第15話「旅行の時間」から第17話「しおりの時間」まで

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五月、又は修学旅行

前の席の奥田愛美はなかなか本題に入らなかった。ウンとかアーとかエットとか、言葉を形にできないどころか、弁当箱を開けもしない。置いてみて抱いてみて、後ろを見て前を見て、三つ編みのおさげをせわしなく揺らしている。

「どうしたの、奥田さん」

声は届いているようで、尋ねれば肩を振るわせて返事のかわりにした。口を開きかけて、閉じかけて、開いて閉じて、真っ赤な顔と、真っ青な空気。

控えめなクラスメイトである。私の記憶の限りでは、気持ちが控えめなら声も控えめ、主張も控えめ、体格も控えめ。四月はもっと消極的だった。彼女の積極性はことさら関心事にのみ強く発揮される。おかげで今やクラスには、彼女の得意科目を知らない者はいない。

よって理科の用件ではない。私は消去法を一つ進めた。奥田さんに昼食に誘われ、かれこれ五分が経過した。仮に理科の用事なら、今は弁当をつついている頃だ。そして理科が関係しないなら、予想はするだけ無駄である。私は再び呼びかけた。五月も半ば、しかし今なお「奥田さん」は前の席のクラスメイトでしかない。

「前の席のクラスメイト」が返事を言葉に出してくれるまでに、私はさらに呼びかけねばならなかった。奥田さんはまず大丈夫だと慌てて口を動かした。大丈夫かと尋ねた声も、一応は聞こえていたようだ。

「一緒に食べるのは初めてだね」

「そ、そうですね」

奥田さんは弁当箱を机に置いた。再び手に取る素振りはない。ようやく事態は進展した。合掌をすれば合掌をして、いただきますを言えばいただきますと言う。弁当箱を開き、箸を握り、向かいのクラスメイトも同じ流れでその先端をおかずに近づける。最初の標的はソーセージらしい。わたしは自分の弁当を見下ろして、一緒だねと声をかけてみた。ソーセージは用意に手間がかからない部類のおかずだ。

「たこさんウィンナーです」

奥田さんははにかんで答え、ややあって、エビフライも、と続ける。私の弁当を見たようだ。冷凍でもなければ手間がかかるエビフライだけれども、寝る前に下ごしらえをしておけば、朝は揚げるだけで済む。後片付けは面倒だが、それは揚げ物を希望した父の仕事だ。

私たちはしばらく弁当の話をした。たこさんウィンナーはかわいくて、おいしい、エビフライはサクサクして、味がする。もちろん奥田さんの用事は弁当でもない。だから共通の話題を探して、私は少し遡った。午前の授業のあそこがわかりやすかった、けれども変な宿題が出された、それでも次が楽しみだ。当てが外れたときは午後の授業だ。前後の席のクラスメイトの心当たりなど、学校生活をおいてほかにないのだ。

奥田さんもとうとう箸を休めた。

「あの! 同じ班になりませんか!」

今日の午後の時間は、修学旅行のために費やされる予定だった。

奥田さんは、はっと口元を隠して、顔を赤くした。たしかに思いのほか大きな声だった。だが彼女が感じたようには視線は集まらなかっただろう。昼休みの教室はにぎやかで、彼女の比較的大声は、その喧噪に負ける程度しかない。本人はまだ気づかずに、耳まで真っ赤にしているけれど。たまたま、よその席で笑い声が上がった。よほど騒々しい音だった。彼女は気づきやしないのだが。

かわりに、さっと青ざめる。

「もしかして、もう決まってましたか」

私が何も答えなかったからだろう。

二泊三日の修学旅行。最初の中間テストを終えた三年生が、翌週末、班をつくって京都を回る。今日の午後はその班分けから始まる予定だが、大抵の場合はあらかじめ話がついているのだ。ここで顔を青くする奥田さんも誘われた側であるはずだ。

奥田さんの奥へ視線を向けると、左斜め前、一列を挟んで窓際の席に茅野カエデという生徒がいる。彼女にとって最も親しいクラスメイトが。そして茅野さんの隣の席は潮田渚という生徒のもので、彼はあらかじめ班長として選出されている。

「あの、茅野さんに誘われたんです。その、渚くんの班なんですけど、私も誰か誘っていいって。えっと、だから、もし、まだなら一緒にどうですか」

「渚くんは七人班なんだっけ」

茅野さんと目が合った。彼女も弁当を食べていた。それからにこりと左手を振り、私も同じ表情で彼女にこたえる。渚くんは問題の少ない生徒で、クラスの大半と——教師陣とも奥田さんとも隣の席の茅野さんとも良好な関係を築いている。それは特別な程度ではないけれど、席が隣だからか、クラスで最も小柄な男女という共通項からか、何かと見かける組み合わせだった。

わかりきっている。茅野さんもまた人間関係は良好で、クラスの誰とも分け隔てなく仲がよい。わかりきっていた。渚くんは杉野ともひとと昼食を取っている。決まりきっている。

「——今度は杉野くんと私で一人ずつ誘おうって話になったんです」

渚くんが茅野さんと杉野くんを誘い、茅野さんは奥田さんを誘い、奥田さんは私を誘い、杉野くんは——誘わない相手は誘う相手より明白だ。この私の答えと同じくらいに。

正面の顔が固まった。遅れて首が勢いよく縦に動く。

「実はね、渚くんにお願いしようかなって考えてたんだ。ほら、多少は気が知れてるから。だから奥田さん、ありがとう」

六人班なら成立だった。

私たちは昼食を再開した。あとの二人は誰だろうとか、一緒に渚くんの元に行こうとか、そういう話をするうちに、エビフライが最後のおかずになる。それを摘まんでかみ砕くと、奥田さんも最後のたこさんウィンナーをひょいと持ちあげて口に運んだ。斜め前の窓際で茅野さんがまた手を振る。私も今度は手を振ってこたえる。そうして弁当箱を空にした私を、正面では奥田さんがうかがうように見つめていた。

「ねえ奥田さん」

私は躊躇なく呼んでやる。

「お昼、明日も一緒に食べない?」

それから毎日、私は奥田さんと弁当を食べた。控えめなクラスメイトと、なかなか打ち解けた部類ではないか。最後の二日で、彼女は私の机に弁当を置くようになった。当然というか話題の大半は修学旅行、京都だ。彼女はすでに化学の角度で、旅行を楽しむ算段をつけているらしい。

東京から京都までの旅には新幹線を利用した。クラスで貸し切りの普通車に乗って二時間と少し、京都に着いたら、さらにクラス別に移動して、クラスだけで昼食を取り、クラスだけで文化財を見学する。初日の予定の最後にも、クラスで貸し切りのバスに乗って、貸し切りの旅館へ移動した。多少といわず寂れた宿泊施設だった。生徒の部屋も、男女別であるだけの大部屋だ。

荷物を整理したり、位置を決めたり。班で固まったから、時間はかからなかった。クラス委員の主導で荷物を置いて、ついで自由時間だからといってほとんどの者が廊下に出る。館内を散策するのだろうが、この設備ならいずれ談話室に集まるだろう。小さな建物ではないが、設備はごく限られている。客室と談話室を除けば、あとは浴場か宴会場か。先に出た奥田さんと茅野さんも、談話室へ行くと言っていた。

さらに何人かが去ると、誰かが立ち上がって窓を閉めた。外はとっくの昔に暗い。もう大部屋には四人しかいない。別の班の二人と、私と、もう一人の班員だ。頃合いだろう。携帯端末を抜き取り、音をさせて荷物を閉じると、同じ班の神崎有希子も同様の仕草で整理を終えた。

いいの? 答えの決まりきった問いに、神崎さんは決まりきって答える。——いいの。

私たちはこうして廊下へ出た。閉めてほしいと中から言われて、後から出た私がふすまを動かす。と、静かに閉まったふすまの前で、神崎さんが私を見た。

「変なことを聞くようだけど、ノートを見てない? これくらいの、リングノート」

「見てないと思う、けど」

何のノートかとは尋ねるまでもないが、神崎さんは見かけと中身の説明をした。修学旅行の計画をまとめていたそうだ。彼女の最後の記憶によると、新幹線の席で開いて、制服のポケットにしまったという。

「この後きっと話すと思って、もう一度、目を通しておきたかったの」

しかし制服はおろか、かばんを探しても見つからなかったそうだ。名前を書いたと言われても、なおさら首を横に振ることしかできない。神崎さんも覚悟していたのだろう。落胆の表情はごく僅かだった。彼女は綺麗な字を書く生徒だ。クラスどころか学年での評判もよかった。もしもクラスメイトが見つけていれば、今頃は私も奥田さんたちと一緒に談話室で過ごしていたはずだ。

「談話室に行ってみよう。きっと、みんな集まってる」

「ええ、そうしてみる。ありがとう。私は大丈夫。もし駄目でも大事なことはスマホにも保存したから」

「じゃあ、そのときはデータを共有しようか。私は全部スマホなんだ。ここにも売店があればよかったんだけどね」

予想のとおり、談話室にはほとんどの生徒がいた。中央には担任教師もおり、ソファーの背中に体を預け、目に見えてぐったりと青ざめている。彼の乗り物酔いがひどいことは、この旅行で発覚したばかりの弱点だが、生徒たちは容赦をしない構えだ。とはいえ担任も十分余裕であるようだが。——部屋の奥には班員が集まっていた。どうやら私たちが最後らしい。

神崎さんの探し物は見つからなかった。班員も、他のクラスメイトも担任も覚えがないと首を振った。彼女は気丈に振る舞った。ようやく諦めがついたのかもしれない。私たちの担任なら、合流直後、相談より先に差し出してくれてもよかったところだ。彼は並々ならぬ熱血教師である。

クラス担任は今回の修学旅行にも常軌を逸した熱量を注いだ。問題を見逃さないことはあたりまえに、絶対に未然に防ぐべく、座席をひっくり返すような車両点検、天井裏まで掃除した昼食会場、クラスで見物した文化財は前日までに補修を済ませたと言い張る始末。彼の知覚の及ぶ範囲で生徒が物を落としたときは、それが地面に触れる前に手ずから渡してくれただろう。

あれは高校生だったっけ。東京駅から同じ新幹線に乗り込んだ。ありふれたような学生服に、治安の悪そうな風貌。クラスメイトより一回り以上も図体が大きかったけれど、私たちの学校より二回り以上も偏差値は低そうだった。新幹線で売店に寄った。班の女子四人で、つまり神崎さんも一緒に、彼らは途中の車両を埋め尽くして、そのうちの一人が、今さら考えるまでもなく、神崎さんにわざと体を打ち当てた。

ありふれたような、黒一色の、学生服。

私は自分の体を見下ろした。

「けど神崎さん、どーすんの」

班の誰の頭の上も努めて見ないようにした。

「俺、貸せます!」

「それで杉野はどうするのよ」

「ぐぬぬ、たしかに。——あっ、なら見せます!」

「その、しおりなら僕、持ってきたよ」

やいのやいのと班員が盛り上がる最中、神崎さんは私を見た。じゃあ、と私は挙手をした。カーディガンの袖が視界を横切った。

「夜のうちに、みんなで確認するのはどうかな。抜けはないかなって、私も少し心配で」

白色。校則に反しない。動くと、ワイシャツが肌を擦った。校則に従った白色が。脚に触れた灰色のスカートは学校指定の制服で、歩くたびに床を滑る白色のタイツは、やはり校則に反しないもので。誰かが不意に屈んだことで、図らずもその頭上を見てしまった。星は一つも輝かなかった。当然だった。誰の頭上にも、私の頭上にも、あの黒色の学生服も、星の一つも浮かべてはいなかった。

当然だった。

取り除くべき脅威などない。彼らは誰も脅威ではない。三つの星でさえ脅威を示さないのだ。星が一つもないことは、まったく反逆と対を成す、つまり健全であることの証明だ。誰かのように、私のように。だから、私はすべてを目撃していたけれど、何も報告するべきことはなかった。もちろん問題は常にすべて報告されるべきだといえども。証拠がなければ、証明はできない。

その夜、私は神崎さんとノートを共有した。風呂と食事を済ませた後は、班で計画を確認した。自由時間も班員と共有し、消灯前に大部屋へ戻り、最初に決めたように布団を敷く。最後に寝床の近い者と、また少しの時間を共有して、——朝を迎えた。

神崎さんのノートがひょっこり顔を出すわけもなく、やがて二日目の活動が開始する。

修学旅行二日目は朝食後すぐに旅館を出た。クラスはその場で四つに分かれ、班別に京都見物をする。丸一日を使った活動である。私たちは教室でこの日のために修学旅行のしおりを広げ、準備を進めてきたのだった。

私たち——第四班——は渚くんを先頭に置き、京都を歩いた。後ろに茅野さんと奥田さん、さらに後ろに神崎さんと私が並ぶ。しばらく歩くと他の班とも完全に別れ、教師陣の姿も見えなくなった。——ちなみに渚くんが「修学旅行のしおり」を持ってきてくれたことには、班員の意思の介在する余地のない、すなわち渚くん本人の自主性によって自発的に願い出ることさえされたものであり、私たちが役割を押しつけたような事実は一切存在しえないため、邪推などされないように。

昨晩は皆で驚いたものだ。まさか「しおり」を持ち歩く気でいたなどとは、思いもよらないことだった。

この学校は決まって長期休暇や校外活動の事前に、しおりなる冊子を配布した。修学旅行も例外ではない。私たちのクラスでも、担任が手ずから配布したのだ。最後のページは一三四四。辞書と比較して遜色ない寸法と重量。開いてみたら、手書きの文字の羅列だった。生徒は目を疑ったが、彼は問題を未然に防ぐべく、本当にあらゆる手立てを講じるつもりでいた。

とはいえ有用な代物ではあった。異常な見てくれをしているだけで、クラスの予定はわかりやすくまとまっており、持参品の表には分岐が用意されていて、計画を書き込む欄もあった。何より京都旅行に役立つ情報の量と質は、下手な検索より充実していたのだ。だからといって全千三百四十四ページの辞書(ハードカバー)は、旅の荷物にしたくはないけれど。

渚くんは圧倒的少数派だった。クラスの半分はまず、しおりを持ち帰らなかった。クラスの半分は自宅に置いてきた。もっとも、少数派の第一人者たる渚くんも、千三百四十四ページを読破したとは言わなかった。

「目次も全然。追ってるうちに疲れちゃって。観光情報も意地で読みきったようなところが」

渚くんが、そうだろうと言うように私を見た。私はまったく同じ顔をして、渚くんを見た。

全千三百四十四ページものしおりが充実すると、四十ページ強は目次に費やされることになる。従来のしおりに相当する内容が、そこから二十ページ弱。六十ページ目からは京都の言葉の解説が始まって、なんと七十七ページ目まで続く。さらに百八ページ目までが、各見開き二ページの、京都の文化財の紹介。千ページを過ぎる頃には「困ったときの対処法」の大見出しだ。

「旅行代理店を開けばいいのに」

「いっそ僕らが——いや、やっぱりなしで」

「——重いもんね」

「——重すぎるよ」

「なんで持ってきたんだよ」

後ろから杉野くんが突っ込んだ。役に立つからと、渚くんは答えた。すぐに、訓練で筋肉つけてるもんねと、茶化す言葉。渚くんがそのことに多少の文句をつけて、同じ頃、茅野さんがアッと声を上げた。目的の地点が見えたようだ。


「さすが神崎さん!」


粗方、予定のとおりだった。時に寄り道を挟みながら、各自、しおりやノートに導かれ、迷いも退屈もない道を歩いた。渚くんの功績は大きいが、彼が進んでその任を追わなかったとしても、充実した時間を過ごすことはできただろう。そのために各々はしおりから必要事項を抜き出し、ノートにまとめた。何より京都それ自体がもの珍しく、修学旅行それ自体が新鮮だった。

今度も計画に従って祇園を訪れたところである。奥まで進むと、ひと気のしない道に出る。右に左に立ち並ぶ店は観光客の期待にこたえるようだが、路上はしんとして班員の声がよく響いた。一見さんお断りの、と前置詞のつくこの区画が、神崎さんの希望だった。一行は声に出して感心した。

「だから目的もなくふらっと来るひともいないし、見通しがいい必要もない」

神崎さんはすらすら答えた。これが二度目の主張になる。初めて聞いたときは、まだ東京の教室にいた。当時は反対意見も出たが、今日は満場一致で可決だ。別の班の報告で、担任と行動を共にするに当たっての、人通りと見通しの重要性を再確認させられたばかりだった。試す価値は十分にある。現在の——三番目の班の結果にはよるけれど、無駄になることはないだろう。

計画は順調である。

次は四班の番だとか、そうと決まったら連絡だとか、さすがは神崎さんだとか。班員の声はよく響いた。士気は高く、人通りは少なく、見通しは悪く。この京都観光には強い目的意識があり、神崎さんは特に丁寧に日程表をつくっていた。綺麗な字で、几帳面に、いつも背筋が伸びており、器量のよさも評判だった。大方、杉野くんが彼女を班に誘った理由も、その辺りのことだろう。

神崎さんのノートを盗んだあの不良も、似たようなところに目をつけたのだ。

私はすべてを目撃した。あれは典型的なスリの手口だ。そして今、計五名の人間が息を潜めて、機をうかがっている。次の行動は決まっていた。

「何かあった?」

私は見て見ぬふりもしない。

「何かって、特には何も?」

気まぐれに班員に声をかけられて、いたって普通に返事をする。身長で十センチほど私を上回るクラスメイトは、たしかにと言って横で頭をぐるり、動かして、

「カルマくん?」

渚くんも、呼びかけてから身構えた。

狭い路地のさらに奥から、柄の悪い生徒が歩いてくるではないか。黒色の学生服を気崩した、上背のある男子高校生。ありきたりな不良のようだが、やはり、いずれも昨日にすれ違った顔だ。ぴったり三人分の影、三人分の足音。残る二人はの用意と——脇の物置だ。万が一の場合に備えているらしい。わざわざ京都に来てまでと、あきれはするが、この程度の犯罪が身に染みついてしまったのかもしれない。

「観光が目的っぽくないんだけど」

無神経な三人組の前に中学生が一人、返事も聞かずにつかみかかった。顎を捕まえ、押し上げ、歯を折り、目潰し、真ん前の電柱に打ちつけ。敵は呆気に取られたが、それは班員も同じだった。彼は好戦的な性格で知られていたが、その現場を目にした者は多くない。小路はにわかにざわめいた。

さて、これからどうしようか。

飛び出してくる四人目を妨害するか。いや、なしだ。私の体格は悪くないが、この高校生たちには劣る。普通なら一人では抑え込めない。金属パイプを弾いてやるか。いや、なしだ。私の成績は悪くないが、やはり、この敵の意表を突くには劣る。ならば警告してやるか。いや、それこそ何より普通ではない。曲がりなりにも奇襲である。喧嘩慣れした班員でも気づけないほどの。

結局、あまり聞きたくない音がして、班員が倒れた。私は呆然と立ち尽くしておく。背後で別の班員が息を潜めたが、そのことに気づく余裕などあるはずがない。クラスメイトより一回り以上も大きな高校生が、四人もそびえ立っているのだ。最も暴力に近しい班員は、後頭部を殴打されて動かなくなってしまった。表情は恐怖にゆがみ、足もすくむというものだ。

残る男子も一撃で昏倒。一方、高校生は五人目を呼び寄せ、なすすべもない女子三人は真っ先に茅野さんを狙われる。

クラスで最も小柄な茅野さんは、体育の成績を見る限りにおいても、近接戦闘には向かなかった。もっとも敵も女子中学生には戦意を示さず、愛玩動物の抵抗を相手するような気軽さで、彼女を捕らえ、神崎さんも狙った。私も当然のように拘束された。乱暴に、しかし手際よく。盗難車に投げ込まれる。五月末、東京の高校生の無免許運転は、こうして拉致した中学生を連れ回したのだ。

移動距離がさほどでもなかったことは——不幸中の——幸いだ。とはいえ気休めにもならない。ありふれた車種で、ナンバープレートにも細工があった。傷害も拉致も躊躇しなかった不良たちが、目についた廃墟に侵入して、女三人を転がし、成すべきことなど限られている。わざわざ旅先で犯罪などとはあきれるよりほかないが、こうして実行に移したところを見るに、強姦の常習犯なのだろう。

暗い屋内を、せっつかれて歩かされた。放置されて久しいのだろう。散らかったままの遊技場、椅子の欠けたカウンター席、床に転がる空の酒瓶。そういえば班員も地面を転がったなと思ったところで、私たちも地面に投げ出された。足は自由だったけれど、私はされるがままに体勢を崩す。すぐ後ろに、まだソファーだとわかるものが残されていた。床の硬さを気にしてくれるような相手だろうか、いや衛生観念を期待できる相手だろうか。

「ツレに召集かけてるからよ」

——ないな。輪姦を企画できる人間に衛生観念が備わっていることはありえない。

さて、これからどうしようか。

(目の前が、ちかちかした)

猶予を告げて、犯罪者はたやすく背を向けた。そして久しく手入れのないだろう椅子に自由意思で尻を乗せる。私たちは顔を見合わせた。すると神崎さんを挟んだところで、茅野さんが口を開く。

「神崎さんも、ああいう時期があったんだね」

なるほど。

——四班が高校生に襲われたことは、実は単なる偶然ではなかった。神崎さんだ。非情に評判がよかった彼女は、淑女としても認められていた。ところが、おおよその期待を裏切って、不良に目をつけられるような場所に通っていた。おかげで彼らは盗撮までして彼女を狙い始め、このたびは、たまさか旅行が重なってしまった、と。

神崎さんは自身の制服を見下ろした。

「うちは父親が厳しくてね、いい学歴、いい職業、いい肩書ばかり求めてくるの」

茅野さんが相槌を打つ。神崎さんは泣き出しそうに後悔の丈を吐き出した。肩書生活から離れたかった。名門の制服も脱ぎたかった。やがて昨夏、知っている人がいない場所で恰好も変えてゲームセンターに入り浸った。そのうちに成績を落とし、学年末テストでE組落ちが決定的になる——。神崎さんは泣かなかった。茅野さんは黙って耳を傾けた。私もならって聞き続け、いよいよ不良が戻ってくる。

(呼んだツレが来る前に、様子を見てみる気になった)

目の前が、ちかちかした。

しかし思考は造作もない。敵は五名、その内一人が外で見張りを、つまり屋内には四人の敵がいて、頭目は今まさに立ち上がったところだ。「ツレ」とやらが五人も十人も訪れるそうだけれど、合わせてもこの頭目が頂点だろう。社会の軸は暴力と犯罪、自慢は台なしにした人間の数、その一部始終を残した動画は大事に蒐集している。顔を上げると、その頭目と視線が交わった。

(導かれるように見下ろした)

不良たちが立っている。四人もいて、四人共がいかにも不幸な面でいる。これが「肩書生活」を外れ続けた者の末路だ。と、同級生に伝える前に、不良の頭目に首をつかまれた。

(思わぬ収穫が一つ、二つ)

本物の衝撃が私を襲う。ソファに背中を打ちつけた。汚い。咄嗟に考えた心はこの私の口からは飛び出さないけれど、思わずうめいた声も言葉にはなりやしなかった。少女の悲鳴のような音が、私たちの間を鋭く通り抜ける。

(女が苦痛にあえぐ音は、そこを強く揺さぶった)

同級生より大きな手が制服に伸びる。

(捕まえた首は男のそれより、いくらもか細い)

目の前が、ちかちかした。

(目を離すことが、できなかった)

さて、これからどうしようか。

窒息を知覚しつつある脳が、同時にクラスメイト二名の位置を把握する。くわえて敵の位置関係。いや、私は押し倒されている。敵が覆い被さっている。

ずきずきと胸が痛んだ。

(どうしても目が離せなかった)

じっと目を見た(少しだけ)神経が焼けつく(もう少しだけ)幻覚がした(血液が走った)幻覚が侵入する(声が聞こえる)幻覚が聴こえる(幸福)とは何ですか。市民(幻覚)幸福です(幻覚です)義務です(幻覚は)幸福は(聞)こえた。幻覚が聴こえた。私が答えた。幻覚が問うた。——市民、幸福ではないのですか。


朝だか昼だか夜だか、いや深夜だったか、通信などでブリーフィングルームに呼び出された。最後ではなかったが三番目の到着で、用意された椅子は三脚。座ろうとしたら四人目が来た。大抵のトラブルシューターは四人一組でミッションに当たる。それで、私は椅子を譲った。三脚の椅子に三着の橙色、一際偉そうな椅子には黄色が腰かけ——、隅に積まれた赤色の山を一瞥する。


心臓がばくばく鳴った。血液がどくどく流れた。神経がひりひり焼かれた。網膜がちかちかひずんだ。久しく知らなかったような感覚が、その実、初体験にも似て痛覚まで及ぶ。アー、アー、アー、ッははは。胸中の笑みは幸いにして音にならない。ふと敵を見つめてみた。こちらは——不運にも——相手の不興を買う。首から離れた手が「生意気な」面を張る。

ああナメてるよ。だって、ほとんど獣じゃねえか。ナメるなって、そいつはテメェの一物を鎮めてから言わなければ、説得力に欠けるというものだ。もちろん私がそれをさせているのだが。当然、真にミュータントパワーを持たないだろうヒトへの力の行使でもあった。この世界はアルファコンプレックスの形をしていない。

アルファコンプレックス市民ならば拡張クローニング施設で完全に完璧に出生する。異性間性交渉はこの非の打ちどころのない慈悲の施策を「台なし」にする反逆である。アルファコンプレックス市民ならば性ホルモン抑制剤の投与が義務だ。ザ・コンピューターがそれを意図した。友にして母、彼女にして彼、善性にして知性、完璧にして完全。彼が彼女が完璧に運営する完全な地下都市で、市民はすべて生産的で効率的で秩序正しく、つまり完璧に幸福に暮らしていた。

六体を失う前の私が。

ザ・コンピューターが君臨しない地上都市で、異性間性交渉(!)によって産み落とされた私たちは、今また異性間性交渉(!)によって互いに資源を浪費しようというらしい。残る三人も限界だろうか。少なくとも制御装置を一番バカにしてやった私の体の上の敵は、性欲のままにワイシャツに手をかけている。体を押さえつける力は少しだけ緩んだけれど、普通の中学生には微々たる差だ。

構うことはない。どうせ私の役割は肉壁だ。死ぬこともない。犯人は班員を一人も殺さなかった。いずれ事態は収束する。もうまもなくのことかもしれない。あの場で殴られることもなく、捕らわれることもなく、逃げおおせた班員もいる。彼女は誠実な部類の人間だから、遅かれ早かれ必ず班員を助け起こす。そうすれば誰より渚くんが修学旅行のしおりを持っている。

——千二百四十三ページ、班員が何者かに拉致られたときの対処法。犯人の手がかりがない場合、まず会話の内容やなまりなどから、地元の者かそうでないかを判断しましょう。地元民ではなく、さらに学生服を着ていた場合。千二百四十四ページ。

「考えられるのは相手も修学旅行生で、旅先でオイタをする輩です」

ぱっと首が自由になって、私は思わずせき込んだ。遅れてミュータントパワーの発動を解除する。不良たちは完全に私の身体から意識をそらした。頭目もすでに立ち上がっている。だからと着衣を整えようと試みたら、こちらは肘をぶつけて頓挫した。床に体がずり落ちる。そういえば腕を縛られていたのだった。仕方なしに足とソファーを利用して、上体を起こすにとどめておく。

少女の悲鳴はやんでいる。かわりに「拉致られ」仲間がもの言いたげな顔をつくる。

「大丈夫だよ」

私も顔を向けて伝えると、二人は同時に息をのんだ。一瞬といえど、いささか衝撃的だったか。私は反省とともに制服を見下ろした。高かったのに汚れてしまったカーディガンと制服が、ボタンを失ったり、失いかけたり。制服の被害は、次の私が防いでくれるだろう。今の私ではない。

今は。出入口の扉を背に、班員四名が立っていた。重傷を負った者はいないようだ。彼らの足元に落とされた不良のことは除くとして。それでも重傷という程度でもない敗者を足元に、渚くんたちが種を明かす。

「すごいな、この修学旅行のしおり、完璧な拉致対策だ!」

「いやー、やっぱ修学旅行のしおりは持っとくべきだわ」

高校生たちには難しかったようだが、そんなしおりがあるものかって、そんなしおりはあるものだ。私たちの異常な担任が——生徒の安心と安全のために——常軌を逸した熱量を注ぎ込むから。

直後、屋外からの、大勢を思わせる足音がする。例の「ツレ」のおでましか。五人だったか十人だったか。高校生たちは手数を期待して勝ち誇った。

「おまえらみたいなイイコちゃんはな、見たこともない不良共だ」

中学生四名が振り返って警戒する。隣で縛られている神崎さんも、びくりと肩を強張らせた。大丈夫だよ。私は再び彼女にささやく。だって、


「不良などいませんねえ。先生が全員、手入れしてしまったので」


開かれた扉の向こうから、黄色の怪物が現れた。椚ヶ丘中学校三年E組の担任教師、触手生物の殺せんせー。

生徒につけてもらった名前ですと、出会ったその日にそう聞いた。