杉野友人、五月
一
来週末の一大学年行事に当たって、杉野友人は何も心配していなかった。クラスを四つに分ける班の長の三人が友人で、一人は特に仲がよい。相手にとっても同様だろう自覚もある。班分けに困ることは考えつくこともしなかった。杉野は誘いたい相手のことだけを心配していればよかったのだ。
強いて言えば、それと中間テストが杉野の心配事だった。
中学生になってから心配のないテスト期間など一度もなかった。三年E組の制度のおかげだ。杉野だけではないだろう。この学校は成績不振の新三年生を三年E組に落としてしまう。教室は旧校舎に、クラスメイトは劣等生に、環境は最悪に。つまり今現在のクラスのことで、杉野のことであるのだが。だからといってもなお気を抜けないのがこの学校で、今年のE組の担任である。
E組の生徒は定期テストにE組脱出を懸けている。そのうえ先日は担任の進退まで懸かっていた。E組の生徒は成績次第で本校舎に戻れるかもしれない。しかし成績が悪かったとしても、さすがに担任がただちに解任されることはない。はずなので、まあ担任から言い出したことだが、生徒全員が上位五十位に入らなければ辞任する、と。
かくして杉野たちは先日の中間テストで百億円をかけることになった。クラス担任の殺せんせーは国家機密の賞金首なのである。額はぴったり百億円。杉野たちは何やかやで目標は達成できなかったが、その何やかやが原因で殺せんせーは担任教師を続けてくれている。
ということで、杉野はあとは誘った相手のことだけを心配していればよくって、
「カルマくん! 同じ班なんない?」
「ん、オッケー」
——本当に心配などないも同然だったのだ、この時までは。
杉野はぎょっとして潮田渚を見て、軽快な返事に耳も疑った。どちらも平然として、まるで友人のような空気感だ。そういえば二年までも同じクラスだったんだっけ。杉野はまもなく思い出したが、それとこれとは別問題! エエッと思わず出た声に、渚と赤羽業が気安く振り向く。
「旅先で喧嘩売って問題になったりしないよな?」
「へーき、へーき。ちゃんと目撃者の口も封じるし、表沙汰にはならないよ」
渚はともかく、カルマという人物は、こういう性質で名を知られていた。E組落ちも成績不振が理由ではない。ただの喧嘩でもなく暴力沙汰で、停学処分まで食らったとのうわさだ。実際、三年生が始まって四月になっても、しばらく登校しなかった。そして約一か月をクラスメイトとして過ごしても、まあ先の返事のとおりとしか表せない。
ところが、杉野が同意を求めた渚は、多少は同調してくれたが、それだけだった。
「気心、知れてるし」
杉野は渋々と矛を収めた。たしかにこの一か月、理不尽に喧嘩をふっかけられたクラスメイトの話も聞いたことがない。現にカルマも二人の態度に文句をつける素振りを示さない。ほっと一息つくべきか。いや、それはそれで不気味だが。不気味なことに、カルマは班分けの進行に協力する姿勢を示してきた。
「メンツは?」
カルマは渚と杉野を見て、それから渚の隣の茅野を見た。席も渚の隣のクラスメイトは、修学旅行の班も渚と一緒なのだ。それから杉野と茅野が顔を見合わせ、まずは茅野が奥田愛美を手招きした。杉野も満を持して、前々から誘っておいたクラスメイトを紹介した。
「クラスのマドンナ、神崎さんでどうでしょう!」
カルマは知らなかったことだろうが、今朝あらかじめ顔のわかっていた奥田と、一人ずつ誘おうと話していたのだ。もっとも杉野は中間テストさえはるか未来に感じられる時分から、神崎有希子に声をかけていたのだが。
ほっそりとした百六十センチ弱、さらりと揺れる背中の黒髪、模範的な制服姿、よって短すぎないグレーのスカート、タイツは真っ白。今「よろしくね」とほほ笑んだ神崎は、すこぶる人気が高かった。おもに男子生徒の間で。それこそ本校舎時代から。かく言う杉野も、もちろん下心がございました——。
気を取り直して杉野は奥田にバトンを渡す。
「それで、奥田は誰を誘ったんだ?」
「わ、私は、あの」
奥田は遠慮がちに振り返り、会釈のような仕草を取る。
——やっぱやめようぜ、カルマ誘うの。
杉野は言葉を飲み込んだ。顔色を変えずにいられただろうか。しかし奥田の顔は見づらくて、そろりと渚の様子をうかがう。そうしたら渚と目が合った。やはりぎこちない表情を浮かべていた。どうか気づかれていませんように。杉野は何でもないよう努めて奥田ともう一人を視界に入れる。
「よろしくな」
「よろしくね」
いつぞやの暴力沙汰のうわさだが、そこには二年生がもう一人だけ登場する。
二
カルマがE組に落ちたとき、驚愕するより納得した。彼の不良は何も喧嘩ばかりではない。もっと些細な——喧嘩と比べたら微細な——素行を積み重ねている。提出物を出さないとか、行事に出ないとか、遅刻、早退、無断欠席。通知表的に言えば、関心・意欲・態度がよくない。むしろ、それでいて二年の冬まで転級通知のなかったことが、杉野にとっては不思議だったのだ。
さてもう一人は全然ちっとも、まったくの、まるで真逆のような優等生だった。今は耳の真っ赤なクラスメイトの隣に立って「よろしくね」と落ち着きの下にほほ笑んでいる。杉野はふと目を合わせてしまって、少しだけ照れて、すぐに自分から目をそらした。カルマとは正反対の人物像で、それよりも美人で評判だった。杉野も話題にしたことがあった。
容姿がよくて、態度もよくて、成績もよくて、運動神経もよさそうで、A組入りさえ確実視されており、E組落ちなど寝耳に水だ。まさかそんな人だったなんてと、多くの生徒がうわさした。信じられない裏切られたを通り越して、だまされた、と。ついに暴かれた本性は次第に低俗な言葉で修飾された。
だが四月半ば、彼女は数日遅れながらも刻限通りに現れると、無言で席につき、本を開いた。よりにもよってカルマの隣の席だったのだと、のちに皆が知ることになる。そしてカルマも大遅刻で教室に現れると、二人は、——特に何事もなく翌日を迎え、翌週を迎え、翌月を迎えた。テスト期間を迎えた。それから修学旅行も迎えた。
「おはよう、杉野くん」
出発の朝、駅のクラスの集合地点に、彼女は二番目にやってきた。
「おはよう」
杉野の口は事務的に、同じ挨拶のために動いた。早いんだねと相手がほほ笑む。杉野も返事をする。そう、ちょっと早起きしてさ。
杉野は本当は目覚まし時計を頼って起きた。一番乗りでの到着はもう三十分も前のことだ。早起きして、少々以上に家族に協力してもらって、息を切らしてまで走った。到着直前になって、息切れでは恰好がつかないことに思い至って、物陰で息を整えた。そうこうして現着した三十分前、杉野は一番乗りだった。二番目にやってきたクラスメイトは神崎ではなかった。
すべては杉野の下心である。淡い期待を抱いていた。偶然にも神崎と二人きりになれたら、などと。杉野は今になって思い出したが、日頃の神崎は登校が早い部類ではなかった。むしろ杉野が友人と遊ぶために靴を履くようなときに、玄関口で挨拶を交わすくらいの日常だった。
「大丈夫?」
不意に現実に顔をのぞき込まれる。整った顔が心配そうな声音で杉野を呼ぶ。
「だっ、大丈夫、大丈夫!」
「ならいいけど。ため息ついてたから」
「えっマジで?」
こちらは声がひっくり返った。
「同じ班になったんだし、困ったときは頼ってね」
それに何と言って答えたのだったか。二人はそれから、たまたま一着と二着だった班員同士の話をした。
明日明後日の班別行動は言わずもがな、今朝は新幹線、着けば京都飯、午後もクラスで京都見物。おまけに杉野がいるからして、話題の尽きる道理はない。いや相手がたとえばクラスの乱暴者なら多少は事情も変わろうが、二着だった班員は暴力沙汰で落ちてきただけのいたって温厚な生徒である。
「後でババ抜き一緒にどう?」
「もしかしてカード持ってきたんだ」
「そうそう、UNOとか花札とか」
「私も持ってくればよかったな」
「班のみんなで——電車の中で遊べるかなって」
勝手に杉野が息を詰まらせるだけで。
会話はもった。適度に続いた。だが、杉野の気分は次第に重くなっていった。三等賞を待つ間、それがカルマでもよいからと、願っていた。実に奇妙なことだった。二等賞がいっそカルマで、俺の早起きを揶揄でもしてくれたら、などとは。
幸いにして、次のクラスメイトは四、五分後に現れ、そのうえカルマでも乱暴者でもなかった。神崎でもなかったが、もはや杉野は構わない。
「それにしても、二人とも早かったんだな」
「ちょっと早くに目が覚めてさ」
「私は、お父さんが今朝は早くて」
四等賞は、そういう会話をするうちに訪れて、数えるうちに五着、六着、徐々にクラスメイトが集まってくる。神崎の到着までに、あと五分ばかりも待つことはなかった。
「おっ、おはよう! 神崎さん!」
「おはよう、杉野くん」
杉野の心配はすべて消し飛んだ。
「早いのね」
「それほどでもっ!」
「私も今朝は少し早くに目が覚めちゃった」
神崎さんはまぶしいなあ。
三
当然、神崎に投票した。さすが彼女は首位独走。得票数はクラスの男子だけでも片手の指。杉野の恋敵は極めて多い。気になる女子ランキング。修学旅行二日目、消灯前の自由時間のことである。
対象をクラスの女子に絞っても、意外な結果にはなっていない。複数票を集めた女子は、大抵は二年までにも評判だった。杉野も話題にしたことがある。もっとも彼の関心はもっぱら神崎に向かっていたが。
そうして結果が固まった大部屋にカルマが入ってきたとき、杉野はなぜかどきりとした。いや、もはやあのうわさに根も葉もないことはクラス全員が認めている。しかし、
「お。おもしろそうなことしてんじゃん」
杉野はカルマの声音にひどく安心した。しかし鼓動が鳴りやむことはなかった。急に芽生えてきたのである。不安が。何かいけないことをしているような気持ちが。隣の渚も神妙な面持ちでカルマとクラスメイトを見守っている。
「おまえクラスで気になる子いる?」
「みんな言ってんだ。逃げらんねーぞ」
「それ、女子にも聞くんだよね」
カルマはまっすぐ尋ね返した。夕方、教師部屋の蛍光灯の下で。普段の軽薄な雰囲気はない。表情にはむしろ険があった。杉野は答えようとした口を、どうにも動かせなくなって、教師三人をうかがった。殺せんせーの表情はわからなかった。イリーナ・イェラヴィッチは少なくともおちゃらけてはいない。烏間惟臣はいつにも増して深刻に、しかとうなずく。
「当然だ。彼女たちにも同じく、できる限り説明する」
「国家機密のために、警察には突き出せないって?」
散々な班別行動だった。悪いことばかりが起きたわけではない。しかし、たまたま最悪に至らなかっただけで、トラブルだったし、事件だった。他校生に襲撃されたのだ。それも修学旅行の男子高校生で、男子一同は暴行を受け、女子はなんと拉致された。唯一奥田が逃げきったけれど、無事でいてくれて本当によかった。
意識を取り戻し、教師陣に連絡を取り、殺せんせーの指示の下たどりついた京都の廃墟で班員が暴力にさらされていた。神崎さんが無事でよかった。みんな大事にならなくてよかった。感じたことは様々あったが、二番目に思ったことは、取り返しのつかないことが起きていなくてよかった——。到着直後、状況を把握できるまでは、まさか、と恐れたものだ。
殺せんせーの到着により事件は無事に解決し、再び観光に戻ることができた。散々な時間だったと思うと同時に、たいへん楽しい一日であったこともわかる。だが、夕方になって旅館に戻ると烏間に呼び出され、種々の確認作業を経て、真っ向から頼まれた。今回の事件を表沙汰にしないことを。
烏間は防衛省の人間である。E組での暗殺の監督役で、今日のような事件についても責任を取る立場にある。生徒を担任が助けたというと、E組の場合は国家機密が登場する羽目になるので。今日の国家機密は黒子の変装で登場し、秘密は守られたと本人が自信満々でいるけれど。監督役は、大事にできないと、あくまで他言無用を求める姿勢だ。
杉野は当然そのつもりでいた。正確には頼まれるまで考えもしなかった。しかし頼まれたところで特に意見はない。通報するつもりも、家族に相談するつもりもなかった。口外無用は四月頭から繰り返し言われている。烏間にも都合があろう。何より彼は誠実な大人だった。だから異をとなえるつもりはなかった。きっと渚も同じだった。
カルマだけが違ったのだ。だからといっても烏間の答えは変わらないけれど。
「このことによって不利益が生じないよう最大限配慮することを約束する。件の高校生たちには、すでに監視をつけている。さらに申し出があれば、医師、病院を手配する用意もある」
「ふうん、それなら」
カルマはただでは引き下がらなかった。
「もちろん返事は後でもいいよね」
全員で話して決める、とカルマが言って、渚も杉野も同調した。部屋を出たら、ちょうど女子と入れ違いになった。背中でふすまが閉まる音がしてしばらくしてから杉野は尋ねた。どうして、と。カルマは答えた。——二人とも、どうせ協力するつもりだったでしょ。
それから今日の事件について、女子とは話ができていない。風呂上がりに談話室で会ったけれど、そこでは全員そろわなかったし、しばらくゲームで遊んでしまった。聞いて驚け、なんと神崎はゲーマーだった。いやマジで。腕前ときたら、うまいなどというものではない。彼女はいずれプロゲーマーになるのかもしれなかった。いやマジで。
——さてカルマは、渚と杉野の心配をよそに、思案する素振りを見せると、あっさり奥田の名前を出した。意外な答えである。と、杉野でなくとも考えたが、
「彼女、怪しげな薬とかクロロホルムとか作れそうだし。俺のいたずらの幅が広がるじゃん」
カルマは照れることもなく言ってのける。一転、大部屋の面々は顔を青くした。奥田といえば、この手の話題ではまず目立たない同級生だが、奥田といえば、毒殺なのだ。奥田はマジで毒を調合する。カルマはいろいろ問題児である。絶対にくっつけてはならない二人だ。
そんなこんなでランキングは終了、秘密を約束し合ったところに、殺せんせーが現れて、マッハで結果をメモって消えた。男子は駆け出して武器を抜いた。殺せ殺せ、今夜こそ殺す。大合唱のうちになぜか女子とかち合って、挟み撃ちにできてしまう。
なんだかんだ始まった暗殺が終わる頃、杉野たちはなんだかんだ班で集まっていた。二人ばかり足りなかったが、せっかくだからと明日の話をすることになる。足りない二人のことは手分けをして探したらすぐに見つかった。杉野と奥田が二人で見つけた。たまたまのぞいた空き部屋に二人で立って話していた。
何を話していたのだろう。二人の表情は読み取れない。
「あっちで明日の計画を見直そうぜって、話してて」
「邪魔しちゃいましたか」
それぞれ振り返った二人は、
「いや、べつに」
「ちょうど、そっちに行くところだったから」
それぞれ答えて、先にカルマが部屋を出て、すたすた杉野を通り過ぎる。
「あっ、部屋どこか知らないだろ!」
杉野は慌てて追いかけた。カルマは歩みを緩めないから、杉野が慌てて追いついた。カルマは部屋の前に着いてから口を開いた。
「で、部屋がどこだって?」
「ここだよ!」
国家機密については結局、協力する方向で話がまとまった。女子は女子ですでに答えを出していた。だから消灯前の残り時間を、明日の計画に費やせた。
見直しの結果、再び神崎の案が最終候補に。場所の探し方がうまいと感心していたら、カルマが「マップ選択も得意なんだ?」と声をかけた。神崎は満更でもなさそうで、後で調べてみたところゲーム由来の言い回しだった。杉野の修学旅行二日目は、俺も本格的なゲームをやろう、などと決意したあたりで終了する。