第60話「異変の時間」から第73話「大人の時間・2時間目」まで

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赤羽業、八月

毒を盛られた。それが言葉になる前に、クラスの異変を見渡した。立っている者、立てない者、渚は前者、杉野は後者。茅野は少し離れた所でクラスメイトを支え、あとの三人は——二人が神崎の容体を見ている。カルマはそれだけ確認すると、後者の生徒をゆっくり椅子から下ろしてやった。皆、体が熱を持っている。紛うことなき異常事態だ。先刻までカルマたちは海にいたのだ。

海で暗殺を決行して、また失敗したとはいえ、やっとホテルのテラスに戻ってきたところだった。着替えることもできていない。もちろん疲労はある。カルマもかなり消耗した。今夜の計画はかつてない規模になった。少なくない時間を、今日にいたっては一日中を、暗殺のために費やした。だがカルマの体はまだ冷たい。そして彼らの体は熱すぎる。

それから数分の間に、クラスメイト十人程度が同様の症状を訴えた。ひとえに高熱。今のところ、せきや嘔吐は見られない。カルマにはそのようなことしか判別がつかない。どうやら風邪ではなさそうだ、と。カルマには医学の知識がないのだ。だが脳はしきりに警鐘を鳴らす。その正体はすでに輪郭を持っている。やがて烏間が深刻な表情で皆に告げる。

夏の合宿の一日目の夜の事件である。


「俺の端末に犯人と思しき人物から電話があった。人工的に作り出したウイルスだそうだ。感染力はやや低いが、感染者は——一週間程度で死に至る」


夏休みに入って、船に乗った。東京から六時間、沖縄で離島リゾート二泊三日の旅。カルマたちはクラス全員で来たが、よそのクラスや学年はいない。ただし費用は学校予算から出ている。字面だけでも三年E組にはふさわしくないようだが、クラスメイトはある種の正当性の下に、また正攻法でこの合宿の権利を勝ち取ったのだ。

クラスメイトが勝ち取ったものはそれだけではない。殺せんせーの運動能力を実に触手七本分、確実に削る権利も得た。さらにクラスメイトの提案によって、二つの権利を組み合わせることになり、今夜に至る。数々の弱点で標的を追い詰め、最大の弱点たる海に囲まれたこの島で、万全を期して——決行した。

結果は完敗。だが、かつてない成果も得ることができた。標的が奥の手中の奥の手を切ったのだ。その名も完全防御形態。またも暗殺から逃れた殺せんせーは無敵の結晶で身を守っていた。二十四時間程度で自然崩壊するが、それまでは核兵器でも傷がつかない。現場の責任者である烏間さえも初めて知った姿である。

「犯人の要求は百億円の賞金首こいつだ。こいつと引き換えなら治療薬を渡すと言っている。期限は一時間。場所は山頂のホテル。動ける生徒の中で最も背が低い男女に持たせること」

さて烏間は静まり返ったテラスの外で、二人の生徒に目をくれた。どう見ても指定の男女、渚と茅野だ。烏間とて二人をむざむざ向かわせることの意味をわかっているが、犯人は治療薬を即座に破壊する準備があると、もちろん脅してきたらしい。用意周到なことだ。それも標的の性能を思えば当然のようだけれど、今夜ばかりは最悪だ。

殺せんせーの「完全防御形態」には明確な欠点がある。「無敵の結晶」は中学生でも片手でつかめる程度の球体で、殺せんせーは言わば捕らわれており、身動き一つも取ることができない。さらに自力で解除する手段もなく、動けるようになるためには、二十四時間後の自然崩壊を待たねばならない。取引の期限には間に合わない。

口を結んだ烏間の元にちょうど部下が駆けつける。

「案の定、駄目です。政府としてあのホテルに宿泊者を問い合わせても——『プライバシー』を繰り返すばかりで」

「——やはりか」

「『やはり』?」

と、今はテーブルに置かれた殺せんせー。烏間は観念したように答えた。

「警視庁の知人から聞いた話だが」

この島はマークされている。ほとんどの施設は全うだが、あの山頂のホテルだけは違う。違法行為が横行しているのだ。さらに政府高官とも通じており、警察といえども迂闊に手が出せない。当然、政府の二文字を並べられたところで、味方などしない。うってつけの潜伏先らしい。

それでも烏間は努めて冷静に振る舞ったが、眉間に手を当てることもした。彼にも難しい事態なのだ。外部との連絡を禁じられたうえ、島内のには小さな診療所が一つ。それも医者はよその島の人間で、今夜はとっくに帰ってしまった。そして船は朝の十時まで来ない。犯人の言葉では一週間かけて死に至るということだ。裏を返せば一週間程度は猶予があり、ただちに死ぬこともないとはとれるけれど、だからといって安心できる道理はない。

犯人の言葉が真実なら、彼または彼らが持つ治療薬は必要だ。本当に未知のウイルスであれば、この島の診療所はもちろん、大きな病院に連れて行っても薬がないだろう。二十四時間後には殺せんせーが復活するけれど、仮に薬を作れるとして、それに多大な時間を要さないとは限らない。マッハ二十で解決できない問題は、むしろ存在する可能性は高い。

犯人は標的が動ける状態を想定していたはずだから。

俺だってそうする。カルマは言葉をのみ込んだ。周囲は次第に落ち着きを取り戻していた。つまり感染しなかったと見られる側のことだが。患者たちはすでに混乱を表す体力を失ってしまっている。真っ赤な顔、病人の息遣い、姿勢の維持も務まらない体。もはや座っておくこともできないのだ。致死性のウイルスによらないものだと言い切ることは難しい。

カルマに医学の知識はない。誰より烏間と殺せんせーが深刻な様子で、どちらも犯人の脅迫を一蹴しなかった。事は一刻を争う。

だからといって烏間は、取引に応じようとは口にしない。渚や茅野だからではないだろう。相手はすでに、中学生を人質にとっている。いずれにせよ危害を加えることによって。ゆえに犯人に最低限の信用も置けない。根本的な問題である。渚や茅野が戻らない可能性、さらなる要求の可能性、治療薬が存在しない可能性。考えるだに取引が守られるとは思えなかった。

殺せんせーはどうだろう。カルマはふとテラスを見た。しかし目が合った相手はクラスメイトの一人だった。均整のとれた顔が青白いようだが、カルマの姿を認めると、薄く唇が弧を描いた。それが、いやにはかなく感じられて、だから——いや。ひらめいた形容詞を瞬時に振り払う。今はそんなことを考えている場合ではない。どうせ視線をそらされた。テーブルの上から呼ばれたらしい。

「いい方法がありますよ」

そらされた視線のその先で、まさにカルマの探した球体が、吞気な笑顔を浮かべている。

汚れてもよい恰好で来い。吞気な笑顔に従って、部屋に戻って支度した。外に出ると、分かれて自動車に乗り込んで、数分後、岩壁の前で停車する。

あのホテルのコンピュータに侵入して、内部の図面を入手しました。警備の配置図も」

画面の中のクラスメイトは、崖の上を指差して微笑む。例のホテルが高みからE組を見下ろしている。モバイル律は皆の手元で報告した。正面突破以外は不可能だろうと。配置図を見ても、たしかに相当数の人員を割いている。侵入はたやすく露見する。と、説明した律は、しかし別の図面を表示した。

「この崖を登った所に通用口が一つあります。まず侵入不可能な地形ゆえ——警備も配置されていないようです」

カルマは内心で舌を巻いた。律、自律思考固定砲台。最先端の軍事技術の結晶にして転校生暗殺者。バスケットコートに立つには四角いが、思考能力と武器を有している。標的の触手を撃ち落としたり、反抗期を迎えたり、端末の中に入ってきたり。そして彼女をたきつけた張本人が、今は小さな袋に収まって、渦巻く疑問に片をつける。

「敵の意のままになりたくないなら手段は一つ。患者十人と看病に残した二人を除き、動ける生徒全員でここから侵入し、最上階を奇襲して治療薬を奪い取る!」


不可能と言った手前、何だが、E組は訓練を受けている。烏間教官の暗殺訓練だ。グラウンド一つで済ませたり、新たに器具を設置したり、時には環境を生かしたり。クライミングの訓練も、裏山の崖を利用している。目的は、あらゆる場所での暗殺を可能とすること、だとか。たしかに幅は広がるだろう。侵入不可能だったはずの場所を堂々と歩けたのだから。訓練だけが理由ではないけれど。

ビッチ先生が助けてくれたのだ。崖を登るときは烏間の背中にしがみついていた彼女だが、屋内の最初の関門では一身に注意を引きつけた。侵入の経緯と複雑な設計ゆえ、警備の前を通らなければならなかった一階ロビー。彼女はすべての誘惑した。イリーナ・イェラビッチ、三年E組の英語教師、正体は一流の潜入暗殺者である。

ビッチ先生を一階に残しながらも、E組は五階まで上がることができた。ホテルの構造のために、最上階までは長距離を歩くことになるが、一階の警備を通過した後は、まるで客のように振る舞うことができた。すれ違う利用客は中学生の団体客を気に留めない。悪党が集まるようなホテルに、実は結構いるらしい。今の烏間も、ラリって子供に世話される保護者、くらいにしか見られないのかもしれない。

「普通に歩くふりをするので精一杯だ」

と、苦しい表情の烏間は、三階で殺し屋と戦った。黒幕の手先は当然、中学生の団体客に注意を払う。クラスメイトの記憶力いや推理力と、烏間の戦闘力がなければ、カルマたちも無事では済まなかっただろう。殺し屋は毒使いだった。烏間はゾウも気絶するガスを食らった。諸事情につき真正面から。だが気絶したのは毒使いだ。烏間が最後の力で膝蹴りを食らわせたのである。

現在の烏間はというと、磯貝の肩を借りて歩くのがやっとで、三十分は戦闘ができそうもないとか。ビッチ先生は一階、殺せんせーは言わずもがな。そして、ここ五階、展望回廊には、殺し屋が一人、窓にもたれて立っていた。正確に言えば、殺し屋と思しき長身の誰か、だが。

E組の面々は慎重になっていた。烏間の体調を含めなくても、この五階は敵と遭遇する可能性の低くない場所だった。侵入者が六階へ上がるためには、必ずこの展望回廊を通らなければならないのだ。三階の広間もその一つで、毒使いもその前提で三階に潜んでいた。誰にも気づかれなければ、客に紛れてE組にガスを浴びせられただろう。——そう、もちろん殺し屋は、私が殺し屋ですと名乗りながら歩いてはいないのだ。たぶん。

高い天井、一面の窓、規則的に並ぶ柱と観葉植物。その間にたたずんでいた長身の大人は、しかしE組の生徒に確信に近い予感をもたらした。先頭のクラスメイトは、その影が後続の目にも留まらぬうちに、停止の合図を出した。カルマはその気配を肌で感じて、目にしてはもはや疑いの余地も失われてしまう。彼は、毒使いとは対照的に、全身を殺気で満たしていた。

窓にもたれて、一見、何も持っていない。そのことを隠しもしていない。だが、おもむろに素手を窓に触れ、指の力で亀裂を生んだ。全員の耳に届くほどの音だった。凝視したところで景色は変わらない。窓にひびが入っている。犯人は素手にもかかわらず、まるで植木鉢をたたきつけたかのような跡だ。まさかこのホテルで窓だけがプラスチック製などということはあるまい。常識と違わないか、あるいはそれ以上か。

考え込んでもいられなかった。

「つまらぬ」

侵入は、気取られている。

「足音を聞く限り——『手強い』と思えるものが一人もおらぬ」

ということだが、

「精鋭部隊出身の引率の教師もいるはずなのぬ——だ」

はて、カルマは瞬いた。

「どうやら——スモッグのガスにやられたようだぬ。半ば相討ちぬといったところか」

クラスメイトも瞬いた。同時に、妙な緊張感が立ち込める。いかな状況だとしても、考えることは考えてしまうのだ。

「出てこい」

そこは「出てこい」ではないのか、と。誰も口にはしなかったが、カルマは言った。

「『ぬ』多くね、おじさん」

狭くて見通しがよい通路。あるものは、高い天井と一面の窓、それから柱と観葉植物。行く手で殺し屋が一人、目を見開く。どうやら間違いに気づいたようだ。

「『ぬ』を付けるとサムライっぽい口調になると小耳に挟んだ」

それが恰好よさそうだったと、外国から来たらしい殺し屋は中学生の前で明かした。薄く笑って、間違いを認めた。これ見よがしに指も曲げる。

「この場の全員殺してから『ぬ』を取れば恥にもならぬ」

関節の音が、ごき、と少し尋常ではなくて、さすがに誰しも確信した。手ぶらもそのはず、素手こそ彼の武器なのだ。身体検査を素通りできて、標的に近づいては頸椎を一ひねり。頭蓋骨を握り潰すと言われても、思わず中学生が頭に触れる。窓に亀裂が走っている。おもしろいものでと言葉が続いたとて、もはや何もおもしろくはない。

ふと疑問をよぎらせたけれど、ちょうど敵の手が懐に向かって、意識が傾いた。通信機器だ。カルマは観葉植物をつかむ。勢いをつけて、振り抜いて——。

「あのときは、ひやひやしたな」

少しだけ昨日の話をしたとき、もちろんカルマとグリップの戦闘にも触れることとなった。グリップとは五階の殺し屋の名で、つまりおじさんぬのことだ。かくかくしかじか、カルマはおじさんぬに勝利し、それから少しだけ楽しい時間を過ごしたのだが、クラスメイトは眉をひそめた。

「赤羽くん、頭を潰されてたかもしれないんだよ」

すうっとカルマの頭は冷える。

「心配してくれたんだ」

当然、彼女は否定しない。私たちはクラスメイトだと答えて、スプーンでパフェをすくった。彼女が注文したチョコレートパフェだ。横にはジュース、中央にはクッキーの皿、そしてまたカルマの手元に空のグラス。カルマが注文したものはこれだけで、他は、ここに来たときにはテーブルに配置されていた。船旅、準備、暗殺、事件、怒涛の一日の次の朝、目の前のクラスメイトは普段のとおりに目を覚ましたという。

カルマは午後も三時を回るまで、寝具で眠りについていた。カルマだけではない。生徒は皆そうだ。疲労困憊なのだ。今日に限っては、カルマはむしろ早起きだった。何なら二番目に目を覚まして、ここに下りてくるまでは一番だと思っていた。律も金メダルを授与してくれたし。——寝る前に電源を切ったのだと、一番目に起きたクラスメイトは言った。思い出す素振りが実に白々しかった。そして端末を起動すれば、また白々しくも告げるのだ。


久しぶりだね、赤羽くん。


あの日の夕方、初めての教室、その後ろ。だからクラスメイトが大勢いて、自分の席を探し当てたら、三年目のクラスメイトの隣だった。

用意してきた挨拶が春風に吹かれたことにならないものか。そのときカルマは、たぶん目に見えて言葉を選んだ。カルマは彼女について一つのことしか知らない。だが、それは理由にはならない。何を話すつもりもなかったのだ。真にカルマだけが知っていることだとしても。彼女が無実であるとして、だから申し訳ない、などと当時のカルマに思えるわけがなかった。

あの校舎は緩やかに、人を、カルマを、死に至らしめる。

とはいえ当時のカルマも、その理屈が他者に共通しないことくらいは理解していた。よって、その日その時、その場所で、その挨拶は必要だった。相手との間に真に特別な関係がなかったとしても、三年連続のクラスメイトではあって、どうしても例の事件は付きまとう。まかり間違っても謝りなどしない、けれども、おはよう、隣の席だね、一年間よろしく——。

体感の上ではようやく、実際のところは大した間もなく、カルマが口を開こうとした瞬間、彼の言葉は遮られた。そういえば人気があったんだっけ。カルマはまるで他人事のように思い出した。耳障りのよい声だった。より優れた造形の上で、薄く唇が弧を描く。それが、いやにはかなく感じられて、ふと錯覚させられた。俺だけを見ている。

カルマは反射的に舌をかんだ。

再びクラスメイトの顔を見た。

彼女は。


南国の五時過ぎ、いつまでも青い空の下で、チョコレートパフェが底をついた。

「今日はごめんね」

「そういうこともありますよ」

クラスの女子たちの会話は呆気なく、端末をしまった彼女がストローに口をつける。パフェとは異なり、ジュースの残量には余裕さえあった。だが一口だけで、カルマと目が合う。

「どうしたの」

クラスメイトはストローから口を放すと、グラスも置いた。トロピカルジュースが波を打った。ここは沖縄だ。夏休みで、暗殺に失敗して、事件に遭遇したのだ。

耳を傾ければ、嫌でもふさわしくない喧噪が聞こえてきた。昨晩の事に始末をつけるために、ほとんど名前も知らないような人々が集まったのだ。クラスメイトが助かっても、烏間は不眠不休で指揮を執る。彼が、彼らが、カルマたちの暗殺を支えてくれている。敵だったはずの殺し屋さえ。作戦の成功も失敗も、クラスメイトの無事も、すべては積み重ねによってもたらされている。

その実感が失われる瞬間が、ある。

たとえば、こうして顔を上げて、表情をかたどった瞳に見つめられたとき。見つめるとき。春の風にでも吹かれたように、カルマの言葉はやはりがらんどうになる。あの日と同じに、あの日とは異なって。

あれからカルマは彼女について多くを知ることとなった。修学旅行、奥田と親しい。転校生、改造人間より人工知能が嫌い。水殺、おびえた演技が卓越している。期末テスト。何一つとして忘れやしない。だがカルマは、やはり一つのことしか知らない。

「むかつく」

隣の席のクラスメイトは、かつて出会った誰より傲慢で、誠実さに欠けており、人を信じることもなく、常に保身を図っている。だから、あの日、春の気配が白々しくも通り抜けたとき、彼女は気づいていて、何も言わなかった。整然と、まるで大人しく退屈になることができたのだ。

「むかつくね、本当に」

カルマだけを見ている彼女の前で、彼女だけを見て告白する。クラスメイトは教科書みたいに戸惑ってくれた。道徳の授業みたいに、正直な感情と伝えるべきでない言葉との間で頭を悩ませでもしているみたいに。彼女は、あたかもうまく言えなかったみたいに開きかけた口を閉じる。もうカルマも相手にはしなかった。

成すべきことは、わかっていた。

動詞が一つ。

カルマの刃は、まず一つ。