第15話「旅行の時間」から第17話「しおりの時間」まで

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五月、又は修学旅行

前の席の奥田愛美はなかなか本題に入らなかった。ウンとかアーとかエットとか、言葉を形にできないどころか、弁当箱を開けもしない。置いてみて抱いてみて、後ろを見て前を見て、三つ編みのおさげをせわしなく揺らしている。

「どうしたの、奥田さん」と尋ねれば、声は届いているようで、肩を震わせて返事のかわりにした。口を開きかけて、閉じかけて、真っ赤な顔面と、真っ青な空気。

控えめなクラスメイトだった。気が控えめなら声も控えめ、主張も控えめ、体格も控えめ。四月はさらに消極的だった。

奥田さんの積極性はことさら関心事にのみ強く発揮される。おかげで今やクラスには、彼女の得意科目を知らない者などいない。よって理科の用件ではない、とは消去法だが、彼女に昼食に誘われてかれこれ五分は経過している。もはや予想は無駄である。彼女は前の席のクラスメイトにすぎない。五月も半ば、しかし私たちは今朝も挨拶さえ交わさなかった。

さて前の席のクラスメイトは、さらに三度、四度と呼びかけたところで、ようやく返事をしてくれた。「大丈夫です」

大丈夫かと尋ねた声も一応は聞こえていたようだ。

「一緒に食べるのは初めてだね」

「は、はい。その、とおりです」

そこで思い出したように、奥田さんが弁当箱を机に置く。再び手にとる素振りはない。はっと慌てて机を確認したことはあったが、案ずるまでもなく彼女の机である。五分前に席をつくったとき、彼女は椅子の向きを変えるだけでよかったのに、わざわざ机まで動かした。しかし彼女は安心したように息を吐いて、合掌、「いただきます」

とはいえ奥田さんが弁当箱を開く直前には私が弁当箱を開いていて、私が箸を握ったから奥田さんも箸を握って、さすがに弁当は異なったが、最初の獲物はソーセージと相成った。世にも珍しい偶然ではないけれど「一緒だね」と声をかけてみる。

「タコさんウインナーです」

甲斐はあって、奥田さんははにかんで答えてくれた。「エビフライも」

私たちは食事とともに会話を進めた。よい兆候だった。エビフライは私の弁当で、奥田さんの弁当箱にはない。当然弁当が用事ではないだろうけれど、ソーセージの外見、エビフライの食感、コロッケの中身、この程度で受け答えが安定するなら、むしろ時間の節約である。おかげで話題は早々に午前の授業へたどり着く。

一時間目の授業、二時間目の実践、三時間目の難問、四時間目の宿題。前後の席のクラスメイトに、他に共通の話題などない。それでも学校生活の用事でなければ、両手をあげて降参するのみだ。しかし四時間目の話が尽きるところで、奥田さんの挙動がまた落ち着かなくなった。

今度の奥田さんはウンともアーともエットとも言わなかったが、それは食事をしていたからだろう。同じく弁当箱を動かしもしないけれど、おかずをつまみかけた箸は直前でとどめられ、私は用件を予想できるようになった。やはり学校生活に関連していて、しかし今朝の授業ではない。奥田さんも意を決したように声をあげた。「あの」と出た声は思いのほか大きい。

「同じ班になりませんか」と言いきるや、奥田さんは真っ赤な顔を両手で隠してしまう。彼女自身意外な声量だったのだろう。いつのまにか耳まで赤い。もっとも昼休みの教室はにぎやかで、ちょうど遠くの席で笑い声があがったけれど、彼女の大声よりよほど騒々しい。だが彼女は一向に気づかないまま、さっと青ざめて小声になった。「もしかして、もう決まっていましたか」

今日は今日でも今日の午後、あるいは来週の学校行事。二泊三日の修学旅行である。五月に最初の中間テストを終えると、三年生は京都へ行く。例年のことである。そして例年のように生徒だけで街を歩く機会があるということで、今日の午後から班をつくって準備期間に入る予定だった。

とはいえ班は、大抵はすでに話がついているものだ。ここで顔を青くする奥田さんも誘われたにしろ、そちら側であるはずだ。少し視線をずらせば斜め前、一列を挟んで窓際の茅野カエデと目が合った。「あの」と消え入りそうな声も、ちょうど彼女に触れる。「茅野さんに誘われたんです」

消極的な奥田さんの最も親しいクラスメイトが茅野さんだ。対照的に積極的な茅野さんは、すでに自ら班を見つけただろう。元より隣の席の生徒はあらかじめ班長として選出されている。「渚くんの班なんですけど」と奥田さんも言った。

「私も誰か誘っていいって。えっと、あの、うう、よければ一緒の班はどうですか」

遠くの席からは茅野さんがひそかに笑いかけてくる。

「渚くんは七人班だったっけ」

班はクラスを四つに分ける形で用意された。ただし割り切ることができなくて、六人班と七人班の二種類が存在することに。伴って四人の班長には、あらかじめ人数も割り当てられた。私はそれらを無難な決定だったと記憶している。たとえば潮田渚はクラスの大半と——教師陣も含めて——良好な関係を築いており、問題を起こすこともない、まさに無難な生徒だ。

そして班長と人数がわかれば、班員はおのずと明らかだ。渚くんには特に親しい相手がいる。杉野友人ともひとという。渚くんや茅野さんの後ろの席で、今も彼らは食事を共にしている。元より茅野さんはクラスの誰とも分け隔てなく親しい。杉野くんも人間関係は優秀だが、彼が誘わない相手は誘う相手よりもはっきりとしている。

六人班ならこれで成立だ。

礼を言うと、正面で青白い表情が硬直した。私は気づかないふりをして、遠くの茅野さんに笑顔を示す。彼女は今やはっきりと私たちに手を振っていた。奥田さんも一息遅れて振り返る。ぎこちなく手を振り返した彼女は、しかし再び顔を合わせるとき、頰を朱に染めていて、「奥田さん」と呼ぶだけで首を何度も縦に振った。私はとどめを刺してやる。

「せっかくだから明日も一緒に食べようよ」

明後日も一緒に食べたら、奥田さんは椅子だけを動かすようになった。話題はもっぱら学校生活、さすがに修学旅行が中心だ。彼女はすでに理科の角度で観光する算段をつけており、班別の計画においても一部化学的な提案が採用された。

班で昼食をとった日もあった。授業でもとりあげられるなど、生徒のみならず教師陣も関心を寄せ、特にクラス担任は辞書のようなしおりをつくりあげた。

担任教師の熱量には目を見張るものがあった。しおりはすべて手書きの千三百四十四ページ、その厚みを充実させるほどに丹念な下見、当日朝は誰より大きな荷物を背負って新幹線に乗車した。

京都への移動には新幹線を利用した。東京駅に集合して、クラスで貸し切りの普通車に乗り込み、二時間と少し。班で遊んだり、独りで寝たり、やがて何事もなく京都で全員が降車する。担任教師が車両を引っ繰り返す勢いで車内点検したから間違いない。強いて言うなら、通路で乗客と肩が接触した程度の事故をあげることになる。

京都でもクラス別行動が続いた。移動も昼食も、文化財の見学も。宿泊施設もクラスで貸し切りだ。

貸し切りの旅館に到着すると、クラスはそこで初めて、さらに分かれた。寝室のためである。生徒の部屋は大部屋が二つ。そして性別ごとに案内され、畳の上に荷物を置いたら、次は久々の自由時間だった。

風呂や食事の前の短い時間だが、皆班員同士で大部屋を出て行く。奥田さんも先に整理を済ませて、茅野さんと館内の散策に出かけた。いずれ談話室で合流することになるだろう。あまり大きな建物ではなく、設備も限られている。その上で生徒が立ち入れる場所は、他には浴場か宴会場か。

誰かが窓を隠したとき、大部屋の生徒は四人まで減っていた。班の数に直して二つ。外はすっかり薄暗い。頃合いだろう。私は携帯端末を抜き取り、音をさせてかばんを閉じる。すると同じ班の神崎有希子も、同様の仕草でかばんを閉じた。

「いいの」と答えの決まりきった問いに、神崎さんは決まりきって答える。「いいの」

神崎さんは杉野くんが連れてきた。杉野くんから予約していたそうだ。親交を深めたかったのだろう。神崎さんは総合して器量がよい。校内では相応に評判があったから、彼の予約が遅ければ、彼女は別の班にいただろう。

さて自由時間への一歩を踏み出し、私がふすまを閉めたところで、評判相当の神崎さんは自ら問題を報告してくれた。「変なことを聞くようだけど」

手帳が見つからないという。

「ポケットに入れたはずなのに」と神崎さんが制服に触れる。

「見てないと思う、けど」

手帳の正体は尋ねるまでもなかったが、神崎さんの説明によると案の定、修学旅行の日程表だった。内容としては二日目、明日の班別行動の計画が中心だったため、新幹線の席で確認したきり、日中はとり出す機会もなかったのだとか。

「でも、これから、きっと話すでしょう」

その前に改めて確認しようとしたところ、制服はおろか、かばんを探しても見つからなかったそうだ。私も改めて首を横に振った。名前を書いたと言われても、なおさら見かけた覚えがない。器量よしの神崎さんは書字まで綺麗と知られている。もしクラスメイトが見つけていれば、今頃は私も奥田さんたちと談話室で過ごしていただろう。

「談話室に行ってみよう。きっと、みんな集まってるよ」

「ええ、そうしてみる。ありがとう。いざとなったらスマホを見るから——」

「——じゃあ、そのときはデータを共有しようか。私は全部スマホなんだ」

実際、談話室にはクラスの大半がいたけれど、拾得物を申し出る者はなかった。ただ中央の椅子に担任教師が座っていて、班員はさらに奥に集合していた。私たちが最後だった。神崎さんは気丈に振る舞ったが、はたして諦めはついただろうか。

ここで首を横に振ったクラス担任は、昼食後には会場を天井裏まで掃除し、文化財に至っては前日までに補修したと言い張ったほどだ。かような教師が生徒の遺失物を見逃すだろうか。否。知覚の及ぶ範囲においては、些細な事故も許さなかっただろう。たとえば貸し切りの車両を出て、四人で通路を歩いたときでもなければ、——神崎さんにわざと体を打ち当てることなどできなかった。

典型的な窃盗の手口だ。犯人はおそらく東京の高校生。ありふれた学生服の、ありふれた不良だったが、東京駅で一緒に乗車した集団がいる。彼らは私たちの中学校より二回り以上も偏差値が低い風貌で、しかし私たちより一回り以上は図体が大きい様子だった。京都駅で再び一緒に降車したから、彼らも修学旅行だろうけれど。

何をせずとも、まだ鮮明に覚えている。

私は自身の服装を見下ろした。

「けど神崎さん、どーすんの」

誰の頭上も努めて見ない。

一方で「貸せます」と勢いよく進み出た声が一つ、

「貸して杉野はどうするのよ」

「あっ」と、すぐ沈み込む。それを横からなだめようとする声、さらに横からにぎやかす声、班員は勝手に盛りあがって、神崎さんは私を見た。「そのことなんだけど」と私は挙手をする。カーディガンの袖が視界を横切る。

「今夜みんなで確認するよね。そのときに——」

白色。校則に反しない白色が。動くとワイシャツが肌を擦った。校則に従った白色が。脚に触れた灰色は学校指定のスカートで、そこからのぞく白色のタイツもやはり校則に反しない。だが誰かが不意に屈んだことで、図らずも見下ろしてしまった頭上には、一つの星も輝かなかった。当然だった。誰も、私も、あの——ありふれた黒一色の——学生服の不良さえも。

頭の上に輝く星など、もはや数えるまでもない。

とり除くべき脅威などない。何も脅威ではありえない。三つの星さえ脅威を示さないのだ。一つの星も輝かないことは、まったく反逆と対をなす、すなわち健全の証明である。誰かのように、私のように。

証拠がなければ、証明ができない。

やはり消灯前の自由時間にはどの班も計画を再確認した。神崎さんとはそのときに日程表を共有して、最後は四人で大部屋へ戻り、共に布団を敷いた。

翌朝、神崎さんの手帳は出現しない。報告すべき脅威もない。ただ二日目の活動が、予定のとおりに開始する。

朝食後まもなく、クラスはその場で四つに分かれ、各々が街へ繰り出した。この丸一日を使った計画のために、教室で準備を進めてきたのだ。

私たちの班は、班長の渚くんを先頭に置いた。後ろに奥田さんと茅野さん、さらに後ろに神崎さんと私が並ぶ。そして他の班や教師陣の姿が見えなくなると、渚くんはかばんからしおりをとり出した。杉野くんが彼の横から、あきれたような目を向ける。渚くんは構わなかったが。

しかし千三百四十四ページである。クラス担任の手書きといえども、辞書と比較して遜色ない寸法で、そのうえ上製本。厚表紙で余計にかさ張るそれを、私は家に置いてきた。クラスの半分は持ち帰りもしなかっただろう。有用な代物ではあったので、まさに今日の計画のために、あらゆる班が教室で広げて、——手帳や携帯端末に必要な情報を集約したのだ。

もっとも、その例外の第一人者たる渚くんも、千三百四十四ページを読破したとは言わなかった。

「目次も全然。追ってるうちに疲れちゃって。観光情報も意地で読みきったようなところが」

渚くんは、そうだろうと言うように私を見た。私もまったく同じ顔をした。

千三百四十四ページの修学旅行のしおりが充実すると四十ページ強は目次に費やされることになる。従来のしおりに相当する内容がそこから二十ページ弱。六十ページ目からは京都の言葉の解説が始まり、七十七ページ目まで続く。さらに百八ページ目までが、各見開き二ページの文化財紹介。千ページを過ぎる頃には「困ったときの対処法」の大見出しだ。

「旅行代理店ができそう」

「いっそ僕らが——いや、やっぱりなしで」

「——重いもんね」

「——重すぎるよ」

「なんで持ってきたんだよ」

杉野くんが再びあきれて指摘する。「役に立つから」と渚くんは返事した。すぐに「訓練で筋肉つけてるもんね」と茶化す声。そこに多少の文句をつけた渚くんの後ろで、茅野さんが「あっ」と声をあげる。目的地が見えてきたようだ。

私たちの班は、東京の教室で計画したとおりに、京都の街を歩き回った。時には寄り道も挟んだ。休憩したり、渚くんの——自主的自発的持参品である——しおりに導かれたり。京都旅行のためのしおりは当然京都でこそ真価を発揮する。各々が希望をかなえるに当たっては、元より計画の参考書の一つだ。一応は目的意識もあった。一見さんお断りの前置詞がつくような区画であっても、旅行は充実するだろう。

午後、予定のとおりに祇園を訪ね、奥の道へ入った。右に左に並ぶ建物が観光客の期待にこたえるようでいて、路上は静寂に包まれる。この区画を希望した神崎さんは「だから」と説明した。「目的もなくふらっと来る人もいないし、見通しがいい必要もない」

神崎さんの説明は今日で二度目だ。一度目は東京の教室で、私たちは京都の地図を囲んでいた。当時は決定打に欠けるような反応だった面々も、今日は声に出して感心する。実際、建物にとり囲まれた狭い直線だ。しばらくは通行人も見かけない。「さすが神崎さん」と口々に称賛する。当人は謙遜してほほ笑んだが、綿密な調査があったことは確実だ。そして、その結果が例の手帳だった。

評判相当の神崎さんなら几帳面な手帳をつくっていただろう。論理的にも視覚的にも正確に整理された日程表だ。最低程度の高校生でも——待ち伏せることができるような。

「何かあった」

気まぐれに声をかけられた。私は見て見ぬ振りもしない。

「何かって、何もないと思うけど」

身長で十センチほど私を上回るクラスメイトが「たしかに」と隣で頭をぐるり、動かして、

「カルマくん——」

渚くんも呼びかけてから身構えた。

実は私たちが訪れる前から、この区画には五人が息を潜めて、虎視眈々と機をうかがっていたのだ。

「本当、打ってつけだ」

黒色の学生服を着崩した、上背のある高校生が三人。ちょうど三人分の足音をさせて曲がり角から現れた。残る二人はの用意と、脇の物置だ。万が一の事態に備えたようだ。悪知恵だけは働くということか、もはや身に染みついてとれないということか。「観光が目的っぽくない」とは班員の言だ。もっとも、彼が共感を得ることもなかったが。

誰より先に進み出て、口を出した班員は、返事も聞かず敵につかみかかると、その顎を押しあげた。歯を折り、目潰し、電柱に打ちつけ、——中学生も高校生も呆気にとられて見過ごしてしまう。高校生は油断から、中学生は驚愕から。私たちの学校にも喧嘩はあるが、かように暴力的な発展を遂げることは珍しい。

だから私も見過ごした。

飛び出す四人目を妨げなかった。私の体格は悪くないが、さすがに高校生には劣る。だから繰り出される金属管も弾かなかった。私の成績は悪くないが、常習犯の経験には劣る。だから気がつく素振りも示さなかった。普通の中学生は気づけなかった。

私は呆然と立ち尽くす。背後で別の班員が息を潜めても、気づく余裕などあるはずがない。一回り以上の図体の高校生が四人もそびえ立つ一方、主力を期待された中学生は、後頭部を殴打されて昏倒してしまった。恐怖のあまりに表情はゆがみ、足もすくむというものだ。

高校生はさらに二人を仕留め、いよいよ五人目の仲間を呼び寄せる。そして私たち三人はなすすべもなく、最初に茅野さんを狙われた。

茅野さんはクラスで最も小柄な生徒だ。そのうえで体育の成績を見る限りにおいては、近接戦闘に向かない部類でもあった。もっとも高校生たちは、残りの三人には戦意も示さず、愛玩動物を相手するような気軽さで、茅野さんを捕らえ、神崎さんも縛った。私も盗難車に投げ込まれた。乱暴に、しかし手際よく。

とはいえ移動距離は短かった。修学旅行の高校生の土地勘の限界だろう。もっとも車種はありふれたもので、ナンバープレートにも細工があった。気休めには程遠い。仮にも学校行事の中で、傷害と拉致を計画した連中だ。廃墟に侵入してなすべきことが、他に幾つあるものか。

強姦の常習犯たちに暗い屋内をせっつかれて歩かされた。放置されて久しいだろう、散らかったままの遊技場、椅子の欠けた客席、床に転がる空の酒瓶。そういえば班員も地面を転がったと思い出したところで、私たちも地面に投げ出された。足は自由だが、されるがままに体勢を崩しておく。背中にまだソファーだとわかるものが残されていた。

はたして床の硬さを気にしてくれるような相手だろうか。いや、まずは衛生観念が——

「ツレに召集かけてるからよ」

——あるはずもなかった。集団強姦を企画できる人間に期待できる衛生観念が、どこにあろう。

さて、これからどうしようか。見あげると、(目の前がちかちかした)

猶予を告げた犯罪者は、たやすく背を向け、椅子に座る。久しく手入れのないだろう椅子に、自由意思で尻を乗せる。

私たちは顔を見合わせた。三人が三人、「これからどうしようか」という表情だ。だが、まもなく神崎さんが目を伏せる。茅野さんと私は神崎さんを挟んで見詰め合い、結局、茅野さんが口火を切った。

「神崎さんも、ああいう時期があったんだね」

最初から神崎さんが標的だったらしい。清楚な淑女と名高い彼女が実はおよその期待を裏切り、不良のたまり場に通っていて、見事に目をつけられ、このたびはたまさか旅行が重なってしまった、と。

神崎さんは自身の制服を見下ろした。「うちは父親が厳しくてね、いい学歴、いい職業、いい肩書ばかり求めてくるの」

茅野さんが相槌を打つ。神崎さんは泣き出しそうに後悔の丈を吐き出した。「そんな肩書生活から離れたくて、名門の制服も脱ぎたくて、知ってる人がいない場所で恰好も変えて遊んでたの」

そのうち成績を落とし、学年末テストでE組落ちが決定的になる——。神崎さんは泣かなかった。私たちは黙って耳を傾ける。

「俺らと同類ナカマになりゃいいんだよ」

不良は黙ってはいなかったけれど。

(呼んだツレが来る前に、様子を見てみる気になった)

目の前がちかちかした。

まだ敵の数は五つ。内一名が外で見張りを、つまり屋内の敵は四人。頭目はちょうど口を開いた、この高校生。「ツレ」が五人も十人も加わるそうだが、合わせても彼が頂点だろう。社会の軸は暴力と犯罪、自慢は台なしにした人間の数、その一部始終を残した動画は後生大事に保管している。顔をあげると、その頭目と視線が交差した。

(導かれるように見下ろした)

不良共が立っている。四人もいて、四人全員がいかにも不幸な面持ちでいる。これが「肩書生活」を外れ続けた者の末路だと、同級生に伝える前に、私の首がつかまれた。

(思わぬ収穫が一つ、二つ)

本物の衝撃に襲われる。ソファに背中を打ちつけられる。汚い。咄嗟の考えは、この私の口からは飛び出さないが、思わずうめいた声も言葉になりはしなかった。少女の悲鳴のような音声が、私たちの間を鋭く通り抜ける。

(女が苦痛にあえぐ音は、そこを強く揺さぶった)

中学生より大きな手が制服に伸び、(捕まえた首は男のそれより、幾らもか細く)

目の前がちかちかした。

(目を離すことができなかった)

さて、これからどうしようか。

窒息を知覚しつつ、脳は同時に班員二名の位置を把握する。くわえて敵の位置関係も。いや、私は押し倒されている。敵が覆い被さっている。

ずきずきと胸が痛んだ。

(どうしても目が離せなかった)

じっと目を見た(少しだけ)神経が焼けつく(もう少しだけ)幻覚がした(血液が走った)幻覚が侵入する(声が聞こえる)幻覚が聴こえる(幸福)とは何ですか。市民(幻覚)幸福です(幻覚です)義務です(幻覚は)幸福は(聞)こえた。幻覚が聴こえた。私が答えた。幻覚が問うた。——市民、幸福ではないのですか。


朝だか昼だか夜だか、いや深夜だったか、通信などでブリーフィングルームに呼び出された。最後ではなかったが三番目の到着で、用意された椅子は三脚。座ろうとしたら四人目が来た。大抵のトラブルシューターは四人一組でミッションに当たる。それで、私は椅子を譲った。三脚の椅子に三着の橙色、一際偉そうな椅子には黄色が腰かけ——、隅に積まれた赤色の山を一瞥する。


心臓がばくばく鳴った。血液がどくどく流れた。神経がひりひり焼かれた。網膜がちかちかひずんだ。久しく知らなかった感覚が、その実初体験にも似て痛覚まで及ぶ。アー、アー、アー、ッははは。胸中の笑みは幸いにして音にならず。ふと敵を見詰めてみると、こちらは——不運にも——相手の不興を買った。手が首から離れて「生意気な」面を張る。

だが「ナメてんじゃねえぞ」とは無理な相談だった。だって、ほとんど獣だった。せめてテメェのイチモツを鎮めてくれなければ説得力に欠けるというものだ。異性間性交渉はアルファコンプレックスの非の打ちどころのない慈悲を「台なし」にする反逆である。アルファコンプレックス市民は拡張クローニング施設で完璧に出生する。だって、ザ・コンピューターがそれを意図した。

友にして母、彼女にして彼、善性にして知性。ザ・コンピューターが完璧に運営する完全な地下都市アルファコンプレックスで、市民はすべて生産的で効率的で、つまり秩序があって、すなわち完璧で、ゆえに幸福だった。

六体を失う前の私が。

だから、この地上都市はアルファコンプレックスの形をしていない。だから、この——反逆者——はミュータントパワーを持ち得ない。だから。

ザ・コンピューターが君臨しない地上都市で、異性間性交渉(!)によって産み落とされた私たちは、今また異性間性交渉(!)によって互いに資源を浪費しようというらしい。残る三人も限界だろうか。少なくとも制御装置を一番バカにしてやった私の上のバカは、性欲のままに衣服に手をかけている。したがって体を押さえつける力も緩んだ。普通の中学生には微々たる差だったが、まあ構うことはない。

いずれ事態は収束する。犯人は班員を殺害しなかった。くわえて殴られず捕らわれず逃げおおせた班員もいる。彼女が遅かれ早かれ全員を助け起こす。そうすれば誰より渚くんが修学旅行のしおりを持っている。

——千二百四十三ページ、班員が何者かに拉致られたときの対処法。犯人の手がかりがない場合、まず会話の内容やなまりなどから、地元の者かそうでないかを判断しましょう。地元民ではなく、さらに学生服を着ていた場合、千二百四十四ページ。

「考えられるのは相手も修学旅行生で、旅先でオイタをする輩です」

急に首が自由になって、私は思わずせき込んだ。かかる体重もなくなったが、ミュータントパワーの発動を解除する。これで不良たちが完全に意識をそらした。少女の悲鳴もやんでいた。だからと着衣を整えようとしたら、そちらは肘をぶつけて頓挫したのだが。

そういえば腕を縛られているのだった。体も床にずり落ちたので、仕方なし、上体を起こすにとどめておく。と、横で「拉致られ」仲間が物言いたげな顔をつくった。

「大丈夫だよ」

私は笑顔を見せてやる。だが二人は同時に息をのんだ。いささか衝撃的だったか。反省とともに見下ろした制服は、たしかに留め具を失ったり失いかけたり。カーディガンも高かったのに汚れてしまった。おそらく次の私がもっとうまくやるだろう。

今は。出入口の扉を背に班員四名が立っていた。重傷者はいないようだ。彼らの足元の不良は除外して。それでも重傷という程度でもない敗者の上で、渚くんたちが種を明かす。

「すごいな、この修学旅行のしおり。完璧な拉致対策だ」

「ねえよ」と言われても「そんなしおり」はあった。私たちのクラス担任は——生徒の安心と安全のために——異常な熱量を注ぎ込んでいる。やがて屋外から足音がしても、警戒は無用だろう。高校生が手数を期待したところで、顔を強張らせた神崎さんには「大丈夫だよ」と再びささやく。だって、


「不良など、いませんねえ。先生が全員、手入れしてしまったので」


開かれた扉の向こうから、黄色の怪物が現れた。椚ヶ丘中学校三年E組の担任教師、超生物の殺せんせー。

生徒につけてもらった名前ですと、出会ったその日にそう聞いた。