第141話「終業の時間・2学期」から第142話「迷いの時間」まで

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一月、又は初詣

静音が売りの空調設備は最善を尽くしていた。室内の空気を最適に維持することが役目とあって、たとえそれが一月の午前でも、命令されれば実際との著しい差を埋めた。そのために内外の機器は必要なだけ働いたが、睡眠や読書を妨げられたことは一度もない。今だって私は部屋着一枚で椅子に腰かけ、機械のことは忘れてしまっていた。ヘッドフォンで音楽を聴くこともしていたのだけれど。

読書をすると伝えたら、ただのそれだけで端末は音量を自動調節して、環境音楽の再生リストから楽曲を再生し、一方で状況に不適切な通知を減らした。どれも標準のプリセット機能のようだが、実はモバイル律の操作によるものである。

転入早々に反抗期を迎えたあの人工知能は、本体からモバイル版に至るまで大した問題も起こさずに、適切にクラスメイトを補助している。プライベートなバックアップも、プライベートな端末も、ますますその数を増やした。強いて何かあげるとすれば、今は懐かしき十月の事件か。ビッチ先生を助けに行ったはずが、私たちまで捕らわれて、脱出劇を試みたら、モバイル版を無力化されてしまった。

それだけのことだ。あれ以来、人工知能は安全対策を大幅に強化した。新たに対策を破られた話は聞いていないから、ミュータントにあうようなことでもなければ、しばらくは「安全」なのではないか。ともあれ、この人工知能はよくも悪くも決して余計なことをしない。

「カルマくんからです。読みあげますか」

よって、この通知は余計なものではない。ここでうなずけばアプリはただちに解析を始め、差出人の資料も参照するだろう。音読で表情や口調を再現するためだ。モバイル版以前から備わっていたこの機能は、また一段と精度が高まっている。特に今回の相手はクラスメイトだから、膨大な資料がそろっているはずだ。その再現は一段と完全に近くなる。

想像するだけで鳥肌が立ったから、当然に私は首を横に振った。画面だけが切り換わり、短い文章が表示される。直前、少女の形をしたアバターは苦笑してみせただろうか。

読み終えるまでに、さしたる時間はかからなかった。いかに理解しがたい内容であっても、さすがに最低限は日本語として体裁が整っている。さすがに。だが、わざわざ単語を抽出して、意図を読み解く作業が発生したため、総合的にはマイナスだ。

画面上部の現在時刻を確認すると、午前九時過ぎ、朝食を終えて二時間足らず。恰好は部屋着、身だしなみは最低限、自宅から駅までは十分強。まったく。今日も今日とて読了と食事と他最低限の生活を除いては、机から離れるつもりもなかったというのに。

「『OK』って返事しといて」

新年最初の遊びの誘いは、初詣になったらしい。

午前十時を迎えるより少しだけ早く、自宅の最寄り駅に着いた。まるで登校するように改札を抜けながら、プラットホームにも立たないうちにクラスメイトと合流する。

「あけおめー」

黒色の外套が軽薄に手を振った。まるで通学路で出会ったみたいに。だが当然にのぞくズボンは制服ではなく、袖の下もワイシャツではない。それに、通学に外套を要するようになってから、まだ朝の通学路で遭遇したことはない。

「あけましておめでとうございます」

私が一段丁寧に返してやると、カルマは値踏みするように私を見た。

「おそろいじゃん」

「そういう取引だった」

「またまた。俺はタイツが似合ってないって言っただけ、何から何まで合わせろとは言ってない」

「浴衣にいちゃもんつけられたこと私まだ覚えてるから」

やがてカルマが前に出た。先導するように歩き始めて、朝はめったに使わない道を進む。指摘しようかと思ったが、案内板を確認してまで前進を続けるので、黙って後に続くこととする。と、朝は使わないプラットホームに着いた。初詣と聞いたけれど、場所は椚ヶ丘神社ではないようだ。ちょうど一年ぶりにあの浴衣を着て参加した夏祭りの会場だが、

「あそこ駅から遠いじゃん」

隣から問えば、振り向きもせずにそう答えられた。私は追及しなかった。たしかに夏祭りの日は相当に歩いた記憶がある。クラスの半数と駅に集合して神社まで。いや、それ以上に歩かされた記憶もあるのだが。ちょうどと言えばちょうどこの輩に連れ回されて、花火までご一緒する羽目になった記憶だ。

今くしくも同じ相手に連れ回されようとしている。一年に一度の白色の浴衣ではなくて、同じ色の外套をまとって。

なんだかな。

毎朝とは反対側のプラットホームに立っていると、ひどく妙な心地がした。べつに初めて利用するわけではない。帰り道はこのプラットホームに降り立つわけで、元より逆方面に向かうことは、一人でも家族とでも何度でも経験がある。とはいえ、その観点で言うならば、このクラスメイトとの移動は初めてだった。二か月も登校時間が重なったくせに、これだけのことで違和感を覚えるとはそれもまた妙なことだが、それとも、テスト以来、重ならなくなったからなのだろうか。

電車の到着を待つ間、お互いイヤホンをつけることはなかったが、積極的に会話をすることもなかった。ただ無言で、私はいくつかのことを考えて、ちょうどアナウンスが到着を知らせる頃、今日一番の重要事を思いつき、久しぶりに口を開く。

「他とはどこで合流するの」

「『他』」

カルマは首を傾げた。何のことやら、という顔だ。まるで心当たりがない、それどころか何を問われているかもわからないと言わんばかりである。しかし、まもなく、わざとらしく手を打つと、

「二人で行くんだよ」

と言った。

「は——?」

電車が走ってくる。続く轟音に、反論がかき消される。やがて扉が開いた。何とも言うことができないうちに、乗り込まなくてはならなくなり、こんなときばかり座席も空いている。私たちはなるべく入口から離れた所を選び、並んで腰かけた。聞いていないなどという自省もんくはたちまち機会を逸して——いや、車内は休日らしくにぎやかだったが。

しかし。本当の理由を避けたところで、幾らでも言い訳は選べただろうに。

駅から遠いとは、どこまでも見え透いたうそだった。

最終的に、都の東側で電車を降りた。ここには、正月になると毎年のように報道されるような神社がある。それほど有名なだけあって、道いっぱいの行列は敷地の外まで伸びていた。ここまで来たら引き返しやしないが、さて同行者はどうかなと横を見たら、彼は進んで最後尾に着いていった。

椚ヶ丘から遠く離れてしまった。学園の生徒が一人も住んでいないとは言わないけれど、クラスメイトは一人もいない。たしかに進学実績は優れているが、同様の実績は都内を探せば見つかるのである。あとは通学距離を増やしてまで、創立十年という新しさを選ぶかだ。

私たちはすぐに最後尾でなくなった。人混みにもまれながら、少しずつの移動を繰り返す。読書で暇を潰すことは不可能ではないが控えておこう、といったところだ。一般的には現状は、はぐれる危険性を秘めていた。

「めんどくせー」

十分ほど移動したところで、自ら長蛇の列に加わった同行者が愚痴を吐くようになった。

「ここ選んだの、おまえ」

「そうだけど」

まったく。文句を声に出すくらいなら、別の神社もあっただろうに。もっと知られていない、もっと大きくない、もっと遠い——。

「せっかくだしデカいとこ行っとくかって」

カルマが道の脇に顔を向ける。交通安全、厄除開運、学業成就。御利益の記された、のぼり旗だ。カルマはそれらと私を交互に見た。

「あ、おまえには関係ないか」

「呼び出しといて、よく言うよ」

私はあきれて息を吐く。と、十メートル先の拡声器から声が響いてきて、私たちは口を閉じた。再び列が動くという。正面を向いて、やがて一歩、二歩、三歩。ゆっくりと前進して、それだけで停止させられたが、カルマは文句もつけずに従った。もちろん従わなければ、大行列で大顰蹙を買うか、大行列に踏みつけにされ続けるかだ。

それが、ただ黙り込んだだけのことだと気づくとき、私は再び前進の合図を受けとっていた。

「なんで来たの」

わざわざ拡声器にかぶせられた声も、ミュータントの耳にはよく届く。歩きながら横目を向けると、カルマは顔をそらすように外を見ていた。視線の先には、何の変哲もない貸しビルが建っている。一階に事務所、二階に事務所、三階に事務所といった塩梅の。仕方がないから返事の時は、ヒトの耳を考慮してやって、

「呼び出されなきゃ来なかった」

動きが止まってから答えてやった。カルマは正面に顔の向きを戻した。

「急な呼び出しだったでしょ」

まるで応じてほしくなかったような物言いをした。

「冬休み、正月、そもそも俺ら受験生。三つ四つどころじゃなかったと思うんだけど」

「ま、そうだな」

たとえ以前の私であっても、態度には罪悪感をにじませながら進んで辞退しただろう。断る理由さえあれば、カルマからの誘いなどいつだって断りたかった。もちろん現在の私なら理由がなかろうと断れることを、もちろんカルマは知っている。だが、

「冬休み引きこもってたら、親がクソほど心配してきたの」

食卓で手を合わせたら、予定を聞かれた。いたって平凡な質問のようで、もう毎朝、たとえ正月三が日だろうとも。私は毎朝、返事をする。ちょうどカルマがあげたように、みんな冬休みだから正月だから受験生だから、と。きっと苦しい言い訳に聞こえた。

今年いや昨年は、何かにつけて外に出た。模試があろうがなかろうが、週末だろうが夏休みだろうが。半分は勉強、半分は暗殺。当然、両親には、暗殺の件は伏せて伝えていたけれど。それに比べたら、この冬休みは異常だったかもしれない。学期末に学校で何か起きたのだろうかと、勘繰られても無理からぬ落差だ。まさか二度と訪れないかもしれない年末年始を家族で過ごしたいだろうからとは国家機密のために言えないわけで、実際、何か起きたところでもある。

新年の挨拶を除けば、今朝のカルマからの呼び出しが、この冬休み初めての連絡だった。当然、学校には行っていない。モバイル律の言葉では、他のクラスメイトも敷地に近づくことさえしていないという。

「そう」

カルマは短く言葉を切った。どこか納得したように、どこか落胆したように。

「どうせ断られると思ってた」

断られることを期待していたような言い草だった。

「なら最初から連絡すんな」

私はそう言いながらも、カルマの言動について、つじつまを合わせてしまう。

「だから、なんか急だったのか」

「三十分後の約束なんか、一も二もないだろうなって」

列がまた動く。

「当てが外れて残念だったな」

「本当それ」

失礼なやつだった。椚ヶ丘から、いや旧校舎から離れたかったなどということは、絶対に言いたくないくせに。

「道理で二人きりになるわけだ。渚くん寺坂くん奥田さんは、誘えば来てくれるはずだもんな」

「——わざわざ言うことある?」

「——おまえが、わざわざ言ってくれそうなことだろ」

前に進んだら、私たちはいよいよ鳥居をくぐる。


先生は「死神」と呼ばれた殺し屋だった。かつて生徒にはぐらかした答えを、この冬休みの直前になって、自ら明かし、過去を語った。どうしてこの教室に来たのか、どうして怪物になったのか。それは二年弱の人体実験から、拾い育てた弟子の裏切り、果ては生い立ちにまで及ぶ人生と後悔の話だった。最後まで話したくなかったと吐露されたそれを、茅野さんが打ち明けさせた。

茅野さんは転校生暗殺者だった。政府の手によるものではないが、四月の新学期の最初の日に、自らE組を訪れたのだ。ビッチ先生も烏間先生も正体を知らなかった。それもこの冬、長期休暇直前までのことだが。彼女は満を持して殺しにかかり、失敗すると秘密を打ち明けた。つまり、すべてはあだ討ちのためであると。

長らくのクラスメイトの豹変と、併せて人殺しの告発によって、さすがに先生としても話さざるを得なくなったというところが実情だ。

そして二人の告白はクラスメイトたちに決定的な一撃を与える。

——鳥居をくぐると道が分かれた。細く脇道にそれていく流れは、手水舎へと続くものだろう。参拝前に心身を清めるのだ。いわゆる作法の一つだが、全員がとり組んでいる様子はない。私もまっすぐ賽銭なり参拝なりに向かいたいところである。だって手水舎の水は冷たい。

「え、やらないの」

カルマは僅かに眉をあげた。私も同じ仕草をしたことだろう。

「え、やるの」

さも意外そうに。

「こういうの面倒臭がる人だったんだ」

「おまえこそ面倒臭がると思ってたよ」

しかし同行者は作法に従う道を選んだようだった。ちょうど「立ち止まらないでください」の声も響いた。こうなったら逆らうほうが面倒だ。渋々と後に続いたら、同行者に顔を見られて、かと思うと「うわ」と声が上がった。

「すっげー嫌そうな顔」

「そこまでじゃない」

「いやいや、そうは見えないって」

カルマはからかい交じりに笑った。「まっ」とわざとらしいまでに表情をはりつけて、

「せっかくだから、やってこーぜ。大丈夫、大丈夫、ちょっと水が冷たいだけ——」

「——だから、そんなんじゃない」

手水の列は大行列に比べたら細く短く、すぐ私たちの番が来る。

右手で柄杓の柄をつかんで、冷水をくみ上げ左手にかける。次は左手で右手に冷水をかけ、再び右手で柄杓を持つと、左手にためるように冷水をこぼす。そのまま左手の水で口をすすぐと、今度は柄杓を持ち替えずに、改めて左手に冷水をかける。最後は柄杓を立てるように、両手で持って水をこぼした。

とまあ、粛々と済ませれば、こちらもすぐに終わるような作業だ。カルマも私より少し早くに、柄杓を伏せて後ろに下がった。私も同じく戻して下がり、冷たくぬれた手はハンドタオルで拭う。そうして、かじかむ手をもんでいると、その手元をカルマがじっと見てきた。あちらは、すでに水気も拭き取ったようで、両手を外套のポケットにしまっている。

「何」

「面倒臭がった割に、ちゃんとやってたじゃん」

「それが作法ってもんだろ」

「そういうもんか」

「そういうもんだよ」

それから二人で列に戻った。大行列は大行列のまま、合図とともに少しずつ前進する。いよいよ数十人の先に、参拝の様子がわかるようになると、カルマは財布をとり出した。

「五円玉ある?」

「あるよ。持たされたから」

私も財布をとり出し開く。小銭入れの中には五円硬貨が五枚も入っている。お友達が困っていたら渡してあげなさいと、財布をひっくり返してまで持たせてくれたものだ。実際にはこのクラスメイトと二人きりで、さすがにこいつは用意がよい。これが寺坂くんや杉野くんなら役立つ場面もあっただろうが。

私たちはそれぞれ自分の硬貨を握り締め、とうとう一つ前の組が賽銭箱の前に立った。硬貨が落ちて、頭も落ちて、手が合わさって、次の組へ。つまりカルマと私の番である。

箱が社殿の前に置かれている。握った物を適当に放ると、それは吸い込まれるように奉納された。ひゅうと口笛が聞こえてくるようで、現実にはカルマの五円硬貨が同じく綺麗に入った音がする。

私たちは示し合わせたわけでもないのに、二人でそろって姿勢を正した。共に頭を下げると、まるで教室のようだった。教室では二礼も二拍手もしないけれど、両手を打った音まで重なる。そして両手を合わせたまま、一秒、二秒。カルマは何を祈ったのやら、たっぷり六秒たった頃、両手を下ろす気配がしたので合わせ、再び共に頭を下げた。教室で礼をするよりずっと深く。

祈ったとか祈らなかったとかの話はしなかった。ただ次の組に場所を譲って、周囲に合わせてゆっくりと歩いた。カルマは私が祈らないことを知っている。私はカルマが念じたことを知っている。かつてそれは目標だった。三年E組の目標だった。三月までに先生を殺す。ただそれだけのことが、この冬まで生徒を強固に結束させた。この冬休みの直前まで。

この冬も暗殺旅行の計画があった。夏休みのように学校制度を利用したものではないが、夏休みの暗殺が「奥の手中の奥の手」を引き出したことから、冬休みはすべて政府から予算が下りる。外部進学のE組は受験を控えているものの、いや、だからこそ冬休みで殺す心算だった。過去形である。今となっては。旅行は立ち消え、そして目標までもが揺らいでいる。

正体が判明しても、地球の未来は変わらない。昨年三月、月面で実験動物がそれを証明した。先生が受けた人体実験は、あと二か月で彼を爆破する。暗殺されてもされなくても、彼は三月十三日までに死ぬ。それでも彼はこの教室に来た。余命一年を暗殺教室に費やした。どうしても。それが恩人の遺言だったから。人体実験の日々で出会った彼女は、主任研究員の婚約者で、危険な実験体の監視者で、しかし互いに身の上を語るまでに至った相手で、歳の離れた妹を持ち、昼間は中学校の教師として働いていた。

先生は前任教師に私たちを託されたのだ。そして、そのためだけに命を懸けているのだ。最初から最期まで。

どうして怪物になったのか、どうしてこの教室に来たのか。クラスメイトたちはいざ答えを知ると、人類存亡の危機をより克明に理解するとともに、暗殺しないという選択肢を思い浮かべてしまったようだった。——先生に死んでほしくない、と。

「ねえ」

カルマは前を見たまま言った。行く手には参拝とは異なる人だかり。それは立ち並ぶ天幕の前に複数の列を成しており、またそうでない人々は一様に手元をのぞき込み一喜一憂の表情を浮かべる。

「何、最後の三か月弱を二百円で占おうって?」

「バッカじゃないの——正月なんだから今年一年を占うんだよ」

ということで、これからの十二か月間を二百円で確かめてみた。一緒に並んで一緒に引いて一緒に広げて、

「中吉」

「大吉」

にらまれた。私が運気を操作したとでも言いかねない眼力だった。ぬれ衣だと言っておいたが、彼はミュータントパワーを知っている。そして私はたしかに豪運アンキャニー・ラックを持っていた。話したことはないけれど。元よりミュータントパワーの発動は、ヒトの身で証明できるような事象でもない。

「私の勝ち?」

「勝負とかしてないから」

それから私たちは再び売店に並んだ。今度は別々の列に並んだ。どこに並んでも品ぞろえは変わらない。私は千円を支払って、合格守を一つ購入する。

そうして列から離れ、少し待つとカルマが買い物を終えた。少々時間がかかったようだが、変わった荷物は見当たらない。当人も何も言わないから、私も特には聞くことなく、そのまま売店を離れてしまう。足は自然と帰路に向かった。砂利を踏んで歩いて、やがて二人で鳥居をくぐる。——直前になって、カルマが口を開いた。

「最初から全部わかってたんじゃないの」

「まあ初めて顔を合わせたときにわかったことはあったよ、お互いに」

私たちは足を止めずに歩き続けた。

「私たち、修学旅行で同じ班になったよね。おまえが渚くんに誘われて、私が奥田さんに誘われて」

「え、おまえが奥田さん誘ったんじゃなかったの。——あ、でも、そっか。おまえが渚くんの班を選ぶわけないか」

「高確率でおまえがついてくるからな」

「ってことは奥田さんは——茅野ちゃんが誘った」

「そういうこと。で、そのまま奥田さんをけしかけてきたの」

「ふうん、『けしかけて』ね」

べつに、背中を押して、と言い換えてやってもいいが。茅野さんはよく人を見ていた。多かれ少なかれ奥田さんの気持ちも察していただろう。

「何も全部が私を班に引き入れるためだったとは言わない。けど、奥田さんが私を誘えば儲けもの、くらいには思ってただろうよ。実際、奥田さんは私を誘ってくれたし、あれ以来、一緒に過ごす機会は増えた。お互いに、余計なことを言わないようにね」

そして私たちは互いに「余計なこと」を言わなかった。余計なこと。些末なことだ。私たちがある種の演技をしていたことは、私がミュータントパワーを隠していることと比べたら、茅野さんが触手を隠し持っていたことと比べたら、本当に些末なことだった。しかし、すべてを水の泡にする可能性を秘めていた。そのことを一目で看破した私たちは、同時に看破されたことをも理解して、暗黙のうちに協定を結んだのだ。

些末な秘密を暴露しない。余計な詮索も一切しない。だから茅野さんは私がミュータントであることは今も知らないだろう。私が茅野さんの触手を知らなかったように。

「その結果があれだ」

歩きながら、カルマは冷たく言い放った。その責めるような声色については否定しないでおく。

触手を隠し持っていたということは、単に容器に保管していたということではなく、実に半年以上も改造人間であることを隠していたということだ。つまり茅野さんはおおむねイトナくんと同じ状態だった。シロの手によるものではなかったが。だからメンテナンスも受けずにいたという点においては、最も状態が悪かった時期のイトナくんと同じだったとも言える。

とはいえ茅野さんの暗殺は過去の誰より賞金首に迫った。失敗という結果だったが、それは彼女の命を危ぶんだ先生と生徒の協力によるものだ。そして触手は無事に摘出され、さすがに入院することにはなっても、始業式には問題なく出席できる見込みだという。

「あれだけの危険を冒して全治二週間。休み明けには暗殺訓練にも参加できるって話だったか」

「そうでなきゃおまえを——」

カルマは何かを言いかけて、そこで、はたと顔をあげた。駅の入口だった。彼は足を止めなかったが、速度はやや緩められる。考え事がある様子だ。私は尋ねはせずに、携帯端末をとり出して、時間を確認する。それだけで端末をしまうと、再び同行者が口を開いた。

「飯、食わね?」

つぶやくような声量で。

「いいよ」

私はこたえて、足の向きを変える。


私たちは通りに出た。駅周辺にも神社周辺にも飲食店はあるが、どちらからも離れるように道を進む。すると街は一気に閑散としてきた。前にも後ろにも人の姿がなく、右でも左でも店が閉まっている。東京といえども正月である。結局は数駅程度を歩いたところで、チェーンのファストフード店などに入ることになるだろう。数駅程度を歩いたところで、私たちの話が終わったところで、だ。

カルマは白い息を吐いた。

「おまえは最初から全部わかってた」

茅野ちゃんのことだけじゃない、と。私がものを言うより先に、昨年の事件を振り返るように。沖縄で盛られたときだけじゃない、と。

「京都で高校生に襲われたとき、そうなる前から、狙われてたことを知ってたんじゃないの。シロのこともわかってたはずだ。プールの爆破、下着泥棒の真相、イトナが捨て駒だったことまで」

「今さらそんなことを責めたいのか」

「ああ、そうだね。あんなの結果的に助かっただけだ。花屋が殺し屋だったときも、ビッチ先生が寝返ったときも。俺らは死ぬかもしれなかった。おまえも何かしなきゃいけなかったんじゃないの」

「そうかもね」

十月に花屋を装った殺し屋は、誘拐した英語教師を籠絡した。英語教師の救出に向かった私たち、そして私たちの救出に向かった担任教師は、まんまとおりに捕らわれる。格子は対触手物質で加工されており、尋常な手段による脱出は困難だった。そのうえで、そこに大量の水を流し込むことで、触手生物の肉体を対触手格子に押しつけ、ところてんのように切断するという暗殺計画だ。

結果的に殺し屋たちの計画は失敗した。烏間先生が殺し屋を倒したのだ。私たちは水に脅かされることなく外に出られて、ついでにビッチ先生も教室に戻ってきた。結果的には。

「けど、何もしなかった。正体を隠すためなら周囲の人間を見殺しにできるからじゃない。おまえは京都でいざ高校生にさらわれたら、身を挺してクラスメイトを守った。殺し屋でもない高校生なんかを相手に、わざわざ力を使ったんだ。だから——そうする必要がなかったんだ。だから何もしなかった。『結果的に助かる』って、わかってたんでしょ。殺せんせーが必ず俺らを助けてくれるって」

そしてカルマは口を閉じた。ひゅうと風が吹き抜ける。ちょうど私たちの間を、冷たい空気が通り過ぎる。その行方を追ってみたら、自然と空を見あげる形になって、真昼間から三日月が視界に入る。もはや驚くことではない。だが隣の同行者も同じ場所を見あげていた。足が止まって、私は白い息を吐く。

「おまえは妙に回りくどいな。——わかってたよ。最初から全部、とは言わないが。いずれにせよ、そんなことは今さらおまえに隠すことじゃない」

「殺せんせーが話さなきゃ言わなかったくせに」

「先生が隠すのをやめなきゃ、聞こうとも思わなかっただろ」

「——おまえが妙に殺せんせーを信頼してる風だったのを、もっと疑うべきだった。おまえは誰も信じない。それは殺せんせーだろうと例外じゃない。おまえは殺せんせーの正体を知ってたんだ」

「お互いに、わかったことはあったよ」

同じ教室で過ごすうちに、私は先生のことを把握していった。同じように先生も私のことを把握していった。すべてではない。ただ、私は先生に地球を壊してほしかった。だから個人的に先生を殺さなかった。先生は生徒に自分を殺してほしかった。だから積極的に怪物としてあり続けた。

「もうわかってると思うけど、生徒の殺意が鈍ったら、暗殺教室は簡単に崩壊する。だから私も先生を怪物として扱った。先生が私を生徒として扱ってくれたから。個人的に暗殺しないことを、とやかく言わずにいてくれたから」

それだけの協力関係だ。

カルマは口を閉じてしまって、何も言わずに歩き出した。私も追うまでもなく着いていく。だから渚くんや奥田さんを誘わなかったのだろう、とでも言ってやればよかったか。だが、私は次にカルマが口を開くまで、何も言わずに歩き続けた。

いくつもの店を通り過ぎた。いくつもの店が閉まっていた。いつか通り過ぎたばかりのファストフード店から、五人組の客が出てきた。私たちと同年代のようだった。彼らは午後の予定を話しながら、私たちに背を向ける。足音と一緒に話し声が遠ざかる。それらが十分に聞こえなくなったところで、

「おまえってさ、結局いくつなの」

そんなことを尋ねられた。

「体感のうえでは十五歳かな」

我ながら妙な言い回しだが、元より妙な問いかけで、カルマは前の私のことを知っている。アルファコンプレックス市民がクローン槽で教育を受けることも、十二月の期末テストの後に話してあった。前の私は成年になって初めて意識と自我を知ったのだ。

「ああ、でもアルファコンプレックスの成人年齢を教えてなかったのか。正直、実感はないが、前の私は十四歳だったらしい」

したがって厳密に計算すると、二十九歳ということになる。

「そっか」

反応に困ったのか、カルマの返事は短く小さかった。

まあ二十九歳となると、E組生徒つまりカルマと比べて、ほぼ倍だ。教師陣でさえ担任教師はともかくとして、英語教師が二十、二十一歳、訓練教官が二十八、九歳。たしかにカルマとまったく同年代という気はしない。しかし烏間先生と同年代だという見方はともかく、二十九年を生きた自覚も持てない。あくまで覚醒してからの約十五年——前の私が拡張クローニング施設を出てからの三か月と、その次の私のこの十四、五年が、私の活動した年月である。

カルマは返事をしたきり黙り込んで、かわりにいくらかの物音をさせた。神社の売店の袋である。彼は袋の口に手を差し入れた。購入した物の確認だろう。先刻の彼は少々買い物に時間をかけていた。

と、視線を外したところで、ちょうど、そこから物が飛んできた。

「何だ」

あえて捕らえるまでもなく片手を出せば、軽い音とともに透明の包装が手の平に落ちる。お守りである。白色のお守りだ。刺繡が金色で入っており、

「『えんむすび』——何だこれ」

「見たまんま」

「いや何の嫌がらせだ」

前世は縁に恵まれなかったみたいだから」

カルマは悪びれず言い切った。それが嫌みだと私は言っているのだけれど、カルマが気に留めた様子はない。そのまま売店の袋を閉じたからには、もう私に与えたつもりなのだろう。実際、後から「あげる」と声も聞こえた。

「要らないんだが」

返事に合わせて、笑い声も聞こえてきた。隣から顔を見られている。

「すっ、げー、嫌そうな顔」

肩も震わせていた。

私は無言で手元に目を向ける。手の平に載せたままの、えんむすび守。当然に無料ではなかっただろうに、どうやら私のしかめ面のためだけに購入されたらしいそれ。包装ごと握り潰してやろうか。指に力を込めようとしたところで、まあまあ、と制止の声。

今世は良縁に恵まれますようにって、ほんの気持ちだと思ってよ」

「笑いながら言われても伝わらないな」

しかし気は削がれて、歩みは止まり、顔は空を向いた。

「言ってみろ、こんな物で何の取引だ」

カルマは声をあげて笑い、目を細める。

「さすが——。俺、昼飯ラーメンがいいな」

「——開いてたらな」