第112話「2週目の時間」から第117話「珍客の時間」まで

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潮田渚、十一月

「あえて言うなら『一体感』ですわ、お母様」

渚はその瞬間だけ感心した。机を挟んで向かいの椅子の、海外出身の英語教師だ。波打つ金髪はその象徴のようで、艶めく唇は流暢に日本語を紡ぐ。そして目を細めてほほ笑みをかたどられてしまうと、その瞬間だけ彼女の正体も忘れてしまう。

「じゃあ、うちの渚にはどういった指導方針を?」

その瞬間だけ。

「まず渚くんには——キスで安易に舌を使わないよう指導しています」

その瞬間、隣の母親役が銃を抜いた。渚は慌てて押さえにかかる。しかし外野の評決も「問題外」の三文字だ。

「訴えられっぞ、こんな痴女担任」

渚は暗澹たる気分になった。元よりビッチ先生は担任教師ではない。彼女はあくまで英語教師で、正体はプロの潜入暗殺者、さらに言えば痴女である。どだい無理な話だった。だが渚には、今日それも放課後までにヒト担任教師が必要なのだ。

E組の担任教師はヒトではない。マッハ二十の賞金首で、強いて言うならタコ、まあ怪物だ。ということで、表向きの担任の用意がある。副担任の烏間である。彼はいわゆる部外者の前に担任教師が出なければならないとき、たびたびE組生徒を率いてくれた。しかしながら彼も学校教師ではなく、正体は防衛省のヒトである。副担任も訓練教官も務めてくれるが、元は怪物暗殺の監督役として派遣されており、常に多忙で、時には一週間の出張が入ることも——。

思わずため息がこぼれた。

烏間は今週いっぱい出張、渚に「一体感」あるキスを指導してくれているビッチ先生は論外。尊敬できるできないと、紹介したいしたくないとは、まったく別の問題だ。特に渚の母ならば、担任を痴女と認めたその瞬間に、本当にビッチ先生を訴え、ますます決意を固めるだろう。——彼女は昨晩、三者面談を思い立った。目的は一つ。長男のE組脱出だ。

当然、三者面談があったからといって本校舎に戻れる道理はない。復帰条件はあくまでテストだ。学校のテストで学年上位の成績を収めて初めて、可能性が浮上する。

しかし昨晩の母は、渚に向かって言い放った。——寄付金を持って必死に頼んだら特例がいただける。前例も存在する。

まずは明日——つまり今日——の放課後に三者面談してもらうからと宣言されたら、渚に逆らうすべはなかった。常々のことだ。母に異議を唱えようものなら、その瞬間、多くは言い争いに発展し、必ず進展しなくなる。彼女の夫でさえそうなって、やがて彼は嫌気が差して離婚を選び、家を出た。

渚は母も父も嫌いではない。だが。

「お疲れ様、渚くん」

背中で声がした。振り返ったら、渚は少しだけ見あげなければならなかった。女子生徒の中では二番目に背が高いクラスメイトだ。付近では茅野と奥田と神崎が額をつき合わせて何か話し込んでいる。渚は何か返事をと思って、言葉を探し、首を横に振った。

「僕は何も」

「それなら、これからだね」

クラスメイトは綺麗にほほ笑んだ。そして渚が意味を尋ねる前に、僅かに首を動かす。渚も同じく首を動かす。彼女の顔色は明るいから。渚はまもなく教室の入口を目でとらえる。その瞬間、笑い声が聞こえてきた。ヌルフフフ。ちょうど見ていた引き戸の向こうに、ヒトならざる巨大な影が一つ。

「簡単なことです」

ついに怪物教師の登場らしい。渚はごくりと唾を飲んだ。マッハ二十の賞金首、殺せないから殺せんせー。頼れるときは本当に頼れるタコなのだが、

「烏間先生に化ければいいんでしょう」

こと扮装に関しては期待より不安が勝るところだ。教室中であらかじめくぎを刺す声が上がる。いつものクオリティ低い変装では、とか、すれ違うくらいならまだしも、とか。

しかし当の殺せんせーは自信満々に戸を開けた。それはもう勢いづいて。

がららっ。

「おう、ワイや、烏間や」

その瞬間、渚は言葉を失った。


烏間に化けようとして失敗した怪物。それ以上でも以下でもない、つまりは「いつものクオリティ低い変装」で、再現する気などないような代物だった。だが怪物以上の代役は見つからない。あくまでビッチ先生はこの上なく論外で、生徒に務まる役でもなかった。そうして瞬く間に時間が流れ、ついに迎えた運命の放課後、渚は玄関口に立ち、まもなく母を出迎える。

「言うとおりにするのよ、渚」

母の決定は昨晩から微塵も揺るがないようだった。つかつかと歩いてきた彼女を前に、渚の口は自然と閉じられる。僕はE組にかよいたい。しかし、それがつぶやきでも耳に入ればどうなるか。たとえ息子の教室の前であろうと、理性を手放すに違いない。そうしたら、もしかして殺せんせーとも話にならないかもしれない。それでは困る。ここにきて渚が頼れるものは、後は殺せんせーだけなのだ。

もっとも、今となってはそれこそ巨大な不安要素の一つでもある。母を教員室へ案内しながら、渚の中の不安は一歩ずつ膨れ上がった。教員室ではいよいよ烏間——に扮した殺せんせー——が対面の時を待っている。あれから試行錯誤を重ね、クラスメイトたちは殺せんせーをヒトに変えようとしてくれた。渚は完成形を目にしていないので、最悪の場合は関西弁でさえなければよしとしようか、などと祈りと共に前進するしかないのだ。

教員室に続く戸は、先に前に出た母が開けた。がらりと音を立て、開いた戸の先、

「ようこそ、渚くんのお母さん」

ヒトのような形をとった何かが、殺せんせーの声で話していた。渚を見た。その母を見た。腕を動かし、五指を操り、四つ合わせた机の中央に、ジュースの入ったグラスを二つ、銀の蓋の皿を一つ。

何か、ではない。操り人形などでもない。殺せんせーだ。あの三メートル弱の怪物的巨体が、百八十センチ程度まで、驚異の減量を成し遂げたのだ。それが顔の表面に耳と鼻をはりつけて、つぶらな瞳はともかく眉を化粧、烏間の髪型のかつらをかぶっているのだから、これは——烏間せんせーと呼ぶべきかもしれない。

まだ烏間からもヒトからもかけ離れているようではあったが、肝心の部外者ははが疑いを向ける様子はなかった。理由が扮装の品質か机の中央か、どちらかは定かでない。しかし母が机の中央、ことさらグラスに気をとられたことは確実だろう。山の上の寂れた校舎で、いったいどこのレストランかという茶請けだけれども、それよりも、グラスの中身がグァバジュースだ。

「私これ大好きなんです」

母は大いに喜び、顔色も明るくした。蓋の下から現れたマカロンの山も、彼女をいたく満足させた。対する烏間せんせーは「存じております」とうなずいて、よどみなく会話を広げていく。

「渚くんに聞きましたが——」

烏間せんせーは驚くほど上手に会話の舵をとった。好きな食べ物に始まって、競技選手、テレビ番組、上手に母の機嫌をとり続けている。

「そう、先生もわかりますか!」

「もちろん!」

しかし烏間せんせーが「まあしかし」と手をこねたときだ。

「お母さん、お綺麗でいらっしゃる。渚くんも似たんでしょうかねえ」

「——この子ねえ」

あっとも言えずに急転直下。

「女でさえあれば私の理想にできたのに」

母の顔色が暗くなる。


口癖だった。理想を言えば女の子が欲しかった。

母はしばしば渚を姿見の前に立たせる。息子の全身を鏡に映して、女性の服を重ねるのだ。娘にはおしゃれを教えてやりたかったのだと。息子だろうと髪を伸ばせばこれほど似合うのにと。彼女は短髪だけを許されて、女の子らしさが磨けなくて、外見重視の総合商社に落ちて、それもかの商社の上位を占める一流大学に入れなかったからで、その点、椚ヶ丘学園は進学実績が目覚ましくって。

三者面談は失敗だ。殺せんせーは短い会話の端々からこの母子家庭の事情を、そして他ならぬ渚の意思をくんでくれた。だから母は一転、大いに怒り真っ暗な顔で勢いよく出口の戸を閉めた。

渚の母が校舎を去ると、殺せんせーは扮装を解いた。怪物的巨体は、どうやら机の下に詰め込まれていたらしい。そして、あちらこちらに潜んでいたクラスメイトたちも顔を出した。彼らはおっかなびっくり見てきたが、渚は苦笑するしかない。あるいは喜んでおくべきだったのだろうか、殺せんせーが正体を隠し通せたことを。

それでも、あまりに明白な理由のために帰宅が億劫で、渚は旧校舎で長らく時間を潰した。まさか家に帰ったら機嫌よく出迎えられることになろうとは、彼にはまだ知る由もなかった。

最悪の三者面談は最悪の結果に至り、渚をも最悪に至らせようとしたが、彼はいろいろあってE組残留を許された。卒業後に髪を切る宣言もして、学園祭にもE組として参加できたのだが、

「おーい! 渚ちゃーん! 遊びに来たぜー!」

「げ、ユ、ユウジくん!?」

今は卒業どころか年越も前の十一月で、髪は長いまま。渚は校舎の窓から上半身をのぞかせて、外の同年代の男の子に対応しながら、ズボンをスカートに着せ替えられる。

「見えないとこで、こっそり食べよう」

学園祭でE組外の知人も少なくない今日の旧校舎では、渚の提案は苦肉の策だった。ユウジは何も疑うことなく軽薄な声で喜んでくれたが。——ユウジは渚ちゃんに好意を寄せている。

言うまでもなく渚は男子である。ただ、わけあって女装しなければならないことがあった。ユウジは、そうして潜入した先にいた。彼はよりにもよって女装した渚に一目ぼれして、よりにもよって学園祭の時期に渚ちゃんの学校を突き止めてくれたのだという。

「学園祭、来てよかったな。渚ちゃんに接客してもらえるなんて」

ユウジは顔を赤くして、渚を見ながらつけ麵を食べた。全クラスが店を出す学園祭で、E組も旧校舎に飲食店を開いた。その看板商品の、どんぐりつけ麵だ。あのビッチ先生も太鼓判を押した自信作だが、ユウジに味が伝わっているかはわからない。彼ときたら、いつでも渚を視界に入れようとする。もっと、おいしいつけ麵に気をとられてほしい。とはいえ接待でそのようなことを訴えてよいものか。

これでもユウジは上客なので。

渚としても、ただで女装を繰り返したわけではない。すべてはE組優勝に貢献するためである。椚ヶ丘の学園祭は、クラス対抗商売合戦の側面を持つ。優勝候補の三年A組の催しは飲み食い無料で、芸能人も出演し、すでにあふれんばかりの観客から繰り返し入場料をとり立てているらしい。E組の客の入りは悪くないが、A組に勝つためにはより多くの売上が必要だった。

そこにきて、このユウジである。裕福なご家庭の坊々らしいお客様が、たまさか渚(ちゃん)にほれている。だますことには気が引けるけれど、使えるものは使うべきだ。現状も、渚の容姿も。幸い渚は一人ではなく、

「『私のオススメぜーんぶ食べてほしいなー♡』」

時にはカンペが来ることもある。ユウジは全品注文すると言い財布を出した。万札が出てきて、渚は変な声を出しかけた。カルマからもカンペが来た。——デートで一万、払えるか聞いて。

それはもう違う商売だ、とは戸惑っても言い出せず、やがてすべての品が届く。さすがにユウジも食事に集中した。商品ごとに何やら写真を撮影し、おいしいおいしいと胃に収めていく。幸い、E組外の知人が渚ちゃんを発見することはなかった。しかし散弾銃とキジは現れた。

ユウジも渚も噴き出した。そのうち渚だけが、殺せんせーを殺せなかった殺し屋の一人であることに気づく。彼は渚たちには気づかずに、烏間や他の生徒と話す。なんでもプロの狙撃手であるところの彼は、世界中の狩猟免許を取得しており、今日はE組のために裏山で肉をとってきてくれたそうだ。

「な、なんだあいつ。警察にかけたほうがいいんじゃ——」

「わーっ!」

どう考えても部外者ユウジにはまるで説明が足りなかった。携帯端末をとり出すユウジを、渚は慌てて引き止める。たしかに警察が必要な相手だけれども、今は(おそらく)殺せんせーの招待客なのだ。(おそらく)部外者の多い今日の学校で無闇に暗殺をしかける輩ではないのだ。問題はいかにユウジを説得するかだが、

「あの人は——『地元の猟友会の吉岡さん』」

カンペが来た。

「吉岡さん、どうみても外人だけど!?」

うっと渚は言葉に詰まった。たしかにどう見ても外国の方だった。慌てて次のカンペを探す。しかし今度は出てこなかった。渚は苦し紛れに絞り出した。

「帰化、したんだ」

日本の文化が気に入ったみたいでと、思いつきを並べていく。ユウジはどうにか端末をしまってくれた。

ところがその後も珍客は続いた。カンペも続いた。どう見ても一般人ではない殺し屋屋、改め「浅草演芸場重鎮のマイルド柳生」、弟子の一人がE組で教師をしている。さらに芸人仲間が一人、二人、三人、麵でなく銃(モデルガン)をスープにつける仲間、毒(比喩表現)を混ぜても食える仲間、わさび入りモンブランを食べる(マイルド柳生直伝リアクション芸)仲間——。

「わりと私たち、そういう人に縁があって」

まさか絶対に殺し屋とは紹介できない。とはいえ相当に厳しい言い訳だった。

「渚ちゃんさあ、うそ、ついてるよな」

さすがに露呈した。いつのまにかユウジの顔色が暗くなっていて、

「わかっちゃうんだよ」

と言う。

——ユウジは父親にすり寄る者たちを幼少期から見続けてきた。上辺、ごまかしの造り笑顔をずっと、ずっと見てきたのだ。だから、わかった。落胆もした。初めて会ったときの渚はそのような顔をする女の子ではなかった。

渚はユウジの観察眼を褒めた。ユウジは少しも喜べない。いやらしい環境が育てた望まぬ才能である。すると彼女はユウジを見て、自分の短くない髪に触った

「ごめんね、僕、男だよ」


「またまたァ」

ユウジはなかなか信じなかった。渚は二度、三度と否定され、胡坐をかいても疑われた。カンペが来た。見せれば納得、文章横に手書きのゾウ。幸いにして何かを見せる前に、ユウジも信じてくれるようになったが。そこまで女子の制服が似合うのかしらと思えば、多少は悲しい気持ちになる。惨めではないけれど「かわいい」よりは「かっこいい」と言われたい。

渚も男だから。

ユウジはまもなく山を下りた。だましていた分の返金は、彼の背中に拒絶された。渚の内側でいよいよ罪悪感が膨れ上がる。だがユウジの背中は渚を拒絶したまま、徐々に、徐々に見えなくなる。

それからどれほどの時間が流れたのか、渚の背中で声がした。

「あれ、もう帰っちゃったの」

カルマだった。息を切らして、両手に何かをつかんでいて、

「コスプレ撮影会で金とろうと思ってたのに」

「カルマくんは僕でいくら稼ぐつもり!?」

カルマは一本ずつ指を立てていく。一本で済まないことを驚くべきか、桁を恐れておくべきか。しかし顔色が明るいからそれほど身構えずにいたら、さらに後ろからクラスメイトが走ってきた。彼女はカルマの隣で足を止めると、肩で呼吸して「ごめんなさい」と言った。

「あっ、でも、この様子なら、間に合ったのかな」

「ちっとも間に合ってない」

カルマがいかにも不満げに、顔色も僅かに暗くする。一方その隣のクラスメイトは、いつもの明るい顔色で柔らかく笑う。

「じゃあ、よかった、渚くん。その、赤羽くんがさっきまで、渚くんの『オプション』で一儲けするんだって」

「あー、うん。薄々そうだろうな、とは。けど、ユウジくんは帰ったよ」

「帰っちゃったんだ」

なぜか寂しげな反応が返ってきた。いぶかしむ渚に、クラスメイトは説明する。

「キッチンが大盛り上がりだったの。沖縄のホテルで会った男の子でしょ、お金持ちの。実際に全部注文してくれたから、村松くんも原さんも大張り切りで。私たちも、どういう順番でお出ししようって考えてたんだ」

「そうだったんだ」

たしかにこのクラスメイトは今日は調理班だった。どうだったと接待の様子を聞かれ、渚は顎に手を当て振り返る。

「全部おいしそうに食べてたと思うよ」

何も思い出すことができなかった。感想を話してくれたような覚えはあるが、正直なところ渚も緊張しきりだった。ただ、面と向かってまずいと言われた記憶はない。好意を寄せている相手に対して言い出せなかっただけかもしれないけれど。

渚が緊張していたことを正直に伝えると、クラスメイトは「それもそうだね」と眉を下げた。続けて再び謝ろうとするので、渚は慌てて制止する。彼女が謝るようなことは何もないのだ。

「謝らせとけば」

これは、その隣で衣装の束を抱えるカルマだ。いつしか顔色はますます暗く。いったい「オプション」価格は幾らだったのだろう。渚はなんだか別の意味で緊張してきて、努めて彼の顔を見ないようにした。そうすれば、もう一人のクラスメイトと顔を合わせることになるのだが、彼女の顔色はめったに暗くならない。渚はそっと安心する。

そう、いつまでも落ち込んではいられないのだ。まずは喫緊の問題を解決すべきだろう。このスカートの持ち主を探さなければならない。

「僕の中でのなんとなくのイメージだけど、他人の顔が明るく見えたり暗く見えたりするときがあります」

明るいときは安全で、暗いときは危険で、たぶん、鷹岡と対峙したときは暗いときを避けて攻撃した。母と会話するときは暗いときを避けて意見した。たぶん。それはかつて渚にとって、本当に感覚的で無意識的な行動だった。なぜ、どうして、そうするのか、深く考えることもなかった。つい最近になるまでは。一人の殺し屋に出会うまでは。それが、

「意識の波長」

渚が明暗で感じていたものの正体だ。

呼吸、視線、表情、人間の反応の節々から、決定的な意識の隙間を見つけることができる。才能だった。母親の顔色をうかがう生活が育てた、これ以上は望めないような才能。

渚には人を殺す才能がある。