第97話「アフターの時間」から第104話「『死神』の時間・4時間目」まで

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十月、又は中間テスト

中間テストがあった。昨日のことだ。つまり今日が成績発表で、クラスメイトの表情は浮かない。朝の山道どころかテストの前から落ち込んでいて、終わればなおさら。今朝は一周回って持ち直していた部分がある。理由は明白。数字が芳しくなかったのだ。原因もまた単純明快で、テスト直前のちょうど二週間、先生が授業をしなかった。あるいは別の授業をしたのだと、彼ならそのように言うのだろうか。

進学校で中間テストを控えていたにもかかわらず、E組一同は椚ヶ丘市内の保育施設に通っていた。園長のかわりに働くために。クラスメイトが暗殺技術で不幸な怪我を負わせたがために。

二週間の特別授業は発端こそ連帯責任で、同期間入院することになった被害者への損害賠償行為だったが、言い換えれば少しだけ長い職場体験だ。普段の学校生活では機会のない経験ができて、飽きない程度に覚えることが多く、慣れてきた頃に終わりを迎えた。感想を最悪の一言で締める者は、このクラスにはいないだろう。だから、この私もレポートを提出させられるようなことがあれば、充実したとか何とか書くつもりだ。

テスト勉強はできなかったけれど。

結局、答案用紙が返却されたら、教室の空気は重々しく沈んだ。満足に勉強できなかった。満足に得点できなかった。成績が前回以上だったとしても、もっとよかったかもしれないと見ることはできる。ということで、私も一緒に重たい気分だ。——子供の存在を抜きにすれば、あの二週間は最高だった。いや子供の相手だろうとこなしてみせよう。

いつになく活気のないホームルームを終えて、荷物と一緒に立ち上がったところで、右隣の席の椅子も引かれた。原則として山道は一つ。同時に席を立った以上は、同時に下山することになる。私は無言で下り坂に立ったが、他者にまで強要することはできない。

「なに考えてたか当てたげよっか」

「おめでとうって思ってたんだよ」

仕方がないので、教室では言えなかったことを伝えてやった。隣の赤羽は「どーも」と答えた。先より小さな声だった。そこで一旦、会話が途切れて、歩くだけになり、そういえばと思い至る。私たちは久しぶりに、それこそ二週間ぶりに帰り道を共にしているらしい。本当に大切なものは失って初めて気づくというが——この二日間でもう二桁も重ねた悟りを開く。

たしか最後は体育祭の前だった。体育祭の頃は男子が棒倒しに注力せざるを得ず、放課後の大半はその特訓に当てられた。女子も女子で練習をして、終わったら女子同士で帰ったのだ。だから、やはり赤羽と帰った記憶はさらに遡るまで見つからない。そうして参照に成功したら、一緒に渚くんや奥田さんの記録もひも解かれる。帰り道に赤羽がいるとき、そこには大抵、渚くんや奥田さんがいるものだから。

渚くんや奥田さんがいたから赤羽がいたとも言えて、茅野さん、杉野くん、神崎さんもいた。示し合わせたわけではないが、私は奥田さんと茅野さんと神崎さんとの行動が多く、赤羽も渚くんと杉野くんとの行動が多い。それだけのことだ。示し合わせたわけでもないので、そこに赤羽がいないことは珍しくもなく、珍しくとも赤羽と二人になることはある。あるいは赤羽が見計らったかだ。

私たちは最初に二言、三言、交わした後は、さも偶然を装って、口を閉じた。つかず離れず山を降りた。時々クラスメイトが駆け下りたけれど、私たちの速度は変わらない。そして赤羽がものを言わなければ、私たちの間に会話はないから、静かな帰り道だった。やがて舗装された道路に出た。徐々に本校舎が近づいて、環境音は喧噪へ。角を曲がると、一気に同じ制服が増える。

駅まで一緒に歩くつもりか。いよいよ正門前を抜けるが、赤羽が道を外れる気配はない。私も普段は寄り道をしないから、今日は同じ電車に乗るのかもしれない。元より私の通学定期券は赤羽の区間と重なっている。朝は登校時間が違うから遭遇しないけれど、こうして駅まで一緒にあるけば、一緒に電車に乗ることになる。今日は、まだ確定したわけではないが、

「拍子抜けだったなァ」

やたら大きな声がした。私たちは、どちらからともなく顔を見合わせた。相手が赤羽でも私でもないことはわかっている。しかし彼らの嫌みはよく響いた。

「やっぱり前回のはまぐれだったようだね」

そして、まるきり他人事でもなかった。

「棒倒しで潰すまでもなかったな」

すでに過ぎた道で起きたことだが、私たちは足を止め、振り返る。そこには、やはり知った顔ぶれが並んでいた。正門のそばにA組が五人、さらに向こうにクラスメイトが三人。今日はE組に分の悪い組み合わせだ。期末テストから一転、E組の大半が上位を逃し、A組は順当に序列を奪還した。渚くんたちも例に漏れず、一方のA組五名は、万年首席の生徒会長を筆頭に、学年順位を指折り数えて五本、六本の成績上位者たちである。

浅野学秀生徒会長は終始無言だったが、取り巻きの侮辱はとどまるところを知らない。

「言葉も出ないねェ。まあ当然か」

「この学校では成績がすべて。下の者には、上に対して発言権はないからね」

あーあ。声にはならなかった。もっと面倒なことになるぞと予測だけした私の隣で、ほら、クラスメイトは一歩を踏み出す。「へーえ」

「じゃ、あんたらは俺に何も言えないわけね」

来た道を戻る学年二位、勢いよく振り向いた三位から六位まで。開いた口が、しかしものも言えずにいる様を、私も黙って眺めておく。

クラスメイトはA組五名の間を抜け、E組三名の前に立った。

「気づいてないの? 今回、本気でやったの俺だけだよ」

他のE組みんなは、おまえらのために手加減してた。そう言った。

「でも、次はみんなも容赦しない」

内部進学の本校舎三年と高校受験のE組とでは、三学期から授業が変わる。伴って、テストの内容も条件も変わる。——宣戦布告である。

「二か月後の二学期期末、そこですべての決着つけようよ」

「——上等だ」

ほら、面倒なことになった。私は蚊帳の外で少しだけ高い所を見た。どこかの屋上の柵の上で、黄色の巨体が夕焼けを浴びている。大きな三日月の笑みの前に、触手が一本、立てられた。私はおとなしく正面に意識を直す。一学期の期末テスト以来、A組とE組は強く対立している。その事実上最後の対決とあらば、遅かれ早かれ開戦するはずだった。

諦めをつける間に、赤羽が渚くんたちを連れてきた。彼らはそこで初めて私に気づいたようだ。同じくA組からも認識されていなければよいのだが。確認はできないまま、下校が再開する。クラスメイトが三人も増えると、一気ににぎわいも増した。結局は電車で二人に戻るとしても、駅までの同行者を拒絶する道理はない。

こうして当初の想定よりもずっと精神衛生上よろしい帰り道となった。クラスメイト三人とは何事もなく改札の中で別れる。やはり赤羽と二人で電車を待つことになったが、各々イヤホンを装着した。次の電車の到着まであと六分。五分、四分、——それから合成音声に耳打ちされた。遅れて放送が響き渡る。

「人身事故だって」

隣のクラスメイトが片側だけイヤホンを外している。

「ちょっと歩かない?」

耳元で合成音声が再開時刻を算出する。私は両耳からイヤホンを外して答えた。


赤羽と私は「ちょっと歩く」べく駅を出た。行き先を決めずに来てしまったが、少し遅ければ改札を通るときに苦労しただろう。ということで、ひとまず行き先を話しながら歩いた。どうせ最大の目的は運転再開まで時間を潰すことだ。

「行きたい所あるなら付き合うよ」

「それが今は特にないんだよね。赤羽くんは?」

「俺も特には。ってなると——飯?」

「たしかに、そういう時間かも。カフェでもいいけど」

飲食店には事欠かない街だ。すぐ横を見るだけでも、和食、洋食、コーヒー、カレー——。そういえばと赤羽が言った。

「カレー、好きなんだって?」

「え、うん。好きだよ」

足は止まらなかった。

「話したことあったっけ?」

私は首を傾げた。振り返っても記憶にない。普段、好きな食べ物を詳らかにすることはない。現に赤羽のことで知っている好物はいちご煮オレだけ。昼食を共にすることはあれど、教室でカレーライスを食べたこともない。飲食店に入って、わざわざ食べることもない。カレーライスは著しく制服を汚しうる料理の一つだ。何より私が好むカレーライスは——いや、

「わかばパークで作ったことがあったね、カレーライス」

テスト前にもかかわらず通い詰めた保育施設だ。鬱陶しいほど子供がいるくせ、従業員は件の園長の他には女性職員が一人だけ。さらには雨漏り、床が抜けるほどの老朽化に対応することもできていなかった。どれもこれも園長が破格の安値で児童を引き受けるからだ。しかし経緯からいっても我々は、文句をつけられる立場にはなかった。かわりに手分けしてなんでもしたのである。

通常業務を疎かにすることはできなかったけれど、鬱陶しい子供たちも、元は苦しくとも二人で回していた規模だ。二十九人でかかりきりになるほどではない。そのうち私はもっぱら裏方で、特に食事を用意する係だった。カレーライスは五日目の献立だ。

「そ。ちょっと聞こえてた」

「たしかに原さん村松くんと話したかも」

一緒にカレーライスを用意していて、人気の給食の話になった。椚ヶ丘中学には給食がないから、二、三年前、小学生の頃まで遡って。

「あー、給食。カレーとデザートが楽しみだったタイプ?」

「そんなタイプ」

「——どうする?」

赤羽が振り返る。行く手に再びカレー屋の看板。

「そんなの私は、ぜひって答える、けど」

「いいよ。俺もカレーの気分になってきたし——おまえも成績上がってた」

ちょうど店の前で足が止まった。

「四百七十五点、学年十位。おめでとう」

「ありがとう。覚えててくれたんだ」

「当然。忘れるわけない」

まあ、多少は覚えやすい点数で順位だが。赤羽はさらには言わなかった。この私も追及しなかった。「どうする?」と再び聞かれたら、あとは素直にうなずくだけだ。

「お言葉に甘えて」

初めて入る店だったが、席に案内されたら、互いに顔を見合わせて、簡単に品書きを確認し、その場で注文を済ませてしまった。標準の辛さ、標準の量、おすすめのカレーライス。激辛カレー大盛りはクラスメイトが。このクラスメイトは、あれで行儀の悪い客にはならないから、傍目には問題なく食べきることをしていた。私たちは何事もなく店を出た。ただ、鉄道の具合はまだ悪く、書店でしばらく暇を潰した。

参考書の棚を見て回ることいくらか、人工知能の報告を受け駅まで歩く。黙りこくって改札を通る。電光掲示板には遅延の知らせ。プラットホームでイヤホンを探す間、冷たい風が吹いてきて、カーディガンの袖を見る。秋でよかったと素直に思うことができない理由は、十中八九、隣で電車を待つクラスメイトの存在にある。それでも電車が着いたら同じ電車に乗り込んだ。

電車を降りれば一人だった。軽く別れの挨拶をしたクラスメイトは、今日は同じ電車で次の駅へ向かった。結局、十二時間もすれば顔を合わせる羽目になるけれど。あと十二時間は。


朝を迎えてまで、もう十時間だ、などとは、さすがに私も数えていなかった。ただ、普段のとおりに支度を済ませ、普段のとおりに駅まで歩いた。いつもの改札から、いつものプラットホームへ。それから、いつもの乗降口を探して、ふと黒色のカーディガンが目に留まる。椚ヶ丘の制服に酷似したズボン、背丈は目測百八十センチ未満。耳にイヤホン、片手に参考書。

「おはよ」

柱のそばのその人物に、私も同じ言葉でこたえる。

便所を利用した。怪しい供述を聞かされたさらに翌朝、同じクラスの中学生はプラットホームにはいなかったが、乗った車両には立っていた。早起きに挑戦しているそうだ。私は、ついに殺人劇を演じるつもりだろうかと、内心では考えていた。二か月前に殺すと予告されたことを、当然、忘れるわけがない。だが、ひとまずは、殺意の一つも示されず、一つの車両に揺られて同じ駅に降りた。

朝の通学路に赤羽が現れて二日目、つまり一緒に登校する外なくなって二日目。改札を出た途端、クラスメイトが口を開いた。

「プレゼント考えてきた?」

「無難なものでよければ」

今日の話題は「ビッチ&烏間 くっつけ計画」の第二弾。と付くからには第一もあって、ちょうど夏休みの旅行の最後の晩に実行された。二人きりの晩餐会を生徒で演出してやったのだ。ハニートラップの達人である英語教師は、あだ名されるほどの堅物——体育教師にどうも恋情を向けているらしい。愚痴をこぼす潜入暗殺者に中学生および下世話なクラス担任で協力した形である。

とはいえ第一弾はおよそ失敗に終わった。おそらく訓練教官は懸想されていることにも気づかなかったと見られている。今回は、その結果を踏まえての第二弾だ。目標は「ビッチ」の誕生日を祝うこと。手段は一つ。彼女が恋慕の情を寄せる相手に、贈りものをさせるのだ。

「無難ね」

「花束、とか」

それは無難だと赤羽は繰り返した。

「ただ正直これでも無理がある、気がする」

「定番じゃない?」

「——烏間先生が用意するかな、ってところが」

偏見だけれども。

定番は定番、だからこそ無難。しかし当の烏間先生が選ぶかというと、実に微妙な線である。偏見だけれども。

赤羽も同意するようにうなずいた。

「けど五千円で用意しようってなると、たしかに、そこらへんか」

「ビッチ先生、セレブだから」

難問だった。昨日の今日の計画で、中学生が二百円程度といえども出し合って、五千円の予算を作った。だが前提として、贈る側になる烏間先生は二十代後半の(おそらくは稼いでいる部類の)大人である。贈られる側に至ってはちょうど二十歳といえどもプロの殺し屋で、金銭感覚はセレブのそれ。すでに今年の誕生祝いとして高級車を貢がれている。らしい。

いや、いくらかの恋物語を真に受けるなら、贈りものとは金額より内容より真心が肝要である。真心、誠意、実直。——これを無理難題といわずして何か。真実はこう。生徒が誕生祝いを企んでいることを、烏間先生は直前に知らされる。

嫌な予感しかしない。けれどもクラスメイトは一人として反対しない。この計画が単純な好意、下世話、そういったものの他に、ある種の責任の元に生じたがゆえだろうか。

「当日にお祝いできたらよかったんだけど」

「それは——それが一番だっただろうけど。どうしたの、おまえ」

「きっと、私たちからお祝いできた」

きっと、かくも面倒なことにはならなかった。それは、この私には言えないことだったから、音になることはなかったが。

赤羽は目を鋭くさせた。

「どうしたの」

とぼけてみると、赤羽は無言で正面を向いた。視線で射殺す準備ではなかったか。私も心中では考えていた。どうせ脳天を撃ち抜くには足りなかった。


誕生祝いは花束になった。かすり傷の一つもなく迎えた放課後のことである。昨日の今日の計画を敢行した。一班から三班までが標的たち(特にビッチ先生)を引きつけ、引き離し、その隙に四班が烏間先生からの祝いの品を用意する。と、よりにもよって買い出し班に選ばれてしまった四班の一員であるので、班員と共に街に繰り出した。何も決まらないまま最後の授業を終えたので、七人で悩みながら歩いた。

私は花束を提案しなかった。班員の内一名には通学路で話してしまったが、彼もまた何も言わなかった。意外なことに。後から攻撃の材料にするつもりだったのか、彼自身も思うところがあったのか。いずれにせよ四班は最後まで花束にたどり着かなかった。では何かというと——花屋が自ら姿を見せた。あるいは偶然にも通りかかったのだ。お花屋さんが。そして、

「やっぱり、そうだ。ねえ君たち!」

何やら知った風に呼び止めてきた。その瞬間には花屋ともわからず、ただキャップにエプロン、さらには軍手と、土いじり中らしい大人、との印象はあったけれど。ますます覚えのないことはたしかだ。しかし続いた言葉に、渚くんと杉野くんが反応を示した。いわく、二週間前に救急車を呼んでくれた花屋である。奥を見れば、花屋の車両も停まっていた。

二週間以上も前の事故を覚えており、この近辺にはありふれた制服の一団に、当時居合わせたただの二人を見出したということだ。よほど事の顛末が知りたかったらしい。四班一同は足を止め、渚くんと杉野くんを中心に、話せることは話してやった。花屋は表情を和らげた。

「そっか。大事にならなくて、よかったね」

そして私たちは花束を買うことに——。いや口止め料などではなくて。中学生の悩みを聞いていた花屋が、では花束はどうかと、一輪の花を差し出してきた。偶然、最も花屋に近かった私の目と鼻の先に。突き出された植物を私がおとなしく受け取る様子を見届け、商売人は電卓を片手に名演説。満場一致で決定した次第である。一輪の花は花束に、手の中から腕の中に。

私たちは花のような微笑に見送られ、安心さえ錯覚しながら来た道を戻った。まるで、と思うまでには、かなり粘性が足りなかったが。

そのぬるりとした視線は、戻った旧校舎で事態の推移を見守っていた。生徒がうまく二十歳の気を引く様を、そして労せず準備室へ入る四班を。事務仕事に取り組んでいた多忙な二十代後半は、花束を前に首を傾げた。

「なぜ俺が? 君らが渡したほうが喜ぶだろう」

押し黙る四班。昨日の今日の計画の、おそらく最大の難所だった。だが最後の授業まで花束を知らなかった生徒たちは、もちろん説得の言葉も知らない。ところが私たちの中から、烏間先生を呼ぶ声がした。

「いろいろ大変だったんでしょ、二週間ずっと」

それこそ同僚の誕生日も祝えないくらい。と、班員は言葉を続ける。英語教師の誕生日は、実はとうに過ぎている。例の二週間の特別授業の最中に。対して教師は返事を選んだ。

「だからといって君らが気にすることじゃない。何度も伝えたが仕事の内だ」

「仕事ってんなら、職場の人間関係も、仕事の内に入るんじゃないの」

訓練教官はうなずかない。彼の教え子はそれでも引かない。

「責任者の仕事だと思うけど。——あのビッチが必要な戦力と思うならさ」

駄目押しだった。

暗殺教室の監督者はようやく首を縦に振った。一理ある、とそう言って、渚くんから——上り坂の手前で引き取ってくれた——花束を受け取った。

烏間先生には口止めをして、四班から他班へ準備完了の通達。生徒および下世話な担任は速やかに身を潜め、標的たちが二人きりになる時を待つ。

「ちょうどいい、イリーナ」

「——烏間?」

「誕生日おめでとう」

さて二度目の「くっつけ計画」はものの見事に失敗した。

色恋で鈍るような刃なら、ここで仕事する資格はない。とは、ビッチ先生が去った後の烏間先生の言葉だが。疑いながらも喜んだ彼女のよき瞬間は三十秒と続かなかった。誕生日を祝った彼の口は、そのまま彼女に冷水を浴びせ、彼女もたちまち我に返った。この堅物が誕生日に花を贈ることを思いつくわけがない——。と、生徒たちの企みも白日の下にさらされた。

プロの殺し屋はその日、当然に贈りものを突き返し、校舎を去って、今日まで三日間、無断欠勤を決め込んでいる。

「今日も来ませんでしたね」

三日目の放課後、奥田さんは主語を省いて言及した。前の席から後ろを向くことで話しかけてきたクラスメイトに、心配だね、と返事をする。右隣から突き刺さる視線は今は気にしない。かわりに携帯端末を操作して、首を横に振っておいた。言葉にはしなかったが、彼女は正しく理解する。

「やっぱり。私もずっと返信がないんです」

「電話もつながらないんだってね」

私は廊下側前方の席を見た。無断欠勤の英語教師と最も親しい生徒たちが、端末を片手に浮かない表情でいる。彼女たちで無理なら、私たちでは不可能だろう。体育教師などは論外だ。担任教師は担任教師で様子見の方針を取っており、今日は放課後を迎えると国外へ出かけてしまった。前々から楽しみにしていたスポーツ観戦が目的で、一応は同僚を心配する素振りも見せたので、生徒もおとなしく見送ったけれど。

まあ、あのセレブが同様に国外へ出かけた可能性は十分ある。彼女の最高速度はマッハ二十には及ばないだろうが、誕生日に高級車を貢がれる程度の人物ではある。気分転換に三泊四日の国外旅行など、実行に移すことはたやすいだろう。無断欠勤二日目、不安がる生徒たちに、マッハ二十の教師も言い放った。大人の気分転換には時間がかかることもある、と。

気分転換で済むのなら、それが一番だけれども。まだ三日、もう三日。三日目の今日、担任教師は国外からしばらく戻らず、烏間先生も校外で仕事。三日間ずっと準備室にはあの花束が放置されている。飾ることを提案すればよかっただろうか。三日前、放課後の旧校舎で、——捨てるよりは私らしい提案だろう。燃やすよりも、壊すよりも。だが。いや。

「どうしたの」

「ううん、ただ、ビッチ先生のこと。赤羽くんもやっぱり返事がないんでしょ」

いずれにせよ手遅れだったか。

生徒をかきわけ教室の外、廊下の奥に何か人の気配がする。


「僕は死神と呼ばれる殺し屋です」

モップの柄が振り下ろされた。二度、三度、四度、教壇のそばでいたく物音がする。教室の床をたたく音、盗聴器を壊す音。さらに転がる花束は、緩衝材の役にも立たない。クラスメイトが悪態をつく。

「これで俺らの情勢を探り、ビッチ先生が単独行動になる隙を狙った。殺せんせーがブラジルに行くのも、烏間先生が仕事に行くのも知ってたうえで、——大胆にも一人で乗り込んできた」

殺し屋が。花屋の装いで、教師の足取りで、授業をするかのように教壇に立ち、一枚の写真を生徒に示した。三日前に姿を消したE組の教師が、縛られ、箱詰めにされていた。大きな怪我は見られないが、どこから見ても人質で、案の定、交渉材料になったのだ。今夜十八時までに生徒全員で某所に来い、他言は無用、さもなくば。「死神」を名乗った殺し屋は、他人の怪我を心配したように、私たちに花束を売ったように、安心させる笑顔を浮かべた。

E組は三日前から盗聴されていた。あの花屋があの花束に盗聴器を隠していた。赤羽が発見した。犯人が去ってまもなくのことだ。いつのまにか教壇のそばに花束をつかんで立っていた。破壊行為は別の生徒が率先して引き受け、私も掃除道具を持ってそばに寄った。数分間で教室はいくらか散らかってしまった。だが、誰もが他言無用を守るなら、花弁の一枚も残すべきではない。

指示に背くべきではない。先生に知らせるべきではない。人質を見殺しにすべきではない。相手が伝説の殺し屋だろうとも、私たちはただでは殺されない。誰もが同様に考えたなら、選択肢はあってないようなものだ。

私たちはせいぜい時間いっぱい準備して、のこのこわなに飛び込むよりほかになかった。

わな、だった。指定の十八時、指定の地点に小さな建物。周囲や屋上に人影はなく、内部にも手下は少ないだろうと予想を立て、いざ足を踏み入れたら、地上階全体が昇降式だった。こちらの立ち回りをふいにする仕掛けが、全員をおりへ導いたのだ。当然、脱出したけれど。E組の生徒は、標的の心理を知る名目で、標的側の立ち回りについてもいくらか訓練を受けている。

「役割を決めて三手に分かれよう」

とはいえ、建物からは出られなかった。地上からは確認できなかった巨大な地下空間が、電子錠で閉ざされているのだ。鍵は「死神」の虹彩認証だと、本人が館内放送してくれた。まるでゲーム感覚とはとんだ余裕の持ち主だが、中学生が相手だからか、それとも伝説の殺し屋を名乗るだけのことはあると見るべきか。

最強の殺し屋といえば、それは「死神」をおいて他にない。とある業界人がE組の生徒に聞かせた話だ。殺し屋に死神とはありふれた異名のようで、業界ではただ一人を指すものだと。名前も声も姿も形も誰にも何も知られず、ただ伝説的な記録を打ち立て、いつしか「死神」と呼ばれるようになった。——その「死神」を、この犯人は自称しているわけだが。

真偽はともかく事実として、いくらかの技術は高い水準に達している。花屋として接したとき、教室を訪れたとき、私たちを捕らえたとき。そして、このたびモバイル律が短時間で破壊、改竄された。

正直、無謀に思えたけれど、だから降伏しようとはクラスメイトは言わない。男子生徒を中心に戦闘特化のA班と、技術屋を中心に情報収集のC班とを選り分け、私は間のB班に選ばれる。嫌な顔の一つもせずに従ったが、担当は人質救出だ。彼女の居場所はわかっている。私たちを閉じ込めた鉄格子を挟んですぐ、「死神」の背後につながれ眠っていた。「死神」の相手はA班に、C班には道を探らせて、B班が人質の元に突入する。

——手筈だったが、別れて一分でA班が倒れた。

一気に空気が張り詰めた。まるで突飛な知らせだった。クラスの三等分およそ十名が——それも連絡役を除いては各々戦闘、対人戦に秀でたクラスメイトが、わずか一分のうちに制圧されたのだ。

しかしB班はB班で引けない所まで到達していた。

「たぶん、この先がビッチ先生が捕まってる部屋」

爆薬を持った班員が、鍵の付いた扉に向かっていく。残りはそこから距離を取りつつ、背後を警戒し、私は見張りの役を買って出る。訓練成績がよい部類であるため、否定意見もなく配置が決まり、まもなく前方から爆発音がした。

先頭の班員が扉を蹴破る。

「ビッチ先生!」

続々突入する班員たち。室内に敵影なし。鉄格子の向こう側もひとまずは異常なし。部屋の外も静かなものだ。まだ「死神」は訪れないらしい。そして警戒の中で英語教師の呼吸が確認された。

「眠ってるだけだって」

「そっか、よかった」

次はまだ倒れた様子のないC班と合流するそうだ。C班は戦力としては心もとないが、体格と体力がある寺坂くんと、技術力もさることながら肉体改造により身体能力も高いイトナくんがいる。彼らをB班の戦力と合わせ、A班を救出しつつ「死神」を倒して外に出る算段だ。私たちは全員、対人で有効な武器を装備している。——A班にも同じことが言えて、それにもかかわらず手加減のうえで秒殺されてしまったのだけれども。

室内では「人質」の解放が完了し、杉野くんが彼女を背負った。まずは二人を守りながら、C班と合流せねばならない。連絡役が作戦を伝える。私は一歩、扉から離れる。中学生の気配を除いては、空気の乱れも足音もしない。まだ「死神」は現れない。一方で作戦に従って班員が出てきた。一人、また一人。武器を携え、私を抜かしていく。しかし、誰かがぴたりと足を止めた。

まだ部屋の中の班員たちだ。振り返って固まった彼らの様子が、やがて全員に伝播する。

「六か月くらい眠ってたわ。自分の本来の姿も忘れて。——目が覚めたの。死神カレのおかげよ」

杉野くんと、彼らの護衛が「人質」の足元に膝から倒れた。対して「人質」はいたって健全に立ち上がり、両手に武器を携えている。拳銃型の注射器だ。連続で注射できるようになっているのだろう。見張りを引き受けておいてよかった。班員が部屋に引き返していく。私は最後尾から室内をうかがった。通路に敵の気配はない。この状況を英語教師が一人で切り抜けられると見積もっていて、仮に計算が外れても結局は伝説の殺し屋が全員を殺せるからだ。

実際、仲間は続々と倒れた。一分どころか十秒のうちに、敵は全員を抜き去った。彼女は最後の一人の前で、足を止めて口を開いた。

「あら」

目が合った。

「あんた、それは降伏のつもり?」

「はい、私は降伏します」

私は頭の横で手の平を示した。武器は地面に手放してある。微動だにしない私の前で、敵もゆっくりと武器を下ろした。油断の現れには程遠い。ついに味方の到着である。

「君は——」

背後で場違いな声がした。

「——そっか。君は降伏?」

「——はい、降伏です」

私は背を向けたまま答えた。背後の敵は再び「そっか」と場違いに穏やかな表情でつぶやく。

「いいよ。武器を置いたら自由にしなよ。もちろん限度はあるけどね」

と、瞬きのうちに私のポケットを空にして、「死神」は手下の前に立つ。

「君一人に負けちゃった」

「ええ。あんたの言ったとおりだったわ。やっぱりこの子たちとは組む価値がない」

その後「死神」は手下を私と実質的に二人きりにして、C班の元へ赴いた。彼らは全員で降伏を選んだらしい。中学生は新たなおりに誘導される。全員が英語教師の手で首輪と手錠をはめられる。B班から一人、降伏を選んだ私は、教師からの褒美として、最初の一人に選んでもらえた。まったくもって、うれしくない。けれど、この私はもはや抵抗できないから、従順に過ごして、目覚めた班員に謝って、C班だった奥田さんと無事を確認し合って、——それから「死神」の監視映像に、一人と一匹の影が映る。