第111話「進路の時間」

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十一月、又は進路相談

月をまたいでも電車に乗ったら赤羽がいた。殺されたことはない。未遂もない。毎朝、同じ車両で参考書を読み、私に気づくと顔を上げる。今日も変わらない。何も変えない。この私は、この程度のことで時間や乗降口を改めない。プラットホームに立って間もなく、到着を知らされ、電車に乗り込み、挨拶を交わし、赤羽の隣に立つ。彼の隣のつり革は大抵いつも空いている。

会話らしい会話はない。普段から。赤羽は何やら端末を操作して、私は片手で本を読む。それだけの時間が、椚ヶ丘駅の手前まで続く。

「次」

どちらからともなく視線を交わし、本を閉じる。支度を終えると、私は何となしに窓を見た。硝子の向こうを流れる景色は多少、工事現場が目につく。次の三月には消し飛ぶ——いや、そうはさせないための、か。

やがて降車駅が見えてくる。ただ、その日は——、電車が停止する直前、隣のクラスメイトが口を開いた。

「ねえ、次のテストだけどさ」

私の反応は騒音にのみ込まれる。

「勝負しようよ」

返事はすぐにはできなかった。椚ヶ丘駅で停止、開扉ときたら私たちも、ただちに電車を降りねばならない。ただでさえ通学、通勤の時間帯で、さらに乗換駅ともなると、三年目になっても息をつく暇がない。だから尋ねることができたとき、私たちは改札を抜けていた。

「勝負って、テストの成績で?」

「他に何かある?」

「一般的には、ないかもね」

「普通でいいんだよ。テストで普通に勝負しよう」

赤羽が階段を下りる。狭い階段だから一列になる。降りたらまた横に並んで、私は隣のクラスメイトに答えた。

「悪いけど、私じゃ勝負にならないと思うな」

「だとしても、よくない? 普通の勝負だぜ。勝ってうれしい、負けて悔しい、——おまえとは違って普通の、さ」

よくないよ。喉から小さな音が漏れる。私、殺害予告されてるんだよ。

そうだった。赤羽は今さら気づいたような声を出した。

私は努めて前を向いて、

「そんな相手に勝負を持ちかけられたら、普通、何かあるって考えるけど」

「ま、そこだけは、おまえが正しい。夏の期末でA組とやったやつ、あれやりたいんだよね。俺とおまえで、シンプルに総合成績で」

主要五教科の総合点、順位が高ければ勝ち、低ければ負け。勝てば相手に一回だけ命令できる。

私はいくつかの懸念を抱いた。この私は決して口に出さなかったけれど、赤羽はシンプルに解消しようとした。

「俺さ、死ね、なんて言うつもりはないよ」

どうだか、と私は思った。この私は答えなかった。

「無茶な命令も当然なし。命令は一回だけ。正真正銘、一つだけ」

口では何とでも言える。舌が自在に回ったなら、きっと、そのような返事をした。実際の言葉はまるで違った。

「それなら、どうして勝負なんて。三月までに殺すなんて言ったの」

「そっちのが、やる気、出ない? 俺は出る。どっちにしたって殺す気でトップを取る。けど、おまえはうそついてる」

曲がり角に差し掛かった。赤羽が曲がる。私も曲がる。そして返答の機会をうかがう間に、赤羽は四つの数字を並べた。

「七十、九十、九十五。次は百点、取るんでしょ」

正体が知りたければ五倍すればよい。三百五十、四百五十、四百七十五。五百はともかく前の三つは、三年生に上がってからの、私のテストの総合点だ。いや赤羽は確信しているのか。私は次は五百点を取る。けれども、この私は、あと少しくらいは控えめだ。

「こないだの中間、結構よかったからね。次は百点が取れたらって、思ったことがないって言ったら、うそになる。それこそ」

そう答えて、はっとした。この私は——

「なら、もっとシンプルだ」

——結局、決まりきっていた。

「俺は次こそトップを狙う。おまえも次こそ百点を狙う。その結果で勝負するだけ。おまえが五百点満点なら、おまえの勝ちで終わる勝負だ。ついでに命令すればいい。私を殺さないで、って。それを無茶だとは言わないと思うけど」

そうは言っても期末テストより先に学園祭で、学園祭より先に、——手元の紙切れに目を落とす。氏名の他は、学校と職業を二つまでの記入欄。志望校、そして将来の夢だ。

クラスメイトが順番に、担任との二者面談のために教員室へ呼び出されている。

一方で私の筆は、配られた用紙の途中で一向に進まなくなってしまった。クラスを見渡しても全員がすらりと埋めた様子はない。だが隣の席のクラスメイトは両名共、速やかに書きあげたようだった。

来年の十一月など訪れるとも知れないのに。

右隣の席のクラスメイトは適当に済ますと言って教室を出て、本当に短時間で戻ってくる。それからまた数人が教室を出て、私は空欄を抱えたまま戸をたたくことになった。

「さあ座ってください」

「はい先生」

「書けましたか」

「志望校は」

私はおとなしく用紙を広げた。先生はぬるぬるとうなずいた。

「椚ヶ丘ですか」

触手が用紙を持ちあげる。

「理由を聞いてもいいですか」

「ここを受験したのは元々は父が勧めてくれたからなんです」

小学五年生の冬だった。電車一本でかよえる範囲に、まだ新しいものの実績の著しい中高一貫校があるのだと。勧められるまま模試を受けたら、結果はA判定だった。それから定期的に模試を受けたが、成績は維持できていたから、特に塾にはかよわずに、この学校を受験した。結果は合格。後でE組制度の説明を受けたが、落ちることもないだろうと、署名を以て同意したのだ。

「まあ、いざ入学したら、暴力沙汰に巻き込まれちゃって。——ショックを受けたみたいです」

母親も相応の衝撃は受けたようだが、長女に受験を仕向けた父親の反応は格別のものだった。彼はそのとき初めて三年E組について長女に尋ねた。

「べつに父のせいだなんて思ってません。署名したのは父だけじゃない。私も自分で名前を書いたんです。けど、父はそう思わなかったみたいで」

そして当時の状況が状況だから、元の担任が復帰を認める可能性は限りなく低い。

「けど、E組が楽しいから、本校舎に戻りたいとも思えないですし。だから高校受験で入り直して、証明できたらと思いました」

「それもまた一つの親孝行でしょうね」

先生はまっすぐに私を見た。いつか誰かがつぶらだと表現した瞳が、まるで問い詰めるかのようだった。それだけではないだろう、と。

そうだった。あるいはすべてが出任せだった。

「『死神』」

言うべきか、言わないべきか。

「先生はご存じですよね。『死神』という殺し屋を」

「覚えていますよ」

先生は当然のように答えた。だってその殺し屋に殺された張本人ですからねと、そのような体で。いつもと同じ表情だった。

「あのとき考えたことがあります」

私は膝の上で指を組んだ。

「あなたの暗殺が終わったとき、父はもっとショックを受けるんじゃないか——」

「たしかに、この暗殺教室のことが公になる可能性はゼロではありません」

「でも両親が悲しむことは何もないんです。私は自分の意思でE組にいます」

「——立派な考えです。椚ヶ丘中学がそうであるように、椚ヶ丘高校もレベルが高い。あなたには言うまでもないことですが、本校舎は綺麗で、設備も充実しています。多様な部活動も魅力の一つです。そしてあなたの学力なら、確実に合格できるでしょう」

目の前に小冊子が突き出される。ですが、と。指がわりの触手は冊子の表題を指し示す。

「ご存じのとおり、あなたの学力なら難関校も射程圏内です」

ずい、と後ろにさらに小冊子の束が現れた。

「偏差値が絶対とは言いませんが、その志望動機で今から選択肢を狭める理由もありません」

先生はそれぞれ表題が見えるようずらりと広げた。先頭は模試のたびに書いた第二志望校。難関校の学校案内だ。

「このE組の環境で学力を磨いて椚ヶ丘高校より難しい学校に合格した、それは、あなた自身が椚ヶ丘を望んだことの直接の証明にはならないかもしれません。しかし、まったく何の証明にもならない、とも先生は思いません」

「それは、たとえば、クラスメイトと切磋琢磨し合える環境だったとか、担任の先生が——最期まで熱心に指導してくれたとか」

「ヌルフフフ。もちろん地球を爆破する日まで、力を尽くして授業しましょう」

小冊子が一つを残して奥に引っ込む。

「考えてみます」

私は第二志望校の学校案内を受けとって開いた。

「ぜひ、そうしてみてください。まだ時間はたっぷりあります。先生もいつでも相談に乗ります」

先生は改めて例の用紙を広げた。

「将来の夢のことも」

「やっぱり空欄はいけませんか」

「いいえ。焦って決めることではありませんよ。まだ中学三年生です。とはいえ目標があれば、良質なモチベーションにも、より適切な進学先にもつながるでしょう」

「目標ですか」

「先ほど話してくれた——E組のことで家族を安心させたい。これも立派な目標ですが、もっと先、どういう大学に入りたい、どういう場所で暮らしたい、生涯で何がしたいか、あるいは何がしたくないか」

「考えておきます」

膝の上で学校案内を閉じる。両手で持って差し出すと、先生も用紙を返してくれる。うねる触手が冊子を引きとったので、私も両手で用紙を引きとった。渡したときと変わり映えのしない、空欄二つの記入用紙。

「そのためにも、選択肢は少しでも多いほうがいい。これは先生の考えですが、伝えておきます。身に着けたスキルはいつか必ずあなたの役に立ちます。近々、烏間先生から護身術を教わるそうですね」

「はい。『死神』のことがあって、もっと身を守るすべが必要なんじゃないかって、何人かで頼みに行ったんです。そうしたら、希望者には時間をとって教えると、その場で答えてくださいました。烏間先生も忙しいはずなのに」

「——『死神』は本当に危険な殺し屋でした」

「——そうですね。きっと、あのとき見せられたよりも多くの『スキル』を、とても高いレベルまで磨きあげているんでしょうね」

「そういえば、あの日は降伏を選んだと聞きました」

先生はいつもの顔で言った。私は膝の上で用紙に触れた。

「みんなが目の前で倒されてしまったので」

「ビッチ先生が褒めていましたよ。迅速な判断だったと」

「買いかぶりです。ちょっと反応にも困ります。あのとき私たちは十人くらいで、ビッチ先生はたった一人でした。さすがにわかります。それでビッチ先生に歯が立たないようじゃ、とても『死神』にはかないません。——保身に走ったんです。とんだ薄情者ですよ」

「命あっての物種ともいいますよ。先日は皆さん無事でしたが、最悪の事態を想定できれば、やはり適切な判断でした。ビッチ先生も言っていましたよ。立派な『スキル』です。——同様に、あなたの中に幾つもの素敵なスキルがあることを、先生は知っています。ですから」


「いつか暗殺に来てください」


くしゃり、手の中で音がする。

「あれだけ暗殺され続けて」

言いながら、急に水が飲みたくなった。

「まだ足りないんですか」

「ヌルフフフ。先生は生徒個人からの暗殺も楽しみにしているんです」

正面の先生は相変わらず笑顔だ。つぶらな瞳も、大きな口も、大抵は笑顔を形づくっている。今も、緑色が縞模様を描くことも、桃色が皮膚を染めることもない。かといって真顔の真白でもない、いつもの黄色の殺せんせー

私もいつもの自己暗示だ。

「私は慎重派、みたいです。先生に同じ手は使えないから」

「先生はいつでも待っていますよ。あなたの勝算のある計画を」

今日の進路相談は、そこで終わりと相成った。私は頭を下げて、教員室を出た。翌三月に先生は必ず地球を爆破する——。

教室の入口でうつむきがちな渚くんとすれ違った。教壇のそばで、新たな装いのビッチ先生が生徒とにぎやかに言葉を交わしていた。席に着いて広げた用紙は、端にしわが刻まれていた。私はそれを一度だけ、小指を下に置き伸ばしていく。