九月、そして体育祭
一
聞こえてすぐに呼ばれたことがわかった。逡巡は不要、素振りも要らない。おとなしく顔をあげ、クラスメイトとして返事する。
「何、赤羽くん」
「コロホワイトさんは何に出場するのかなって」
「借り物競走だよ、赤羽くん」
「あー、借り物競走か。そっか、コロホワイトさんが」
「不破さんと中村さんの推薦でね。——それより、それ」
「『それ』。どれ。コロホワイトさん」
「そのコードネーム」
「あー、かっこいいよね、暗殺戦隊」
本名を禁止された日があった。一日中、授業でも訓練でも休み時間でも、はたまた放課後、生徒から先生まで本名の代わりにコードネームを呼び合ったのだ。全員が全員のコードネームを考え、くじを引かされ、——その日は烏間先生も堅物を名乗らされた。もちろん私にもコードネームが与えられた。コロホワイト。正しくは暗殺戦隊コロセンジャー《漂白する意志》コロホワイトである。
「かっこいい名前をつけてもらえたのはうれしいけど、恥ずかしいよ。一日だけならまだしも」
皆、日付が変わったら本名をとり戻し、普段の学校生活に戻っていった。何もなかったことにはならないから、隣の席の中二半のように蒸し返す者もないではないが、この私にも恥ずかしがる権利くらいあろう。
とかく謹んで遠慮させていただいていたら、左隣の席にクラスメイトが帰ってきた。私は声を潜めて改めて断る。万が一にもこの話題を波及させるようなことはしたくない。もう一人の隣人がこの話題に関心を示す可能性は限りなく低いけれど。
「なんだ、お気に召さなかったか」
ところが左隣の席のクラスメイトは、予定調和のごとくに参戦してきた。なんで、どうして、この私の口も、しかし疑問を伝えることはしない。
「かっこよくはある、けど、ほら、もう誰も使ってないから」
相手もあっさり納得した。「たしかに追加戦士だけだったな」
妙な理解も示してきた。私はこの分野に明るくないが、おそらく定石の話だろう。戦隊ものと聞かされて考えつく色はおよそ黒色、赤色、黄色、緑色、青色、桃色。色で特徴を持たされている隊員に白色の印象はあまりない。もっとも追加戦士という言葉も初めて聞いたけれど、私は尋ねなかった。クラスメイトも独りうなずいて説明しなかった。
「案外、元は敵幹部だったのか。時間がなかったから細かい所まで決めなかった。すまない」
「そんな、いいよ謝らないで。でも、ってことは、私のコードネームは——」
「——ああ、俺が考えた」
静かに肯定する名づけ親の反対で、赤羽がまた口を挟む。
「残念、シロもどきはコロコロあがりに負けちゃったか」
「鷹岡もどきは赤羽くんだったんだね」
「そうか、寺坂に伝えておこう」
無表情な宣言。そういえば鷹岡もどきこと寺坂くんと親しくなったのだったっけ。得心する間にもコロコロあがりは言葉を続ける。「それから」と。
「俺も借り物競走に出ることにした。よろしく、ホワイト」
「そうだったんだ。こちらこそよろしく、イトナくん」
二
ということで体育祭の季節だった。コードネームの日からおよそ一週間、堀部イトナの復学からもまた一週間、二週間。
イトナくんは死なず教室に来るようになった。シロの手入れは受けられなくなったが、あれから一悶着あって触手の摘出に成功したのだ。かわりに頭にバンダナを巻くようになり、教室では電子工作をしている。一学期の間まるで想像できなかった姿だけれども、彼が改造したラジコンはすでに暗殺から体育祭の偵察まで幅広く活用されるものだ。
イトナくんがこうして借り物競走に出場することも、彼のラジコンが持ち帰った情報からの判断だ。作戦のとおり戦況は芳しくない。三年男子はイトナくんが一番最後にお題を引いて、一番最後にゴールするだろう。かわりに彼の超人的な身体能力は棒倒しで活躍する。E組、特に男子生徒は今日は棒倒しに勝負を懸けている。
さて作戦のとおりに、イトナくんが三年男子の最後を飾ると、次は女子生徒の番だ。しんと静まり返った待機列がぎこちない号令によって立ちあがり、入場させられる。一年生から三年生まで各クラス一名、計十三名。三年生の列だけ、私だけ一つはみ出して。E組は三年生だけのクラスだとはいえ、露骨以上に異様なまでに距離を空けられていた。
A組から順にD組まで、あるいは横の下級生も、ひそひそと顔を合わせ、うかがうように私を見た。徒競走のときはここまでの露骨さはなかったはずだが、選抜種目ともなると私個人の悪評が際立つのだろうか。三年生の先頭は二年の間にとりわけ仲よくしていた元クラスメイトだった。正しくA組に進級できた今となっては、まさか暴力沙汰で自宅謹慎処分を下されるような人物と親しくしていた過去など忘れてしまいたいことだろう。
一年生も二年生も、当然のように三年生も、順番になると無言で移動した。私も合図に従って位置に着き、用意、号砲と同時に走り出す。まずは一着でお題を確認。箱から紙を一枚つまんで引きあげ、開くと——知らない固有名詞が出てきた。
借り物競走と通常の徒競走の違いは、その名のとおり物を借りるところにある。運営が出したお題に沿って、観客から物を借りてゴールするのだ。たとえばイトナくんは賞味期限が近い物としてビッチ先生を連れて行った。二つ前の一年女子には好きな人を引き当てた者もいたか。彼女は真っ赤な顔で部活動の先輩を探して、真っ赤な顔で審査員の前に出た。
するといちご煮オレは比較的、悪くないお題だろう。知らない名前だが、おそらくいちごオレの類、つまり飲料水だ。私はまっすぐクラスに向かった。E組では他の組からの助力を一切期待することができない。
かわりにE組の席では国家機密が興味津々に身を乗り出していた。ジャージに帽子に手拭いに、手拭いに、何重にも巻いて姿を隠し、ヒト大男に化け、競技が間近に見えるほどの距離だからかえって目立たないはずだと強弁した姿だ。にもかかわらず目を伸ばして、私が広げたお題の内容をクラス全員に伝達するのだから、烏間先生はため息をついた。苦労人である。
こうして肝心の固有名詞はたちどころに捜索され、予想を伝えるまでもなく、それこそ瞬く間にアルミ缶が飛んでくる。氷水につかっていたような冷たさに、イチゴのラベル。
「ナイスキャッチ」
赤羽の声がした。「貸し一つ。後で返してよ」
「そのまま飲んじゃってもいいけど」などと続いた言葉をよそに、礼だけ告げては引き返す。
実況は落胆した。「A、B、C、D組がリードを許す苦しい展開」だの「負けるな我が校のエリートたち」だの、どの競技でもE組が優勢の間は一事が万事この調子だ。
私は小さな声援と大きな野次の中、さしたる障害もなく審査員の元へ向かう。諦めの悪い審査員は意地も悪そうな顔で私を出迎え、缶の表面には爪を立てた。卑しくも劣ったE組の生徒が、目先の勝利のために偽装を施したとでも思ったのか。当然、赤羽に謀られたわけでもなければ、安っぽい偽装などしてはいなかったから、やがて審査員は苦々しく一着を認めた。
「ああっ」
悲嘆を示す実況をよそに、係員が冷たく一等賞を誘導する。
手の中の借り物について、傷よりも温度が気になり始めた頃、ようやく二着が決定した。元クラスメイトが声援の中でゴールテープを切る。彼女がやはり間をおいて横に並んだところで、三位も決定。四位と五位はほとんど同時に駆け込んできたが、彼女たちもあらゆる称賛を浴びた。改めて三年女子の結果発表がなされたときには、缶はすっかりぬるくなっていた。
だからだろうか、少し離れた所で赤羽が私を待っていた。
「一等賞おめでとう」
「ありがとう」
初めての賛辞には、一等賞を勝ちとったクラスメイトとしての素直な言葉を返しておく。
「赤羽くんの『いちご煮オレ』のおかげだよ」
「どーも。——飲んでないの」
赤羽は未開封の缶を見てから尋ねた。「飲んでないよ」と私はそれを突き出したが、返却は躊躇する。
「飲みたいの」
「というか新品を買って返そうかなって。傷がついたし、すごくぬるくなった」
「それはありがたくそうしてもらうけど、それはそれとして」
ひょいと缶がとり上げられる。私は抵抗もしなかった。赤羽の指が蓋を開ける。
「どうせ飲んだことないんでしょ」
「うん、そうだね。今日、初めて名前を聞いたかも」
「おまえは自販機なんか使わないもんね」
「あまり確認はしないかな」
確認していたところで、進んで手にとることはしなかっただろう。いちごオレならともかくとして、これはいちご煮オレである。
オ・レのレは牛乳を表すフランス語だ。カフェ・オ・レがコーヒー牛乳なら、いちごオレはいちご牛乳、それではいちご煮オレもいちご煮牛乳となるのだろうか。煮たイチゴを牛乳と混ぜるのか、それはイチゴのコンポート、いやジャムを牛乳と混ぜたような飲み物であるのだろうか。
考えたところで積極的に確かめたいとは思わなかったが、折しも缶が差し出された。開いた口の奥に、いちご牛乳のような液体が見える。赤羽はまだ飲んでいない。
私は両の手の平を見せて断った。返却を躊躇したばかりだが、それはそれとして遠慮もする。「悪いよ、何から何まで。飲みたくなったら自分で買う」
赤羽は決まりきって答えた。「まーた思ってもいないことを。いいんだよ、俺が飲んでいいって言ってんの」
口はつけていないとも付け足される。それでも私は遠慮するが、それでも赤羽は食い下がった。
「べつに何もしないって」
「べつに、そういうことの心配じゃないよ」
だって急にどうしたというのだ。当然、私も把握している。赤羽は本当に口をつけていない。その缶は小細工の一つもされていない。だが仮にも夏休みに私を殺すと言い放った相手で、そのことを差し引いても彼の趣味は嫌がらせ、いたずらだ。何を疑うなと言うのだろう。
すると赤羽はとうとう条件を出してきた。「じゃあ、こうしよう。新品は要らない」
かわりに飲んで借りを返せということだ。この私もさすがに怪訝な顔をつくる。
「どうして、そこまでして」
「あわよくば煮オレ飲みを増やそうって魂胆が十割」
赤羽は私の手にアルミ缶を持たせる。私は両手で持ち直すしかない。そして飲む前から確信した。これは私にとって好ましい味をしていないだろう。しかし表情を変えずに唇で触れ、傾け、液体を流し込む。冷たさを残した飲料水は、それ以上にぬるく甘ったるく味覚を刺激する。私はすぐに口を離した。
「ちょっと私には甘すぎるかな」
甘いものは好きだが、限度もある。返した缶を赤羽は「残念」の一言で受けとった。
「いつも紙パックの煮オレの新商品だったんだけど」
意外と息の長い銘柄だったようだ。
「固定客にはなれなそう。ごめんね」
赤羽は謝罪にこたえなかった。
私たちは並んでクラスの席に戻った。本校舎の生徒たちは競技に夢中で、悪党が通ったことに気づかない。赤羽は彼らの後ろで、とり戻した缶に口をつけた。拭くだけの手間も惜しんで飲み干した。私は少しだけ後悔して、それ以上に腹が立った。毒の一つも盛ればよかった。しかしE組の席で声援を送っていた担任教師は、生徒が戻るといち早く分身を伸ばしてくる。
「徒競走に引き続きおめでとうございます」
「ありがとうございます。先生やみんなのおかげです」
そして隣の赤羽は黙って私に背を向けたのだ。