも体育着だろう。何とはなしに、まったくの勘だが。

「客ねえ」

ビッチ先生はビーチを見渡した。

砂浜を闊歩する作業員たち。その数はE組の生徒より多く、朝も昼も肉体労働に励んでいる。中央では巨大な重機がコンクリートの塊を積み上げており、海では巨大な箱が完成を待つ。対触手物質のプールだろう。先生は今「完全防御形態」のままコンクリートの箱に閉じ込められており、数時間後にはそれらを吹き飛ばして復活する予定だ。

おかげでビーチの景観は台なし、ろくに遊ぶ場所もない。海水浴などもってのほか。作業員の一人が安全な区画を教えてくれたけれど、ほんの砂浜の片隅だ。パラソル等は置けそうだったが、ビーチの現状が現状だから気乗りしない。ビッチ先生は随分と素敵な水着をお召しだが、こんなビーチで何のつもりだか。

ビッチ先生は私の正面に座って、ちらとテーブルに視線を落とした。ケーキとジュースが載っている。私のものだ。何か頼みますかと尋ねたら、ビッチ先生は素直にうなずいた。私は特に文句も言わず、おつかいを引き受けてやる。品書きを見せたり、注文を伝えたり。

「あんた、これからどうするつもり?」

頼んだものを待っていると、ビッチ先生が尋ねてきた。ビーチはずっと騒がしく、私のケーキは残り僅かだ。

「しばらくのんびりして、今度はパフェでも頼もうかな、って」

「あ、そう、よく食べるわね」

「ビッチ先生は?」

「決まってるでしょ。悩殺よ」

「じゃあパラソル差しますか? 私、借りてきますよ」

「そうね。お願いしようかしら」

最後の一切れを食べたら、ビッチ先生のジュースが届いた。彼女はさっさとビーチに出た。私もパラソル一式を借りて行ったが、ふて腐れた立ち姿に出迎えられる。

「ちょっと聞いて! 烏間が!」

不眠不休の烏間先生を挨拶ついでに誘惑したらえらい雷が落ちてきた、と。相槌を打ちながら設置していたら、そろそろ午後四時。テラスに戻って椅子に背を預け、目を閉じて、ビーチの喧噪に耳を傾けて、三十分ほど。呼んでもいない給仕が来た。

給仕はやけにビーチへ注意を払って、私の前に皿を出した。クッキーである。サービスですと続けた彼は、ビッチ先生がいたときにも給仕だった。「悩殺」計画は順調らしい。私はビーチへ顔を向けて、謝礼ついでにチョコレートパフェを注文した。

さてパフェが届く頃、給仕と入れ替わりに、ようやくクラスメイトに会った。恰好はやはり体育着だ。彼は目の前に立つなり、

「いつから」

「朝から。おはよう、赤羽くん」

「おはよ」

そして私の正面に腰を下ろす。ビッチ先生が座った椅子だ。赤羽は一度、テーブルを見た。

「女子、あんただけだよね」

「たぶんね。ここに来たのはビッチ先生だけ」

担任たちのことは話さなかったが、赤羽は勝手にテラスの外へ目を向けた。ビーチにいると聞いていたのか、いや、ここまで来れば聞くまでもないか。赤羽なら。

赤羽をよそに私はチョコレートパフェに手をつける。スプーンですくって一口、二口、三口、口に運んだところで、赤羽が目障りになってきた。スマートフォンでも触ってくれればよいものを、何もせず、いつのまにかクッキーを見つめている。

「食べてもいいよ」

「ここのメニューじゃないよね」

「うん、もらったの。ビッチ先生のおかげでね」

赤羽が顔を上げた。しばし目が合う。

「注文も聞いてくれるよ。このパフェとかジュースとか」

「じゃあ遠慮なく」

赤羽はクッキーに手を伸ばした。それから飲みものも注文していた。彼の飲みものはすぐに届いた。私のチョコレートパフェは少しずつ量を減らしていく。

「俺が最初だと思ってたんだよね」

赤羽は二個目のクッキーを口に運ぶ。そうして咀嚼が始まったので、私は起床時間の件だと当たりをつけた。

「残念だったね」

いや、もちろん競争した覚えはない。赤羽も勝手に競争したとは言わない。手を拭き、ポケットからスマートフォンを取り出す。

「あら。起きていたんですね。おはようございます」

モバイル律である。私はスプーンをすくう手を止めた。今日、初めての挨拶である。ゆえに同じ言葉を返しておいて——つまり今日はスマートフォンを使っていない。持ち歩いてはいたものの、たしかに触った記憶がない。使う機会がなかったのだ。ただしモバイル律なるアプリケーションは、使わないくらいで目にせず済ませる存在ではない。よって最後に端末を使った日時は、

「寝る前に電源切ったんだった」

赤羽は怪訝な顔で端末をしまった。

「毎晩スマホの電源切る人?」

「ううん、昨日だけ。疲れたからちゃんと寝たくて」

向かいでグラスが持ち上げられる。私もまたスプーンを進めた。とうとうパフェが残り半分になる。赤羽のグラスはたった今、空になった。

赤羽は席を立たなかった。そしてスマートフォンを出すでもなく、二本の指でクッキーをつまむ。三枚目だ。——三人目が下りてくるまで、ここに居座るつもりだろうか。もうすぐ午後五時。こうして赤羽が起きてきた以上、三人目の起床も時間の問題ではあろう。生徒は二人で先生の復活を見守る、とかいう事態にもならないはずだ。

結局、二人でぽつぽつ話した。私がパフェを食べている分、会話の調子は若干まずい。しかし赤羽はいつまでも席を立たない。私たちの関係は進展した。修学旅行の頃からだ。同じ班で、隣の席で、日常的に話すようになった。だからこそ話題は限られてくる。昨日の船旅、昼の準備、夜の暗殺、その後の事件、そして今日のこと。

圧倒的に今日の話題になった。当然といえば当然。私たちは昨日ずっと一緒だった。昨日のできごとについて、新規性の高い共有はどうしても難しい。だが今日のこととなると話は別だ。なにせ私たちの起床時間には大きな差異がある。朝昼の食事、利用した施設、ビーチの様子、ビッチ先生のこと、烏間先生のこと。日中をざっくり振り返ってやった。赤羽は新たに二枚のクッキーをつまみ、私はスプーンを手放した。

「ごちそうさま」

「まだジュースがあるよ」

「そっちは空だけど。どうするの」

「どうしようか」

五時を過ぎた。外はまだ明るい。クラスメイトは下りてこない。先生も出てこない。

喉がかわいて、グラスを引き寄せる。液体がほとんど減っていない。だがストローは存外自由に水をかいた。氷は溶けてしまったようだが、一つ吸うだけで口の中に甘酸っぱい味が広がる。三口ほどで喉が潤って、グラスを置いた。顔を上げたら、また目が合った。ふと腕をさする。冷たいものばかり摂取したからか。いや、これは冬の外気だ——。

いつかの夕方、いつもの帰り道、その外れ。だから一人で歩いていて、人の気配に顔を上げたら、同じ学校の生徒がいた。

「どうしてほしい?」

風が吹く。

「したいこと、したらいいんじゃないかな」

私はスマートフォンを取り出した。やはり電源が入っていない。規定の手順によって立ち上げると、画面に複数のロゴが入れ替わり現れる。それからロック、ホーム、モバイル律だ。今日はごめんね。心にもない謝罪は簡単に受け入れられる。そういうこともありますよ。

今度は電源を落とさずに待機状態へ。暗くなった端末をしまって、ジュースを一口。すると、まだ赤羽が白い顔でこちらを見ていた。南の島で涼しげな、というよりは、表情の抜け落ちたような。よく赤羽が浮かべる類いの顔色だ。退屈をいとうたときに。あるいは、また別の瞬間にも見せたように感じられるが、ただちに思い出すことは難しい。

「どうしたの」

私はそっとグラスを置いた。赤羽はさして間も置かずに口を開いた。

「やっぱ、むかつく」

つぶやくような言葉だった。

「むかつくね、本当に」

だが、人に聞かせた言葉だった。

敵意だった。

私はさも当然のように表情をうかがう。言葉はない。この私は今ふさわしい返事を持ち合わせない。それは、この私にはそぐわない。——やっぱ、むかつく。むかつくね、本当に。

冬の外気はあの場所でも私の息を白く変えた。そして白色の向こう側、ずっと奥に、同じ学校の制服が一つだけ見えた。続いてその足元に折り重なった二つの影。姿勢も悪く走り抜ける、一人の上級生。私は星を探そうとした。誰をも照らす頭上の星を。

——私たちは黙りこくって端末を出した。それぞれ操作したところに、モバイル律が現れる。インストールされたクラスメイトは、各インカメラから私たちの顔を見比べ、実は、と声を出した。

「行ってみたい場所があるんです」

画面の外の生徒二人は*いつもの顔*を見合わせて、二つ返事で了承する。屋外だと言うのでビーチに出た。砂浜には相変わらず作業員たちがあふれていた。赤羽がそこに烏間先生の姿を認めたが、声はかけなかった。パラソルの下のビッチ先生には挨拶だけした。モバイル律は彼女の「水着」を学習したかったようだが。

そうしてクラスメイトの指示でホテル近辺を歩いていたら、やっと皆が起きてきた。夕焼け空に見下ろされ、ホテルに引き返して合流する。クラスメイトが体育着姿で談笑していた。それから自然と高台に上り、ビーチの計画を見守ることになる。やがて夕日が水平線に隠れると、ビーチで爆発が起きた。その衝撃は私たちの所まで届く。一番後ろで声がした。

「おはようございます。では旅行の続きを楽しみましょうか」

夜の闇が訪れる。

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