吸血鬼
一
食生活を学食に支配されている。
規則正しい食生活が健康の基礎をつくるそうだ。家庭科の教科書が言っていた。規則正しいことは、朝昼夕の一日三食のことで、主食・主菜・副菜により適切に栄養を取り入れること。
たしかに実家暮らしの時分には一日三食を強いられており(たいへんありがたいことである)、今にして思えば栄養面でも配慮されていた(これもマジ)。学校給食こそ言わずもがな。栄養士の献立は、小学生と中学生の健康を支援していた。高校時代には学生寮に朝夕の食事を世話されて、学校の課外活動でも一日三食は当然だ。
大学の食堂が、急に一日二食や五食、まさか断食などを勧める道理はないというわけである。
よって、大学に進学し、せっかく独り暮らしを選び、とうとう解放されたはずの食生活も、やはり一日三食を基本とすることになった。
特に朝食を欠かさず取った。学食が、朝食は抜くなと、口を酸っぱくして言ったのである。学食だけではない。実家でも口を酸っぱくされた。家庭科の教科書も、何なら駅の張り紙まで酸っぱいくらいだ。不健康よりは健康でいたいことは確かであるので、冷蔵庫にはパウチのゼリーとヨーグルトを常備している。どうにか朝食はつまめるという寸法である。
こうして、朝食は欠かさず、昼は学食に勧められて注文し、夕飯の献立も学食の案内に従う。
学食が学生を支配する道理はない。勧めは勧めに過ぎない。そして勧められずとも、偏食をしたい気持ちは米粒ほどもなく、むしろ茶碗一杯分以上は偏食をしない決心がある。とはいえ、ただ偏食をしなければ規則正しい食生活を送れるというものでもない。と、自由な食生活の一日目に思い知らされ、これまでの環境には畏敬の念を抱き、家族のいる方角には到底足など向けられず——。
まあ、なんだ。
黛千尋は食生活を学食に支配されている。少しだけ。
時には食べたいものを優先する。逆に食べたくないものはなかなか食べない。
だから、その日の学食の勧めは、嫌いな内容ではなかったのだろう。
大学二年の五月末、黛はいつもどおりに学食を利用して、いつもどおりにカウンター席を選んだ。いつもどおり空席が目立っていて、だからいつもどおりに両隣が空席で、初めにスプーンかフォークを手に取ったことを覚えている。では料理もカレーライスかスパゲッティだ。それらを、いつもどおりに口に運んで、ちょうど食器の半分ほどを綺麗にしたのだ。
「黛くんやろ、洛山の」
ぴったり隣の空席に、そいつが料理を置いて座った。眼鏡の男子で、髪は長くない。背丈は黛と同じころ。ひょっとすると百八十センチメートルちょうど、なら黛のほうが大きいのかもしれない。そいつは、同じ大学の、同じ歳の、しかし関わりのない学生だった。構内には珍しくもない、その他大勢のひとりである。しかし、黛の名を呼んだ。同じように黛も、返す言葉を持っていた。
「桐皇の、四番」
「今吉や。よろしゅう」
今吉翔一は桐皇学園高校男子バスケ部の主将だった。
黛は、かつて洛山高校男子バスケ部に所属していた。高校バスケでは名の知れた強豪校だ。優勝回数最多を豪語し、実際に黛の在籍時にも優勝している。
今吉の桐皇も強豪のひとつだ。強力な選手を擁立し、彼の代にインターハイ準優勝を達成した。
とはいえ、それだけだ。桐皇は東京で、洛山は京都。今吉のインターハイ決勝の相手は洛山だったが、黛はコートに立たなかった。今吉の記憶にも残らなかっただろう。だからこそ今吉が黛を認識するに至った時期も、正確に把握できるのだけれども。
さておき今吉と黛は、その日、初めて会話をした。おもに黛のせいで、ほとんど成立しなかった。だが、それからも月に一回あるかないか、今吉は黛の隣で昼食を取った。いつも今吉が黛を見つけた。一度は友人だといって別の学生を連れてきた。許可を求められたことはない。そうしたことが続いて、年月が過ぎ、とうとう黛は四年になった。くしくも同年、今吉も四年になった。
十月、また今吉が現れた。法科大学院の入学試験に出願したと言っていた。
「黛くんは就職か」
「まあ」
十一月、今吉は現れなかった。
十二月、法科大学院の入学試験の結果が出た。土曜日のことだ。そして水曜日の食堂に、今吉の友人が現れた。いつかのように、黛のぴったり隣の空席に、今吉みたいに昼食を置いて、
「黛だな、洛山の」
今吉が、と言った。
「受かったらしい」
「よかったな」
また土曜日が来た。その日の午後二時、黛は初めて花宮真に会った。M市M駅から歩いて二分のマジバーガーで、ホットコーヒーの紙コップに黒色を残して、四人席を独占していた。身長が黛を越していることには、そのときはまだ気づけなかった。
そして日曜日。
黛はホテルのベッドで目を覚ます。隣のベッドには、すでにスマートフォンをもてあそぶ花宮が、背を向けるように転がっている。彼もまた起きたばかりであったのだろう。上着はスウェットシャツのまま、伸ばした髪をまとめてもいない。あげく振り向きもせず、挨拶のひとつもなく、
「探偵と公僕、どっちがいいとかありますか」
花宮は結局、身支度を終えて、朝食を調達しようというときになって、思い出したように「おはようございます」と言った。
二
心からお悔やみ申し上げますと言われた。彼の口は勝手に動いて返事をした。二時間前の菓子パンの味より、ずっと覚えの確かな言葉だ。十二月の日曜午後二時、この若者たちで、はたして何人を数えるのか。
「工藤探偵事務所の内田です」
「上原です」
人生の伴侶を失って、もう四日になる。
事故だった。毒ヘビに咬まれ死亡、とは、地元新聞の小さな見出しだ。
木曜朝、市内の公園で死体が発見された。死亡推定時刻は水曜夜。状況から、野生の毒ヘビに咬まれ、出血が止まらなくなったものとみられている。付近では以前にもヘビの目撃情報が上がっており、市民にはヘビに関して注意喚起が行われた。
その「死体」が、彼の配偶者だ。
前日昼に、帰りが遅くなるだろうと入った連絡が、配偶者との最後の会話だった。このところ配偶者は残業続きだったので、彼は二つ返事で受け入れて、結局、温めるだけの料理を用意し、帰りを待たずに眠りについた。二人の習慣で、夕飯がいらないときは、昼の時点で伝えてくれる。しかし翌朝、食卓は冷えきっていた。配偶者は二度と帰ってこなかった。今は遺影のなかで笑っている。
まさか、そうするつもりは毛頭ない、いつか遠出したときの写真である。彼が撮影して、どちらも心身共に健康で、あまりに若かった。——青年たちが手を合わせた。もちろん彼らほどではないけれど。
と、はっとなって正面を見る。工藤探偵事務所から来た若者二人が、配偶者の前で手を合わせている。次に礼儀正しいと感じたことは、彼の老いの兆候だろうか。だが、感心な青年たちだ。仕事柄だろうか。スーツ姿が板についている。
内田と名乗った青年が、先に手を下ろした。
もう若者ではない彼は、咄嗟に頭を下げて、
「ありがとうございます」
遺影その人の話をした。
内容には、まとまりがなかった。彼は話しながら自覚して、自覚しながら開き直った。この週末に少なくない人と会ったが、事故自体の話にはならなかったのだ。彼自身の見解など一度も話していない。整理がつかなかった。余裕がなかった。配偶者を失ってから話した人たちは皆、彼のことを気遣ってくれた。彼は今日になっても忙しい。本当なら眼前の青年たちを呼ぶ暇もなかった。ものを考えるだけの時間もなかったのだ。
だから、この発想は、ようやく火葬場で訪れた。
そうしたことまで彼は話した。
要領を得ない話を、内田は辛抱強く聞いてくれた。後になって思えば、聞き上手だった。もう一人、上原を名乗った青年は、逆にめったに口も開かないが、それは内田の能力を信頼してのことだろう。
内田は何かと目につく青年だった。初めて見たときは率直に身長のことを考えさせられた。百八十センチか百九十センチか、いや百九十センチはないだろうか。体脂肪率は低そうだ。肉体が引き締まっており、姿勢がよい。均整が取れている。——ああ、そう、整っていた。
内田は整っていた。髪の長い男子だった。彼は身長の次に、内田の髪型について思いを寄せた。内田は襟元で後ろ髪をひとつに束ねていた。そのことに眉をひそめなかったといえば噓になるが、実際に接してみたら、礼儀正しく感心な青年だったのだ。理知的な顔立ちだとまで感じれば、それらの性質が内田の生業を保証するかのようである。
内田は調査員だ。
彼自身が呼んだ探偵だ。若いなと真っ先に抱いた感想は、彼らを拒絶する理由にはならない。他ならぬ彼自身が選んだ。東の大学生探偵の「工藤探偵事務所」を。
「ですから、あの、事故、について調べてほしいんです。
警察は毒ヘビのしわざだと言いましたけど、もう十二月ですよ。ヘビは冬眠するじゃありませんか。そしたら今度は暖冬の影響だろうと仰ったので、一度は不運なことが起きたのだと思うことにしました。手続きなどもありましたから、忙しくって。言われてみれば、異常気象の生態系への影響は、もう何年も国際問題ですし。
でも、落ち着いてきたら、やはり変なように思えてきまして。調べてみたら、捕まえたときに咬まれることが多いそうで。変だと思ったんです。あれはヘビを捕まえるような人間じゃないんですよ。むしろ避けて通ります。爬虫類館にも入りたがらないくらいで。いえ、すみません。もちろん怪我の原因がひとつじゃないだろうこともわかっています。
ですからね、一番最初に私がおかしいと思ったのは、——信じられますか。ヘビに咬まれて全身の血がなくなるなんて」
しかし失われていた。発見時すでにそうだったのだと聞かされた。野生の毒ヘビのしわざだろうと。しかし殺人を犯したというヘビは、いまだ目撃されてもいない。
ひとたび疑問が芽生えたら、あとは膨らむだけ膨らんで、骨壺の前で花開く。そして、その夜、玄関で、骨壺の隣で、彼はひとりの探偵を選んだ。
東の大学生探偵、工藤探偵事務所である。
大学生ながら名探偵というだけでも驚くべき事実だろうが、かつては「東の高校生探偵」と呼ばれていた。とうに有名だったのだ。高校生の時分から警察に協力し、たびたびの事件を解決に導く。それも多くは凶悪犯罪を。先月も、都内で起きた殺人事件をはじめ、複数の事件解決に協力している。
だから、ということも理由のひとつだ。
彼の疑いの芽は告げていた。配偶者は殺されたのだ。
心当たりはないけれど。あくまで彼の知る限りでは、配偶者が恨まれるようなできごとはなかった。彼自身が恨まれるような覚えもない。配偶者も彼自身も人間関係は、家族と会社と、学生時代の友人が数名か。会社では社外の人間とめったに会わず、一方、友人とはだいたい季節ごとに遊ぶ仲だ。数名とは葬儀に際して話したものの、特に不審な者はいなかった。逆恨み、はたまた彼自身の疲労をあげつらえばそれまでだが。
「本当に人間の犯行だったとしたら、殺すために全身の血を奪うような相手ですし」
生前の配偶者が不審に振る舞わなかったとしても、そういう場合に、彼自身が気づけたとは思えない。
内田は、そうですねとうなずいて、配偶者の死亡時の状況について他に聞いたことはないかと尋ねてきた。尋ねられて彼は、いいえと首を横に振った。
「金曜日に地元の新聞が少しだけ書いていたのですが、あとのことは、それとほとんど変わりません。読まれましたか」
「たしか、毒ヘビに咬まれて、という内容で、失血の状況についてはほとんど記述がなかったかと」
「そのことは本当によかったと思っています。私はこうして探偵の方に相談していますが、『全身の血が——』なんて書かれて、しかも事件だとなったら、まるで吸血鬼みたいだと騒ぎ立てられるような気がして」
「『吸血鬼』ですか」
内田が当惑したように彼を見た。思わず、人間らしい表情だと感じてしまった。すぐに忘れてしまったけれど。この現実は映画ではないと少し笑ったら、どうして「吸血鬼」を連想したかを思い出したのだ。これも地元新聞が書きたてなかった事実だが、
「咬まれたという場所なんですが、実は首筋でして」
警察は、場所も悪かったのではないかと言っていた。打ちどころが悪かった、というのと似たような意味合いで。おまけに、あの夜は雨だった。そこまで話して、また思い出す。
「そうでした、死体検案書があればとのことでしたよね。——これです。写しですが」
「助かります」
「どうぞ、ご覧になってください」
書類を渡すと、受け取った内田は上から下へと目を通した。そして、お預かりしますと言って、隣へ渡す。彼にも頭を下げられて、こちらもお願いしますと頭を下げて、再び内田が口を開いた。
「何か生活のなかで違和感を覚えたようなことはありませんか」
「『違和感』ですか」
「はい。あなたご自身が、いつもと違うと感じたこと。変わったこと、おかしなこと、不思議なこと、なんでも。生前のご様子でも構いませんよ。何か違和感があると仰っていたとか、珍しい鳥を見かけたとか、急にカレーを食べたくなったとか、旅行、プレゼント、変な音」
今度は彼が当惑する番だった。おかしなことを聞くものである。だが内田にも自覚はあるらしい。内田は苦笑しながら言葉を続けた。
「光熱費が倍になったり、家電の調子が悪かったり、刺激臭、嫌な臭いがしたり」
「いいえ何も。この辺りで変わったことといえば、豚が盗まれたとか」
関係があるとは思えないが、窃盗団が現れたようだという話である。市内で近ごろ頻発している事件で、配偶者の「事故」よりも大きく扱われている。窃盗団は家畜を盗むそうだ。豚だけではない。牛や鶏も被害にあっている。
「子供が——豚や牛のということですが——狙われたそうですよ」
そのあたりで話は一旦切り上げ、内田たちに部屋を見せて回った。そのなかで、こちらの仕事や趣味に少しだけ触れた。配偶者とは趣味を通じて結ばれたのだ。先に伝えた友人は、学校のサークルの関係者だ。それから、遺体の所持品の話にもなった。
彼は何にも気づけなかった。よいように言えば、配偶者は強盗にあったわけではないようだった。警察も最後まで強盗をほのめかしはしなかった。逆に不自然な所持品もなかった。遺体の所持品は、すべて配偶者が持つべくして持っていた。
見せられるものは内田に見せた。見せられなかったものというと、たとえば指輪である。
「骨壺に納めてもらったんです。いつも着けていたので。——これと同じですよ」
彼は右手の薬指を見せた。そして内田が何かを言う前に、左手を見せた。
「結婚指輪ではないんですが、いつもは左手の薬指にはめていました。これです。——結婚してから金属アレルギーがわかったんです」
配偶者がそうだった。結婚するまで気づかなかったので、結婚指輪についてもアレルギーのことを考慮しなかった。二人は相談して、新しい指輪をそろえた。結婚指輪は大事なときに着けることにして、でも普段使いもしたいからと。
結婚指輪は骨壺には入れなかった。単に探す時間がなかっただけだ。結婚指輪は各々で保管していた。彼は配偶者の指輪の場所を知らなかった。隠していたわけではない。きっと年を重ねたら、保管場所の話をしたのだろう。いずれ必ず死ぬにしたって、この世の中では早すぎる死だった。
——探偵事務所の二人が帰るころ、時刻は午後三時を回っていた。
彼は、すっかり彼らのことを許していた。調査の結果、改めて事故だったことを突き付けられるかもしれない。だが、そのときは事実として受け入れられるような気がしたのだ。はたして彼らと話したからかは、今の彼にはわからないのだけれども。
三
はたして彼には知る由もないのだった。後日、調査を終えた二人の青年が、ひいては工藤探偵事務所が、彼に突き付けるのだ。事故でした、と。そして彼は事故を事実として受け入れてしまうことになる。
上原もとい黛は、内田もとい花宮に問うた。
「いいのか」
「何のことです」
花宮はベッドの縁から、背を向けたまま問い返す。
黛もまたベッドの縁で、背を向けたまま答えを返す。
「全部だ。全部。わざわざ遺族に接触する必要はなかった」
「ありました」
花宮は即答した。
「俺たちは探偵ですよ」
「俺たちは探偵じゃない」
黛も即答した。
どうせ「事故」だと伝えることが理由のひとつ。そして、もうひとつの理由がこれだ。
花宮と黛は探偵ではない。では何かというと、工学部の大学生である。花宮はともかくとして。黛は大学生だ。それもミステリ研究会とは無関係の。ミス研が存在するかも知ったことではない。——推理小説の主人公が大学生だと、ミス研で島で合宿して殺人事件だとか、ミス研で山に登って殺人事件だとか、とにかく殺人事件をミス研の名探偵が解決するとか、そういう展開がありうるので。これは推理小説ではないとはいえ断っておく。
「研究室は平和でしたか」
「平和な研究室があると思うか」
名探偵な教授もいない。探偵助手な学生もいない。黛の大学生活には、探偵は登場しない。凶悪犯罪も発生しない。殺人事件は論外中の論外。だったのだ。この週末までは。
昨日、土曜午後二時、黛は花宮との初対面を果たした。マジバーガーで、ホットコーヒー一杯で、四人席を独占していた。それが誰を待っている様子でもなかったから、黛は人生で初めて声をかけたのだ。そしたらこのクソ、なんて遮ったと思うよ。——今それどころじゃないですすみません。
もう息もつかずに拒絶された。顔も上げずに切り捨てられた。とはいえ花宮は、後輩と呼ぶには縁遠い存在だった。かろうじて年下で、学年は黛の一つ下で、けれども今の花宮は学生でも何でもない。そのうえ、そのちんけな縁を辿れば、むしろ「先輩」がふさわしいことが判明するおそれがある。
その程度の関係だった。花宮が高校を卒業してから何をしてきたかということを、黛は正確には把握していない。ただし、これだけは言える。花宮こそ探偵ではありえない。
「探偵がいいって言ったのは、あなたですよ」
「俺は、警察はごめんだって言ったんだ」
「そうでしたっけ」
花宮は背を向けたままとぼけた。
黛は返事をしなかった。
だって「工藤探偵事務所」だ。
「東の大学生探偵ですよ」
それこそ、よりにもよって、だ。
関東で探偵の工藤といったら、まず「東の大学生探偵」だ。かつて「東の高校生探偵」として名を馳せ、日本の救世主、はたまたシャーロック・ホームズの再来とまでうわさされた、引く手あまたの有名人。「東の」とつくだけあって、「西の」「南の」「北の」大学生探偵がいて、彼らもかつての高校生探偵であるのだが。
そのことを逆手に取って、東京の工藤探偵事務所を名乗る手口なら、百歩譲ってよしとしよう。同じ名前の探偵が、偶然にも同じ町に事務所を構えることもあるだろう。ところがどっこい、花宮が依頼人に手渡した名刺の連絡先は、東の大学生探偵の事務所のサイトに載っていた。すると花宮は言うわけだ。
「だって工藤のメアドだし」
並の人間ならキレていた。
黛が微動だにせずにいられた理由は、高校時代にあるだろう。彼が高校時代におおむね所属していたバスケ部は、彼に自己抑制を刷りこんだのだ。かの崇高な球技から遠ざかった今でも、「部活の癖が抜けなくて」が口癖になるかもしれないほどで、この不本意な週末もある意味では部活動の関係で、このちんけな花宮も学生時代には他校で同じ球技に励んだわけで。
しかし、よりにもよって東の大学生探偵。
大学生になって事務所を立ちあげ、ゴールデンウィークの前だか後だか、とある平日、大学構内で殺人事件が発生した。東の大学生探偵は瞬く間に解決した。入学一年足らずで、もう伝説だ。さながら「名探偵」だと感心したのは、ミステリ愛好家の誰だったか。噂は蔓延した。警視庁は当然のごとくに、千代田と市ヶ谷とFBIとCIAとMI6とICPOとIMFと、あとなんだっけか、国内外の機関から渇望される人材らしい。
黛はよく知っている。なにせ大学が同じであるので。そのくらいが、黛の大学生活の探偵要素だ。登場はしない。大学生探偵は黛の友人でも知人でもなく、友人知人の友人知人でもない。キャンパスも違う。学部も違う。ゴールデンウィークの頃の事件も、その「違う」キャンパスで発生した。何もかも、この週末までのことだけれど。
ついに今日、黛の大学生活のどこかに「探偵」が登場した。
「本当に問題ないんだろうな」
千代田からIMFからなんだっけかのうわさは眉唾だとしても、その評判は、今の黛には看過しがたい。昨夜そして今夜のことを考えたら、なおのこと東の大学生探偵は警戒して然るべきだ。
そうしたら、背後の花宮が体をひねった。なんだと思って、黛も振り返る。
「たしかに工藤の前では吸血鬼は殺さないほうがいい。助けてやったのに、いつまでもうるせえんだよ。あいつが最初になんて言ったか知ってますか」
「——知るか」
「——俺も聞いてなかったんですけど。
まだ巣だぞ。俺はクソガキ抱えながら、吸血鬼の巣で戦ったんだ。よく生きてたな。マジで上辺だけでも労えよ。なのにあの野郎、ピーピー喚いて、説教まで垂れてきたんですよ。信じらんねえ。
もう二度と助けてやらないと心に誓った事件でした」
——ああ、そう。つまりだ。花宮と黛は今夜「吸血鬼」を殺すので。
花宮と黛は、鬼ではない。事実として。いくら花宮が鬼畜だろうと、事実としては人間である。同様に悪魔でもなく、天使でもなく、あたりまえに神でもない。花宮と黛は人間だ。実際に。だから、これから人知を超越した悪戯で調査結果を歪めようというつもりはない。しかし、いざ真相を伝えようとすると、花宮と黛は、というか花宮こと内田が、あの依頼人にこう話す羽目になる。
——犯人は吸血鬼でした。
この現実は映画ではない。そして吸血鬼も、映画に登場するだけの存在ではない。伝承には、事実に即した部分がある。吸血鬼は実在する。いや、怪物が実在するのだ。
たとえば、この怪物は血を飲んで永らえ、時に人間を仲間に変える。
外見的特徴としては牙と鉤爪が挙げられる。逆に言えば、それさえ隠せば姿は人間と変わらない。一般的な吸血鬼は、よって人間の前では人間に擬態する。
そうはいかないのが食事である。人間同様の食事から栄養を得ることは可能だが、いずれは人間の生き血を飲み干すことになる。トマトジュースはもちろんのこと、生肉でも代えられない。吸血鬼の肉体は新鮮な血液を必要としているのだ。だから失血死が起きたとき、花宮や黛は吸血鬼の出現を疑うことになる。今回の依頼人の「事故」がそれで、また盗まれた家畜も吸血鬼の食事だ。
「地区の警察の記録を読みましたが、目ぼしい痕跡は年単位でゼロ。今回の件が初めてのようなものです」
「こっちも似たようなもんだ。——最初の犯行は『事故』前夜だろう」
まず地区の二か所で家畜を盗んだ。吸血鬼は人間の生き血を好むが、新鮮な血液なら人間以外のものでも食事にできる。家畜は帰らないだろう。吸血鬼は生き血を飲み干すものだ。そうでなければ、食事にされた誰それは、いっそ死にたいと思うような目にあうことになる。
「市内では以前から家畜の窃盗が問題になっていたが、——見ろ。血痕の量」
「何頭かはその場で飲んだと。捨てていかなかったのは、その窃盗団の犯行に紛れさせるためでしょう」
そして翌晩の食事も、まんまと「事故」で片づけられた。事故の範疇なら、花宮や黛のような人間でも、なかなか疑わない。
花宮が再び背を向けた。束ねた髪が、さらりと揺れる。彼は腰をかがめると、リュックサックに手を差し入れた。
「それで最後が昨日の晩か。警察も報道も例の窃盗団だと言っているが、現場には食事の痕跡が残されていた」
「『事故』程度のニュースは、ここを離れる理由にはならなかったということです」
「巣が問題だな」
黛も背を向けた。背中の向こうで花宮が、そうですねとつぶやいた。続けて、蓋が閉まったような音がする。
「殺されたとは思いませんでしたか」
同時に、ひょいと物が飛んできた。背後のマットレスが、それをやわらかく受け止める。小さな入れ物だ。からからと、中で軽いものが転がろうとしていた。
黛は背を向けたまま、その入れ物を拾い上げた。
「吸血鬼だぞ。家畜泥棒の手口から見て、二体はいる」
たとえ単体でも人間の手には余るのだ。吸血鬼の本能は人間の生き血を求めている。吸血鬼にとって人間は食糧に過ぎない。吸血鬼の身体能力は、人間のそれを凌駕する。怪物なのだ。殺し方を知っていてさえ、人間は殺される。花宮も黛も例外ではない。
——「殺し方」がある。
注射器が入っていた。小さな入れ物のなかで、三本の注射器が、赤黒の液体を吐き出す瞬間を待っている。死人の血だ。
「用意がいいな」
「稼業ですから。黛さんが吸血鬼になったときは、治して差し上げます」
「それ冗談のつもりか?」
黛はリュックサックを拾い上げ、そっと容器を中にしまった。途中で硬い音がしたが、ナイフか銃に当たったのだろう。構わず再び地面に戻すと、今度は脇でスマートフォンが振動する。
「出ていただいて構いませんよ」
「いや」
通知だから。告げようとして振り向いたところで、花宮と目が合った。
「確認しないんですか」
「ああ。今はいい」
「そうですか。気をつけてくださいよ。吸血鬼は耳もいい。そんなことのために死にかけて今吉翔一に助けられるなんて、俺は死んでもごめんです。まあ先に死体になってるのは、あっちでしょうが」
そうは思いませんか。
花宮が冷たい表情で黛を見ていた。殺されたとは思いませんでしたか。声音が一段、低くなる。
「単独で復讐に打って出た今吉翔一が、とっくに返り討ちにあったとは思いませんでしたか」
こいつはやっぱり無理があったぞ。黛は脇のスマートフォンを見下ろす。端末は裏返しで、画面が見えない。
「どうぞ確認してください」
おまえに許可されるようなことじゃない。そうは言えずに、黛は、ひとつ息をこぼす。そして、ゆっくりと端末を裏返した。
短い文章だった。一言だった。送信者は、今吉翔一。
黛も一言で返信した。
バレた。
四
今吉翔一が狩りから帰らない。
考えたすえに、そう伝えた。昨日、土曜の深夜、まだ黛はM市のホテルに戻ったばかりで、同じツインルームの花宮が荷物を投げ出し、ただこぼした。そうですか。コートを脱いだ。現れた袖に赤色の染み。花宮はすぐに気づいて、浴室へと姿を隠す。黛はリュックサックを手繰り寄せる。血の付いた大きなナイフが、分厚い布にくるまっている。「狩り」の単語の正体など、もはや説明は無用だった。
その日の獲物は妖術師だった。二人組の若い女だ。心臓を刺して、引き抜いたときには死んでいた。死ぬときだけは脆弱だった。首を落としたら死んでしまった。
花宮が浴室から顔だけ出して、使いますかと尋ねてくる。黛は首の動きで否定した。可能なら、今すぐにでも寝てしまいたい。戸の閉まる音を聞きながら、そんなことを考え続けた。
花宮真はハンターである。
狩猟免許は持っていない。
「俺は、テメェは足を洗ったと思っていたんですがね」
今吉はホテルの外に立っていた。休日の大学生の装いをして、薄ら笑いを浮かべて、銀のスプーンを見せびらかして。日曜午後四時、花宮と黛は彼の前に立ち、こたえるように同じ銀色をつかんで、握りしめる。今吉は花宮と黛に一本ずつを差し出した。花宮と黛も計二本を今吉に差し出した。交換して繰り返すと、次は互いにペットボトルを取り出した。
正真正銘の聖水だった。正真正銘の銀製スプーンだった。
銀の弾丸というものがある。文字どおり銀製の弾で、実用性にはやや欠けるものの、伝承の怪物に対しては時にその弱点として機能する。たとえば狼人間が銀の弾丸に撃たれて死ぬ。転じて、困難な問題を魔法のように解決する物事は、時に比喩的に「銀の弾丸」と表された。
というものだが、銀の弾丸は本当に狼人間を殺す。
怪物に対して、銀は汎用的な「弱点」なのだ。聖水や塩も、そのひとつとして、よく知られている。すべての怪物を暴くものではない。だが、ここでは、それで互いを人間とみなすことにして。
「髪、伸びたな」
今吉は答えず、花宮を見た。
花宮は答えてやった。
「ご存じでしょう」
「『髪には霊力が宿るのよ』」
黛が付け足す。なんやそれ、と、今吉が笑った。花宮は沈黙した。それらは無視して、黛は今吉を見る。
「話してやれ。じゃねえな。話せ」
今吉翔一は「ハンター」だった。
中学生になるより昔のことだ。
「だから黛くんに頼んだんや。それともワシに呼ばれてくれたか。——かたき討つの手伝え、言うて」
三人は並んで歩いた。前を黛と今吉が、今吉の後ろを花宮が。先導したのは今吉だ。三人は、まもなく通りに出る。傍目には休日の大学生に見えただろうか。三分の二は正解だ。今吉と黛は大学生だ。同じ大学で、同じ食堂で、時々昼食を共にする。月に一回あるかないか、十月は会った、十一月は会わなかった、そして今月は。
それが最初の異変だった。今週の頭、今吉の友人がやってきた。今吉が受けた試験の結果を、今吉のかわりに黛に明かして、黛の表情に落胆を示す。失礼なやつだと思った一方で、尋ねてもいた。今吉の友人は、実は、と答えた。
今吉が大学に来ない。
「今吉、友達は大事にしろ。報酬をはずめ。酒をおごるんだ。あいつは何も知らないんだろ。なのに、俺なんかのところまで来たんだぞ」
大学に来ないばかりか連絡もつかないと、彼は心配していた。黛は見当もつかないと答えるしかなかった。本当に何も聞かされてはいなかった。十月に進路の話になったのが、本当に最後のできごとだ。今吉の友人は、それもそうかと帰って行った。
けれども。ここからは黛の取り分の話になる。
「ワシも驚いたわ。まさか黛くんが、——実家まで来てくれたんやろ」
「言ってろ。俺が『実家』で靴脱いだ瞬間だったぞ、おまえの電話。——まあ焼き魚と、あとは日本酒で手を打とう」
「考えとく」
「で」
と花宮。
「俺が黛さんから聞かされたのは、そちらがご家族で吸血鬼退治に出かけたんじゃねえか、って見解でしたが」
今吉も他人事みたいに黛を見た。
黛こそ他人事みたいに今吉を見た。
今吉が折れた。
「そこの黛くんは、ワシと連絡がつかんって聞いた後、その晩やろうな、寮まで来た」
「不在だったそうですね。しかも、その時点で数日は帰っていない」
「実際、先週末から帰っとらん」
その時点でそうと教えてくれればよかったのだが、連絡もつかなかった。外泊届も出ていなかった。もちろん黛が四年生なら今吉も四年生だ。ことこの時期には、それはもう様々な事情がついてまわることだろう。黛もぶっちゃけ卒論がヤバい。だが、彼の友人の心配はその類いのものではなく、だからこそ黛も報道を遡り、今吉の身辺を入念に探った。
胸騒ぎがしたのだ。
今吉と黛は、あくまで大学生だった。二人の関係は、大学の食堂だけで完結する。その一方で互いに正体を探り合っていた。
黛千尋は「ハンター」である。
中学生になってからは学生生活を優先していた。
「金曜の晩だ。そこの野郎の実家に踏み込んだ。まるで見ていたみたいに電話がきたぜ。——家族を殺した吸血鬼を殺すために花宮の手が必要だって」
でしょうねと花宮がうなずいた。
腹は立たなかった。今吉と黛だけでは、吸血鬼退治には力不足だった。十年間も学生生活を優先して、黛は昨日に二年ぶりに「狩り」をした。かたや小学六年生の「狩り」を最後に家族諸共「足を洗った」今吉である。今吉にとっては「狩り」の再開それ自体が無謀ともいえた。
他方の花宮はというと、高校卒業と同時に専業「ハンター」になったらしい。昨日の「狩り」は一週間ぶり。肝心の腕に関しては、その一件から一定の信頼を置けることがわかっている。
世間は狭いものだ。まさか花宮までもが「ハンター」だろうとは。彼は高校バスケでは多少有名な選手だった。今回のことがなければ、黛のなかの花宮はバスケの選手のままだったはずだ。
「黛くんがなんて話したか知らんけど、ワシのこと黙っとってくれたんやろ」
「じゃなきゃ俺が来てません。あんたが言ったとおりです」
「な」
今吉は得意げになって黛を見た。
「ま、話すこと話してくれたっちゅうことにして」
「全部話した」
「ええ。だからここに来た」
花宮が後ろから淡々と告げる。
「あとはテメェが吐くだけなんですよ」
今吉がぴたりと足を止める。後ろの花宮も、ぴたりと止まる。曲がり角だ。
「相変わらず生意気なガキやのォ」
「先輩のご指導のたまものです」
五
本当に生意気なガキだな。黛も思った。ガキと呼ぶには成年だが、花宮は黛より歳が若い。二十歳だ。早生まれらしい。言及はしなかった。そうすれば今吉に軍配が上がることを、黛は知っている。彼自身、早生まれの二十一歳なので。
とはいえ六月生まれの二十二歳は本題を進めたがって、あっさりと新情報を提供した。彼は吸血鬼の巣をつかんでいた。早生まれの二十歳は、車を取ってくると言って一時離脱した。生意気なガキである。
「ブルジョワか」
「詐欺か博打だろ」
黛は今吉と取り残されて、そんなふうに返す。そして、しばし黙って、どちらからともなく来た道を戻った。
「ホテル、二人部屋やろ」
「ツインな」
部屋まで戻ることになった。高くないホテルの、高くないツインルームに、ありきたりに二つのベッドが並んでいる。室内は整然として、持ち込んだ荷物も各々整理されている。だから、そこが際立って映ったのだろう。今吉は見回すでもなく一点に芽を留めて、一言こぼした。
「懐かしいわ」
黛も同じところを見た。戸棚の上に盛り塩をしていた。黛が施した魔除けだった。玄関にも置いた。洗面所にも置いた。花宮も置いた。呪符、十字架、彫像、宝石。もしかすると今吉にしてみたら、ここは雑然とした空間であったのかもしれない。
「さすがに忘れはせん、けど、行事ごとの飯食ったり、葬式の後に塩まいたり、せいぜいそのくらいや。まあまあ一般家庭やったで」
今吉はつかつかと歩いて、花宮のベッドの前に立つ。つまむようにして枕を持ち上げると、すぐに落とした。何もなかった。勝手に触ってやるなよと、すべて終わってから黛は言った。
まあ、長かったのだろう。黛は今吉の寮も実家も実際に見た。そのときのことをいえば、たしかに、魔除けのマの字も必要のない生活はずいぶんと続いたように感じられた。
近所に吸血鬼が現れたらしいことに、彼の父親は気づいてしまった。らしい。十一月中旬、吸血鬼の活動は、もう三か月にも及んでいた。一方のハンターは、誰も仕事にこなかったのだろう。黛は当時の報道を確認したが、吸血鬼を疑うには情報が不足していた。まもなく元ハンターは決断を迫られ、ひと時でも狩りの記憶を掘り返す道を選んだのだ。家族には隠しとおすつもりで。
「やから親父のことは、もうわからん」
今吉が知ったときには、父親は亡くなっていた。実家に戻ったときには、吸血鬼は巣を移していた。
「覚悟してたんやろう。死んだらメールするようになってた」
今吉の家は父子家庭だそうだ。
黛は返事をしなかった。
今吉は何かを押し殺すような顔をして、にしても、と表情を切り換える。
「ここ黛くんの趣味か?」
「花宮だ」
今朝、M市からこの町に移動してきたときには、ホテルが決まっていた。黛は何もしていないから、花宮が手配したのだろう。M市のホテルもそうだった。高いホテルではないようだったが、そもそも宿泊費用は安くない。にもかかわらず、黛は支払もしていない。花宮の言うには、経費で落ちるということだ。
「経費て」
「領収書、切ってた」
「ハンターが」
黛も同感だが、常識的に考えて、なぜか付随した探偵業だろう。世間一般のハンターはともかく、こちらのハンターは、それ自体を堂々と商売にすることが難しい。吸血鬼のみならず、少なくない怪物が人間に擬態し、あるいは人間と同じ姿をしている。そしてほとんどの狩りは怪物殺しで、それは何度見直しても人殺しに似ていた。
この世の人間は怪物の不在を信じている。
残念なことにハンターは、政府の秘密組織の構成員でもなければ、密命を帯びているわけでもなく、もちろん協力関係にもない。黛自身、千代田も市ヶ谷もFBIもCIAもMI6もICPOもIMFも、いかなる機関とも無関係だ。狩りを続けていれば、個人的に知り合いになることもあるのかもしれないが。東の大学生探偵と花宮が好例である。
逆の例としては、実際に少なくないハンターが様々な罪で逮捕されている。数々の指名手配から逃げ続ける者たちもいるという。商売などは夢のまた夢だ。まっとうな(これにも正直疑問符はつく)兼業ハンターもいるけれど、詐欺や博打の違法行為で金銭を得るハンターもいる。これがまた余罪をつくるものだから、ますます世間とは仲よくなれない。
花宮が車を出すと言ったけれど、それだって入手経路から怪しいものだ。
そうこうするうちに、花宮が勝手に合流地点と時間を指示してきた。ちょうどよいので、今吉に仕事道具を広げさせてみる。だが、時間を潰すことはできなかった。必要なものが綺麗にそろっている。父親の道具を受け継いだそうだ。早々に片付けさせたところで、今吉が言った。
「狩り、続けるんやろ」
「おまえは」
「これっきりや。院試、受かったからな」
六
花宮は車のそばに立っていた。黒色のSUVが停車していた。オフロード性能を買ったのだろう。狩りで車に乗れば、いずれ悪路を走ることになる。日が沈むころ、今吉と黛とを見つけると、二人の乗れと促して、花宮も運転席に乗り込んだ。まるでアウトドアの大学生だった。助手席の扉を、今吉が開ける。
黛が後部座席に乗り込むと、運転手は形式ばって、汚さないでくださいよと二人をにらんだ。整然とした車内である。食べかすのひとつもなく、嫌な臭いもしやしない。
「花宮、曲かけんの」
「聞きたきゃテメェのスマホでどうぞ」
アイドルが歌い始めた。おそらくだが。若い女性の声が重なり合う、かわいらしい曲である。そのくらいのことしか黛にはわからなかったが、選曲した今吉とて多くはわかっていなかっただろう。花宮には不似合いな曲調だと思えば、もう嫌がらせに他ならない。
花宮は、ちらりとも表情を変えなかったが、今吉の話に応じることもやめてしまった。今吉は、わかりきったことのように黛と話した。黛もたまに応じたくらいだけれど。
「サブスクは使うてる?」
「俺はCDを買いたい」
学食でもそうだった。
たぶんスプーンを手に取ったのだ。銀製でなくとも銀色の、返却の必要なスプーンだ。料理は覚えていない。カレーライスだったのかもしれない。だが、そのときの黛にとって重要だったことは、今吉が同じ品を注文していたことで、同じく返却の必要なスプーンをつかんでいたことだった。見つめたつもりもなかったけれど、何をじっと見ているのかと笑った意地の悪い顔を覚えている。
きっと、きっかけは、それだった。
だから今吉は、月ごとに機会をつくって、黛の隣で昼食を取ったのだ。いつかハンバーグを注文した今吉は、切ってみせようかと、黛の隣でナイフを握った。返却の必要な銀色のナイフだった。黛は無視して、ハンバーグにナイフを入れた。
学食での時間と同じように、黛が相槌さえ打ったり打たなかったり。学食での時間とは異なって、背景音はアイドルの歌声だったが。そして、そうした時間は、長続きはしなかった。時間が進めば、車が進む。車が進めば、吸血鬼の巣が近くなる。
地区の北側は山になっていた。地区内にあるものは森と田畑と公園だったが、大部分は一般には開かれない。その奥に吸血鬼がすみついたのだと、今吉は新情報をもたらした。行く手に森が見えている。
まず音楽がやんだ。今吉がスマートフォンを回収する。音は消せよと、花宮が言った。それから一分とたたずに、車が立入禁止の札を過ぎた。
花宮は、札を二つ過ぎたところで、車を止めた。そしてシートベルトを外す二人に、こんなことを言う。
「右手を」
黛は素直に、そちらを見た。なるほど、少し離れたところに、車が止まっている。先客だった。花宮の車と同じくSUVのようだが、これよりやや大きいだろうか。色は黒、周囲に人の姿はない。舌打ちをして、前を見た。すると今吉が振り返った。今吉の奥で、時計が十八時を示している。運転手は背を向けたまま今吉に尋ねた。
「心当たりは?」
「ワシはもう少し手前から入った。北にしばらく歩いたら、使われてへんプレハブが見えてくるんや」
にもかかわらず、今吉のたゆまない調査の結果、人の出入りがあるらしいことが判明した。今朝は血のにおいもしたという。昨晩また家畜が盗まれたことを踏まえると、無視のできない痕跡である。
「バレてないでしょうね」
「誰にも会うてへんよ」
「一応、俺も指導した」
そうですか。花宮の返事は冷たい。黛は何も言えずに、また右手を見た。車の様子は変わらない。
「ひとまず降りましょう。俺は荷物を下ろします。黛さんは——」
「——見てくる」
「援護します」
「ワシは?」
「いつでも殺せるようにしといてください」
花宮は扉に手をかけた。そして、もう一度だけ今吉を見た。
「言い残したことは?」
「親玉はワシが殺す」
即答した今吉に、花宮は背を向けた。できるものなら。その言葉を最後に、花宮は外に出た。
枯れ葉を残した高木が、寒々しくそびえ立つ。
黛はリュックサックをつかみ、右手の車に向かって歩いた。近づけども近づけども、異変は起きない。風の音と、風に吹かれた物音と、その他には音も立たない。エンジンの音もしない。車内は無人だった。荒らされた形跡はない。長く放置されているわけではない、とはいえ、人が降りたばかりというわけでもない。ありうるな。黛は舌打ちをこらえ、さらに一周。
回ったところに二人もやってきたので、黛は首を横に振った。
「死体が増えるかもな」
「そいつは結構」
二人もリュックサックを背負っており、さらに花宮は弓矢と紙袋をつかんでいた。黛の前に立つと、その弓矢を、ずいっと突き出してくる。
「矢尻に死人の血を塗ってあります」
「そいつは結構」
黛は空を見上げた。逢魔時は訪れた。揺れる高木の向こうで、半月ほどの輝きがぽっかり日曜日を照らしている。あたりまえに新月でなくて、満月でもない。だが大禍時は訪れた。怪物との遭遇は不吉そのものに違いない。見下ろすと、靴箱で一番活動的な靴が、土を踏んで汚れている。
三人はしばらく黙りこくって森を歩いた。その建造物が見えてもなお。
今吉が言ったとおりのプレハブの、大きめの物置、又は小さな事務所、そういう小屋が建っていた。日当たりはよくない。だが、吸血鬼にはおあつらえ向きだ。
べつに怪物は昼間にだって人前を闊歩する。朝から晩まで不吉は実現する。しかし夜行性の怪物もいるのである。
吸血鬼は伝承のとおり、日の光を嫌っていた。皮膚が日光に当たると、極度の日焼けを起こすそうだ。灰にはならない。死にもしない。皮膚癌の発症事例も報告されていない。そも吸血鬼は人間の病気を克服するものと見られており、——だから日中の屋外活動は絶対不可能なことでもない。ほとんどの吸血鬼は昼夜逆転生活を送ることになるけれど。吸血鬼にとって巣の日当たりの悪いことは、むしろ願ってもない利点なのだ。
この、あんまり薄暗くじめじめとした、ぽつんと建つプレハブも、吸血鬼には望まれるのだろう。数年前に閉鎖されていることも、なおさら都合がよい。昼間だろうと、誰もここを訪ねない。実際、管理は疎からしい。遠目にもわかる。この建物は長らく放棄されている。
ただし、外観に損なわれた部分はなく、出入り口は一か所。
三人は二手に分かれた。花宮が先行した。黛は、やや距離を置き、木々に紛れて矢をつがえる。いずれどこかしらから吸血鬼が姿を現す。そこに死人の血を弓で撃ち込む作戦だ。
吸血鬼は新鮮な血液を好む。逆に極端に鮮度の悪い血液——死人の血——は、吸血鬼にとって日の光よりよほど有効な弱点らしい。死人の血を体内に取り入れると、吸血鬼は身体機能が鈍るのだ。当たり所が悪ければ、動けなくもなるという。長続きはしないようだが、花宮の言うには、今吉が首を落とす時間くらいはつくれるそうだ。
今吉は黛についた。花宮は今吉に何を持たせることもしなかったが、今吉は血もナイフも用意していた。ナイフは、ハンターが怪物の首を落とすときによく使う鉈状の——山刀だ。どちらも父親の遺品なのだと今吉は言った。
黛は、家族を亡くした今吉とは、今日初めて対面する。黛は彼をよく知らないが、まったくいつもどおりだと、そんなはずもないのに錯覚した。ホテルの前で会ったとき、そして金曜日の電話越しにこそ、学食で隣り合うときのプラスマイナスゼロっきりの今吉が、黛に話しかけてきた。今吉は、うまく激情を隠していた。
それゆえ、なのだろうか。花宮が今吉の意志を確認したことは。
自ら殺すと今吉が宣言したとき、花宮は挑発的に返したが、その実、ないがしろにするつもりはないようだった。それどころか、今晩の計画は今吉にかたきを討たせるためのものだ。弱らせた吸血鬼を適切に拘束すれば、たとえ素人にだって首を落とせる。そしてたいていの怪物は、首が落ちれば死に至る。昨晩の妖術師も、首を落としたら死んでしまった。
それゆえ、なのだろうか。
黛は花宮のこともよく知らない。同様に、今吉と花宮の関係についても詳しくない。学食で一度だけ、あの花宮が中学時代の後輩なのだと聞かされた。金曜日に電話越しに、あの花宮が現役のハンターなのだと聞かされた。花宮の母親がハンターなのだという。ハンターの間では、よくあることだ。ハンターは家業になる。黛も、そのひとりだ。
強い風が体を冷やした。半月はのぼる。小屋には確実に何者かが息づいている。花宮がそれを吸血鬼だと認めたことを、黛は、その音で知った。
ガラスの割れる音がした。計画に従って木々の隙間から花宮が、手に持ったものを再び振りかぶる。第二投。
紙袋の中身は催涙剤だった。対吸血鬼用、聖水を振りまく手榴弾だ。吸血鬼もまた聖水を弱点とする怪物の一種だ。
案の定、吸血鬼は飛び出してきた。一体は唯一の出口から。認めるや否や、黛は弓を引いた。命中。同時に、横の今吉が飛び出した。黛もナイフと注射器をつかんで後を追う。視界の端で花宮が、別の吸血鬼の首を締め上げていた。だらりと垂れた腕の先に、鋭い爪が伸びている。吸血鬼だ。
二体。黛は怪物を数えた。正面の今吉が吸血鬼の首に注射器を打ち込んでいる。
「殺せ!」
黛は叫んだ。吸血鬼が打ち消さんばかりに悲鳴を上げた。苦しんでいる。今吉は意に介さず、再び叩きつけるように赤黒の液体を注射する。これで三度は弱点を突いたはずだ。吸血鬼が弱々しくあえいだ。今吉が後ずさった。今ならたしかに素人にも殺せる。だが今吉は、そもそもナイフをつかんでいなかった。
「何考えてんだ」
黛はナイフを構えて近寄った。今吉は肩で息をして、答えない。「いいでしょう」と、次に花宮がやってきた。
「聞くこともあります」
花宮はもう一体の吸血鬼を蹴り飛ばして転がした。
二十代後半から三十代前半といった見た目の、中肉中背の男女だった。現状、二体で全部らしい。プレハブは、ぴったり二人分の居住空間になっていた。三人は二体を別々に拘束した。力が入らないのか、吸血鬼はろくに抵抗しない。死人の血の効果が薄れる時を、そして黛たちの油断を待っているのだ。花宮と今吉は、そして首筋にナイフを添えた。
「豚を盗んだな」
これは花宮。聞かれて、男の吸血鬼がせせら笑った。花宮のナイフの相手だ。
「牛と鶏もな」
「人間も殺しただろ」
「スーツのやつか? ありゃあ『事故』だって」
言葉にしながら、吸血鬼が笑う。おまえらハンターだろ。もう片方も笑った。女の吸血鬼だ。
「なんでわかった? 泥棒のせいか?」
「詰めが甘ェんだよ」
花宮が鼻で笑う。吸血鬼は反射的に怒鳴ったが、花宮も今吉も、怪物を傷つけることはしなかった。怪物も、もがく素振りは見せなかった。ただ今吉が静かに告げた。
「もうええ。仲間はどこや」
普段より、やや声が低い。今吉の吸血鬼は笑って答えた。中を見ただろう、と。
たしかに確認した。花宮も今吉も、黛もこの目で。スマートフォンで室内を照らして、床も壁も天井も見た。隠れられる場所などなかった。他に吸血鬼はいなかった。
「なら、どっちが殺した? ハンターや。殺したやろ、前の町で、一週間前」
今吉のナイフは震えない。
花宮は冷徹な目で吸血鬼を見下ろす。その手元の吸血鬼が、ひと際大きな声で笑ったのだった。
「かたき討ちか! あいつの——そっちの関西弁! 息子か? そうだろ!」
今吉は答えない。だが吸血鬼は得意げに続けた。
「知ってたんじゃねえか! あいつ! あの人を殺しやがった!」
「殺されたのか」
花宮が尋ねた。間髪入れずに吸血鬼は肯定する。吸血鬼は、まだ笑っている。
「仲間を殺されたわりに、うれしそうじゃねえか」
「うれしいわけねえだろ!」
吸血鬼は、しかし笑顔だ。
「だから俺が殺してやったんだ。あの人のかわりに。あの人の後を継いだんだ。俺たちが!」
「そいつが親か」
「それなら、——孫の顔を見せてやりたかった」
花宮のナイフの先で、吸血鬼がくすくすと笑った。今吉のナイフの先でも、吸血鬼が笑い始めた。
孫。
黛は思わず反芻した。小屋を見る。三体目はいなかった。二体分の居住空間だった。今も気配はない。さらに周囲にも敵意はない。おそらくは。もっとも吸血鬼の超人的な身体能力は、瞬発力にも五感にも及ぶ。怪物は一瞬で距離を縮め、また人間の感知能力の範囲外から警戒できる。はったりか。だが本当に仲間がいるのだとしたら、この怪物二体の勝算は、より確実なものになる。吸血鬼と一対一で戦えるハンターは、ここでは花宮だけなのだ。
吸血鬼は楽しげに自ら肯定した。
「また三人家族になったんだよ!」
「ハンターじゃなくても知ってることだよ。殖やしたの!」
女の吸血鬼が目だけで今吉を見上げる。
「今度は四人家族ってのも、いいと思わない?」
今吉は微動だにしない。
花宮は見下ろしたまま口を開いた。
「そいつはやめとけ」
「あんたでもいいんだよ」
吸血鬼は花宮に視線を移した。花宮は鼻で笑った。
「生粋のハンターは殺してくれと乞い願いさえするもんだぜ」
吸血鬼も鼻で笑った。
「お兄ちゃん、今度は私に譲ってくれるよね」
それが最期の言葉になった。
男の声が、そいつの名を叫ぶ。悲鳴に似ていたその声は、いずれ苦痛を訴え始める。花宮が首筋に血を注射していた。その足元に、女の頭部が転がっていく。今吉が深く息を吐いた。右手のナイフが血を垂らして、土を汚す。
「もうええ」
今吉が、それを再び持ち上げる。どうぞと花宮が二歩だけ下がった。今吉はつかつかと歩いて、吸血鬼の正面に立つ。吸血鬼が口汚く今吉を罵った。三体目は現れない。
「心中はお察ししますが、急いでくださいよ。効果には有効期限がある。三体目もいるようですし」
花宮は口ではそう言ったが、注射器を見せびらかして、逆にナイフは下ろしてしまう。
黛は一歩、前に出た。今吉はナイフを振り抜かない。
「それとも二人きりがいいですか」
「そうしてもらえると——」
吸血鬼が、つんのめって、頭から地面に突っ込んだ。
今吉の言葉を遮るように。そう考えてしまったくらいには、今吉は、その続きを知っていた。脳が、まったく別の発声を命令した。口からは、言葉にならない音が飛び出した。
ようやく正しく叫んだときには、
「殺すな!」
花宮を突き飛ばしていた。花宮がナイフと一緒に地面を転がる。吸血鬼の悲鳴はやんでいた。花宮が顔に返り血をつけている。彼のナイフが、その刃渡りの大きな狩りの凶器が、血を滴らせて、彼の手を離れた。
「危ねえな」
花宮が声を上げて笑った。吸血鬼の頭が、そのずっと手前に、今吉の足元に、体から分かれて落ちていた。苦痛に満ちた表情。だくだくと地面にこぼれる体液。
「ほら、回収しないと」
最後に花宮が、そう言った。今吉は黙って背を向けた。
七
「説明は後です」
見下ろした黛に、花宮は言った。黛の背中では、今吉が瓶に血液を集めている。死んだ吸血鬼の体液だ。黛には心当たりのない行為である。花宮がそれを促したことも含めて。
「黛さん、そこの今吉の車を持ってきてください」
「おまえ車持ってたのか」
「父親のものでしょう」
花宮が答えた。
どうして俺が。その疑問を口にするより先に、黛の頭は先客のことを考えていた。車を止めたときに見かけた無人のSUVのことだ。だからそのことを尋ねた。また花宮が肯定する。今吉は何も言わなかった。しかし片手をポケットに隠すと、次に手を見せたときには、指の先に車の鍵をつまんでいた。温度のある血が、べたりと表面を汚している。
「汚ェな」
それでも黛は、それをポケットにしまった。
「説明しろよ」
「ええ、もちろん。そこの今吉翔一が」
花宮が上体を起こして今吉を指差した。
今吉は、まだ口を開かない。
黛は二人と死体に背を向けて、来た道をひとりで戻った。迷うことはしなかった。他の吸血鬼にも出会わなかった。花宮の車の近くには、まだ先客の車が止まっていた。ポケットの中の鍵は、本当にその車を解錠した。黛が乗り込んで扉を閉めると、少し遅れて、何かが弱々しくトランクを叩いた。今吉は父子家庭だった。黛は今吉の家族構成まで調べたのだ。もちろん、彼に妹がいることも、黛は知っていた。
さて言いつけどおり今吉の車を持っていってやると、今吉と花宮は小屋の前で小さな鍋を囲んでいた。死体さえなければキャンプを楽しむ大学生だが、二人の横には首のない死体が二つも転がっている。車を降りると、血なまぐささとは別の異臭までした。二人は薬草を煎じていた。それも、おそらくは吸血鬼の血液で。今吉の足元に、血の瓶が、量を減らして置いてある。
「そいつを妹に飲ませるのか」
「はい」
やはり花宮が答えた。
「それでどうなる」
「場合によっては、今吉の妹が人間に戻ります」
「吸血鬼から?」
「そうです。場合によっては」
「条件は?」
「血を飲んでいないこと」
そいつは面倒な条件だ。黛は奥の小屋を見て、背中の車を振り返った。黛が運転する間中、弱々しくも物音は続いた。彼女が吸血鬼にされてから、もう一週間以上が経過したはずだ。
「まあ血を飲んでいない吸血鬼なんてレアケース中のレアケースです。ほとんどの吸血鬼は、殖やした仲間に、ただちに人間を与えます。吸血鬼は従来どおり殺して対処するのが正解です」
花宮は今吉を見て、彼の車を見た。そして手元に視線を戻すと、鍋を一瞥して、火を止める。
「飲んどらん」
「飲ませればわかることです」
花宮は、そばのリュックサックから試験管を抜き出し、鍋の中身をそこに移した。できれば一生その味は知りたくない。黛は思ったけれど、口には出さなかった。顔にも出なかっただろう。花宮も無表情だ。そのうち鍋を空にして、試験管は今吉に渡した。二人の手は、とうに綺麗に拭われていた。
三人で、そろって車の後ろに回り込んだ。エンジンを止めたら静かなものだ。トランクをたたく音もやんでいる。いや、外に聞こえないだけなのだろう。
黛が解錠した。まだ鍵を預かっていたからだ。しかしトランクは花宮が開けた。
制服の少女がしまい込まれていた。何が起きているかを想像していたから、黛の脳は、最初にそれを認識した。黒い髪で、背が高い。今吉は高校三年生だと教えてくれたっけ。そのことよりは、怪物の印象が先立つけれど。肌から血の気を失って、多少は瘦せることもしただろう。痛ましい姿だった。その牙と鉤爪が、人間でないことを主張してさえいなければ。
今吉の妹は徹底的に拘束されていた。膝も肘も折られて、縄で全身を縛られ、トランクに固定されてもいる。まるで積み荷だ。猿轡もかんでいた。おそらく竹だ、と気づくと、最近になって一周年を迎えた少年漫画が連想されるけれど、それはさておき。今吉は妹を結界の中に閉じ込めていた。四隅に盛り塩、また全体を囲むように注連縄まで置かれていた。
「まさかここまでとは」
花宮がこぼした。
「これ、どれがどう作用してるんです」
「わからん。親父の真似や」
今吉は短く答えた。
背の高い男三人に見下ろされて、吸血鬼の目が血走った。あるいは食事にでも見えたのだろうか。猿轡は、彼女から言葉を奪ってしまった。今はただ、荒い息が聞こえるばかりだ。
「押さえつける役が必要です。いいですね、今吉さん」
今吉は首の動きで肯定した。
花宮は今吉の妹を殺さなかった。
八
殺されると思った。
車の脇で今吉が言った。彼が黛を頼った本当の理由だった。たとえ知人の妹でも、花宮が怪物を見逃すはずがないと思ったのだ。黛も同感だった。花宮も聞いていたが、彼は何も答えなかった。夜更けの森は静かだった。今吉の車は、今度こそ沈黙した。
今吉の妹は、吸血鬼ではなくなった。今は人間に戻る最中で、こんこんと眠っている。というよりは気絶したのだろう。なにせ一週間以上も——吸血鬼の——主食を断っていた。今吉は人間の食事を与えていたようだが、それはつまり、血液ではない。トマトジュースは与えたそうだ。黛は反応しなかったが、花宮が嘲笑した。
一週間前、父親のメールを受けて実家に戻った今吉は、そこで先のように封印された(今吉の表現だ)妹を発見した。彼はメールの内容を踏まえてその後の方針を立て、トランクに同様の結界を設置して妹と共に家を出たそうな。
父親のメールには、吸血鬼を人間に戻す方法も書かれていたという。
「吸血鬼に変えた『親』が、生きたまま必要やって」
「まあ狼人間なんかだとそうですね。吸血鬼は採血できれば生死不問です」
「気づいてたなら先に言え」
「吸血鬼隠してた人間がそれ言いますか」
「殺したくせに」
「そうですね。殺しました」
とりあえず、今吉と花宮がただちに殺し合いを始めるということはなさそうだ。今吉は妹を連れて帰って、回復を手伝わなければならない。花宮にも探偵の仕事がある。再会したときに起きることは、黛の知ったことではない。
今吉は血を拭い去って、先に帰った。花宮と黛も後始末をして、車に戻った。吸血鬼の死体は花宮が溶かした。
「用意がいいな」
「稼業ですから」
「プレハブはどうなる」
「見つかったら、窃盗団の解体現場だと思われるんじゃないですか」
二人は車で町へ戻った。車はコインパーキングに預けて、ホテルまでを少し歩く。そして危なげなく帰ってきたツインルームで、今夜こそ黛は気絶するようにベッドに倒れた。
翌朝、黛が目を覚ますと、隣のベッドには、まだ花宮が布団をかぶって眠っていた。黛が立ち上がっても起きなかった。花宮は昨晩も、まずシャワーを浴びたらしい。浴室の床が濡れていた。
黛がシャワーを済ませても、花宮は起きなかった。黛は起こさなかった。時間には余裕があった。黛の大学生活を踏まえてのことだが。いや今日は体調不良の連絡を入れることになるだろうか。とはいえ、無為に過ごす余裕はどこにもないので、黛は朝食の調達に出かけた。せっかく書き置きを残したのに、花宮は起きてこなかった。
黛が朝食の片付けまで終えても目覚めなかった花宮は、結局、声をかけたら簡単に起きてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
花宮の指がわずかに枕に隠れたことは、見なかったことにした。
九
「それで、依頼人はどうでした」
「結婚指輪で一発だった」
「あの、アレルギーで着けられなくなったっていう金属製の」
「それ」
花宮が答えると、そこで電話の相手は間を空けて、
「まさかとは思いますが、自作自演——」
「——なわけねえだろバァカ。巣から出たんだわ」
生意気なガキである。取り繕うような肯定が返ったが、花宮は無視して報告を続けた。
結婚指輪は金属製だったが、銀製ではなかった。吸血鬼にも持って帰ることはできる。警察は強盗を疑わなかったようだから、殺したときに死体が落としたと見るべきだろうか。今となってはわからないことだが、被害者には、指輪を取り出して眺める癖でもあったのかもしれない。特別なときには着けたのだと、依頼人は言っていた。
「あんたはそれを現場付近に落ちていたと言った」
生意気なガキは、やや声を低くした。
「依頼人は、被害者が指輪を拾うためにヘビから離れなかったと勘違いしてくれた」
口調も少々刺々しい。
「ひでえな。可能性に過ぎないって言ってやったんだぜ。依頼人は首を横に振ったが」
「バーロー。——そうなるように誘導したんでしょう」
花宮は答えなかった。こういうときの工藤新一が何を答えても口うるさくなることを、花宮は知っていた。吸血鬼を殺して助けたときからそうだ。そして工藤も、こういうときの花宮の態度をよく知っていた。吸血鬼を殺して助けたときからこうだったのだ。工藤は粘らず、それで、と、花宮に続きを促した。
花宮は家畜泥棒の話をした。依頼とは関係のない内容だが。実はあの吸血鬼共、きちんと家畜泥棒で金を稼いでいたようなのだ。森の中のプレハブの巣には、家畜の解体道具と、その体の一部が残されていた。あの巣の悪臭の半分は、盗んだ家畜の死骸に由来する。
「他には何かありますか」
工藤は、うなずいて、こう聞いた。
花宮は、いや、と否定して、
「あとは報酬の振込をどうぞよろしくお願いなんとか」
「やりますよ。あんたじゃないんです」
「それと、その件で黛千尋が夕方にでも事務所に」
「今三時ですが」
「あと二時間くらい待ってやれ」
「覚えとけよ」
工藤が声を一段と低くしてうなった。おお怖い。花宮は、おどけて答えた。
「吸血鬼は、どうでした」
「当たりじゃあなかった」
「外れって言えよ」
電話を終えたら、背中で、そんな声がした。
大学を休んだ黛である。
花宮は振り返って答えた。
「じゃあ外れでした」
「何が」
知らないくせに文句をつけるなと、少しだけ迷って、花宮はスマートフォンをしまう。黙り込んだ花宮を、黛は追及しなかった。
かわりに現実的な問題を確認した。
「給料、出るのか」
「二時間後に工藤と話してください」
花宮は工藤に投げた。
まあ工藤は報酬を出す。花宮は、もれなくせしめてきた。
さて黛は喜ばなかった。これは、かつての崇高な球技によって刷りこまれた自己抑制のたまものではない。本当に、これっぽっちも、雀の涙ほども、喜ぶことができなかったのだ。
「これから東の大学生探偵に会うのか」
「大学は一緒じゃないですか」
花宮は雑に返した。
黛は、かみつくように答えた。
「それとこれとは別だ、別」
「では、ヴァン・ヘルシングにでもなったつもりで」
「俺はヴァンパイア専門じゃないぞ」
「あいつは諮問探偵じゃないくせにシャーロック・ホームズ気取りですよ」