第95話「間違う時間」から第97話「アフターの時間」まで

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神崎有希子、十月

顔を上げたら日直が黒板の月日を書き直していて、神崎はひどい胸騒ぎを覚えた。当番を忘れていたからではない。黒板を整理されたからではない。今朝はまだ始業前。殺せんせーも来ていない。ではなぜか。

神崎は顔をうつむける。落書きの一つもない木製の机が、彼女の視線を受け止める。年季の入った机である。実用上の問題がないと言うと、いくらかの虚偽が挟まることになるけれど、もう六、七か月のつき合いだ。だが疑問に答えてはくれなかった。

そのうち殺せんせーがやってきて、刻限のとおりに授業が始まる。そうなって初めて忘れ物のことを考えて、緊張とともにかばんを探った。杞憂であった。何もかも必要なだけ、宿題も予習も過不足なく済んでいた。テスト勉強も順調だ。二週間後の中間テストに向けて、今日は早速、担任教師が付き切りで——生徒全員に対して付き切りで——懸念点を一つずつ解消してくれた。

それで、どうして落ち着かないのだろう。昼休みの弁当をおいしく食べて、なおも神崎は考えた。箸を忘れたわけでも、クラスメイトの誕生日を失念していたわけでも、何か争いの兆しを見逃していたわけでもない。今日は四班の女子で食べる約束をしていた。神崎は正しく覚えていた。だが、ふと気が散った。何かが言葉にできずにいる。視界の端でクラスメイトが担任教師に斬りかかる。

神崎は、はっとなって顔を上げた。まっさらな黒板が次の授業を待っている。

「どうしたの、神崎さん」

友人の一人が神崎を見ていた。神崎は緩やかに首を振った。

「ただ、十月になったんだなって、考えたの」

「——そうだね」

友人は弁当箱を包み直す手を止めた。白色のカーディガンが、弁当箱に影を生んでいる。

「中間で忙しくなる前にどこか行っとく?」

「わあ、いいですね」

別の友人がうなずいた。学校指定のブレザーに二本の三つ編みを垂らしている。最後の一人も手をあげた。

「私も賛成!」

同じくブレザーで、十月といえば秋だもんねと、何やらうんうん考え始める。食欲の秋のことかしらと、密かに次を予想しながら、神崎も心中でうなずいた。中間テストまで、あと二週間。先学期中間、期末と激化の一途をたどる当校第三学年テスト事情を思えば、今のうちに英気を養っておくことは決して悪い考えではない。友人も同様に宣言した。

「秋といえば食欲の秋! 新作スイーツで——英気を養うのだ!」

友人は食べたい甘味を次々とあげた。新しいプリン、今までのプリン、風変わりなプリン、プリンパフェ、プリンケーキ、プリンドリンク。彼女はプリンが好きなのだ。高じてプリン爆殺計画を一から一人で立ててしまった程度に。他の甘味も好んでいるが、今朝ちょうど歩きながらいくつも目星をつけてきたらしい。

「私も気になるわ」

そのように神崎がうなずくと、あとはだんだん話がまとまって、放課後に四人で店に入ることになった。意識をそらしてくれたのだと、午後の授業が始まる前には気づいていた。あのまま思考を続けていては、取り返しのつかない間違いさえ起こしたのではないか。わからないけれど、たしかに気は紛れて、授業も午前より集中して取り組むことができた。しかし、誰もが同じ焦燥感にさいなまれていたと気づくためには、早くとも放課後を迎える必要があった。

「あと五か月だよ」

一本道の下り坂で、それは神崎の言葉ではなかったけれど、正しく彼女の懸念だった。クラスメイトの動きが一斉に鈍くなる。テスト期間に入ったこともあり、この場には相当な人数がいた。にもかかわらず、だ。勉強している場合だろうかと、誰もが不安を抱いていたのだった。

「暗殺のスキル高めるほうが優先じゃないの?」

「——仕方ねーだろ」

別のクラスメイトが苦々しく返事する。

「勉強もやっとかねーと、あのタコ来なくなんだからよ」

それこそ先学期中間テストのことだ。百億円の賞金首が現れて一か月、E組制度の影響もあり、暗殺があるからとテストひいては勉強の価値を軽んじていた生徒の前で、賞金首が言い出したのだ。生徒全員が上位五十位に入れなかったらクラスを出ていくと。結果をいえば、E組に劣等生であってほしい本校舎側の工作を受け、目標は達成できなかった。だが、当時の担任教師の言葉は、今も生徒の心に深く刻まれている。

他の殺し屋に先に殺されたらどうなるのか。今のままでは、E組の劣等感だけが残ることにはならないか。優れた殺し屋は常に失敗を想定して、予備の計画を用意している。自信を持てる次の手があるから、自信に満ちた暗殺者になれる。

第二の刃。殺せんせーはE組の暗殺者にとっての勉強を、時にそう表した。今、生徒たちは本心から、第二の刃を大事に磨いている。

一方でこの暗殺には期限があった。殺せんせーは地球を爆破する。それは次の三月、五か月後だ。

すると一人がくつくつ笑いだした。

「難しく悩むなよ、おまえら」

と言う。

「俺に任せろ。すっきりできるグッドアイディア見つけたからよ」

いったい何のことだろう。まるで見当がつかなかったので、全員の頭に疑問符が浮かぶ。当人はまたくつくつ笑って、手招きをした。なんと山の中に入っていく。神崎たちは放課後の予定のことで顔を見合わせたが、予想できない分、どうにも心配が勝ってしまった。

クラスメイトはどんどん先を行った。今となっては裏山は庭だ。訓練成績の良し悪しにかかわらず皆、危なげなく着いていく。そうして、街が見える所までやって来て、彼は知らない建物の屋根に飛び移った。

「すげー通学路を開拓したんだ」

ここから屋根を伝って隣駅まで行けるのだという。フリーランニングである。先月、二学期に入ってから、暗殺技術として新しく訓練を受けている。四月からの積み重ねもあり、神崎たちは忍者のような動きができるようになった。今しがたの提案は、だから無理難題では決してない。もちろん経路を知らないから確実なことは言えないが、屋根を伝って移動すること自体は、神崎でも瞬時に想像できる。

同時に躊躇もした。この後の約束を差し引いても。フリーランニングは実際に暗殺の幅を広げに広げたが、他ならぬ訓練教官が二学期まで導入を遅らせた技術だ。一学期中は取り入れられないと判断されたのである。理由も単純に予想がつく。たとえば今回の提案に沿うと、落ちたときに危ないだとか。足場から足場へ確実に飛び移る技術、確実な移動経路を見極める技術、そういった技術が身に着いたと判断するために要した時間。

「危なくない? もし落ちたら——」

「そーだよ、烏間先生も裏山以外でやるなって言ってたでしょ」

同様の危惧を訴えた者もいたが、発案者は引き下がらない。通学するだけで訓練になる、難しい場所は一つもない、勉強を邪魔せず暗殺力も向上できる、二本の刃を同時に磨く。賛同者も一気に増え、その勢いのままに多くが飛び出してしまう。

「ちょ、ちょっと、みんな!」

慌ててクラス委員も追いかけ、

「地面に降りる前に安全確認するんだよ!」

追わなかった友人はいつになく大きな声で見送った。

「——たぶん聞こえてないよ」

「——やっぱり?」

結局、約束のあった神崎たちを除けば、他は女子生徒が二人しか残らなかった。大丈夫だろうかと話しながら下り坂の帰り道へ戻る。

「でも通学しながらの訓練は魅力的——。今朝、十月に入ったって殺せんせーに言われて、私も思っちゃったよね。あと五か月だって。時間には限りがあるんだって」

きっと、あの場の全員が同じことを考えていた。

神崎は友人たちを見た。ちょうど顔を見合わせる形になった。こちらも考えることは同じらしい。四人で、予定になかった二人を見る。状況が読めずにいる彼女たちの前で、プリン好きが一人にっこり笑った。

「これから秋の新作スイーツなんていかがでしょう!」

そうして英気を養って、まさかテスト勉強を禁止されるとは、今は知る由もないことだ。

夕飯を済ませて部屋に戻ったら、神崎の端末にもインストールされたモバイル律が、画面の中で手紙に埋もれて待っていた。食事の前に確認したはずが、今や未読メッセージは三桁にも上ろうとしている。律の表情も悲しげで、少々尋常ならざる様子だ。何があったのと尋ねつつ、神崎は端末を操作した。アプリを開いて、クラスのメッセージを先頭から確認して、連続する謝罪を認めたところで、スピーカー越しに律が話した。

いわく、明日から中間テストまでの二週間、E組生徒は課外授業を受けることになった。経営者が二週間の入院を伴う骨折を患ったわかばパークで働くのだ。加害者はフリーランニングで下校した生徒、つまり彼らである。

「ねえ律、松方さんの容体はどうだったのかしら」

「右大腿骨の亀裂骨折。烏間先生が仰るには比較的軽症だということです」

ほっとするべきか、ぞっとするべきか。治療費その他の現実的な問題には烏間が対処してくれるそうだ。彼はいい加減なことをしない、言わない。きっと被害者は大丈夫。とはいえご高齢の方らしい。

「自転車で走行していたら子供が空から降ってきて驚いて、自転車ごと——」

——転倒してしまった。律の声が遠くなる。

神崎は端末を置き、かわりに勉強道具を手に取った。これからテストの前日まで教師の指導を受けられない以上、特に勉強の時間を作らねばならない。今度の中間テストの内容は、先学期末に輪をかけて難しいことが予想される。だが参考書を机に広げたところで、老人の名前が脳裏をよぎった。ノートを開けば症状が、筆記具を持てば知識が。比較的軽症だというけれど、手術は成功するだろうか、無事に回復するだろうか。

事故は地面に降りるときに起きた。

その晩、神崎のテスト対策が進むことはなかった。遊びに逃げるような気も起きず、普段より早くに床に就いた。三桁弱のメッセージを思い返しながら、目を閉じた。——今日から二週間、クラス全員のテスト勉強を禁止するって、殺せんせーが。

翌朝、目を覚ましたとき、いつもより早くに寝た分だけすっきりできた、などということはなく、いつもより早かった分、時計の針も進まなかった。気分もむしろ、よろしくない。悪い夢を見ていた感覚がある。しかし食事の席まで引きずるほどのものではなかった。今朝一番のおはようございますが口から出ようかというとき、神崎は平常心を取り戻していた。

当事者たちは顔を合わせるなり謝罪をくれた。極端に思い詰めたような様子はなかったが、それぞれ落ち込んだ表情に、追い打ちをかける者はいない。誰が彼らを責め立てようなどと考えようか。どうしてそのような権利があると錯覚できようか。

そして二週間の職場の従業員は、

「ボランティアだなんて助かるわ。園長先生と二人でやってるから、昨日は明日からどうしようかと思ってたの。まさか椚ヶ丘みたいな学校に知り合いの先生がねえ。今日から二週間くらいかな、園長先生の退院まで一緒にがんばりましょうね」

このようにE組を笑顔で迎え入れた。被害者は身内に真実を伝えなかったのだ。たとえ家族であっても。国家機密フリーランニングに関わるからと、烏間や殺せんせーが謝罪と説得を重ね、被害者は対外的には、独りでに負傷したことになった。自転車で大荷物を運んでいる最中だったと言えば、特にこの職員はたやすく納得する。

職員はE組に感謝していた。彼らはそろって反応に困った。本来ならば土下座を迫られても文句のつけようもない立場である。だが国家機密を守るためにも、否定することはできない。幸い彼女は中学生の微妙な反応について気に留めることをしなかった。この職場では目にすることのないまもなく高校生になろうという中学生の姿にほほ笑ましさを見出しており、あるいは単に暇がなかった。

中学生たちも一旦は自身らの複雑な立場を忘れざるを得なかった。とりあえず紹介された一日の流れのために両手の指をすべて折り、また、とりあえずこれだけと案内された危険区域のために折った指をすべて伸ばさねばならず、かと思えば小さな塊が一直線に上司に向かって突っ込んだ。

「先生!」

幼稚園児か小学生かの幼い声。後ろから急ぎ足の大人が現れ、まずは挨拶だと子供をたしなめる。子供は悪びれた様子もなく、おはようございますと元気に叫んだ。それから保護者は職員といくらかの言葉を交わして子供と別れるが、入れ替わるように新たな子供がやってきた。今度は中学年程度の小学生で、どうやら保護者はなし。その次は三、四歳ほどの子供が大人に手を引かれてきて、もう入れ替わり立ち替わりの様相だ。

しばらくは奇異の目の中で職員を手伝って、今頃は教室で授業を受けているはずだったと思う頃ようやく、彼女が児童に集合をかけた。ちょうど一クラス分くらいの人数である。彼女は「みんな」の前で中学生を紹介する。

「園長先生はお怪我しちゃって、しばらくお仕事できないの。かわりにね、このお兄ちゃんたちがなんでもしてくれるって!」

わかばパークは保育施設。椚ヶ丘市の一画で幼児や児童を預かっている。


二十九人もの中学生は手分けをして事に当たったが、まずは補修班が決まった。元気よく踏み出した児童の足が床を突き破ってしまったのだ。続いて修繕班も決まる。施設の床が抜けたというのに、中学生以外は驚かなかった。幼児も児童も職員も皆、老朽化が進んだ建物だからと、穴が開いた天井を見上げたり、床の敷物を見下ろしたりするだけだ。元を正せば、

「お金がないのよ」

わかばパーク唯一の従業員は眉尻を下げる。設備の修繕ばかりではない。従業員を増やすこともできていないのだ。今日から危うく一人になるところだったが、それも経験のないことではない。園長一人、従業員一人で結果的には回せてきた。ならば限りある予算は子供たちのためにと、待機児童や不登校児を安値で受け入れ続けている。

「園長先生いっつも動き回ってるよねー」

神崎はもっぱら、その子供たちの相手をした。話し相手になったり、遊び相手になったり。だが一番の仕事は彼らから決して目を離さないこと。厳命を下される前から覚悟はしていたけれど、言うは易く行うは難し、だ。幸いにして彼女が主に見た男の子たちは、年齢相応に甘えた部分があるくらいだった。しかし中にはやんちゃな園児もとんがった園児もおり、特に小さな子供たちは中学生にかみついたり、ズボンを下ろしたり、

「渚、はーやーくー! あたしのこと東大連れてってくれるんじゃなかったの?」

小学生にも一人ずつ教師役がついたが、たとえ高学年程度の児童が相手だろうと、一筋縄では行かなかった。

無論、通常業務は他にもある。正直なところ、どうして二人きりで回せていたかがわからない。いや少なからず無理があったのだ。そしてE組はそれほどの労働力を潰した——。

給食の時間を迎えるまでに、神崎は否応なしに理解させられた。食事の用意だって、二、三人が買い出しに出て、三、四人が厨房に立った。それでも一苦労に見えるのに、

「神崎さん、大丈夫?」

「ごめんなさい。ぼうっとしてたみたい」

「普段こんなことしないからね」

いつのまにか、友人が横でエプロンを外していた。神崎は思わず目を瞬いた。エプロンの下からすぐにワイシャツが現れて、当のエプロンも紫色だったから。瞬間でも誰だかわからなかったと言えば、薄情な友だととがめを受けるだろうか。しかし神崎は告げなかった。そうすれば、反応をいかにとらえたのか、彼女はさらに言葉を重ねた。

「私もちょっと疲れちゃった。調理実習でもこんなには作らないよ」

「そうね——私も」

友人はそのまま神崎たちの班で昼食を取った。他にも中学生はいたが、彼女は瞬く間に注目を集めた。午前の間に神崎たちと仲よくしてくれた男の子たちは、彼女とも仲よくなりたいようだった。

「ねー、お姉さん、今来たー?」

「朝からいたよ。ずっと先生と一緒だったんだ。洗濯とか、給食とか」

「え、給食?」

「そう、給食。今日の給食は先生と一緒に、中学生のお兄さんとお姉さん——あそこの村松くんと向こうの原さん——が作りました」

「——お姉さんは?」

「お姉さんは、お野菜を切ったり、お皿を出したり」

友人は質問責めにあいながらも、ことごとく穏やかに対処する。明るくというよりは温かくほほ笑みを浮かべ、しかし先生というよりは親戚のお姉さんといった姿で。ことさらに優しいお姉さんである。子供たちはますます彼女を気に入った。そのまま彼女は少しだけ彼らと共に過ごした。午後に入って一時間とたつ前に、惜しまれながら別れたけれど、彼らはまもなく出し物に夢中になる。

定番のあらすじをなぞった演劇ではあったが、騎士カルマと魔物テラサカによる「ハリウッド顔負けの本格アクション」と、魔女オクダがもたらした「やられ役の迫真の演技」で人気を博した。捕らわれのカヤノ姫のことも忘れてはいけない。絶妙に子供に受けた茅野は、長らく空気をつかんで離さず、神崎たちを助けてくれたのだ。茅野の上手な気配りの秘訣は、もしかすると、そのあたりにあるのかもしれない。

それから、どうにか最初の一日が終わった。すべての園児を無事に帰すと、数時間ぶりに全クラスメイトが顔を合わせる。皆、敷地内にはいたものの、それぞれの役割を果たそうとしていた。職員が「助かった」と「ありがとう」を繰り返したときは、大いに気まずい思いをしたけれど、彼女は中学生の気も知らず相好を崩す。最後の「ありがとう」の直前に「そういえばね」と。

——被害者の容体は幸いにして、事前に知らされたとおりの推移をたどる。


園長は中間テスト前日の午後に帰ってきて、中学生たちは約二週間の損害賠償を終える。そしてテスト前日の生徒らしく、机にかじりつき、当日を迎えた。退院は全快を意味しない。まだT字杖もついている。だが神崎は集中して勉強できて、しっかりと睡眠も取ることができた。気持ちよく。おはようございますから行って参りますまで。のどかさに反して、テスト結果は見えていたけれど。

あの二週間を言い訳にするつもりはない。当然の報いを受けたのだ。元より正当化は難しい。

一か月後には、ひとまず元の生活に戻れた園長が、園児と共に元気な姿を見せに来てくれるのだが、それはまだ神崎にも誰にも知る由のないことだ。