第50話「期末の時間」から第55話「終業の時間・1学期」まで

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七月、そして期末テスト

木陰で先生が赤色を走らせた。「よくできていますね」ともう一人が教科書をめくる。そのまた横の先生は参考書を二、三冊ほど広げてみせ、ふとした拍子に顔をあげた。校舎の時計を見たか、はたまた空模様から時間を読んだか。私はその視線を追わなかったが、まもなく全体の中央にさらなる先生が出現する。最高速度マッハ二十の触手生物は分身の術を使うのだ。

というと、あたかも自分が複数人いるかに見せかける技術で、実際に身体が分割されたり複製されたりするわけではない。ミュータントパワーで分割や複製をすることは不可能ではないが、先生の場合は例によってまやかしの残像だ。超人的な身体能力と思考能力のなせる業である。

かくして生徒一人につき担任教師が二、三人、屋外での一斉個別指導となったわけだが、今は一旦中断のようだ。

「ヌルフフフ」

私の前の先生が筆を握ってぬるりと笑った。クラスメイトの周囲でも、それぞれの先生が同じく笑って、一学期の間の学習の成果を告げる。私の筆記帳にも丸が並んで、

「この分なら期末の成績はジャンプアップが期待できます」

生徒と先生と分身の頭上で、木の葉がさわさわと風に揺れた。七月も半ば、夏服を着てプールも来て、旧校舎はいよいよ誇らしいまでに——劣悪に——なった。昼休みに入るまで集中が続けば御の字だが、それも真昼間のプールを当てにしてのこと。当然に午後の授業を教室で受けたい——とは思えない——。教室よりも木陰が涼しい。そういう季節が盛りを迎えようとしている。

夏、学期末である。中学生にとっては。期末テストの季節だった。

「今回は、この暗殺教室にぴったりの目標を設定しました」

暑い夏の午後に屋外で、期末テストのための個別指導を施していた担任教師たちが、宣言とともに一か所に集まった。内一人は単語帳を口にくわえて見せびらかす。複数の単語帳を、一つの口で。それぞれの単語帳には、大文字のアルファベットが一字ずつ書かれており、続けて読むと、——ラッキーチャンス。クラスメイトの手が止まった。

前回、修学旅行の前の中間テストでも、先生はクラスの目標を提示した。学年順位で五十位以内。五十人で構成された学年でなければ、成績優秀者で構成されたクラスでもない。E組はむしろ学年約百九十名から選び抜かれた約三十名の劣等生で構成されている。一見無理難題で、結局達成できなかったが、先生には勝算があって、実際のところも諸事情さえなければ全員五十位以内だっただろう、ということがあった。

椚ヶ丘中学校三年E組はあくまで劣等生でなければならない。

ところが先生はE組制度そのことを踏まえても「総合点ばかりを気にしていました」と反省したそうだ。彼はどこからともなく拳銃を拾った。「前にシロさんが言ったとおり、先生は触手を失うと動きが落ちます」

ありふれた銃口からありふれた弾丸が勢いづいて飛び出した。あたりまえに命中したそれは先生の脚を弾けさせる。クラスメイトは目を見張った。E組には拳銃も対触手弾もありふれている。だが、いまだ珍しい光景だった。マッハ二十の標的は弾幕さえもかわしきる。裏山前の木の下で先生だけが平然としていた。

「一本減っても影響は出ます」

先生は驚愕の最中にある生徒に向けて観察を促した。「ご覧なさい」

示されるまでもなく先をうかがって、私もはっと息をのむ。子供の分身が混じってしまっている。深刻な事実だった。だが先生は一定の表情の下でまた躊躇することなく発砲を重ねた。

「ご覧なさい。子供分身がさらに増え、親分身が家計のやりくりに苦しんでいます」

肉が弾け飛んだ音。しかし先生は表情を見失わない。さらに引き金に力が込められてまた一本先端が切り離されると、同時に父親が蒸発した。

びたびたと肉が跳ねた。

「いろいろと試してみた結果、触手一本につき先生が失う運動能力は、——ざっと二十パーセント」

跳ねた先から形が失われていく。

「教科ごとに学年一位をとった者には、答案の返却時、触手を一本破壊する権利をあげましょう」

最近、知ったことがある。先生は本当に爆発する。次の三月に、地球ごと。

クラスメイトは目の色を変えた。勉強をがんばったら成績があがるかもしれない。成績があがったら標的を殺せるかもしれない。もしかして標的を殺せたら、大金を手にすることができる。それも総合点のみならず各教科の得点を勘定に入れることができるのだ。E組の生徒にとっては、よほど目のある好機だった。というと、大方のクラスメイトには得意教科が存在する。

当然E組の大半は学業成績が悪い生徒だ。とはいえ全員が全員全科目で落ちこぼれたということはない。むしろ多くは一部の不得意科目を原因として、このE組に落ちてきた。この学校では得意科目をつくることより、不得意科目をなくすことが推奨されている。よって原因以外の科目では並どころか限定的に一位を狙える、といった者は珍しくないのだ。好例が奥田さんである。

「理科だけなら私の大の得意ですから。やっと、みんなの役に立てるかも」

奥田さんはあの日から、理科の勉強道具と共に学校生活を送った。参考書を片手に登校してきて、着席すれば文房具を広げ、食事中といえども化学式をにらみつけ、ついには図書室まで訪ね(本学の図書室は非常に優れた自習室だが、校風からE組生徒はめったに利用することができない)帰ってくるなり意気込んだ。「目標は同じです。私は理科で満点を狙います」

言い争いまでしたという。

とある放課後、奥田さんはクラス委員の磯貝悠馬に誘われて図書室を利用した。他に誘われた者たちと六名程度で訪ねた本校舎は、旧校舎とは比べるまでもなく好環境だったそうだ。図書室も例外なく冷房が効いており、学習書も豊富で、非常に集中することができたと。言いがかりさえつかなければ。急に現れて急に文句をつけられて——この学校では三年E組は差別を受けてよいことになっているとはいえ——たまらず言い返してしまったらしい。

「奥田さんが無事でよかった」

とはいえ、ただでは済まなかった。口喧嘩はやがて勝負に発展したそうだ。進学校の生徒として、主要五教科学年一位の数を競って、勝ったクラスは負けたクラスへの命令権を一つ得る。

奥田さんたちの言い争いの相手は、三年A組の生徒だったらしい。三年E組が劣等生と蔑まれる一方で、敬われる優等生たちだ。さらに場所が本校舎それもテスト期間中の図書室だったこともあり、彼女たちの喧嘩はますます耳目を集め、E組全員が子細を把握するときには半ば学校公認の対決と化していた。エンドのE組がエースのA組に、よりにもよって期末テストで挑戦する、などと。

こうしてE組の期末テスト事情はさらなる新要素を迎え、クラスメイトはいよいよ目の色を変えた。奥田さんも笑顔で張り切る。「楽しい夏休みにしましょうね」

勉強をがんばって成績があがったら——南の島が待っている、かもしれないと。E組の命令はすでに決まっている。

うなずいた私の手の中でモバイル律が受信を知らせる。視線を落とすと一行目は、夏休みの暗殺について。私は左側の席を見ないように、自分の端末でクラスの会話を追う。最新の発言者は、クラス委員の磯貝くん。せっかくだから成功率をさらにあげないか、だと。

南の島というものが、いかに中学生の心をかき立てるか。かつて共にA組を目指した友人と、この私も時には沖縄旅行の話をした。この学校は生徒の向上心のために前向きな目標も用意している。エースのA組、特別進学クラスの優等生たちは、実力主義の校風も相まって、しばしば何者にも優遇される。たとえば来る夏休みには三年A組限定学校行事があった。

これが今年、しがらみほどにまで思惑が絡み、まさかE組の生徒に動機を与えることとなり、とうとうテスト当日を迎える。真夏のからっとした晴天。クラスの人工知能のことで烏間先生は苦労もしたようだが、とりあえず生徒の問題になることはない。空調設備の働く会場で問題用紙を速やかにめくり、見知った出題範囲の試験にとり組む。その積み重ねの末に、やがてすべての答案用紙を提出したのだ。

採点結果は後日、学年内順位と共に旧校舎に届けられた。先生は科目ごとに答案用紙を返却した。それぞれ最初に学年一位が発表されると、結果にかかわらず教室がわきあがった。内三回はクラッカーも鳴った。英語、社会、そして理科でE組が学年一位を飾ったのだ。幸い単独首位につき、主要五教科におけるA組との賭けは、E組の勝ちと相成った。一方で国語と数学はA組のただ一名の元にあり、また総合点一位も同生徒が維持した結果だ。

さておき教室は歓声に満ちた。前の席の奥田さんも真っ赤な顔で喜んでいる。E組から出た理科一位といえば、あたりまえのように彼女である。クラスメイトが口々に褒めそやすなかで、私も三度は「おめでとう」を言った。奥田さんからは何度も「ありがとうございます」を聞いた。

教壇の先生もうれしくてたまらない様子だ。三本の触手に旗を立て、顔色で緑の横じまを描いている。「トップの三人はどうぞ三本ご自由に」

ナメくさっているというわけだ。数日前の実演で減った触手が、ちょうど三本の数だった。一本につき二割と言うが、三本が十分な不利条件かは疑わしいところだ。子供分身だの親分身だの蒸発だのと実演はしてくれたけれど、それでも分身ができている。いや仮に六本だったとしても彼は喜んで差し出しただろう。各教科そして総合点で一人ずつ学年一位が獲得された場合のことを、提案者が想定しなかったとは考え難い。

勝算があるから提案できるのだ。

さて勝者三名は「どうぞ」と言われて、教室では四人の生徒が椅子を引いた。廊下側後方席の一塊だ。物音とともに立ちあがって、床をきしませながら前に出る。物言いたげな四人組は学年一位の三人組ではない。それは成績で一括できる集団でもなかったが、あの寺坂くんが先頭で、しかし「五教科のトップは三人じゃねえぞ」などと言う。

誰の理解も追いつかなくなって、皆が口を閉じ、四人組をいぶかしんだ。成績で一括できる集団ではないが、寺坂くんは長らく非協力的で典型的な劣等生だった。先の水殺の一件から、心境か何かの変化で態度を改めるには至ったらしいけれど、期末テストには遅すぎただろう。さらにA組とE組の対決の影響か、テストは難化傾向にあった。

いやまさか、とは誰も口に出さなかったが、よりにもよって、あの寺坂くんだ。教壇の先生も見当がつかないようだ。だが四人組は無根拠とは感じさせないほど得意になって、自信満々に、先生の前に答案用紙を突き出した。

「五教科つったら国、英、社、理、——あとだろ」

先生は呆然と四枚のテスト結果を眺めた。寺坂くんが振り返ってクラスメイトにも証拠を披露する。はっきりと記された寺坂竜馬の四文字、はっきりと記された100の三文字。科目は家庭科

「ちょ、待って」

慌てたように先生が食い下がった。「家庭科のテストなんてついででしょ。こんなのだけなに本気で百点とってるんです君たちは」

正論である。たしかに家庭科は期末テストの科目の一つだったが、所詮は副教科であった。副教科が内申にまったくかかわらないことはないだろうけれど、この学校はあくまで五教科つまり大学入試の試験科目を重視する。総合点も五教科五百点満点だ。国語、英語、社会、理科、あと数学の五百点満点である。

ところが、

「だーれもどの五教科とは言ってねえよな」

これが夏の期末テストの顛末だ。

先生は少しだけ黙ってしまって、少しだけ視線をおろおろとさ迷わせた。四人組を一人ずつ、寺坂くん、彼の悪友その一、その二、そして彼らに入れ知恵した四人目を見て、ぬるぬるとうなって目をつむる。記憶を遡る努力を始めたようだ。ところが彼が思い出してしまう前にと、私の斜め前の席で生徒が振り返ってクラスメイトをけしかけた。五教科といったら国、英、社、理、それから家庭科のだろうと言って。

一斉に追撃が始まった。前の席で奥田さんがくすくすと笑う。私も一緒にくすくすと笑って、彼女と顔を見合わせた。英語と社会と理科から一人ずつ、加えて五教科目の家庭科から四人。何も私のことではないのに喜ばしくて、楽しくて、おかしくて、ひどく——幸福な心地がした。

その日は終業式まで行われた。答案返却後、本校舎体育館での式のためだけに山を下り、終われば最後のホームルームのために山をのぼり、それも終われば下校するためにまた山を下りる。そうして荷物諸共、下り坂に向かって校門を抜けたときのことだ。

「あんたさ、俺に言いたいことがあるんじゃないの」

少し後ろを歩いていたクラスメイトが、わざわざ隣に並んできた。

「赤羽くん」

位置関係は互いに把握していたから、特に驚くことはない。特に共に帰る意図もなかったが。放課後になったから教室を出ただけ。最終日だったから放課後訓練もなかっただけ。だから結果として多くのクラスメイトと共に、山を下りることになっただけ。そうした流れに沿って、隣の席の赤羽と偶然同時に教室を出た。靴を履き替えた。同じ道を同じ速度で歩いて、同じ門を抜けることになった。

しかし私と赤羽はこの認識を、共有するものではなかったようだ。特に驚くことはない。とはいえ、それには意図が必要だ。

同様の質問を受けた覚えはある。ちょうど相手も赤羽だった。修学旅行の夜のことだ。長い雑談を挟んでようやく、昨冬の私のE組落ちに関して贖罪しようとしたのだった。当時それまで謝罪の一つもなかったから、さすがにこの私も然るべく思い当たって、およそ想定内の問答の中で彼を快くゆるした。——つまりは今は済んだ話だ。

だからやはり見当もつかないのだが、私は少し考える素振りを見せて、

「何のこと」

正直に質問を返すことにした。赤羽に対して言いたいことなど、この私にはもはや何一つとしてないのだ。しかし速度は合わせてやった。今の私は気分がよい。この程度は譲歩の内にも含まれない。

隣の顔は正面を向いていた。「そんなにうれしそうなとこ初めて見た」

はるか前方に茅野さんと奥田さんがいる。

「ふふ、なんだ、そんなこと」

私は急に笑いたくなった。「実はね」と少しだけ声を潜めて。「テストの成績があがったの」

「すごく難しくなってたのに」と、付け足すと、返事があった。「そうだったね」と隣から気の抜けたような声。成績の上昇か問題の難化か、彼がどちらにうなずいたかは私にはわからなかった。だが今はどちらでも構わなかった。

「学年一位は無理だったけど、理科と数学が特にあがってて」

「そっか」

赤羽が平坦に音を紡ぐ。声色は読みとれない。思いついて再び隣を見るまでもなく、彼は正面を向いている。顔には影が生まれていた。過去の退屈な会話の中で、今のような表情をつくっていたかもしれないが、私は初めからどちらでも構わなかった。今はいつにも増して、どうでもよい。ふと頬が緩み、息がこぼれる。一方、赤羽はそれきり口を閉じた。

一歩、二歩、五歩、十歩。この私も困惑しつつも隣人にならったら、十メートルも二十メートルも無言のまま下ってしまう。それは決して悪い時間ではなかったが、いよいよ三十メートルを過ぎる頃、さすがにと思って隣の様子をうかがったら、

「幸せそうだね」

「うん、私は幸せだよ」

考えるより先に答えることになった。答えた瞬間、視線が交わった。すっかり感情を押し隠した瞳に、満開の笑顔が映り込む。

赤羽の中間テストは学年四位だった。赤羽の得意科目は数学だった。赤羽の期末テストは学年十三位だった。赤羽の数学は学年十一位だった。私の総合点は、やはり赤羽には及ばなかったが、数学の学年成績は三位だった。

まもなく赤羽が正面を向きかける。はたして配慮が必要だったか、いや


「赤羽くんは」


そのようなものが一分でも備わっていれば、それは問うまでもないことだった。この夏の三年E組には総合点一位を期待された生徒がいた。——そして私は幸福だった。

それは自問自答より自己暗示より、この私より、誰より、何より、普遍的に必然的に果たされるものだ。