第119話「期末の時間・2時間目」から第126話「生かす時間」まで

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十二月

奥田さんに名前を呼ばれ、赤色の入ったノートを差し出された。

「順番にお願いします」

私の机に躊躇なく筆記用具を置いた奥田さんは、もはや半年前とは別人だった。模範解答と解説を広げながら、ふと懐旧の念に襲われる。とうに今この私にとって彼女は「前の席のクラスメイト」では済まされない存在だ。同じ教室で、同じ班で、同じ時間を過ごしてきた。そしてこの十二月また出来事を共有しようとしている。期末テストの季節である。

もう皆すっかり長袖に重ね着だ。大抵は教室か廊下に詰め、朝も昼も夕も問わず、テストに向けてとり組んでいる。目標はいよいよ「ラッキーチャンス」ではない。E組全員で学年五十位以内を勝ちとるのだ。内部進学と外部進学とで進路も授業も分かれてしまう本校舎と旧校舎では、三学期は同じテストを受けられない。だから、この二学期の期末テストで、長らくの因縁に決着がつく。

クラスメイトも先生も、そして確実に本校舎でも、決着に向かって時間が流れている。先生の分身は形を乱した。深くは考えるまい。私たちはあまりに必死だ。全員で上位を独占して、私は最後に五百点満点を持ち帰る。それだけだ。——勝算があるから提案できるのだ。

「どうかしましたか」

「ううん、ええと、この記述問題だけど、やっぱり、これも設問にヒントがあって——、そう、その二つだね」

奥田さんが悩ましげに本文を追った。英文の上に小さな字で日本語訳が書き込まれている。筆記用具はそこかしこをさまよって、線を引いた。考え方は合っているよと、私の口は適当な言葉を吐き出す。耳は別の科目の声を拾っていた。

「これは特殊解に持ってくやつ」

教室の勉強風景も変わった。先生がいるときは彼を酷使するけれど、いないときでも、私が奥田さんに英語を教えたり、隣の席でも誰かに数学を教えたり、奥田さんも誰かに理科を教えたり。先生の勧めもあって、積極的に生徒間で教え合うようになった。誰からも総合一位を期待されるようなクラスメイトなどは、それはもう引っ張りだこだ。

朝の電車はいまだに一緒になるが。

毎朝、同じ位置で参考書を開いて、つり革をつかんで立っている。特に会話することはない。私も車内では参考書を開くからだ。ただ、期末テストでの個人的な勝負に関しては、学園祭以来まるで忘れられたかのように、電車を降りても話題に上がることがなくなった。お互いに、この期末テストでの総合一位は、かねてよりの目標だった。それだけは彼が正しかった。

それだけは。

「——そこに気づけたら、後はやることは同じだよ。先生が教えてくれてるとおりにやって、確実に点数を拾っていく問題」

「はい、ありがとうございます!」

「いいの、いいの。私も理科で聞きたいことがあるんだ」

ちかちかと一瞬、目の前が光った。私は一旦ペンを置いて、ぐっと、ほぐすように全身を伸ばす。血管が熱を帯びた、そういう錯覚がした。錯覚だ。錯覚。だって、これで最後だから。

目まぐるしいテスト対策の日々は流れるように過ぎ去り、本番当日を引き連れてきた。

白色の天井、白色の壁、白色のカーテン、日光の一筋も差し込まない暗い部屋で目を覚ます。時刻は確認するまでもなく五時三十分。必要な物はすべて所定の場所にあった。白色のタイツも、白色のワイシャツも、白色のカーディガンも、灰色のスカートも。

身支度を終えても、他には物音さえしない。台所もいつものとおりに人がいない。そして求めた紫色は、やはり所定の場所に置かれていて、まもなくカーディガンの上からエプロンのひもを結ぶ。今朝の献立は野菜、焼き魚、白米、味噌汁。弁当のおかずはタコさんウィンナーだ。

両親が起きてくる頃には、とうに静かな台所ではなかったが、音の数は一気に増えた。足音、挨拶、席に着く音、新聞紙の音。まもなく朝食も完成する。すべて食卓に並んだら、三人で両手を合わせ、箸をとった。今朝の報道、弁当の中身、夕飯の希望、今日の予定。会話を挟みながら食事が進む。そういえばと、親の片方が私を見る。

「今日は期末テストだね」

「うん。今回も目標を達成できるようにがんばる」

「前回は四百——」

「——七十点くらい」

「今回は」

片方が柔らかい表情で尋ねた。

「それはもちろん総合——」

私は顔をあげて二人を見る。答えようとした口が縦に開いていたから、まずは笑顔に変換して、

「——一位、か、五百点?」

勿体ぶったように答えたら、部屋に明るい声が響いた。

いつもの、テスト前の、それでも変わらぬ朝だった。

だから学校に向かう電車に乗ったら、同じ車両にクラスメイトが立っていた。耳にイヤホン、片手に参考書。やはり特に会話することもなく勉強して過ごし、ただ隣り合って電車を降りる。駅を出る。通学路を歩く。

旧校舎に一旦集合してから、クラス全員で本校舎に入った。会場は毎度のごとく本校舎の教室だ。三年生の階まで上がって、A組からD組までの前を通って、指定の空き教室へ向かう。

しかし一歩、足を廊下に踏み入れた瞬間、射殺さんばかりの視線に襲われる。A組の教室からだ。いやA組の生徒たちだ。中にはかつてつき合いのあった生徒もいるが、皆一様に眼を血走らせて、E組を見送るために席を立っている。

そういえば期末テストに向けてA組は担任教師が変わったらしい。まったく毎年恒例ではないが、学園祭が終わった頃から、理事長が教壇に立つようになったという。今日の期末テストでは生徒のみならず先生たちも、ここで終わらせるつもりでいるだろう。

決着をつけるのだ。

——からん。いつしか机の上で、並べた鉛筆が転がろうとして倒れる。

テストはまもなく始まった。最初は英語、リスニング問題だ。異様な語彙、分量、速度。私たちは一分でこのテストの傾向を理解させられる。

中学三年間を通して、私たちは魚をさばくような問題で試されてきた。まな板と包丁と魚を出されて、文章から求められている処理を判断し、うろこを引いたり、骨を断ったり、頭を落としたり、内臓をとったり、二枚におろすのか三枚におろすのか、刺身にするのか干物にするのか。そして教師は、生徒の手際のよさや無駄のなさを評価した。基本を押さえて及第点、魚種がわかって平均点、その上で応用を利かせて高得点。

出題傾向は今も変わっていない。ただ、夏の期末テストを境に急激に進化した。まな板は闘技場に、包丁は武器に、魚は怪物に。

その点、英語の怪物は主要五教科で最も魚に近い部類だ。あくまで魚の進化系を、闘技場に適応させた。結果、魚はヒレを手足に、うろこを骨格に、ついでに大きく成長する。当然、包丁など通せもしないから、私たちも戦鎚を与えられたのだが、この冬の怪物はまた一段と硬く大きくなったようだ。腕も増えた。攻撃も守備もかわしながら、砕くべき外骨格と、突くべき隙間を瞬時に見極めなければ、それこそ瞬く間に制限時間に達するだろう。

おそらく平均点はいまだかつてなく低い数字になる。いまだかつてなく明白な学年順位がつくのだ。

実際に英語の一時間だけで、クラスメイトの多くが疲労を訴えた。しかし僅かな休み時間を挟んで、社会科もまた怪物を入場させる。長剣を持たされた私たちに対して、戦車である。夏は単に火器だったから、射撃は厄介だけれども、かいくぐって剣の間合いまで近づけばよかった。だが、この冬はさらに思考力を問う方針らしい。理科も国語も同様だ。夏からより一層の進化を遂げた怪物たちが、呪詛を放ち、太刀を振るう。

それは当然、数学にも言えた。

問題用紙を見た瞬間に、まっさらな闘技場に落とされ、一丁の銃を拾いあげる。引き金に触れるまでもなくその正体がわかって、つかんだ手に力が入った。一方、中央では微笑をたたえた大理石の女神が、周囲をボットに守らせている。処刑台に引きずり出したければ、戦闘ボットを破壊して回らなければならないらしい。

幾何学的に設計されたボットの連隊は、それぞれが攻撃してくるけれど、正解の的はごく僅かだ。私は標的を絞り、照準を合わせ、ただ引き金を引けばよい。あとは耳慣れた音がして、的が倒れ、隊長が落ち、隊が崩れる。その繰り返しだ。小隊も中隊も大隊も変わらない。繰り返し、繰り返し、撃って、撃つ。

気を抜くな、誰も信じるな、光線銃を手放すな。そうすれば、女神は自ずと処刑台に上がってくる。

——ザ・コンピューターはいつだって私たちを処刑したがった。

処刑台は立方体をとっていた。終わりなく並び続ける立方体だ。私はその一つの中心に立たされ、周囲では八つの頂点がおもむろに砲門を開く。女神ははるか頭上から私のことを見下していた。試しに移動しようとしたら、即座に頂点の一つが光線を発射した。これまた試しに撃ち返してみる。私の銃から飛び出した光線が、敵の光線に衝突し、たちまち消滅する。

逆に私から撃ってみても結果は変わらなかった。八つが八つ、すべて、私の行動に反応して、私と同じ威力の光線を発射する。どこを狙っても、どこから狙っても、攻撃は必ず打ち消されるのだ。腹立たしいことだった。忌まわしき大理石を破壊せねばならないのに、私は立方体の半分という領域から出ることができないのだ。だが腹立たしいことに、どうやらそれが答えだった。

正解を見定めた瞬間、零距離に大理石が出現する。彫刻が微笑を絶やさない。引き金を引こうと思ったら、指はすでにそこを力強く押さえていた。女神の表情は変わらない。気をとり直して再び撃つ。光線が発射される。そして、

「市民、幸福ではないのですか」

私の答えを待っていた。

どうして。私は答えを待たれていた。どうして。

「市民、幸福ではないのですか」

構えたままの銃を撃った。撃って、撃って、撃って、——撃たれて、白色の彫刻はすべて受け止め続けた。

「こんな世界でもセキュリティクリアランスか」

私は自分の体を見下ろす。

「私はこんな世界でもレッドのままなのか」

大理石の女神は答えない。

「市民、幸福ではないのですか」

私の口はいよいよ独りでに動き出す。


朝だか昼だか夜だか、いや深夜だったか、通信などでブリーフィングルームに呼び出され、橙色のチームメイトが運び出され、黄色の上司が話し出し、橙色のチームメイトが顔色を変え、——支給品の光線銃を握り締めた。

運も実力のうちという。道理である。運があることは幸福であることだ。実力があることは幸福であることだ。幸福であることは運も実力もあることだ。秩序正しく、効率的で、生産的であることだ。人生を楽しむことだ。人生を楽しまないことはテロリストの兆候で、翻って、すべてのテロリストはまったく幸福ではありえない。不幸であることはテロリストであることで。

幸福は義務である。

期末テストの採点結果が届いた朝、少しの事件と暗殺を挟んで、三年E組は昼過ぎに解散となった。実に晴れやかな放課後だった。E組は目標を達成したのだ。この私も晴れやかな顔をつくって、席を立ち、教室を出て、靴を履く。しかし校門は目指さない。E組で人目を忍んで話をするなら裏山と相場が決まっている。今日の私たちはまだ最後の用事を残している。

「おめでとう」

突き刺すような寒さの中で、私たちはどちらからともなく口にした。乾いた空気に包まれて、また、どちらからともなく足を止める。互いに木の幹を背にする。向かい合うように立ったから、相手の表情は嫌でも視界に入ってきた。私たちはすでにかけの結果を知っている。

今朝のホームルームで学年順位もはり出された。クラス最下位の寺坂くんの名前が四十七位にあって、肝心の一位から五位までは、A組から一名、E組から四名。五位はクラス委員の磯貝くん。四位もE組から中村莉桜。三位に浅野くんの名前が。そして二位は——私の名前だった。

主要五教科合計四百九十八点。浅野くんは四百九十七点。いずれも数学の最後の問題で、時間が足りなかったり、過程を減点されたりした。だから、そうならなかった赤羽が五百点満点で学年一位だ。

「あれって、やっぱり、そういう仕組みだったの」

「結果は知ってのとおりだよ」

今回の平均は九十九点。今も昔も全力でとり組み、偶然にも二、三回、切りのよい数字が続いただけなのだ。この私にとっては、そうなのだ。赤羽は信じていない顔だが。

命令の結果なら信じてくれる?」

「やだね」

即答だった。

「俺の命令は最初から一つだけ。ちょっと悪い気もするけど——三月じゃなくて今日これからるけど、いいよね」

冷たい風が皮膚に刃を突き立てる。赤羽が私を見る。私も赤羽と目を合わせる。

「いいよ」


私たちはさらに奥へ向かった。その命令なら場所を変えたいと申し出たら、二つ返事でうなずいてもらえたので。制服だからと理由をつけ、土を踏み、葉を踏み、あえて痕跡を隠すような真似はしないが、痕跡を残さないような歩き方にはなった。私も、赤羽も。数か月間の成果だろうか。

しばらく歩かせたが、赤羽は文句もつけずに着いてきた。わかっている。文句のかわりに、私の一挙手一投足を監視しているのだ。

「わからないな」

「何が」

赤羽がすかさず、つぶやきを拾う。じゃあ、と私は一呼吸を置いた。

「最後に一つ聞いてもいい?」

「内容次第だね」

「——私、赤羽くんに何かしちゃったのかな」

かさ、と隣で落ち葉を踏んだ音がした。かと思うと、笑い声が上がる。

「何かおかしなことを言った?」

「だって」

赤羽がひいひいと腹を抱える、ふりをする。

「おまえの認識じゃ、急に嫌われたってことになってたんだ」

「まあ、急に。修学旅行くらいから話すようになったとは思ってるんだけど、その、気づかないうちに赤羽くんの嫌なことをしてたのかな」

「そうだよ。おまえの、そういうところが嫌い」

「そんな相手がこれから一番の秘密を教えるって言って、赤羽くんは信じられるの」

「信じてる」

こちらは即答だった。

私は正面を向いた。歩く速度を緩めると、隣の赤羽も合わせてくる。そうして足を止めたところで、彼はわざとらしく驚いた。

「わあ、意外と大胆だね」

裏山ほど内緒話に向いた場所はない。隠れやすく、隠しやすく、明るく、暗く、広く、狭く、E組の面々は熟知していて、熟知していても容易には把握できない。だからこそ、私は赤羽を、この小さな洞穴に案内した。定員は多く見積もっても三名。奥は行き止まりで、出入口は一つ。私が先頭に立って進んで、赤羽の体にそこを塞がせると、二人で向かい合うように座る。

周囲に人の気配はない。おおよその生徒は山を下りた。教師陣も同様だ。先生もテスト期間にため込んだ予定を、これからマッハ二十で消化して回るという。最初の予定は地球一周。放課後に入って十数分は経過したから、どれだけ急いでも駆けつけるには相応の時間が必要だろう。すると、残る問題は私たちの所持品、特に赤羽の携帯端末だが、——ボットごときはどうにでもできよう。

私は端末をとり出し、その光で洞穴の内部を照らした。

「あれ」

赤羽が私の反対の手に注目する。端末の光が浮かび上がらせた、八センチメートル程度の開き切らない鮮やかな赤色、五センチメートル程度の。キノコである。

「いつの間に」

赤羽は私が拾ったところを目撃していないようだった。当然だが。

その当然を知る由もない赤羽は、それでも言葉を切った。命令が実行されていない今、へたな追及は私に対して有利に働く可能性がある。だから追及してくれればよかったのにと私は思うのだけれども、赤羽は速やかに意識を切り換え、キノコの特徴を探し始めた。どうやら、こちらには覚えがあるようだ。たしか、と彼は名前を呼ぼうとする。その前に、

「タマゴタケだよ」

私は口へ放り込んだ。いぼの落ちた傘から、白色の柄まで、一口で。

瞬時に赤羽が動きを見せた。私の体を取り押さえようという構えだ。狭い洞穴でとれる攻撃は少ない。狭い洞穴だからとれる防御も少ない。

私はさすがに丸のみはしたくないから、この際、出し惜しみはしないことにする。目の奥に熱が集中すると、向かいの赤羽が立ち上がる前に動きを止める。その隙に私はきのこの咀嚼を進める。

傘も柄も余すところなく、かんで、かみ、端から飲み込む。生食ならではの味と歯ごたえ。なくはない。しかし本来キノコは加熱調理のうえで食べるものだ。キノコの生食には食中毒の危険がある。そして、

「火が通ってたほうが全体的にうまいらしい」

少なくとも私の味覚にとっては。

「赤羽は加熱調理しろよ」

赤羽は答えなかった。

「食中毒になりたいなら止めないけど」

赤羽は答えない。私が何も言わなかったら、洞穴は急に静まり返った。赤羽はうんともすんとも言わず、ただ、やけに反抗的な目つきをしている。当然の態度である。まだ何が起きたかもわかっていないだろう。彼はその犯人を前にして即座に恭順できるような性質をしていない。

よって赤羽が無言でものを訴えるような様子は、やや気がかりだとも言える。彼はE組でも屈指の減らず口の持ち主だ。では何か。

「あ」

そこで、やっと私は思い至った。ミュータントパワーで赤羽の動きを封じたときに、口まで封じてしまったのだ。なかなか使わずにいた種類だったから加減を間違えた。当然、赤羽との会話など普段なら決して望まないところだが、

「しゃべっていいよ」

今日、今だけは発声を許してやることにする。

ミュータントパワーから解放された赤羽の第一声はこうだった。

「吐け!」

そして前のめりになって体勢を崩しかける。並の人間なら顔から倒れただろう。だが赤羽はすんでのところで感覚をとり戻し、座り直した。否、腰を浮かせた。

「吐け」

それでも取り押さえようとはしなかった。ただ私の動きを見逃さぬようにと、目を鋭くさせるだけだ。私が退路を塞がせてやった理由の、答え合わせでも始めたのだろう。赤羽は私から目を離さぬようにしながら、片手で携帯端末をとり出す。

「なら、早くここから出るよ」

私をにらみつけたまま、クラスメイトの名前を呼ぶ。私たちの端末にはクラスメイトが潜んでいる。

「プールで口をすすごう」

端末を持たない側の手は、私に向けて伸ばされた。私は両手を耳の横に持っていく。端末も同じく持ち上がり、光源の位置が高くなる。

「何、考えてんの」

「おまえこそ何を慌てているんだ」

「——あれはベニテングタケだ」

赤羽は手を開く仕草をする。私は光を揺らしてこたえる。

「もう十二月も半ばなのに、いい所に生えていたから、とってきてしまった」

「食用のタマゴタケじゃない。有毒のテングタケだ」

タマゴタケはベニテングタケと同じテングタケ属に分類される。

「まあ大概のテングタケは毒キノコだから、赤羽は安易に口にしないほうがいい」

例外もあるが、たとえばタマゴタケには間違えやすい毒キノコが存在する。

「本当になに考えてんの。忘れたとは言わせないよ。ベニテングタケは死亡例がある」

「そうだね、まれだけど」

「なら——」

「——『今日これからる』んだろ」

赤羽がはっと目を見開いた。そして一旦は口を閉じ、また苦々しげに口を開いた。

「『物理的に殺すわけじゃない』」

絞り出したような声だった。しかし目はそらさずに、十数分前の記憶に立ち返っている。

「『秘密を教えて』って言ったんだ。『一番の秘密』を」

それから、ようやく腕を引っ込めた。埒が明かないと判断したようだった。かわりに赤羽は改めてクラスメイトの名を呼ぶ。私はあげた両腕を膝の上に戻す。

「そうだった。『誰にも明かしたことがないような秘密』だったっけ」

赤羽は私に背を向けようとしていた。

「じゃあ、これは赤羽だけに話すんだけど」

だが瞳はまだ私の姿をとらえている。

私の姿を、そして宙に浮かび上がった端末と、きのこの数々を。


「私、ミュータントなんだよね」


ぴたりと動きを止めた赤羽は珍しく反復した。

「『ミュータント』」

「超能力者と言い換えてやってもいい」

超能力が使えるって?」

視線は断続的に脇にそらされる。嫌でも空中が目につくのだろう。私はきのこを体の周りでまとまりなく一周させてみる。

「私たちはミュータントパワーと呼んでいた。まあスーパーパワーでも異能でも差しつかえはないよ。要はヒトならざる力が扱えるってこと」

そして一周したきのこから地面に落としていく。

「これは念動力テレキネシス

赤羽は浮遊物体から意識を外した。そして浮かせた腰を地面に下ろす。

「おまえは俺の隣を歩きながら——念動力テレキネシスできのこ狩りしてたんだ。あらかじめこの洞穴に仕込んでたんじゃない」

「正解」

「俺が動けなくなったのも、おまえの念動力テレキネシスだ」

「正解」

「そして超能力——ミュータントパワーは念動力テレキネシスの他にもある」

「正解」

私は土のついた毒キノコを拾いあげた。全部が有毒だから、どれを拾っても毒キノコだ。もっとも生食だから食用だろうと食中毒の危険はあるのだが、赤羽はもう制止の素振りも見せない。私は丸ごと口に含めて、食べてしまった。

超雑食マター・イーターでね、ほとんど何でも消化できる」

毒キノコだろうと生キノコだろうと、私を食中毒にすることはできないのだ。できれば食用キノコを加熱調理のうえで食べたいとは思うが。

「沖縄で飲まされたトロピカルジュースも、おまえだけには効かなかった」

赤羽はつぶやくような声で確認した。私は変わらぬ声で正解を告げた。はあ、と息を吐いた赤羽の片手には携帯端末。何度となくクラスメイトに呼びかけたのだろうが、一度も返事はなかったはずだ。あらかじめ機械マシン共感エンパシーで端末を壊しておいた。

「ミュータントパワーの説明だけで夜になりそう」

と、説明は求められなかった。私は万能な力ではないとだけ言っておく。ミュータントパワーの一つの真実として。

スーパーパワー、異能、超能力、何だとしてもミュータントにとってそれはあくまで身体能力で、使った分だけ消耗もする。より強い効果を引き出すためには、より多くの体力、気力が必要になる。さらに言えばアルファコンプレックスのミュータントは多くは一種類の技に特化していた。特化とは、それしか使えないということだ。私だって、そうだった。

だから、つけ加えるとするならば、私はアルファコンプレックスにいた頃よりは万能に近いミュータントであるのだろう。つけ加えなかったけれど。赤羽も尋ねてこない。それどころか今まさに疑惑の端末をしまったところだ。どうも移動の準備ではないようなので、より優先度の高い話を見いだしたというところか。

端末をしまった赤羽は案の定、私に体を向けたまま、

「さっき『私たち』って言ってたよね。この話が始まってからだ、当然おまえと俺じゃない、おまえと別の誰かのことだ。けど元々は誰にも明かしたことがない秘密って命令だ」

過去を改竄してきた。正しくは「誰にも明かしたことがないような秘密」である。指摘すると、わざとらしい「そうだった」が返った。私は正面をにらんでおく。

「『そうだった』じゃない。次それをしたら権利の放棄と見なすから」

正面の赤羽は「はいはい」と二つ返事だ。調子をとり戻し始めた様子である。

「で。まさか、アメコミの読者たち、なんて言わないでしょ」

「もちろん『私たち』はフィクションじゃない。私の他にもごまんといたってだけだよ。ミュータントも、ミュータントを知る連中も」

おまえが考えているとおりだとは言わなかった。私には次の質問がわかる。赤羽は舌打ちを隠しながら、それでも確認したいことがある。

「おまえと、殺せんせーは——」

私は嘲笑を隠してやらない。

「——あれは怪物だよ」

とはいえミュータントを怪物とくくるなら、あるいは同類かもしれない。そう続けたら、赤羽は黙り込んでしまったが。

「いずれにせよ出所は違う。命令されても私から言えることは少ない」

「——言えることって」

「たとえば、ミュータントは遺伝的実験の産物とも言われていて、あの怪物も人工的に生み出されたって話だから、怪物の実験が将来的にミュータントにつながる可能性は否定できない」

赤羽が眉をひそめた。

「おまえは」

思わずこぼしてしまったような声、と、まもなくはっとした表情を浮かべる。

「学園祭に来てたのは」

「正真正銘、私の実の両親だよ」

「けど、おまえの親はミュータントじゃない

まだ話してもいないのに、赤羽は半ば確信していた。大方は勘か何かだろうが、なぜと一度は尋ねておく。

「見てのとおりミュータントは外見からは区別がつかない」

すると赤羽は、学園祭で、と答えた。

「おまえの親と話す機会があった」

「そういえば二人のことを教えてくれたのはおまえだったか」

「おまえの親だなんていうから、どんな人間が出てくるかと思えば、普通の、いや、善良そうな人たちだった。おまえがどんな家で育ったか、すぐにわかった。正直、驚いたよ。あんな人たちから、おまえみたいなやつが生まれるのかって」

「ひっでー言い草」

「事実でしょ。おまえや鷹岡、シロみたいな、後ろ暗い連中を、あの立派なご両親と比べようとしたことが間違いだった」

それで、と私は続きを促した。後ろ暗いかどうかはともかく、事実として両親はミュータントではない。赤羽ははっきりと私を見て言った。

「さっきから妙に話がつながらない」

「そうだろうね」

私もはっきりと赤羽を見て言った。

「おまえはこの話を『誰にも話したことがない秘密』じゃないんじゃないかって言ったな。私から情報を引き出したかったからだ。それに対して私は正しい命令を思い出させた。だけど、これはやっぱり『誰にも話したことがない秘密』だ」

——どの世界でも。


「私は一度、死んだから」


赤羽はここまで一度も、真偽を問う言葉を口にしなかった。私が目に見える形でミュータントパワーを行使したことは、当然に理由の一つだろう。最初に食べたベニテングタケの食中毒もそうだ。私は強がりでなく体調の異変を訴えていない。しかし何よりは担任教師の存在である。言わずもがなE組の触手生物だ。現実離れした先生の実在が、ミュータントなどという荒唐無稽を受け入れさせる土壌をつくってしまっていた。

地下都市アルファコンプレックスという、ある種の妄言さえも。

とはいえ私にとっては確かな真実だから、話が早いことはよいことだ。

「最初の私には、当時の肉体の他に、五体のバックアップが与えられた」

アルファコンプレックス市民は六体一組のクローンとして生産される。活動を開始すると記憶のバックアップもとられるから、致命傷を負ってしまったときは肉体を交換して、ただちに活動を再開できるのだ。

「五体も」

「そう、五体も。拡張クローニング施設を出て三か月で使い切れるくらいのバックアップだ」

補足しておくと、市民は十分に活動可能と判断される年齢——成年——までは、クローン槽で教育される。意識はない。自我もない。私は成年になって初めて覚醒した。そして覚醒させられるや否や、最低インフラレッドのセキュリティクリアランスを与えられ、労働サービスに従事することになる。

アルファコンプレックスは階級社会だ。インフラレッド市民の待遇は三年E組より悪かった。最低限の衣食住、最大限の薬物投与。衛生観念の欠片もないが、薬物投与で洗脳されている。脱出手段は二つに一つ。死か、昇格か。私は薬漬けになっていく脳を働かせ、一、二か月で一つ昇格した。

「それって早いの」

「何十年も扉にはりついて、それでもインフラレッドのままクローンを使い切るやつはたくさんいるかな」

どうして扉にはりつくかって、それがアルファコンプレックスの洗脳で、同時に最も確実な点数稼ぎだからだ。反逆者の密告である。

アルファコンプレックスには敵が多いとは、その運営者たるザ・コンピューターの見解だ。かの人工知能によると、まれに発生する都市の機能不全は、すべて反逆者の仕業だという。都市の機能不全は市民のみならずザ・コンピューターをも脅かす。この運営者たる機械はセキュリティクリアランスを問いつつも、市民からの告発を高く評価した。——そして、まれとは頻繫ということなので、私は多少の証拠と名前をあげて、ザ・コンピューターにささやき続けた。

誰でもよかった。私にとっても、人工知能にとっても。誰を密告しても反逆者は減らない。反逆が減らないからだ。都市が機能不全を起こし続けるからだ。

アルファコンプレックスは、ひいてはザ・コンピューターは、とうの昔に壊れている。故障を判断できないほどに故障している。アルファコンプレックスの機能不全について、ザ・コンピューターは決して己の非を認めない。かわりとばかりに妄想するのだ。アルファコンプレックスは呪われたテロリストの標的にされている——。

いずれにせよ事実としてアルファコンプレックスに安全はない。

「何にせよ問題が起きているんだから、その解決が急務になった」

「それがトラブルシューター?」

「そう。低クリアランス市民に押しつけられた仕事。レッドになった私に割り当てられた仕事。昇格してから一か月、毎日のように任務を与えられて、毎日のようにチームメイトを与えられて、ある日、私もすべてのクローンを失った」

安全のないアルファコンプレックスの危険に対処させられるのだ。トラブルシューターは常に命の危機に瀕している。そのうえザ・コンピューターの状態は言わずもがな、上司は上司で成果の横取りに腐心し、たとえチームメイトだろうと点数稼ぎの機会を望んでいる。

レッド市民になろうとも、トラブルシューターになろうとも、反逆者の密告そして処刑は、確実な手段で義務だった。ザ・コンピューターは告発を疑わない。アルファコンプレックス市民はザ・コンピューターによって完全に完璧に設計されている。よりにもよって市民が虚偽の報告などという反逆的な行為に走るはずはないのだ。仮にそのようなことが起きたとすれば、その者は市民ではありえず、ダイブスに感染しているか、秘密結社のメンバーか、テロリストか、ミュータントか、すなわち反逆者だ。

「で、おまえも反逆者として処刑されたと」

「六体中三体だ」

残る三体は事故にあった。ただの一日でととらえるか、三か月は活動できたととらえるか、肉体は成年を迎えていたととらえるか、今まさに十四、五年を生きているととらえるか。

死を確信したはずが、この世界で再び覚醒した。十四、五年前、私は成年どころか乳児期さえ脱せていない赤子だった。クローン槽は影もなく、かわりに両親が存在していた。上を見れば空があり、下を見てもセキュリティクリアランスがない。しかしミュータントパワーが備わっていた。私はいまだにミュータントだ。両親だという個体たちはミュータントパワーを備えていないのに。

「赤羽は暗殺を命じるべきだった」

私はスカートの汚れを払って腰を浮かせる。

「やっぱり殺せんせーは殺さないんだ」

赤羽は座ったまま出入口を塞いでいる。

私は赤羽の真正面に立った。

「アルファコンプレックスは未来の地球だ」

その黒色のカーディガンをはっきりと見下ろして。

「あんな末路をたどるくらいなら人類は滅んだほうがいい」

——勝算があるから提案できる。勝算があるから提案に乗れる。


「やっぱり、おまえ何もわかってない」


見下ろしたところで黒色のカーディガンが言った。

「何も」

「何も」

私たちは繰り返した。

「俺が何をかけてたと思ってる」

「嫌いな相手の弱点」

初めから目星はついていた。いくら暗殺教室でも生徒間の殺人は非常識でたいへんに困難を極める行為だ。いくら暗殺に失敗しようとも、烏間先生は言わずもがな、ビッチ先生とて最高峰の潜入暗殺者だ。そして誰よりマッハ二十の触手生物。あの担任教師はなぜか命懸けで生徒を教えている。あの殺せない先生が命懸けで生徒を守っている。彼らを出し抜くためには、それこそシロのような手段をとるしかない。

だから手段は問題ではなかった。クラスにシロを好いている者はいない。赤羽は元よりそれほど非常識な人間でもない。殺すといって彼にとれる手段は初めから限られていた。

黒色のカーディガンが肩を震わせる。

「冗談でしょ」

「そうだね」

たしかに私は何もわかってはいなかった。問題は手段ではない。

「動機だけが、わからなかった」

「そう」

赤羽は目を伏せた。

「修学旅行、覚えてる?」

「京都旅行だった」

「おまえは高校生に襲われてた」

「そういえば、そんなこともあった」

「ミュータントパワーを使ったんだ」

赤羽は確信とともに吐き捨てた。へえ、と私は相槌を打つ。

「私が自ら性的暴行を受けるために?」

「——そう」

「あいつら獣と変わらなかったけどな」

「そう、時間の問題だった。だからだ」

赤羽が顔を上げた。私は両手を上げた。

「神崎さんと茅野さんには言うなよ」

「俺はおまえほど悪い趣味してないから」

言わないでいてくれるらしい。ありがとうと形式的に礼をしておく。赤羽は何も答えなかった。ここからが本題なのだ。

「おまえのミュータントパワーには精神に作用するものがある」

「たしかに京都では連中の性欲を突いてやった」

精神感応テレパシーという。単純なものなら簡単に思考を読んだり暗示をかけたりすることができるミュータントパワーだ。

「今日この場所では」

「おまえの記憶を消してやる」

相応の気力を消費すれば、深い思考を読みとったり、巧妙なうそを植えつけたりすることもできる。この技術を元に、記憶を操作することも可能だ。私のミュータントパワーはアルファコンプレックス市民だった頃より大幅に強化されている。

赤羽は笑うように息を吐いた。

「本当に何もわかってなかった」

「さっきから、そう言ってる」

「俺の心も読めるはずなのに。おまえの、そういうところが嫌いだ。おまえが、それでも構わないと言えるから。おまえは誰も信じてない」

「『誰も信じるな』——アルファコンプレックスで得られる数少ない教訓だ」

「ここはアルファコンプレックスじゃない」

黒色のカーディガンが座ったまま背筋を伸ばす。

「俺は誰にも話さないよ」

「もう命令は聞かない」

「これは命令じゃない。最後に一つ頼んでるだけ」

「なおさら聞けない相談だ」

「今日この記憶を消さないでくれるなら、暗示をかけてくれてもいい」

赤羽が腰を浮かせた。私は思わず一歩、下がった。

「何をバカなことを」

そして僅かに見あげた。赤羽の顔がそこにある。

「私は、目障りな存在を忘れさせてやる、なかったことにしてやるって言ってるんだけど」

表情はわからなかった。

「そんなこと頼んでない」

「そこまでして暗示にかかりたいのか」

「そこまでして今日のことを覚えておきたいんだ」

ただ、私を見下ろしていた。

「おまえに何の得がある」

「逆に俺が聞きたいんだけど。この話を続けることに、おまえは何の得があるの」

——冬の外気がこの洞穴にも流れ込んでくる。夕方、帰り道、その外れ。いつもとは違ったが、一人ではなく、息を吐くと白色が浮かび、一瞬で霧散する。

私は答えられなかった。

「俺の記憶を消せば、この会話はここで終わり。全部なかったことになって、まあ俺の体はおまえがどうにかして移動させるんだろうね。殺せんせーにも誰にも気づかれないうちに、おまえも俺も家に帰って、次の朝、教室で会うんだ。まるで何事もなかったみたいに。おまえは胡散臭い顔で笑って、けど俺は二度と気にしない。一年くらい接した程度の、隣の席のクラスメイトだ」

私は答えられなかった。

「おまえは知りたいんだ」

赤羽が一歩、踏み出した。

「俺なら教えてやれる」

私は一歩、下がろうとした。

「信じられないなら取引しよう」

赤羽は目を細めて、視線を落とす。

「手始めにそのタイツ、明日までにインフラレッドにしてきてよ」

アルファコンプレックスは階級社会だ。市民は絶対のセキュリティクリアランスによって分かたれており、色で区別することができる。電磁スペクトルの色に基づき九段階。まずは可視光線からレッドオレンジイエローグリーンブルーインディゴバイオレット。さらにレッドの下に赤外インフラレッドバイオレットの上に紫外ウルトラバイオレット赤外インフラレッド紫外ウルトラバイオレットはそれぞれ黒色と白色で区別される。

色がすべてだった。

気づけば寝台に背中から倒れていた。白色の天井だ。私の部屋だ。家に戻ってきたのだ。

私は部屋着に身を包んでいた。制服はハンガーにかかっており、ブラウスや靴下はすぐには見当たらない。かわりに軽度の満足感があった。入浴も食事も済ませた後のようだった。食べた物も、入った時間も思い出せないけれど。

いや、私はどこを歩いたのだろう。何をしてきたのだろう。どうして歩いてどうして、なぜ、これほど時間が経過したのだろう。なんだか記憶が曖昧だ。何か返事をした気はする。それより先にクラスメイトの所持品を修理したのだったか。ああ。

体を起こしたくなかった。めったに抱かない怠惰の念に、しかし今だけはあらがわなければならない。クソダルい。ああ。かような語彙は内心に浮かべることすら禁じていたはずだった。

やっと座ることをしてみると、ようやく通学鞄が目につく。学習机の側面にかかっていることは不自然ではない。少なくとも怠惰に身を任せて、すべてを放り投げてここに至ったわけではない、ということか。だが確認はしなければならない。明日の用意を済ませたかさえ、私はまだ思い出すことができない。ああ。また禁じていた言葉が、素直に脳裏をひらめいた。

たいそうな時間をかけて、足を床に着けることをした。すると、歩くことは簡単で、たやすく鞄の前にたどり着く。授業の準備は済んでいた。予習も復習も筆記用具も。そして、しおりの挟まった本。今朝、教室で閉じたときから、ページが一つも進んでいない。私は音を立てて閉じた。時計を見ると、午後十一時。結局あのまま寝ていてもよかった。だが再び寝台に身を横たえる前に——最後に、床に放置された紙袋を拾った。

有名なブランドの、有名なロゴ。今朝、出発したときには存在しなかったそれ。寄り道のことも、帰り道のことも、クラスメイトへの返事の内容も、何もかも忘れてしまいたいが、どうしても中身を確認しなければならない。

結局、私がどちらを選択したか。

自室に戻ってすぐ、椅子に座って端末を確認した。私あての通知は一つもなかった。

袋の口はテープをはり直されていた。ブランドの色のついたそれを今度こそは剝がしてしまう。ごみは、面倒になって手の平で燃やした。できない灰には構わなかった。問題はその先だ。薄く開かれたその奥の、一面の白色の。

朝、いつもの電車に乗って、同じ学校の制服を探さなかった。だが、いつものつり革につかまった。静かな通学電車だった。静かな通学路だった。クラスメイトは一人もいない。元より狙った時間帯だった。誰かと約束でもしない限りは、偶然にだって道を共にする者はいるはずがない。

クラスメイトは十二月も半ばの朝だというのに、山の上のグラウンドでスポーツに励んでいた。さらに教室にも窓越しだが、大勢の姿が見える。誰も彼もが参考書を開いているわけでなし、机にかじりついているわけでなし、手放しに誰かの机にたむろして、今日の話題で盛り上がっている。なんだか懐かしいような光景だ。そして正しく記憶を遡れば、たしかに一つの戦いが終わったばかりだ。

特に誰と会うこともないまま校舎に入り、教室へ。無言で席へ向かうと、前の席には奥田さんが、隣の席にはイトナくんが、それぞれ専門書や電子工作に向かっていた。荷物を置いてみると、声をかけるまでもなく二人共が顔をあげた。おはようと挨拶をする。おはようと返事をされる。そのままイトナくんだけが続けた。

「イメチェンか」

「そんなとこ」

私は何でもないように返した。イトナくんはそれきり作業に戻った。奥田さんはまだ私を見あげている。座れば、また視線も着いてきて、

「何を読んでるの」

「あっ、はい、血液の本です。テスト勉強中に急に気になっちゃって」

「でもテスト前だから迂闊に読めないっていう」

奥田さんは首を大きく縦に振ると、先生のおすすめなのだと言って、本をこちらに開いてみせる。ここの記述がおもしろくって、前のページにはこんなことが、さらに前の記述と合わせると、つまりこれはどういうことでと。楽しげにページを前後させて、併せて私も相槌を打つ。専門的に広がり続ける話題は、この席では特に珍しくもないことだ。私たちはひとしきり盛り上がって、それから奥田さんがアッと口を開いて、すぐに結んで、また開いて。

「——あの、そういえば。今日は一緒じゃなかったんですね」

「——俺ら、いつも一緒ってわけじゃないよ」

視線は左にそれた。私は抱えたままの鞄から本をとり出す。おはようと声が聞こえた。私は本を開きながらおはようとこたえた。しおりを頼って、四十ページ。

「うわ、しおりまで黒くなってら。何、イメチェン?」

まるで悪巧みが成功したみたいな声には、心底から嫌そうな表情だけつくって、

「カルマ、それもう言ってもらったから」

私はページの端を指でつまむ。