茅野カエデ、四月
茅野カエデの、まだ新鮮な通学路に、すらりと伸びた後ろ姿が現れた。はたして、いつからそこにいたのか。気づいたときには彼女も茅野も本校舎を過ぎていた。道を誤ったわけではない。茅野のクラスの教室だけは、道の先、さらに山の上、旧校舎——特別校舎——に存在する。椚ヶ丘中学校特別強化クラス三年E組。それが彼女の所属である。
この中学校では三年生だけが五つのクラスに分けられる。今年も違わず、そうだった。四月。茅野がE組に来て早十数日。クラス仲は、おおむね良好。顔と名前は、すべて覚えた。つまり旧校舎の利用者を茅野はすべて記憶している。だから、その背中が疑わしかった。指定のブレザーのかわりの白色のカーディガン、靴下のかわりの白色のタイツ。そしてクラスの女子とも二、三を争う高身長。
彼女は茅野の知っているクラスメイトではありえない。
そう結論を導いたときには、あちらの見知らぬ女子生徒は山道に足をかけていた。茅野は、とうとう声をかけた。
「あなた、もしかしてE組に用事?」
陳腐な問いかけだった。旧校舎は事実として三年E組だけに利用される。本校舎の人間には旧校舎を訪ねる動機が起こりえない。もしE組に用事ができたら、E組が本校舎を訪れるのだ。椚ヶ丘中学校の設計だ。E組の道具が必要になれば、E組がそれを運ぶのだ。生徒手帳にも、そう書かれている。旧校舎訪問は禁じられてはいないけれども、一キロの山道を上りたい人間がどこにいるというのだろう。
だから奇特な生徒だなと失礼にも感心した部分が三分の一。もう三分の一は、簡単な用事なら手伝ってやろうという親切心。これが、そのときの彼女の正直な気持ちだった。そのとき、見知らぬ彼女が振り返るまでの。
立ち止まった後ろ姿に駆け寄った。まもなく相手が振り返って、顔を見上げて、はっとした。
想像よりはるかに均整の取れた容姿をしていた。目測と違わぬ背の高い生徒だった。そして、やはり茅野は知らなかった。知らない生徒だった。その人物を知らなかった。茅野は彼女を知らなかった。茅野はきっと彼女を暴かない。だから彼女もきっと茅野を暴かない。刹那、視線が交差する。期待よりはるかに怜悧な眼差しをしていた。
黙してしばらく、相手が先に口を開いた。茅野が答えるより速く、そして袖口を見せつけた。無害なナイフが隠されていた。私もE組の生徒だよと、彼女は口でも名乗ってくれた。だが何より明白な回答だった。だから茅野も、かばんを開けた。同じナイフを、しまっていた。そして茅野カエデを名乗って、すぐに彼女の横に並んだ。
茅野さんと彼女に呼ばれた。
「大変だったね」
茅野は笑って肯定した。茅野カエデは客観的に見て、たしかに大変な思いをした。せっかく椚ヶ丘の生徒になったのに素行不良と断じられてしまった。あるいは、いざ登校してみたら、今度はクラス担任が月を爆破したと知らされた。次の三月には地球をも爆破するという怪物を急遽、殺さなければならないのだ。まさか学校が、このようなことになっているとは。なんて笑い話にもなりはしない。
「でも殺せんせー、教えるのは上手だから。体育以外は、だけど、ちょうど今日から人間の先生が体育の担当になるの」
「烏間先生、だっけ」
隣の新たなクラスメイトは、思い出すように名前を当てた。言葉を探すようで、片手は丁寧にナイフをもてあそんでいる。
「そっちは今まで——ただ休んでたってわけでもなさそうだけど」
尋ねると、彼女も笑って肯定した。
「自宅謹慎だったの」
——ひと目、表情を見て悟った。彼女は彼女を演じている。そして同時に悟られた。茅野は茅野を演じている。
彼女を旧校舎から遠ざけたかった。それは、三分の一くらいは、E組の生徒としての義務感から出た思いだった。殺せんせーのことは、暗殺教室のことは、国家機密なのだから。茅野の正直な気持ちだった。そのとき、見知らぬ彼女が振り返るまでの。
茅野には、きっとそれをかなえる力があった。
「ペナルティってE組落ち以外もあるんだね」
「E組の生徒は、E組に落とせないから」
「でも」
「よっぽどのことがあれば、一、二年でも謹慎処分にはなるんだよ」
彼女にも、きっと「それ」をかなえる力があった。
「今の二、三年は、みんな知ってる。よっぽどの暴力沙汰だったから」
だから互いに何も知らないことにした。彼女は彼女を演じている。茅野は茅野を演じている。