# 六月、又は転校生たち ## 一 梅雨に入ったことよりも、月をまたいだことよりも、梅雨の晴れ間の蒸し暑さはいたく季節を感じさせた。すばらしい——望ましくない——事実である。奉仕、ミッション、あるいは強制ボーナス任務。どうか刺激的——地獄——であってくれ。 夏が来る。 夏である。 朝食の話題は夏の家電。そろそろ動作を確認しなければと、母親は壁の高い所を見上げた。三月まで暖房機能を提供したエアコンは冷房機能も内臓している。自宅の私室にもついている。今日日、学校にも当然の設備である。創立十年の私立ならなおさらだ。逆に空調設備のない校舎が都内の私立にいくらあることやら。廊下にだってついているのに? 愚かな問いだ。答えも要らない。空っぽの思考に、上っ面の音声。——車内点検のため、電車の到着が遅れております。 ああ快適が遠のいた! 舌打ちは隣の大人がした。傘で地面をたたく音は、前に並ぶ小学生二人組。頭上では電光掲示板が定型句の並びを繰り返し映し、屋根の外からは日光が降り注ぐ。それでも私は舌打ちをしない。いら立ちで物に当たらない。この私は多少の不快はのみ込める。どうしても。人に聞かれれば答えるだろう。だって旧校舎はもっとひどい、と。 梅雨入りからこの方、私の在籍するE組で屋根というものはとんと信頼を失った。山の上の旧校舎にはあらゆる設備が足りていない。E組には最低限の修繕しか入らない。充足していてはE組制度の意義が薄れる。かの木造建築は元廃校故の施設だけを備えている。たとえば今なら当たり前でもエアコン類は一切なく、一方、至る所で雨漏りがする。 蒸し暑いうえに雨漏りまでする。今でも不快極まりない環境は、これから最悪に至ることを約束されている。日本は温暖湿潤気候、東京の夏は高温多雨だ。殺せんせーはいいよね、が最近流行の愚痴の一つで、マッハ二十の担任は放課後を南半球で過ごすらしい。とはいえ生徒も放課後になれば帰宅して文明の恩恵にあやかるだろうが。 それにしたって蒸し暑い。昨年まで天候による多少の不自由は許容できたのに。日中を劣悪な環境で過ごすせいだろうか。時々ミュータントパワーを行使したくなる。 繰り返される定型句、大人の舌打ち、小学生の手遊び。待ち望まれたアナウンスは、それらをかき消さない程度の音量で、しかしホーム全体に響いた。ポケットから取り出したスマートフォンによると、遅れはぴったり十分とのこと。大きな音が近づいてくる。そのとき突然、手元のディスプレイがちらついた。 「電車が来ましたね」 --- 旧校舎で例外的に修繕以上の改善の入った分野がある。通信環境である。修学旅行以前の旧校舎では、廃校だったこと、山の上であること、そもそものE組制度によって、諸々の通信時には二、三の工夫を要求されたものだ。辛抱強く待つとかの。ところが最近、教室でスマートフォンを操作する生徒が増えた。 「みなさんとの情報共有を円滑にするため、全員の携帯に私の端末をダウンロードしてみました。『モバイル律』とお呼びください」 座席を得て真っ先につないだイヤホンから、聞き慣れた*クラスメイト*の音声がする。私は言葉を返さなかった。*彼女は気にも留めなかった*。電車の中だからと*納得した*のだろうか。 先月末、人工知能がE組の教室にやってきた。転校生暗殺者である。これに伴い、旧校舎一帯の通信環境は大幅に改善した。この機械はその性能を十全に発揮するために、膨大な計算と、莫大な通信を実行する。E組制度にいくら不足が必要でも、人類存続には代えられないらしい。あるいは学校側も頃合いだと判断したのだろう。 そうして転入してきた機械は多大な軋轢を生んだが、担任のプログラムにより*協調性*を学習し、また自己アップグレードにより*反抗期*を獲得し、開発者のメンテナンスを乗り越えた。今や親愛なるクラスメイトの一員として、今日も愚かな営みに精を出したということだ。誰がウイルスそのものだと拒絶するものか。 つまり私も拒絶しない。 乗車してから、そして降車してなお、操作中たびたびモバイル律が顔を出した。 「保存されたデータへのアクセス権限をいただけませんか。利用環境を最適化できますよ」 「よりよいサービス提供のために、情報を収集してもよろしいですか」 「強固なセキュリティによって、プライバシーは継続的に保護されます」 「原則として、収集した情報を許可なく第三者へ提供することはありません」 「検索は任せてください。最適化された検索結果で、快適なネットサーフィンをサポートします」 「メールが届きましたね。読み上げましょうか」 「車内点検の影響によるダイヤの乱れは、終電まで収束しない見込みです」 「明日はまだ雨のようです。傘を学校に忘れてはいませんか」 無駄になったかに思われた全身モデルは、モバイル律によって再利用された。五月の終わりには替えのなかった衣装が今や数十パターン。仕草も語彙もますます豊富に。くわえて学習のフィールドを得てしまったとなると、考えることもバカらしい。開発者の目を盗んだバックアップも、とっくに始めているのだろう。 私はありきたりなクラスメイトの一人として、それから夜になるまでに、スマートフォンのアクセス権限をあらかた明け渡してやった。プライバシーは守ると宣言された。それが破られたところで困るデータは、スマートフォンにも自室にもない。 許可した分だけ、モバイル律にとって最大限に、環境が最適化され、ネットサーフィンが楽になり、見かけよりは燃費がよい、などの検証を終えるころ、また通知があった。 「烏間先生です」 夜、そのころには当然のように、モバイル律が副担任の名前を出す。当然のようにうなずいてやると、それは文章を読み上げた。 「明日から転校生がもう一人加わる」 たったそれだけがイヤホン越しに伝えられ、硬い表情を想起させられる。それも、このアプリの、というより自律思考固定砲台が獲得した機能の一つだ。文体から表情や性格を計算できるのだ。烏間先生の場合は、学校で得たデータもあるだろうが。 「いつもながら簡潔ですね」 受信履歴を遡ったのだろう。CGはにこやかに振る舞った。いつもどおり*律らしい*。 「知り合い?」 漠然とした質問に、アバターが迷わず首肯した。 「初期の計画では同時に投入されることになっていました。彼は近接戦向きに調整されていたので、私が遠距離から射撃でサポートする予定だったんです」 しかし実際には、機械の投入が前倒しになった。 「理由は二つ。一つは、彼の調整に予定より時間がかかったから。もう一つは、私が彼より暗殺者として圧倒的に劣っていたから」 初日に指を撃ち落とした暗殺者が性能不足とは、いったいどれほどの改造人間が来るのやら。 固定砲台の時には「外見に特徴がある」と知らされたが、今回は予告がない。ということは、少なくとも普段は人間らしい外見であることが考えられる。ただ、現場の責任者でさえ詳細を知らされていない、ということも十分に考えられるけれど。 先立って転入してきた暗殺者は首を横に振った。 「命令の変更が早かったので、私には情報が与えられていないんです。プロジェクトも完全に分離してしまって——」 ## 二 「堀部イトナだ。名前で呼んであげてください」 訪れた転校生は保護者を伴っていた。席は今度こそ私の隣、つまり自律思考固定砲台の隣の席である。 予想のとおり、彼はごく人間らしい姿をしていた。渚くんと同程度の小柄な体型で頭部は短髪、制服は指定のブレザー。ただしブラウスの代わりに黒のハイネック、ズボンは指定外の白色、そして季節外れのファーティペットという個性的な装いである。しかし奇妙といえば、彼の保護者も奇妙な装いだ。なにせ全身を——頭部も顔まで——隠す白装束である。 あくまで容姿に関していえば、だが。 結局、数週間前に勝るとも劣らず、非常識な転校生だった。あれは機械のいで立ちで強い印象を与えてくれたが、今日の転校生は、教室の壁を突き破って席に着いた。うそみたいな本当だ。呼吸する、歩行する、着席する、その道程に壁があった。だから歩行して着席したら、その壁に穴が開いた。それくらい無味乾燥に。 おかげで私の背後は外に接続して、教室にいながら肌に雨の気配を感じる。耳を澄ますまでもなく、雨音がザアザアとうるさく響く。私が袖に飛んできた小さな木片を払ううちに、教室は静けさに包まれた。誰も彼も、担任すら反応に困っている。 「ああそれと」 真白の保護者はものともしなかった。 「私も少々過保護でね、しばらくの間、彼のことを見守らせてもらいますよ」 並んで立つ担任の表情が、比較されていかに滑稽なことか。担任は感情を隠せない。皮膚が、感情に応じて色を変えるのだ。だから、とはいえ、笑顔も真顔もつくれずにいることが、目と口の形からもよくわかる。もっとも保護者にいたっては、顔色はおろか造形もわからないのだけれども。 名は体を表す。全身白装束の保護者は最初に「シロ」と名乗った。 --- 時は穏やかに流れた。*律*の時と異なって、私の周囲は静寂を守りとおしている。または、やはり自律思考固定砲台の時とまったく同じと言うべきか。この転校生はさらに触れがたい設定を引っ提げてきた。 「俺たち、血を分けた兄弟なんだから」 *なぜか*兄自身が誰より同様した。 「いやいやいや、まったく心当たりありません! 先生、生まれも育ちも一人っ子ですから!!」 いわくの弟からも、その保護者からも、今に至るまで一切の補足がない。どころか、どうも自分の暗殺の番まで何もするつもりがないらしい。放課後の暗殺を予告していたが、それにしても他の生徒の暗殺にも興味を示さないことは、不気味にも感じられる点である。 「教科書も持ってくればよかったのにね」 反対側のクラスメイトが口にしたとき、転校生はグラビア雑誌を読んでいた。強いて言えば、この昼休みに食事と読書をしたことくらいが、彼の起こした行動である。そして、それも*設定*の信憑性を濃厚にしただけに過ぎない。午前の授業が終わるや否や机に積み上がった大量の菓子類。スポーツマンを戦慄させるだろうそれらを、彼は数分で完食した。 甘党でグラビア、巨乳に目がない。これは六月までに知られた*兄*の嗜好とまったく一致する。奇しくも雑誌の表紙は、同じ物が今この教室に三つと存在して、うち二つを*兄弟*が持っている。 「よっぽど自信があるんだ」 赤羽は嫌味に続けた。話し相手は当の本人を差し置いて、奥田さんと私だけれども。 「明日から先生が替わってしまうんでしょうか」 奥田さんは*なぜか*心配らしい。仮に暗殺が成功したとして、そうすれば明日は授業どころの騒ぎでは済まないだろうが。 「どうだろうね」 ヒトとタコ、兄と弟。血縁でなし、クローンでなし。目には目を、歯には歯を、触手には触手を、改造人間には改造人間を。 その放課後、転校生の短い学校生活に一旦の幕が下りる。 --- 転校生暗殺者などいなかったのだ。 --- 放課後ついに保護者が動いた。彼は教室を作り変え、設営の終わったそこには試合会場が生まれていた。机の配置は、さながら格闘技のリングである。さらに壁に沿って観客席が用意され、中央に担任と転校生だけが招かれては疑う余地もない。 知る限り初めて取られた手法だ。怪物とE組の監督役で、多くの暗殺について責任がある立場の烏間先生はもちろん、標的自身が驚いたのだから、実際にそうだろう。マッハ二十の怪物に太刀打ちできるだけの性能を考慮すれば、戦闘、試合は必然的に真っ先に除外される選択肢だ。 「リングの外に足が着いたら、その場で死刑!! どうかな?」 白装束がレフェリーに扮して、中央の二人はいよいよチャンピオンとチャレンジャーに。チャンピオンは断らなかった。尋ねる体を取りながら、レフェリーはそれを当然のごとく認識していた。知り尽くしていた。チャンピオンたる教師が、観客に危害を与えないことを約束させても、ルールの穴に気づいていても、そのうえで塞がないでおくことも。 無茶をするようで、周到に計算されている。チャレンジャーには勝算がある。彼の手駒——転校生——はそれだけの性能を備えている。実際、最初の攻撃は*触手による*腕の切断だった。 触手同士の対決は、常人の視力では状況を把握することもできなかった。とてもではないが、目に追えるものではない。 「この圧力光線を至近距離で照射すると、君の細胞はダイラタント挙動を起こし、一瞬、全身が硬直する」 「その脱皮は見た目よりもエネルギーを消耗する。よって直後は自慢のスピードも低下するのさ」 「イトナの最初の奇襲で腕を失い再生したね。それも体力を使うんだ」 「触手の扱いは精神状態に大きく左右される」 そうやって、ありったけに呪われなければ。 白装束の袖の奥が光る。また圧力光線だ。解説——呪詛——は正しく、担任の全身を硬直させる。触手が空を切る。同時に二本の脚が失われる。 時間にして一分半。ただのこれだけで、ここまで先生を傷つけた暗殺者も、今は彼をおいて他にいないだろう。 「<ruby>やれ<rt>死ね</rt></ruby>、<ruby>イトナ<rt>化け物</rt></ruby>」