第43話「夏の時間」から第48話「実行の時間」まで

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七月、又はプール開き

梅雨が明けた。途端、鮮烈な日差しに襲われる。時々の晴れ間とは比較するべくもない。夏である。夏が来た。それでも暑さが本格化する前に夏服に切り換わったけれど、それも結局その場しのぎにすぎないものだ。風を冷房のように感じられた時期もあったが、じき熱風に変わってしまった。折に触れて考えてしまうことがある。やはりミュータントパワーを使ってしまおうかと。

ミュータントパワーは身体能力である。これは持久的能力や筋力に並ぶ力である。私にとっては。走ることも走り続けることも、暗示をかけることもかけ続けることも、何ら変わらない行為だった。かつてアルファコンプレックスで生まれ、そして死んだときから、ずっと。

この地上都市、時代よりはるかな未来の地下都市で、死んだ、いや致命的なできごとがこの身に降りかかったことがある。数えること六度。そのたびにクローンを用いて生き永らえた。

地下都市アルファコンプレックスの市民にはバックアップが存在するのだ。常に活動を再開できるように、クローンが常に最新の状態に保たれ、記憶がクラウドに保存されている。アルファコンプレックスの運営者たるザ・コンピューターの慈悲がもたらしたシステムである。よって私のこの記憶についても疑問を差し挟む余地はない。かつて私も五体のクローンと共に出生した。

この地上都市で、赤子の姿で覚醒して十四、五年、しかし他者はそうではないのだと気づくには、あまりに長い年月が経過した。だが、それは誰もがバックアップもミュータントパワーも持たないことを確認するには、あまりに短い年月だ。私は楽観的になれない。現に私が記憶を引き継ぎ、ミュータントパワーを備えている以上は、他に同類が存在する可能性は否定できないものである。

可能性が完全に否定されるまでは、私はミュータントパワーを隠し通さなければならない。

よって当然、ミュータントパワーを行使するような愚行は、時と場を選ばずしては冒せない。たとえばそれは人目につかない廃墟などで誰もが余裕を失っているか、誰もが知性を失っているか、あるいはその両方を欠く者を相手どる場合のことで、まったくもって今現在ではない。だが夏の旧校舎はかように自己暗示を要するまでに劣悪で、ひた暑い。そのうえ、とうとうプール開きの日が訪れてしまった。

クラスの大半がいよいよその事実を覆そうと躍起になる朝、しかし隣の席のクラスメイトは教室に来るなり尋ねてきた。

「鷹岡が辞めたんだってね」

昨晩のうちに烏間先生から一斉送信で連絡された内容だった。だが私は親切にも答えてやる。

「最初の授業でクビになったよ」

「早っや!」

こちら、プールとはまるで関係ないが、昨日、一昨日のただの二日間のできごとである。鷹岡明なる体育教師がやってきた。烏間教官の後任で、防衛省の職員だ。

E組の生徒は体育の授業の時間に、かわりに暗殺の訓練を受けている。体育教師とはその教官で、かつてもこれからも烏間先生であるのだが、素人を相手にうまく指導してくれて、授業の評判は問題がないどころか上々といったところ。そこに鷹岡が派遣された理由は、ひとえに烏間を本来のより重要な仕事に専念させるためだった。鷹岡先生の寿命は授業時間になおして一時間もなかったけれど。

ちょっとした事件が起きたおかげだ。なんと、この男は暴力教師だった!

隣の席のクラスメイトは転校生暗殺者の到来からしばらく、なぜか遅刻欠席だけはしなくなったのだが、昨日は久々に欠席を決め込んだ。新しい教官のすばらしい人格とそれによる訓練模様のことを、前日から肌で感じてしまって熱でも出してしまったのだろう。

さておき経緯をかいつまんで説明すると、今日はまた遅刻しなかったクラスメイトは目を見張って、僅か斜めへ頭を動かす。本当にどれも初耳だったようだ。たしかに一昨日の放課後は、体育教師の人事に関して簡潔に明かされたのみだったが。

「誰にも聞かなかったんだ」

疑問が口をついて出る。赤羽は別の方向を気にかけながらも答えた。

「どうせ教室に来ればわかった」

「律にも?」

彼はまた肯定した。が、今度はこちらに視線をくれて、おかしそうに笑う。

「どうしたの」

「なんでも。怒らないでよ——まあ怒らないだろうけど」

「そうだね?」

「今日は何を読んでるの」

「何って」

私は表紙を見せる。赤羽は分類を推測する。

「SF、ミステリ——」

「——そうだね」

「俺も映画はわりとチェックするよ」

「渚くんとよく話してるよね」

まあね、と返事をする頃にはもう退屈そうだったが。いったい何の話だったのか。ミュータントパワーを使えば造作もなくわかることだったが、当然やすやすと使うわけにはいかない。そして赤羽は、

「渚くん、どうだった?」

話題を一つ前に戻す。私はまた親切に答えてやった。

「これぞ暗殺って感じだったよ」

——鷹岡は暴力教師だった。

烏間先生とまるで異なる過重の準備運動に加え、度重なる暴力。しかし相応の建前を並べられて、烏間先生もあの担任教師でさえ迂闊に手を出すことができない。けれども忍耐にも限界がある。教師か生徒か、決壊寸前といったところで、鷹岡は自身の進退をかける。つまり烏間先生の進退が懸かった対戦の提案だった。

烏間先生と鷹岡、二人の教育の正当性を証明する一対一の勝負である。相手はもちろん鷹岡だったが、あくまで教育の証明だということで、烏間先生はその成果——生徒——の供出を余儀なくされた。鷹岡は言った。ハンデがある。自分は素手だが、生徒にはナイフを使わせてやる。生徒は殺し屋であるからして、もちろん人間を殺せるナイフを使わせてやる。

寸止めでも当たったことにしてやるよ、と暴力教師は笑って告げた。彼は訓練生の否定的反応に慣れていた。いや、それを前提としていた。生徒との勝負の提案も常套手段だっただろう。彼は素手で凶器を相手どる訓練を施す立場にあって、一方、たとえアルファコンプレックス市民であっても——処刑目的でさえ——殺害に足る武器の所持を躊躇し、あまつさえ扱いきれない新人はごまんといる。

だが鷹岡は敗北した。勝者は渚くんだった。

これは赤羽には伝えなかったことだが、烏間先生は熟慮のすえ、けれども長考することはなく、半ば確信の下で渚くんを選んだ。渚くんはクラスの男子生徒では一番、女子生徒と比べても小柄な部類で、併せて身体能力も低い。近接戦闘の訓練でも目立ったところはまるでなかった。戦闘という領域において一目で見下せる弱小者。だから烏間先生は渚くんを選んだ。

だから烏間先生も、まさかそれほどまでとは疑うこともしていなかっただろう。渚くんの才能が。まさか元精鋭部隊の首筋に峰を当て、それから何事もなくクラスの輪に溶け込めるまでだとは。

それとも赤羽なら違和感の一つでも抱いていただろうか。だから友人関係を築いておいて自然消滅的に遠ざかったのか。赤羽にもある種の才能が備わっている。今朝ずっと気にかけている方向には渚くんの席がある。

いずれにせよこの私の親切は、それらに言及するまでではない。まんまと殺されたところで、私の負う責などありはしないのだ。

「赤羽くん、プールの用意はしたの」

「まーね。面倒だったけど一応

中学生の流行は、ちょうど夏の雨のように過ぎ去る。鷹岡の前は衣替え、衣替えの前は球技大会、球技大会の前は梅雨明け、梅雨明けの前は転校生暗殺者。まあ教員のトラブルは実は二度目で、衣替えは定期的で、球技大会は終わりがよかった、梅雨明けは行事の前ではちりに等しく、第二の転校生暗殺者の到来と休学は——中学生には遠い過去だ。

今はプール、プールまたプール。プール開きの憂鬱も、まったくなかったことになった。理由は割愛。重要な事実だけ述べると、裏山にE組のプールがある。温暖湿潤気候の夏の午後は、プール開きによって、誰からも等しく待たれる時間となった。ただ一人を除いては。

「俺がこいつを水の中にたたき落としてやっからよ!」

殺す、殺せなかった、次こそ殺す。物騒な宣言も日常茶飯事の教室で、ただ今、寺坂くんが水殺すいさつを提案した。舞台は当然にプールである。今日の放課後、寺坂くんは標的をそこに「たたき落とす」という。だから「てめーらも全員、手伝え」と。

当然のように反発が起きた。誘い文句というよりは、寺坂くんその人に。暗殺計画にクラスメイトを誘うことは、もう四月の頃から繰り返されている。共に暗殺を計画したり、計画への協力を求めたり。だが寺坂くんは、今回このような誘いをかけてきたわりに、誰の暗殺にも協力しなかった。

断言できよう。寺坂くんは今となってはクラスで一番それこそ人工知能より非協力的で協調性がない。暗殺に限った話ではない。訓練、行事、試験、授業、何もかもにおいてのことだ。

「どうやって『たたき落とす』んでしょうか」

昼休み、寺坂くんの去った教室で奥田さんが疑問を呈した。全クラスメイトの代弁といっても差しつかえないだろう。日頃の行いはこの際さておくとしても、協力を要請するわりに説明が少ない。生徒数名が説明を求めたものの寺坂くんは「たたき落とす」の一点張りだった。彼は短絡的なE組生徒の代表格だが、それゆえの考えの至らなさであるとするにも、あまりに浅慮が過ぎるのではないか。

「もったいぶることないのにね」

赤羽が教室の出口を見る。

「失敗したらもう使えないんだし」

舞台をプールとするならば「たたき落とす」自体は妥当な暗殺計画だろう。プール開きによって標的の弱点が判明した。水である。泳げないのだ。触手の体は水を含むとほとんど動けなくなって、だからといっても溺死はしないが、これまでに判明した中では最大級の弱点だった。この夏、クラスメイトはプールもとい水殺の虜囚である。「たたき落とす」計画もすでに複数実行された。

とはいえ水中に落ちただけでは先生は死なない。最高速度マッハ二十の賞金首は愚鈍になっても依然として容易にとらえること能わず。策を講じても通用しない。標的は非凡な思考能力と驚異の学習能力とを備えている。彼は経験した暗殺を必ず回避する。同様の暗殺は二度と通用しないのだ。

すでに実行されたいくつかの計画は、いずれもまず「たたき落とす」段階まで至れなかった。仮に寺坂くんの計画がそこまで確かに「たたき落とす」なら、それは無二の好機である。余計に協力が重要だ。こうして生徒に声をかけたのだから、なおのこと。いくら寺坂くんだろうと、この教室で過ごしていればわかろうものだが。あるいは話せなかったのか、寺坂くんには。

先生に水がかかる方法ならある、と思う。たとえば生徒全員がプールに集合したときに。

嫌な予感がした。寺坂くんは劣等生だ。成績不振によるE組落ちを誰より確実視されていた。同学年の生徒の一部は、だからE組に落ちたくなかった。一年生の頃からの、学年一の乱暴者にして嫌われ者。——その落伍者にかような暗殺計画が、一片の想像に過ぎなかったとしても、はたして抱けるものだろうかと。

非難囂囂の昼休み、しかしE組生徒一同は計画への協力が決まっている。


まさか標的が担任教師として、これまで消極的な態度を貫いてきた寺坂くんによる自発的な協調姿勢に感服して、感動、感涙、乗り気になった。生徒は半ば強制され、ついに放課後、プールに水着の身体を沈める。

一方で発起人はただの夏服で、アカデミックドレスの標的とプールサイドで向かい合った。

「ピストル一丁では先生を一歩すら動かせませんよ」

担任教師が顔に緑色の横縞を浮かべる。大抵の暗殺は彼にはとるに足らない内容であるからして、当然の表情、感情の発露だ。地球を爆破する超生物は感情を隠すことができない。

「ナメやがって」

それでも寺坂くんは銃口を突きつける。事ここに至ってもなお、彼は余裕を崩さなかった。あれから何も聞かされなかったクラスメイトが、それでも暗殺する以上はと勝手に作戦を立てたことを、きっと思いつきもしないのだ。

どうか当たってくれるな、いや、いっそ当たってくれよ。私は凶器の行方を見つめる。

「覚悟はできたか、モンスター」

「もちろん、できてます」

ところで裏山のこのプールは、先生が沢をせき止めて造ったものである。仮にそれが決壊したとき、たまった水は勢いよく流れ出し、仮にそこに人間がいたとき、人々はやがて岩場に打ちつけられるだろう。

先生が生徒を助けなければ。

寺坂くんに授けられた引き金は、どん、とただ表すにも生易しい衝撃を呼んだ。ざぶりと、次第にごうごうと、水が流れ、体が言うことを聞かなくなる。横で奥田さんが悲鳴をあげた。ばたばたと両手でもがこうとしている。彼女たちがわからずとも、もちろん寺坂くんが知らずとも、そして首謀者にその気がなかったとしても、私たちの体は死地に向かって押し流されていく。

それでも私は流されねばならない。せいぜい自己暗示でもかけて、奥田さんを見習って、顔を青くして声をあげ、ただ慌てようにも焦って、ぞっとするにもじっともできず。景色がどんどん流れていく。声をかけて安心させるには、ありきたりな生徒では力不足だ。先生によって難を逃れねばならないのだ。奥田さんが手を動かせなくなる。一方で、周囲のクラスメイトが次々と触手に巻きとられて、投げ出される。

目の前で奥田さんが絡めとられる。

先生の触手は膨れあがって、頼りなかった。私の体が浮き上がったとき、ますますそこに水を吸わせた。そして私を地面に落として、優しく落として、先生は再び弱点の元へ戻る。

「これって」

呼吸を整えながら、奥田さんが。

「爆弾だろうけど」

と私は答えて「どうやって」とすぐにつけ足す。

それが頭上からの声に遮られた。

「大丈夫?」

この場にいなかったクラスメイトだ。水着どころか水滴の一つも身につけていない。しかし、どうやら遠くない所にはいたらしい。あるいは爆音がよほど響いたか。

横で奥田さんがうなずいたから、私も彼女にならって首肯した。実際に先生の自己犠牲がかすり傷の一つも残さなかった。このような状況で、彼の性能の少なくない部分が生徒の心配のために割かれている。後に待ち受けているものを、もはや予期できていない道理はないのに。

赤羽も息をついて、プールだった所を指した。

「あそこ」

横で奥田さんが声をあげる。

「イトナくん!」

シロだった。探せばすぐに見つかった。梅雨時の転校生の過保護な暗殺者が、距離をとりつつ見晴らしのよい高台に一人たたずみ、見下ろしている。全身白装束の眼下には、触手で切り結ぶ子供と教師。

寺坂くんには不可能。だがシロなら可能。彼には手駒が数あるはすで、中でも堀部イトナであれば、動きが鈍った標的を単騎で制圧してしまえる。それほどの改造人間を用意できるシロだ、爆弾の用意など造作もあるまい。

「寺坂くんは利用されてたんだ」

わかりきったことを言っておけば、

「バカだよね」

と返ってきた。

先生の劣勢は誰の目にも明らかだった。己が身を弱点にさらしながら、生徒数名を救出し、触手の改造人間と戦闘。先生は水びたし、暗殺者は生徒、彼らの付近にもまた生徒。シロの計算のとおり救助が完了されなかった生徒たちは、今、挑戦者の盾として機能させられているところだ。先生は先生をまっとうするために、生徒を加害することができない。そうでなくとも生徒たちに攻撃が当たらないよう気を配っただろうとはいえ。

対戦相手の改造人間は違った。めったに触手も振り回せない標的に対し、挑戦者は存分に触手を振るった。いくらも調整が入ったようで、前回、転校初日より動作が洗練されている。保護者の巡らせた奸計の下で、順調に担任教師を追い詰めている。

「あんたなら、どうする」

隣で赤羽の声がした。振り向いたら、目が合った。私は見つめ返して答えた。

「できるなら、あの二人の注意を引くけど」

返事はなかった。赤羽が無言で背を向ける。あまつさえ立ち去って、奥田さんと二人、残される。奥田さんがおろおろと、赤羽と私を交互に見た。私の口はあっさりと冷静に言葉を発した。

「何か考えがあるみたいだね」


朝だか昼だか夜だか、いや深夜だったか、黄色の上司が話し出した。トラブルシューター諸君の献身的な奉仕によってミッションが更新された、と。大脳コアテックを通じて私たちの眼球内イン゠アイディスプレイに新たなミッションが表示される。確実な件名、簡潔な本文。さすがは上位セキュリティクリアランス市民ひいてはザ・コンピューターであると、私たちは我先に口を開く。


「してやられたな」

二度目の暗殺は失敗した。暗殺者の口はあっさりと冷静に言葉を発する。

「ここは引こう」

そしてプールだった水場を忌々しくも見下ろした。

「触手の制御細胞は感情に大きく左右される危険な代物。この子らを皆殺しにでもしようものなら反物質臓がどう暴走するかわからん」