第17話「しおりの時間」から第19話「好奇心の時間」まで

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五月、さらに修学旅行

高校生が手数を期待した修学旅行の、およそ一か月前の朝、私は手数の多い担任に出会った。

信号のごとく黄色の皮膚に、球のごとくに丸い頭、まるでわざとらしいアカデミックドレス。ただ衣装だけがその職業を保証しているようで、袖から裾から、触手、触手、また触手。が二本、が六本、だがタコと認めるわけにはいかない。それどころか、この世に知られている生物とはまるで一線を画している。それら超人的とも表現しがたい特徴を余さず操る体長が、三メートル弱だ。

「おはようございます。はじめまして。月を壊して地球も壊す、百億円の賞金首です。いつでも殺しにきてください」

出会ったばかりのクラスメイトが横でかすかに苦笑した。私は啞然として担任を見上げた。決して冗談だからではない。決して冗談ではないからだ。つい三月、月は本当に爆発した。その四月、私たちのクラスは国から武器を支給された。翌三月、地球を爆破する前に暗殺せよと。しかし極秘といえども世界から命を狙われて、一か月以上も死なずにいる。——殺せないから、殺せんせー。


卒業までに殺せなければ。地球が爆発し、人類は滅亡する。


国家機密にして有言実行の担任教師はこの五月、修学旅行で起こった事件を瞬く間に解決した。彼の手書きの修学旅行のしおりの付録百三十四に拉致実行犯潜伏対策マップがある。彼は渚くんたちを最も近い地点に向かわせて、それ以外の地点をしらみ潰しに確かめた。人間には不可能でも、この賞金首なら最高速度はマッハ二十。速すぎるから殺されないのだ。

だが。速すぎるからかわされる、速すぎるから見つからない、だがクラス担任をするならどうだろう。

賞金首による提案だったということだが、これは結果的に条件付きで認められた。学校教師をするならば、授業の間は教室にいる。クラス担任をするならば、クラスの生徒と関わる時間は、より多い。それも椚ヶ丘中学校の三年E組であるならば——。

こうしてE組の生徒は即席の暗殺者に仕立て上げられた。国家機密の賞金首はというとクラス担任として申し分ないどころか、むしろ並みの教師より手厚い。今日も今日とて生徒を教え、助け、守り、私たち三人は瞬く間に拘束を解かれた。次の瞬間には制服のボタンも閉まっていた。カーディガンの汚れも目立たなくなっている。すり傷には消毒液、さらには顔まで拭われた。

「ちょっと大袈裟じゃないですか」

「いいえ、ちっとも」

即答の後、二本腕の触手が顔から離れる。それから触手の持ち主はすまなそうに反省した。

「先生のスピードが至らないせいで」

「マッハ二十でそれを言います?」

「言います」

返事は再びマッハで。もっと速くなりますと、すでにマッハ二十の超生物が決意する。

「『もっと』」

「そう、もっとです! 超生物たるもの志は常に高く、マッハ四十でどうでしょう!」

「それは、さぞかし速いんでしょうね」

ヌルフフフと笑い声がした。

「それは、もちろん二倍ですから」

それでも私なら殺せるけれど。

「頭痛や吐き気はありませんか」

「——目の数が二倍に見えます」

「二分の一は鼻の穴です」

黄色の頭が私を見下ろす。

「大丈夫ですか」

それでも私は殺せると思った。

「はい、ありがとうございます」

それが巨躯をうねらせても、無数の触手を操っても、最高時速がマッハ二十でも、それが二倍になろうとも、黄色の怪物だろうとも。

「あなたの先生ですから」

それだけならば私が殺せる。

「私、先生の生徒でよかった」

私が殺せる。

それだけならば。

私は―――だから。

私たち四班はそのまま先生と合流して、一緒に京都見物をした。せっかく下見までしたプロの狙撃手との共同暗殺はこの事件でお蔵入りとなった。だが暗殺を抜きにしても修学旅行は楽しい。特にあれだけのしおりの著者との観光は充実しており、それこそ瞬く間に日は傾いたのだ。そして先生と別れた後は、最後の予定の手前の道で見慣れた金髪と遭遇する。

「あんたたち、ちょうどいいところに来たじゃないの」

誰がビッチよとは返さない、三年E組英語教師ビッチ先生ことイリーナ・イェラヴィッチだ。月の初めに出会ったときは正しい発音を説きもしたが、テスト前にはやめてしまった。百億円の賞金首を殺せなかった殺し屋で、専門は潜入暗殺、得意技はハニートラップ。頭の天辺から爪の先まで非の打ちどころのない美形にして、産毛の先から骨の髄まで非の打ちどころのないビッチである。

ビッチもといビッチ先生は班の男子を手で招いた。のこのこ向かって足元に目をくれ、ゲッとうめいた杉野くん。先生は彼を標的に定めた。三十秒後、紙袋複数を両手に持たされた中学生が、美人の後ろをどかどか歩く。

「こんな引率教師がいてたまるか!」

「それがいるんだなあ、杉野の前に」

こうして夕方はビッチ先生と一緒に回って、旅館にも一緒に帰ることになった。彼女は杉野くんに戸を開けさせると、

「美女の帰りよ、出迎えなさい」

人影が現れて四班は目を見開いた。呼びたてた「美女」も瞠目している。黒服の体育教師兼副担任、兼、表向きのクラス担任。防衛省が現場に派遣してきた暗殺の監督役で、専門は戦闘、得意技も戦闘。生徒人気はすこぶる高い。暗殺技術を教えてくれるからというよりは——わざわざ生徒の目を見ておかえりと言ったり、大変だったなと声をかけたり。こういうところが原因だろう。

ひとしきり生徒の様子を見た烏間惟臣は、生徒たちに目を向けたまま、早速で悪いが、と切り出した。

「いくつか聞きたいことがある。荷物を置いて——そうだな、十分くらいしたら俺の部屋に来てほしい」

怒り心頭のビッチ先生を背に私たちは大部屋に向かった。廊下の途中で男女に別れ、無人の和室に出迎えられる。女子四人は黙々と荷物を整理した。そのうち他の班が帰ってきて、挨拶がてら今日の感想を簡単に交わす。トラブルのことは伏せておいて。そうしたら、よい時間になってきたので、烏間先生の部屋へ向かう。すると、男子の大部屋へ続く廊下の途中で、ふすまが開いて渚くんが現れた。

渚くんだけではない。班の男子が勢ぞろいで、肩から荷物を提げている。入れ替わるように部屋に入ると、烏間先生を中央に、E組教師三名が女子生徒四名を待っていた。ビッチ先生だけは座布団を使っている。

男子は先に話を済ませたようだった。中央の烏間先生がすでに状況説明を受けたと言って、女子はまず体の具合を聞かれた。全員が首を横に振った。黄色の触手生物と一秒ばかり視線が交わる。わかった。烏間先生は表情を変えずにうなずく。もしものときは教師を頼れと、定型的な確認をいくらか。それから彼は親指を隣に向けた。

「こいつのことだが」

黒子がいた。私たちは顔を見合わせた。いや黒子といっても部外者ではない。クラス担任である。彼の扮装癖は、E組の間ではよく知られている。先生には国家機密の自覚があり、部外者の前に出るときは、正体を隠すために変装するのだ。それだけでもないけれど。とにかく今日も廃墟に駆けつけてくれたとき、高校生の前で扮装を披露したわけだ。ちょうど、この黒子の恰好を。

烏間先生の表情は苦々しい。

「相手が正体を怪しんだ様子はなかったか?」

「殺せんせーの変装、今日のはいいできだと思うけどな」

茅野さんは笑顔で答えた。定番の扮装は、黄色の皮膚を変色させ、球のような頭にかつらを乗せ、顔に鼻(のようなもの)をつけ、触手の足はズボンで隠し、触手の手には五本指の手袋をはめる、というものだ。烏間先生は眉間にしわを刻んだ。比較対象が論外らしい。あれで全校集会に参加したこともあるのだが、たしかに烏間先生には許容範囲外だっただろう。

大丈夫ですよと本人は言う。

「この顔が暴力教師と覚えられないよう、万全を期して駆けつけました」

烏間先生はもの言いたげになったが、この場ではのみ込み、いずれにせよと話を進めた。

「彼らにはしばらく監視がつくことになる」

形はどうあれ、国家機密と接触してしまった以上は当然の措置だろう。烏間先生も真剣な表情で同じことを告げた。そして、まっすぐ生徒を見た。

「君たちにも頼まなければならないことがある」

狙撃手が辞退した。消灯前の談話室で聞かされた。暗殺は中止だと。しかし即席の暗殺者たちは、今夜も支給品の武器を手に手に、旅館の廊下を駆け抜けた。貸し切りだから苦情は来ない。捕らえて吐かせて殺すのよ。男子禁制恋愛話を盗み聞きされて殺気立った女子と、なぜかやはり殺気立った男子。あの先生が男子の大部屋で同時に盗み聞きを働いていても、驚くには値しないが。

挟撃、狙撃、斬撃、連撃。支給品の玩具はすっかり両手に馴染んでしまった。思い立って後ろへ下がり、自分の腹を刺そうとしても、刃先は決して布を裂かない。かわりに、ぐにゃりと刀身を曲げて元の姿に戻ってしまう。ふとしたことで引き金を引いてしまっても、飛び出したるはBB弾で、蒸発どころか怪我もできない。先生はすべてから身をかわすけれど。

玩具のようなナイフも弾薬も、標的だけには覿面に威力を発揮するのだ。通称、対先生武器。床を転がるBB弾を摘まみあげても、潰すように力を込めても、私の指は溶けださないが、先生の触手が同じことをすれば、たちまち細胞から崩れ落ちる。

逆に通常の武器が通用することはない。以前、殺し屋が実弾を使ったが、すべて先生の体に溶けたそうだ。だから今日の狙撃手は、特製の弾薬を支給されていたという。

また特製の武器だからといっても、たちどころに致命傷に至ることはない。実際、腕の先、脚の先といった程度なら、先生は幾度か傷ついたことがあるけれど、現在なおも生存している。無論、攻撃を受けた部分は溶け落ちたが、彼は再生能力を備えており、恒久的な損失にはつながらなかった。

と、未知の生態が標的ではあるものの、おそらくは他の多くの生物と同じように殺すことになる。痛手を与え続ける、急所、心臓、核を突く。

もしも先生が死ぬときは——。いや。私は頭を振った。だが。一つ後退する。でも。敷居を踏んでしまって、また下がる。空き部屋の畳に足が乗る。浴衣を着ていた、裸足の足が。いや。いや。私はさらに後ろに下がった。振り返ると、数歩の距離に、期待のとおりに窓がある。構えたままのピストルを外に向けて照準を合わせた。京都の星空に見下ろされて、引き金に指をかけてみる。

月の見えない空だったが、いずれかの星に狙いをつけたのだ。——もしも。また考えた。地球が爆発するときは。

去る三月、月は爆発して三日月になった。では地球も、もしも爆発するときは、体を蒸発させるのだろうか。

窓の外を撃つふりをして数秒、数十秒たつか、たたないか、クラスメイトが私のように独り輪を離れ、私のように空き部屋に来た。同じ部屋、敷き詰められた畳の上を、一歩、二歩と歩いてくる。私はさも足音で気づいたふりをして、ピストルを下げて振り向いた。二、三人ほどの間隔の向こうに、クラスメイトの顔が見える。

「何してるの」

クラスメイトは二、三人ほどの間隔で横に並び、静かに窓を開けた。ぬるい空気が入ってくる。彼は私より十センチ高いところについた目で同じ星空を見上げ、再び私に問いを投げた。

「空なんか見てた?」

「そんなとこ」

普通のクラスメイトの距離感で答えてみる。クラスメイトは相槌を打った。昼間の喧嘩がうそのような、さも退屈げな表情で、夜空を眺め続けている。

しばらく気まずい時間が流れた。無言が続くと、この私は多少なりとも居心地が悪くなる。だからといって雑に話題を広げる性格もしていない。おそらく私に用事があるのだろうが、直接に尋ねることはできなかった。私とこのクラスメイトとは、それだけの関係を構築できていない。もしも誘いを断っていたら、もしも六人班だったら、もしも今日が先週だったら、もしも——同じ班にならなかったら。

先週の午後だった。渚くんが茅野さんと杉野くんを誘った。茅野さんは奥田さんを、杉野くんは神崎さんを、そして奥田さんが私を誘った。七人班に、これで六人。最後の七人目は班長の渚くんが、また自ら声をかけた。まだ話がついていなくて、それから誘われることもなかった生徒を、渚くんだけが誘った。赤羽業。渚くんが最後に選ぶ相手は赤羽以外ではありえなかった。

赤羽は渚くんの一年の頃からのクラスメイトである。それも親しい間柄だった。渚くんにお願いしようかなって、ンなこたァありえない。だが渚くんは茅野さんと距離が近く、茅野さんは奥田さんを気にかけており、そして奥田さんは私を誘った。もしも——また考える。いや。

「先生は殺せた?」

結局、無難な話題を選んだ。赤羽は軽い調子で答えた。全然、だと。驚くことはない。

「なら明日も暗殺しなきゃだね」

生半可では殺せない。二か月間で生徒は思い知らされて、幾度も暗殺を企ててきた。

「そういや千葉と速水さん駆り出そうって話が——」

「たしかに狙撃の成績がいい」

「——磯貝と片岡さんに却下されてた」

暗殺計画は世間話の類いだった。私たちは同じ調子でおみくじの話をして、おみやげの話をする。今日、午後に立ち寄った神社で、先生が大吉を引けず落ち込んだ。まんまと破魔矢を買わされて、明日は木刀までつかまされる。それから東京でも買えそうな京都みやげを買わそうぜ、と赤羽が。

「しおりに『京都で買ったおみやげが東京のデパートで売っていたときのショックからの立ち直り方』ってのがあって」

「それを言ったら破魔矢のことも『家で置き場に困る』って——書いてた、けど、買っちゃったんだ」

「そ」

赤羽は悪戯っぽく笑った。

「絶対、後から落ち込むから。木刀も買わせて、あと大凶も引かせたい。——落ち込んでるときが狙い目だと思うんだよね」

話題は尽きなかった。今日はただでさえ修学旅行で、私たちは同じ班になり、観光も食事も新幹線も一緒だった。この日のために一週間以上も共に準備した。そして何より暗殺教室だ。生徒が担任を殺すクラスは、他に類を見ない、そのものが話の種である。

暗殺する生徒、爆破する担任、爆破される地球、爆破された月。窓の外に浮かぶ三日月。それを見あげるばかりであっても、言葉の形を選びさえすれば、ウンもアーもエットも要らない。だから。

——赤羽は、なかなか本題に入らなかった。

控えめなクラスメイトではない。私の記憶の限りでは気持ちも声も主張も体格も、決して控えたところがなく、しかし消極的ではある。彼の積極性はことさら関心事にのみ強く発揮され、おかげで今やクラスには、彼の得意分野を知らない者はいない。

よって喧嘩の用件ではない。私は消去法を一つ進めた。赤羽が世間話に訪れ、かれこれ五分が経過した。仮に喧嘩の用事なら、今は胸倉をつかみ合っている頃だ。そして喧嘩が関係しないなら、予想はするだけ無駄である。喧嘩が関係しないなら。私は一度も尋ねなかった。五月も半ば、しかし今すでに赤羽業は、ただのクラスメイトではありえない。

暗殺ではない、くじ引きでもない、京都みやげも関係ない。だが修学旅行のできごとであって、あるいはその前から、一週間以上前から、一か月以上前から、三年生が始まる前から。

「俺に言いたいこと、ないの」

「まあ、一つくらいは」

二年生の冬だった。その頃すでに私たちは三年次のクラスを同じくすることを確固たる事実として知っていた。三年目のクラスメイトになることを。

何も珍しいことはない。この学校では、国家機密の賞金首が担任教師を務める前から三年E組は特別だった。特別なクラスだった。この学校では劣等生は末路を用意されている。特別強化クラス、通称、エンドのE組。

劣等のまま二年生を終えた生徒は、三年E組に落ちることを当校の規則で定められている。

見殺しにされた。

一週間以上前、一か月以上前、三年生が始まる前の冬。当時二年生だった私の前で、三年生がそう言った。A組の生徒だった。よって成績優秀者だった。進学校にはよくある制度、特別進学クラスである。だから私は巻き込まれたとも言えなかった。——ちょうど前日、少し外れた帰り道に、喧嘩を制した中学生が得意げな顔で立っていた。当時クラスメイトだった二年生が。

劣等生の条件は様々だ。成績不振はその最たる例だが、判断は二年次学年末テストで下される。総合順位が下位だったとか、主要五教科で赤点をとったとか。E組落ちの基準は、公然の秘密だ。全校生徒が知らされている。成績の維持そして向上に努めよ。それだけでよかった。それだけで。椚ヶ丘にかようような生徒の多くは素行不良など犯さないのだから。

とはいえ中には素行不良者もいる。出席日数が足りない、授業態度が悪い、校則を守らない。実際、今年のE組の一人は、校則違反のアルバイトが露見した途端に転級通知を受け取った。そして赤羽も二年の冬、喧嘩の翌日に受け取った。誰も驚きやしなかった。あるいは誰かは驚いた。彼は一年の頃から有名だった。

物事には例外がある。必ずしも不良がE組に落ちるとは限らない。無断で遅刻して早退して欠席して、喧嘩して、暴力沙汰を起こして、それでも、たとえ常習犯でもE組に落ちないことはあるのだ。必ず定期テストを受けて、常に成績上位を記録し、それがA組入りを確実視されるほどならば、担任教師は喜んで不良をかばうだろう。受け持ちの生徒をA組に入れた功績は、雇用者としての評価につながるのだ。

この学校の根幹には実力主義が存在する。

校則違反のアルバイトが露見した生徒も、頭抜けた成績を残せていれば、やはりA組に進級しただろう。赤羽も、だから見逃され続けた。だから赤羽は、見とがめられた。あの日、彼が勝利を誇った相手は三年A組の模範的優等生だった。

「こいつです」

朝のホームルームに現れなかったクラス担任が放送で私を呼び出した。一時間目の最中のことだ。廊下で赤羽とすれ違った。訪ねた教員室は荒れきって、待ち構えていた担任教師は、かろうじて自分の席を整えていた。一人の生徒がその隣で、つえを、ついていた。ギプスに支えられていた。包帯に巻かれていた。一目瞭然、重傷だった。そいつが言った。その瞬間、すべてが決定づけられた。

担任は何事をも喚いた。その上級生がいかに優秀な先輩で、あろうことか三年A組におわして、さらなる成績上位者であらせられて、季節は冬、冬の、三年A組の、模範生でいらっしゃるのだと、怒声を以て繰り返した。冬の二年生は学年末テストが心配だろうが、冬の三年生は受験が心配だろう。椚ヶ丘学園は中高一貫校だが、外部進学を選ぶ者はいる。実績づくりの受験というものもある。

「どうして赤羽の肩を持つ? 彼の実績に傷がついたら、俺の評価まで下がるんだぞ」

ひとしきり喚くと、当時のクラス担任は尋ねる体で口を開いた。同じ言葉を先の一人も聞いただろう。同じ言葉をそれから私も聞いたのだろう。

「おまえの転級も申し出ておいた。停学の届け出もしなくちゃあな。おまえは、もう少し賢いと思っていたよ。それが赤羽なんぞと一緒になって、こんな問題を引き起こすとは。さあ、三年になるまで登校しなくていいようにしてやる。二度と俺の前に現れないでくれ」

三年E組の教室だけは、本校舎の先、さらに山の上、特別校舎——旧校舎——に存在する。校則で、そう定められている。


「ごめん」


浴衣のクラスメイトが腰を折っていた。そんな、と私は口では言った。彼は頭を上げなかった。上げてと言ってみたけれど、腰は曲げられたまま言葉が続く。

「俺は今でも正しかったと思ってる」

「赤羽くん」

「けど、だからあんたがE組に落ちてよかったとは思わない」

「いいクラスにきたと思ってるよ」

「もっといい修学旅行だった」

「充実した暗殺旅行にはならなかっただろうな」

「あんたが——あんな目に遭うこともなかった」

ごめん。浴衣のクラスメイトは再び言った。私はこう言うことに、なっていた。いいよ。と、

「何もよくない」

クラスメイトはようやく頭をあげた。滑稽な表情を浮かべていた。たしかに、と私は返事をした。

「たしかによくないことはあった。けど、いいよ、そんな。もう済んだことだから」

「『済んだ』」

白い顔が繰り返す。

「うん。済んだ——。そっか、まだ男子とは話せてなかったんだっけ。先に大部屋で考えたんだけど、女子は協力してもいいって方向でまとまったの。もちろん返事は七人全員で話してから、ってことにもなったよ。ほら、殴られたり蹴られたりしたわけだから」

私は浴衣と、その首から上とを順に見る。どうやら目立たない程度の傷で済んだようだけれど、日中の事件で班の男子生徒は暴力被害に遭った。女子生徒もあわや性被害というところだったが、これらについて烏間先生はあることを頼んできた。国家機密の諸々のために表沙汰にしないことを求められたのだ。かわりに犯人らには十分な監視をつけると。そこで女子四人は七人全員で話し合って決めますと答えたのだった。

「そんなの、最初から決まってた」

男子生徒側が、女子と話すまでは返事ができないと告げたというので。

「烏間先生は頼んでくれたよ」

おそらく赤羽が言い出したことだ。

「その『頼み』を断るって選択肢、あんたらにはあった?」

思うにそれが赤羽のクラス随一の戦闘能力を支えていた。

「なかった、かな」

絶えない喧嘩で培われ、そして誰より早く高校生の襲撃を知らせた部分。

「済んでないよ」

まるで獣ののような、それが、——ただの真剣な表情を、物珍しく奇妙な振る舞いだと錯覚させる。

「済んだことだよ」

私は答えた。

「たしかにE組落ちって言われたときは、この世の終わりみたいだった。ずっと学校に行けなくて、学年末テストも受けられなくて、三年生が始まって、そのうち月が爆発して、いざ学校に行けるようになったら、地球も爆発するんだって。そんな先生が私を待ってた。今日みたいに、生徒を危機から救ってくれる先生が。会えてよかった。私、暗殺者になれてよかった」

赤羽くん、と呼びかけて、

「いいことが、たくさんあったよ。私は今が一番幸福なんだ」

赤羽は黙り込んだ。それだけで音が失われる。室外の喧騒も随分と落ち着いてきたようだ。今日の暗殺はしまいだろう。私は再び窓の外を見た。隣の赤羽も鈍い動作で夜空を見あげた。それから、ものも言わずに窓を閉めた。私はそれでも視線を外さなかった。相変わらず月は見えないが、数多の星が瞬いている。

無言の時間は長続きしなかった。暗殺大会が終わって、班員が私たちを探しにきたのだ。開け放しの部屋の外に、奥田さんと杉野くんが足音をさせて現れた。

「なんだ、二人一緒、だったんだな。あっちで明日の計画を見直そうぜって話しててさ」

「邪魔しちゃいましたね」

私たちはそれぞれ振り返った。

「いや、べつに」

「ちょうど、そっちに行くところだったから」

赤羽が言葉の終わりも待たずに出ていく。あっと杉野くんが声をあげた。赤羽は制止の声も聞かない。杉野くんは慌てて背中を追いかけ、奥田さんも視線をせわしなく移す。そうしながら一歩、彼女も引き返すように爪先を向けた。

「私たちも」

私は最後に部屋を出た。明かりは奥田さんが消してくれて、ふすまは私が閉めようとして、ピストルが持ち上がった。指が引き金に触れている。横で奥田さんがうかがうように私を見た。私は笑みを打ち消して、首を横に振って、表情をつくりなおす。