# 七月、そして期末テスト ## 一 木陰で先生が赤ペンを握った。よくできていますねと、もう一人が教科書をめくる。そのまた隣の先生は参考書を二、三冊ほど広げてみせて、ふとした拍子に顔を上げた。校舎の時計を見たのか、はたまた空模様から時間を読んだのか。私はその視線を追わなかったが、まもなく中央にさらなる先生が出現する。徐々にクラスメイトの意識も流れ、ようやく私もつられるように振り向いた。 「ヌルフフフ」 しかし先生の呼びかけは*すべての分身*から聞こえてきた。言うことには、一学期の間に基礎ができてきた、と。私は*自分の先生たち*の元へ意識をなおす。 「この分なら期末の成績はジャンプアップが期待できます」 赤ペンの先生と、教科書の先生と、参考書の先生と。三つの分身はぬるりと笑った。頭上で木の葉がさわさわ揺れる。 近ごろ屋外で過ごすことが増えた。夏服になってプールがきて、旧校舎はいよいよ誇らしいまで——に劣悪で——ある。昼休みに入るまで集中が続けば御の字で、それも真昼間のプールを当てにしている部分があり、もちろん午後の授業など教室で受けた——いものではな——い。校舎より木陰が涼しいので。雨が降らないことが大前提だ。 幸いにして三年E組はほとんどの授業を担任一人が回しており、授業日程には融通が利く。さらに生徒一人につき二、三の分身も用意できる。屋外での一斉個別指導も彼にはいたって現実的だ。今も各生徒に寄り添って今学期の復習を手伝っている。 期末テストに向けて。 採点が終わるころ、見計らったように分身たちが生徒の周りから姿を消した。 「今回は、この暗殺教室にぴったりの目標を設定しました!」 一か所に集まった先生が、瞬きのうちに複数の単語カードをくわえ、見せびらかしている。単語カード一つにつき、大文字のアルファベットが一つ。続けて読むと、ラッキーチャンス。クラスメイトの手が止まった。先生は言った。前回、中間テストの目標は諸事情により達成されなかったが、何より総合点ばかりを気にしていてよくなかった——。 「さて、前にシロさんが言ったとおり、先生は触手を失うと動きが落ちます」 ——先生は*自分の脚*を撃った。 三年E組にはありふれたピストルから、対触手弾が勢いよく飛び出す。それは、あたりまえに命中して、 「一本減っても影響は出ます」 先生は表情を一定に保って、そのまま生徒に観察を促した。ご覧なさい、と。示されるまでもなく先をうかがって、私ははっと息をのんだ。それは*子供の分身が混じってしまった*と説明されたが、表れた事実はさらに深刻だ。先生は一定の表情の元、また躊躇なく発砲した。 「ご覧なさい。子供分身がさらに増え、親分身が家計のやりくりに苦しんでいます」 肉が弾け飛んだ音。先生は表情を見失わない。さらに引き金に力が込められて、また一本、先端が切り離されると同時に、*父親*が蒸発した。 「いろいろと試してみた結果、触手一本につき先生が失う運動能力は、——ざっと二十パーセント!」 びたびたと、肉が跳ね、跳ねた先から徐々に形が失われていく。 「教科ごとに学年一位を取った者には、答案の返却時、触手を一本破壊する権利をあげましょう」 最近、知ったことがある。先生は確実に爆発する。次の三月に、地球ごと。 ## 二 クラスメイトは目の色を変えた。勉強をがんばったら成績が上がるかもしれない。そして成績が上がったら標的を殺せるかもしれない。もしかして標的を殺せたら、大金が手に入る。それも総合点のみならず各教科の得点によって。というと、まあ大方のクラスメイトには得意教科が存在する。 もちろんE組の大半は成績が悪い。だからといって全員が全教科で落ちこぼれたわけではない。限定的に一位を狙える者は珍しくないのだ。好例の奥田さんは、 「理科だけなら私の大の得意ですから! やっと、みんなの役に立てるかも!」 などと喜ぶと、理科の参考書を片手に登校してきて、席に着いたらノートも開き、食事中といえども化学式をにらみつけ、ついには図書室にまで行き(独特の校風によりE組の図書室利用は困難を極める)帰ってくるなり意気込んだ。 「目標は同じです! 私は理科で満点を狙います!」 言い争いをしたらしい。 奥田さんはクラス委員の磯貝悠馬に誘われて六人ほどで図書室を利用した。冷房の下、学習書もそろっており、実に気分がよかったそうな。しかし急に現れたA組が言いがかりをつけてきて、たまらず言い返してしまったところ、今度は勝負を挑まれたのだという。主要五教科学年一位の数を競って、勝った側は——学年一位の多かったクラスは——負けたクラスへの命令権を一つ得る。 A組の生徒たちは成績優秀者として知られており、さらに大勢の目撃者の存在もあって、私が子細を把握するときには、半ば学校公認の対決となっていた。 こうしてE組の期末テスト事情は新要素を迎え、奥田さんは笑みを浮かべる。 「楽しい夏休みにしましょうね」 E組の「命令」は決まっている。 クラスメイトはますます熱を上げた。勉強をがんばったら、成績が上がり、大金が手に入るだけでなく、南の島が待っているかもしれないのだから。 ——うなずいた私の手の中で、モバイル律が受信を知らせた。視線を落とすと一文目は、夏休みの暗殺について。私は左の席を見ないで、アプリで*クラス*の発言を追う。最新の発言者は磯貝くん。せっかくだから成功率をもっと上げないか、だって。 ## 三 南の島というものは、中学生の心をひどくかき立てるらしい。E組落ち以前、共にA組を目指していた友人と、時々は沖縄旅行の話をした。この学校は生徒の向上心を上げるために、前向きな目標も提示している。エンドのE組に対し、エースのA組。いわゆる特別進学クラスである。実力主義の校風も相まって、時に彼らは何者にも優遇される。たとえば夏休み、三年A組だけの学校行事、離島リゾート二泊三日。 これは当時の私たちのように、E組の生徒にも動機を与えた。そうして、しがらみほどにまで思惑が絡んで、いよいよ期末テスト当日を迎える。からっとした晴天、クラスの人工知能の受験のことで烏間先生は苦労したようだが、生徒にはとりあえず関係ない。会場では空調設備が機能しており、見知った出題範囲の問いが配られ、やがてすべての答案用紙を提出した。 採点結果はテストから三日後、学年内順位と共に旧校舎に届いた。先生は一教科ずつ、一位を発表して、答案用紙を返却した。教室はわき上がった。三回くらいクラッカーも鳴った。英語、社会、そして理科でE組が学年一位を飾ったのだ。幸い単独首位につきA組との賭けはE組の勝ちだ。とはいえ国語と数学はA組の一名の元にあり、総合点一位も同じ生徒が維持している。 私はというと理系的成績で計四百五十点の十位台。理数返却時、殺せんせーには惜しまれたが、私としては予定どおりだ。総合点も学年一位の四百九十一点には遠く及ばない。 さておき教室は歓声に満ちた。前の席の奥田さんも真っ赤な顔で喜んでおり、周囲のクラスメイトから口々に褒めそやされている。私も三度「おめでとう」を言った。奥田さんからは何度も「ありがとうございます」を聞いた。 教壇の先生もうれしくてたまらないようだ。三本の触手に旗を立て、顔色で緑の横縞を描いている。 「トップの三人はどうぞ三本ご自由に」 先生はナメくさって差し出した。ちょうど彼が自己申告の実演で減らした数が三本だった。一本につき二十パーセントというが、計五十パーセントにしろ六十パーセントにしろ、実演に使ったということは、三本程度のハンデでは殺されない自信があるのだ。いや六本でも差し出せる可能性はある。それぞれの学年一位が一人ずついた場合、彼は六本の触手を破壊されることになる。 私が先生の認識を改めたところで、さて、廊下側の席の四人組が椅子を引いた。ガタ、と同時に音を立て、床をきしませながら前に出る。何やらもの言いたげな彼らは、学年一位の三人ではない。成績でひとくくりにできる集団ではないが、先頭にはあの寺坂くんがいて、しかし、 「五教科のトップは三人じゃねえぞ」 などと言う。 寺坂くんは長らく非協力的で典型的な劣等生だった。先の*水殺*の一件から、心境の変化でもあったのか態度を改めたが、期末テストには遅すぎたといえよう。そのうえで問題の難易度が中間テストより上がってもいた。いやまさか、とは誰も口にしないけれど、とんと見当がつかなくて、教壇の先生も疑問符を浮かべる。 だが四人組は自信満々に教壇に答案用紙をたたきつけた。 「五教科つったら、国、英、社、理、——あと*家*だろ」 「ちょ、待って! ——*家庭科*のテストなんて*ついで*でしょ! こんなの*だけ*なに本気で百点取ってるんです、君たちは!」 「だーれも*どの*五教科とは言ってねえよな」 先生は少しだけ黙ってしまった。記憶を遡る努力を始めたらしい。しかし思い出してしまう前に、他の生徒が追撃する。五教科といったら、国語と英語と社会と理科と、それから家庭科なのだと言って。斜め前の男子が、すぐ後ろのクラスメイトをけしかけていた。くすくすと前の席で奥田さんが笑っている。 当然、五教科といえば、国、英、社、理、あと数学である。家庭科は副教科で、副教科の点数は椚ヶ丘では重視されない。だがE組の担任教師は、もはや彼らの結果を切り捨てる道を失った。英語と社会と理科が一人ずつ、くわえて家庭科から四人の満点。 七本もと思うより、フフ、と笑みを漏らしていた。それから奥田さんと顔を見合わせ、喜びを共有する。何も私のことではないのに、おかしくて、うれしくて、ひどく幸福な心地がした。——いつも私は幸福だけれども。 そして磯貝くんがとどめを刺した。 「これはみんなで相談したんですが、この暗殺に今回の賭けの戦利品も使わせてもらいます」 ## 四 今日は終業式も行われた。答案返却後、本校舎体育館での式に参加するために山を下りて、終業式が終わったら最後のホームルームのために山を上って、そしてホームルームが終わったら下校のためにまた山を下りる。 その途中で声をかけられた。 「あんたさ、俺に言いたいことがあるんじゃないの」 少し後ろを歩いていた赤羽が、わざわざ横に並びにくる。 特に帰り道を共にしているつもりはなかった。放課後になったから教室を出ただけ。最終日だから放課後訓練の予定もなかっただけ。だから結果として多くのクラスメイトと一緒に山を下りることになっただけ。その流れで、たまたま赤羽と同時に席を立った。靴を履き替えた。同じ道を同じ速度で歩いた。同時に校門を抜けることになった。 その認識は、しかし私だけのものだったらしい。質問の意図もつかみにくい。ゆえに赤羽には考えがあると推察できるが、その思考など知りたくもない。けれども意図をつかまねば、答えようもない。 たしか以前にも赤羽から同様の質問を受けた。修学旅行の夜のことだ。長い雑談を踏んでようやくの「俺に言いたいこと、ないの」だった。あのときは心当たりがあった。私のE組落ちにかかる話だ。私のE組落ちに関して、赤羽には咎がある。冬に事件が起きて、季節が移ろいで、また同じ教室で一か月ほど過ごして、あのとき初めて私たちは場を持った。——だから、そのことではないだろう。 となると、やはり見当もつかない。 「何のこと?」 私は少し考える素振りを見せて、正直に答えた。歩く速さも、隣人に合わせて少し緩んだ。今はこれくらい特に気を立てることでもない。気分よく隣の顔を見ると、そちらは正面に向けられていた。また気分よく正面を向いた。はるか前に奥田さんと茅野さんがいる。 隣人は正面を見たまま言葉をこぼした。 「そんなにうれしそうなとこ初めて見た」 「ふふ、なんだ、それなら実はテストの成績が上がったの。すごく難しくなってたのに」 私も正面を見たまま笑顔で答えた。隣からは、そうだったねと気の抜けたような返事。私の成績のことか、問題の難易度のことか。どちらのことかわからなかった。私はどちらのことでも構わなかった。 「一位じゃなかったけど、理科と数学が特に上がってて」 「そっか」 赤羽は平坦に音を紡いだ。表情は読み取れなかった。思いついて再び横を見てみたが、彼は変わらず正面を向いており、顔には影ができている。私の受け答えに退屈を感じただろうときに、今のような表情を浮かべたかもしれない。それなら話しかけなければよいのに。私は奥田さんと同じくらいの頻度で、この隣の席のクラスメイトと話している。 けれども今このときだけは許してやろう。 視線を外すと、私たちの間には沈黙が流れた。好ましい時間だが、心地よくはない。悪くもないが、先に赤羽が口を開いた。 「それでも幸せなわけ?」 「うん、私は幸せだよ」 答えてから、その尺度の出処が気になった。脈絡のない質問だった。だが、すでに答えた以上、考えることに意味はないだろう。元より無意味な問答なのだから。 また沈黙が流れて、もう一度だけ隣を見てみる。そうしたら、たまたま目が合った。何も感情を映さない瞳が、すぐに正面へ向き直る。私たちの周囲だけが静寂の中にある。それが先よりずっと長かったから、ようやく私は思い至った。赤羽を——おもんぱかってやるべきだったろうか。 赤羽の*中間テスト*は学年四位だった。赤羽の得意科目は数学だった。赤羽の期末テストは学年十三位だった。赤羽の数学は学年十一位だった。私の期末テストは赤羽に及ばなかったけれど、数学は学年三位だった。 だから、とりあえず尋ねておいた。 --- 「赤羽くんはどうなの」 --- 総合点一位を期待されながらはるかに下回る成績を出してくれたクラスメイトへの気遣いが、今の私に一分でも存在したなら、きっと口にはしなかっただろう。 だが今は自己暗示よりも、この幸福にさらなる幸福を重ねることを、よほど大事にしたかった。