第142話「迷いの時間」から第146話「激戦の時間」まで

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奥田愛美、一月

一月六日、冬休みも終盤の午後、班で駅に集まりながら、奥田は春の日を思い出していた。初めての暗殺の記憶である。

というと四月中旬、一斉射撃を朝の挨拶に代えたことがあった。二十五人が自動小銃で標的を狙ったのだ。報酬は山分けだといえば生徒全員が参加した。へたな鉄砲も数を撃てば当たろうという作戦である。現実にはかすめることもできなかったが。失敗したとは思わなかった。失敗すると思っていた。いや当たらないと考えていた。誰かは成功するといえども、それは決して奥田ではありえないと。

そして奥田は暗殺を諦めた。失敗すると思っていた。彼女だけは。殺せないと思っていた。殺したくないからではない。弱いからだった。単純に。身体能力が低いのだ。体育の授業を振り返っても、暗殺ならばと期待できるような活躍には覚えがない。実際その下旬には、体育の授業は暗殺訓練へと変わり、おおむね従来の成績優秀者たちが好成績を収めていった。

つまり奥田ではない。特製の武器による特殊な暗殺。ナイフと銃の暗殺訓練。彼女は単独では暗殺できない。彼女では暗殺に貢献できない。クラス全員の一斉射撃でもない限り。彼女に賞金の分け前はありえない。しかしクラス全員の一斉射撃は一発かすめることさえできなかった。

——今となっては思い出だ。殺せないと思った。標的が、殺せないほどに怪物だったから。今となっては、思い出だ。

結局、奥田は暗殺者になった。あれほど殺せないと思った四月の末に単独で計画して、単独で実行した。

「毒です! 飲んでください!」

標的は怪物だった。実弾も通用しない超生物だ。ゆえに「対先生」と頭につくようなナイフや弾丸を支給された。そして本来なら最初に検討してしかるべきだった選択肢を、奥田は無意識のうちに除外してしまったのだ。しかし理科の授業、最初の科学の実験で、標的はあたかも危険物のように水酸化ナトリウムを扱った。彼女は選択肢をとり戻した。もしかして毒物劇物は怪物にも有害たりうるのではないか。

奥田は喜び勇んで毒殺した。理科の教科書にも登場する三種の劇物を用意した。劣等生の集まったE組にあって、彼女は化学だけは胸を張って得意分野だと言える。だから不意打ちはやはり難しく、正面から堂々と差し出した。

真心を込めた正直な暗殺。それは当然に失敗したけれど、標的に服毒させられなかったことが理由ではない。奥田の初めての毒殺を、相手は正面から堂々と受けて立った。

結局、怪物だったのだ。水酸化ナトリウムも酢酸タリウムも王水も標的は迷わず飲み干して「表情を変える程度」だと言い切り、のみならず教師として生徒を指導する始末。当然、劇物の製造は危険行為そのものである。だから放課後にでも、今度は先生と一緒に先生の毒殺の研究をしましょうと。奥田は一も二もなく飛びついた。それも当然に失敗したけれど、とは今だからこそ思えることだ。

理科以外の成績はE組らしく劣等生。特に国語の正解がわからないことは、総合成績のみならず人間関係にまで影響を及ぼしていたはずだ。けれども短所よりも長所だと、当時の奥田は開き直っていた。いや諦めていたのだろう。

当然に奥田はだまされていて、標的と一緒に研究した毒殺は、あろうことか怪物に強化形態を与えてしまった。しかし、まるで教師のように、

「奥田さん、暗殺には人をだます国語力も必要ですよ」

何も驚くことはない。毒殺を試みたとはいえ奥田は中学三年生で、標的はクラス担任なのだ。はたしてそうだろうかと思うことがあったとすれば、それは、地球を破壊する怪物の割に、まるで本当の教師のように振る舞うことだ。——はたしてそうだろうか。だが当時の生徒の認識など、その程度のものにすぎない。

一年後に地球を破壊する賞金首で、マッハ二十と触手の怪物で、その割にはE組のクラス担任を全うする姿勢を示している——。

奥田もいよいよ担任教師を認め、以前にも増して理科に邁進するとともに、短所にも目を向けて、自発的に暗殺クラスに関わるようになった。少しずつ。

一朝一夕には事は運ばない。初めての完敗から数週間、五月中旬に入っても、奥田の努力は表出しなかっただろう。中間テストも振るわなかった。修学旅行の班さえも、誘ってもらって切り出せず、誘ってもらっても言い出せず。さらに背中を押してもらえなければ、やはり自分から誘うことなどできなかった。

「あの! 同じ班になりませんか!」

そのとき初めてクラスメイトに話しかけた。もう午後には班が決定するという日の昼休みのことだ。大抵は事前に話がついているもので、しかし奥田は相手が誘われていないことを確信していた。だから失敗しないと踏んで選んだ相手でもないけれど。ただ奥田の後ろの席のクラスメイトだったから。それでいて異様に浮いていたから。最後の一年を過ごす仲間として、まず彼女に声をかけたかったのだ。

暴力沙汰でE組に落ちて、四月下旬まで停学処分を受けていた、二十六人目のクラスメイト。一くくりに劣等生といっても、事件が事件だったから、うわさがうわさを呼んで、E組の中でも一際孤立した。うわさは、うわさにすぎなかったのに。ほとんど誰も関わろうとしなかった。前の席の奥田を含めて。ほとんど誰とも関わろうとしなかった。

中間テストの頃になって、ようやく奥田は気がついた。後ろの席のクラスメイトは自ら皆から距離を置いている。根も葉もないうわさ話でも、彼女に対する警戒心を抱かせるには十分だから。皆が余計な心配をせずに済むように。

もちろん本当の心情は違うかもしれない。これこそ余計な勘繰りかもしれない。だが奥田は無性に悲しくなって、いつかと機をうかがうようになった。そして、その「いつか」はまもなく訪れて、やがてクラスメイトはほほ笑んだ。

「奥田さん、ありがとう」


奥田の中学三年生の友人関係のきっかけは、間違いなく五月の修学旅行だった。奥田を誘ってくれた茅野ももちろん、班長の渚も、杉野も神崎もカルマも。このときの班員とは何かと関わるようになり、また後ろの席のクラスメイトとは弁当を共にするようになった。明日も一緒に食べないかと、今度は彼女から奥田を誘ってくれたのだ。そして、それは日がたつにつれ徐々に人数を増やしていき——。

友人や暗殺を通じてクラスに対する積極性を深めること二、三か月、努力は夏の期末テストで実った。特に理科は学年一位で、初めて皆の役に立てた。テスト結果が暗殺での有利につながったのだ。夏休みの離島リゾート二泊三日と、そこで標的をあらかじめ損耗させる権利である。学年一位の数だけ超生物の触手を確実に撃ち落とすことができる。それだけのハンディキャップがあっても、暗殺は失敗してしまったのだけれども。

二学期も奥田の学校生活は日を追うごとに充実していった。決してよいことばかりではなかったが、放課後に友人と寄り道したり、休日に集まって暗殺したり、誘い、誘われ、春には想像もつかなかった日々を送ってきた。そして迎えた期末テストは再び理科学年一位。それも初めての百点満点で、奥田に自信と期待を持たせるには十分な成績だ。冬休みの暗殺はどうしよう、三学期の高校受験はどうなるだろう。

それから少々の学校行事を挟み、冬休み目前、茅野が暗殺をしかけた。いつも笑顔で、いつも人といて、最初に奥田を誘ってくれた初めての友人が、見たこともない表情を浮かべ、よく知った触手を振るっていた。否、奥田は何も知らなかった。いつでも茅野が笑顔の裏に、憎悪と苦痛を隠していたことを。つい二週間前のことである。彼女は雪村あぐりの妹で、茅野カエデは偽名だった。

あぐりは殺せんせーの前の担任教師だ。椚ヶ丘中学では学年末テストの結果が出ると、三月のうちから三年生のクラスが始まる。したがって奥田たちもその数日間だけ彼女の授業を受けた。四月からは暗殺教室が始まったため、そしてなぜか学校からもいなくなってしまっていたため、まるきり会うこともなくなっていたのだが、

「人殺し」

かたきを討つ。茅野の暗殺は危険な触手と共に、いまだかつてなく標的の心臓に迫った。それが茅野自身の生命をも損ねようとしていることは、誰の目にも明らかだった。だから標的は——命を賭して救命活動に尽力した。幸い教師の処置は功を奏して、生徒は一命を取り留める。

そして超生物は語り始めた。なぜ人殺しと呼ばれたか、なぜあぐりの妹が現れたか、なぜE組の担任になったか。クラス全員の前で、過去のすべてを。

「二年前まで先生は、『死神』と呼ばれた殺し屋でした」

子供ながらに殺し屋の道を選んだこと、誰も信用できなかったこと、「死」のみが信頼に足ったこと、それほど劣悪な環境で育ったこと、いざ選んだ生業が天職だったこと、いつか通り名がついたこと。弟子をとったが裏切られたこと。しかし処刑ではなく実験を受けるようになったこと。そこであぐりと出会ったこと。

奥田はあぐりについても少しだけ知ることになった。短期間だが担任教師だった彼女には、実は婚約者がいたという。彼は国際研究機関の主任研究員で、己の研究のために夜な夜なあぐりを呼びつけていたそうだ。実験動物すなわち「死神」を見張らせるためである。二人の婚約は一種の政略結婚で、それゆえあぐりは立場が弱く、日中の教職を理由に断ることもできなかったのだ。

とはいえ、あぐりは激務をこなした。苦もなく、それどころか「死神」とも打ち解け、徐々に信頼関係を築いていく。「死神」の人体実験は着実に進行し、肉体が未知の変化を起こすようになったが、あぐりだけは態度も変わらず「死神」の独房を訪れた。

二人は互いに何でも話した。中学校で劣等生とされる生徒たちのクラスを受け持っていること、婚約者にとって召使のような存在であること、年の離れた妹が役者をしていること。「死神」もあぐりに身の上を打ち明けた。だが、そうした時間は長くは続かなかった。二人の出会いからちょうど一年、月面の動物実験が月を爆破したのだ。

研究員たちは、人体実験で「死神」に施した処置が、彼つまり宿主の老化によって、不具合を起こす懸念を抱いていた。その問題の検証のために、ヒトより老化の早いマウスに、「死神」の今やヒトならざる細胞を移植し、万に一つも被害が及ばないよう月面で飼育を始めたのだ。しかし結果は最悪だった。老いたマウスは爆発し、月は直径の七割を失った。

これが三日月の真相だ。そして爆破予告の真相だ。この最悪の実験結果を踏まえて、研究所は来る日を正確に算出した。一年後の三月十三日だ。同様の現象が「死神」を爆破し、今度は地球が消滅するのだ。

実験体は当然に処分が決定した。それを知ったあぐりは当然のように「死神」に伝えた。「死神」は当然に脱出を決行した。そして、あぐりは「死神」の脱出劇に巻き込まれ、その日のうちに亡くなった。

「私が殺したも同然だ」

茅野——雪村あかり——は姉の遺体のそばに、血を弄ぶ触手の怪物を見たという。実際にあぐりは「死神」の腕の中で息を引きとったそうだ。彼女は「死神」の脱出を妨害するわなに、腹部を貫かれ、致命傷を負っていた。「死神」が極めた医学でも、人体実験で得た精密な触手でも、もはや治療は不可能だった。否、人を殺すのでなく救うために訓練していれば、そしてもっと早く気づけていれば、あぐりが死ぬことにはならなかった。

だが現実には、あぐりは死んだ。「死神」にE組の生徒を託して。


茅野は無事に病院に搬送された。入院生活を余儀なくされつつも、明後日から始まる三学期には問題なく登校できる見込みだ。

奥田たちは同じ班だったこともあって、クラスの代表として今日、一月六日に、見舞いのために集まった。挨拶は「あけましておめでとう」。何しろ冬休みには会うこともなかったので。

三年E組は冬休みの暗殺を中止した。いや、ほとんど自然消滅だ。

殺せんせーはどういう理由で生まれてきて、何を思ってE組に来たのか。殺せんせーの告白は、生徒の疑問のすべてに答えるようだった。しかし同時に新たな難題を突きつけられて、——この先生を殺さなくてはならないのだ。

毒殺されかけても授業してくれた殺せんせーが、真っ黒な顔をして怒ったことがある。生徒二十五人の住所から一瞬で表札を盗んできて、契約があるから生徒たちには手出しができないけれど、周囲の人物はその限りではないのだと。今でこそ十二分に理解のできる動機だが、当時とても怖かったことを覚えている。

毒殺といえば、毒殺の研究に誘われて、宿題まで出してもらって、何もかも騙されていたときは、奥田も少しは腹を立てた。おおいに悲しい思いもした。

だが、うれしかったこともある。夏の期末テストで成績が上がったこと。冬の期末テストでは、ついに理科で百点満点をとった。そしてクラス全員で目標を達成した。

クラスで暗殺旅行に出かけた。京都に行っても沖縄に行っても、暗殺したり襲撃されたり、大変なこともありながら、それ以上に殺せんせーとたくさん遊んだ。船の上でごちそうをいただいた。バーベキューをしたこともある。放課後に校舎の外で。夜空の花火を見あげて、殺せんせーの不意を突こうとして。

ぞっとするような思い出が、今でも渦を巻いている。頭の中で広がっては、奥田の意志を揺るがしている。——殺そう、だなんて。実行できないなどというものではない。どうして計画できたかさえ、今となっては理解が及ばないのだ。冬休みも明日までとなって、奥田は、いやクラスメイトも誰も、一度も暗殺をしかけることができなかった。

たとえ直前まで計画されていた冬休みの暗殺旅行だろうとも、引き合いに出せるような雰囲気さえない。こうして四人で集まっても、当たり障りのない会話に終始する。

もしかしたら病室では茅野から謝罪されるかもしれない。現状は彼女も知るところであるはずで、それは確かに彼女の行為によって引き起こされたものだから。彼女は茅野カエデはすべて演技だったと言ったが、何から何までうそだったとは言うまい。とりわけこの班に誘ってくれた彼女の優しさを、奥田は強く信じている。だから、もしも謝ってきたら、そのときは奥田から否を突きつけなければならない。

引き金はずっと奥田の目の前にあった。誰が最初に直視するか、誰が最初に引いてしまうか、ずっと、そういう問題だった。皆、楽しい暗殺を少しでも長く続けたくて、全力で背を向けてきただけだ。殺せんせーが意図したとおりに。

だが、それでも、殺せんせーを殺さなくてはならない。前任教師から託され、「死神」は考えに考えて「暗殺教室」を見いだした。E組と殺せんせーは、暗殺者と標的でなければ出会えなかった。暗殺者と標的でなければ、このきずなは生まれなかった。けれども。

年明け三が日も過ぎてからクラス委員の磯貝を通じて、茅野の見舞いの日を知らされて、奥田は久々にクラスのチャットを開いた。「あけましておめでとう」以来のチャットだった。奥田も含めクラスメイトは即座に反応したものの、皆、言いたいことの半分も入力できていない様子だった。モバイル律さえおとなしい。茅野の回復は素直に喜ばしかったのだが。

クラス代表の選出は、磯貝の提案で、特に反対意見も出なかった。大勢で押しかけるよりは、と奥田も同様に考えていた。そこに渚の立候補がなければ、今日ここにはクラス委員の二人がいたのだろう。そして渚もまるで反対にあわず、同じ班だったつながりから四班が代表を務めることになり、あとは見舞い品を決めたら、また静寂が訪れる。

班のチャットもとり立てて盛り上がることにはならなかった。日付が決定事項だったから集合時間と場所だけを決めることになって、ただ二件ほど謝罪を受信した。まるで示し合わせたかのようにそっくりの文章で、その日は用事があるから行けない、と。

「茅野ちゃんによろしくね」

「私の分までお願いできると幸いです」

だから四人で待ち合わせの確認をして、それで、やはりこちらのチャットも徐々に発言を失った。今日も久々に顔を合わせたが「三学期に間に合うみたいで本当によかった」くらいの会話になっただけだ。茅野の具合は本当に心配だったけれども、彼女の話題はどうしても先の暗殺、殺せんせーの告白につながる。それは彼の死とも結びつき、そして短くも奥田たちを見てくれたあぐりの死にまで向き合うことにも等しい。

あの優しかった前任教師に二度と会えない。四月にE組教師が入れ替わっていたときは当然のように感じられていたことが、今は別れの挨拶ができなかったことさえ悔やまれる。——それと同じことが再び三月に、今度は殺せんせーに起きようとしている。彼に二度と会えなくなる。学校を卒業するからではなく、絶対的に決定的に三月十三日までに彼が死亡するために。

あぐりが死んだことを信じたくない。殺せんせーが死ぬことが認められない。もちろん、いつまでもは、そうしてはいられない。明日で冬休みが終わり、明後日には三学期が始まるのだ。そして山を登ったならば、殺せんせー以外の先生にも会うことになる。防衛省から来ている烏間は、その立場から、生徒たちの態度を看過することができないだろう。

皆、同じことを考えているのか、四人そろって少し話して歩きだしたら、そこで空気が重くなった。空気を読むことに長けた者の多い和やかな班だから、なおのこと深刻な事態である。奥田は例外の筆頭だろうが、彼女でさえ今はあまりに気まずい。あるいは、筆頭ムードメーカーの杉野すら今は口を閉じてしまっていると言うべきか。七人がそろっていたなら、こうはならなかっただろうか。

いや。奥田は携帯端末をとり出した。隣の神崎は何も言わない。モバイル律もものを言わない。奥田は無音の端末を操作して、班のチャットを遡る。

——ごめんなさい。六日は用事があるから行けないです。

一月八日、休み明けの最初の朝、通学路の終端から明るい声が聞こえてきて、奥田の気持ちはいっそう沈んだ。殺せんせーが玄関口で生徒を待っていた。

「おはようございます。三学期もよく学び、よく殺しましょう」

空気を読んだわけではないが、やはり奥田も返事ができなかった。おはようございますと、告げて通り過ぎることしかできなかった。そこに正解も不正解もありやしないけれど、教室に入ったら、やはり正しかったことがすぐにわかる。

張り詰めて、息苦しい。しかし、つける文句は見当たらない。浮かない表情のクラスメイトと僅かに挨拶を交わしたら、重い足を動かして席に着く。皆がそうしているからではないけれど、やはり奥田も何もせず、ただ椅子に座ってじっと時間をやり過ごすようになる。挨拶するか、黙り込むか。

茅野が来たときだけは、教室も明るさをとり戻した。少しだけ、だけれども、たしかに皆が喜色を帯びて、口々に茅野の退院を祝った。茅野も笑顔で皆にこたえた。名前を口ごもったクラスメイトには、茅野で構わないと、やはり笑顔で告げる。一昨日、病室で奥田たちも言ってもらったことだ。E組で呼ばれているうちに、気に入ったそうだ。もちろんクラスメイトへの配慮もあるだろうと思いながら、六日の奥田たちも、やはり今朝のクラスメイトたちも茅野と呼び直して、——しばらくしたら誰もが席に戻った。

いずれ茅野が謝罪を始めるだろうことに思い当たったからかもしれない。単に気持ちが落ち着いて、落ち着いてきたら今度は落ち込んだからかもしれない。その両方かもしれない。いずれでもないのかもしれない。少なくとも奥田は、それらのすべてだった。物音だけのする教室で、物音もさせないように席にとどまる。時々クラスメイトが暗い表情で入口に立つ。

いや顔を見ることもできなかった。だから奥田は友人の登校を、真後ろの席からの物音で察知した。振り向くと、やはり彼女がいて、

「おはよう」

普段より控えた声で挨拶された。奥田ははっと目を見開きながら、同じ挨拶をかすかに返す。

「おはよう」

友人はまた言った。今度は隣の席に向けたようだった。その返事はつぶやくような声だった。常日頃より、ずっと強張った顔のイトナだ。奥田は何も言わずに前を向いた。きっとイトナもそうしただろう。まもなく誰の声も聞こえなくなり、かばんを開く音、荷物を整理する音、それから、——本を置いた音。

奥田は正面の時計を見あげた。黒板上の壁にかかって、三本の針を規則的に動かす。それらを数えていると、だんだん音まで聞こえるようになった。教室最後方の奥田の席まで。錯覚だろうか。一秒、二秒、十秒、二十秒、三十秒、三十一秒、かばんを閉じる音がする、三十四秒、三十五秒、本を開く音がする、四十秒、四十一秒、ページをめくる音がする。一つだけ後ろの席から。

クラスメイトは五分と間を置かずに登校してきた。およそ変わらぬ顔色で浮かない挨拶をして着席する。斜め後ろの席の友人とて、そこは皆と同じだった。隣の席と、前の席と、斜めの席と、せいぜいそのくらいと挨拶を交わすと、あとは口を結んで席にとどまる。ページをめくる音がしても、彼は何も言わなかった。奥田も再び前を向いた。もう時計は見ることができなかったけれど。

いよいよ殺せんせーが入ってくる。

机の天板を眺めて、時々ページの音を数えて。だが、

「一番愚かな殺し方は、感情や欲望で無計画に殺すこと」

英語教師の声がした。

「これはもう動物以下」

国に選ばれた殺し屋の。

「そして次に愚かなのは、自分の気持ちを殺しながら、相手を殺すこと」

奥田は思わず顔をあげた。ビッチ先生は入口の戸に背を預けていた。

「私のような殺し方をしては駄目」

一瞬、不意に視線が交わる。

「金のかわりに、たくさんのものを失うわ」

きっと生徒のほとんどがそうだった。

「散々悩みなさい、ガキ供。——あんたたちの中の、一番大切な気持ちを殺さないために」

教師の背中が遠ざかっていく。奥田もそこから目を離すことができずに、やがて黄色に遭遇する。ああ、今度こそ始業時間だ。


いざ始まったら時間は——飛ぶようにとは言えないが——過ぎるべくして過ぎていった。暗殺教室のことを考えるから気が滅入ってしまうだけで、通常の学校生活を妨害したい者などこのクラスにはもういないのだ。殺せんせーは相変わらずの調子だったけれども、「通常の学校生活」を思えば、それは幸いなことだった。

そして本当に幸いだったことは、烏間が暗殺に触れなかったことだ。一切、事実として話題を避けて、彼はただ表向きの担任教師としての役目に終始した。

ビッチ先生も、もう何も言わなかった。皆、待ってくれていた。時間をつくろうとしてくれていた。皆、もちろん殺せんせーも。

本校舎での始業式、旧校舎でのホームルーム。奥田たちは通常の三学期初日を滞りなく、しかし息苦しいほどの空気感で終える。

二学期が始まった頃にも同じようなことがあった。市内で下着泥棒が多発したというときに、まるで殺せんせーが容疑者らしくて、互いに居心地の悪い一日を送った。まったく同じでも何でもないけれど。だって今日は殺せんせーは笑顔で「さようなら」を告げて、堂々と戸を閉める。あのときは逃げるように廊下に出ていった。もう何もかもが違う。彼が人殺しと呼ばれたときでさえ、九月のようには疑えなかった。

「みんな、ちょっといいかな」

だから九月とは違って、誰かが全体に呼びかけた。椅子を引いて立ち上がった一際小柄な——渚だ。

渚は生徒を裏山に集めた。目的は尋ねるまでもない。クラスメイトは粛々と従った。誰も確認しなかった。だから奥田も振り返らないようにした。声の一つも出さなかった。渚もその時まで中身を言葉にしなかった。ただ提案があるとさえ。

提案したいことがあるのだと、渚は中央に立ってようやく話した。

「殺せんせーの命を、助ける方法を探したいんだ」

まるで奥田の気持ちを代弁するかのような言葉が、次々と渚の口から飛び出した。殺せんせーを今までのように殺すことができない。殺したくない。死なせたくない。だから三月に爆発しないで済む方法を探したい。元をたどれば地球の爆破は、殺せんせーの意志ではないのだから。助けたい。命懸けで教えられたから。ずっと楽しかったから。その恩返しがしたい。

当てはないと、渚は言った。それゆえか、どこか不安げな表情だった。奥田は思わず口元を緩めた。同じ気持ちだったのだ。しかし賛成の声が上がってすぐ、奥田はあっと口を結んだ。恐る恐る隣を見ると、茅野と神崎が目を細めている。杉野は言葉で渚に同意した。そして、さらに向こうの木の下にも、友人二人が隣り合って、

「こんな空気の中、言うのは何だけど」

奥田はただちに視線を直した。また別のクラスメイトが険しい顔で注目を集めていた。

「私は反対」

中央で渚が声をあげた。反射的に驚いたようだったが、厳しい表情は一つきりではない。二人、三人、四人、五人、数名が同調するために肩を並べる。

奥田には見つめることしかできなかった。もしかすると驚くこともできなかったのかもしれない。初めから知っていたのではないかとさえ、そのときには、そのように感じられたのだ。

反対派——殺す派の意見は理屈が通ったものだった。暗殺教室を修了したいというのである。

元をたどればE組と殺せんせーは、中学生と殺し屋、一般人と超生物、出会える由もなかった間柄だ。あぐりが「死神」に託さなければ、彼が命懸けで編み出した教育課程がなければ。暗殺者アサシン標的ターゲットというきずながなければ、出会わなかった、出会えなかった、向き合えなかった、向き合わなかった。

だから暗殺でこたえたい。それこそ恩を返すことだと。

つけ加えて言うならば、当てのない調べものにも承服しかねるということだ。まったく、もっともな言い分である。ただでさえ対象は超生物で、それも未知の研究の成果だ。科学に秀でている自負のある奥田とて、その水準にははるかに遠い。そのうえ期日は二か月後ときたら、何も見つからない可能性もある。一学期、二学期と積み重ねて迎えたこの三学期を浪費して過ごすような中途半端な結末は、誰より殺せんせーが望まないだろう。

結局クラスメイトの過半数は殺す意思を示した。

「私は、先生を生かすべきじゃないと思う」

殺さない派は彼らより二人も少なかった。同じ気持ちがないわけはない。助けたい気持ちがないわけはない。それでも殺す派の意見に影響されて転向した者が少なからずいる。殺したい気持ちとてないわけはないのだ。何も知らなかったにせよ、E組は殺せんせーを殺すために、一年間を費やしてきた。奥田の中にも同じ気持ちがある。殺せんせーが殺されるなら、それは奥田が、奥田たちが殺すときでなければならない。

かような選択だったから、必ずしも友人関係を反映する結果にもならなかった。奥田は渚や茅野と同じ意見をとったが、それも二人に合わせてのことではない。二人もそうだ。渚は先の提案のとおり、一方で茅野は二週間前にいざ殺しかけたとき、殺せんせーが長く生きることを望んでしまったのだと話した。それは奥田には知り得ない後悔で、奥田は奥田で科学の力について考えていた。

最初の毒殺の放課後、奥田の理科を認めてくれた殺せんせーは、実は奥田をだましていた。翌日に種を明かされるまで、奥田はまるでわかっていなかった。完敗だった。毒殺を試みた奥田に対して、殺せんせーは教師として指導した。だが、おかげで奥田は成績を伸ばすのみならず、皆の役に立てるようになった。クラスの暗殺を少しでも助けられるようになった。

この力を今度は殺せんせーのために使いたい。たとえ実力が及ばないとしても、せめて確かめて諦めたい。いや、科学の力ならば。

可能性がある。そうして殺さない派に立った奥田とは、やはり言葉は違ったが、杉野も神崎も同じ立場をとった。同様に四班の残る二人もそれぞれ異なる口を開いて——殺す派として意見を述べた。

カルマは他に先んじて殺す意思を示した一人だ。つまりは渚に反対した。最初は中村だったが、そこに寺坂らが加わり、続けてカルマがはっきり敵対した。さながら喧嘩だった。意見にかかわらず周囲が困惑してしまうような喧嘩だ。奥田は思わず、カルマの隣にいたはずの、もう一人の友人の姿を探した。相変わらず木陰に立っていた彼女は、やがて取り押さえられる二人を見て、表情を取り繕うこともしなかった。

胸を押さえると、今でも鼓動がよくわかる。わかっていた、はずだったのに。奥田が視線をさまよわせているうちに、マッハ二十で殺せんせーが現れて、よりにもよって目的は仲裁で、その方法は全員参加のサバイバルゲームだった。生徒全員が意見を述べて、立場を選び、そしてクラスの総意を争う。渚と同じ殺さない派を選んだ奥田たちは青色を、カルマと同じ殺さない派を選んだ者たちは赤色を——。

先生を生かすべきではない。赤色の唇からこぼした彼女は、専用の武器をつかみ、颯爽と奥田に背を向けた。


渚の提案に始まり、対立、喧嘩、サバイバルゲーム、その勝敗がクラスの三学期を左右するとなれば、もはや戦争だ。助けるか、殺すか。絶対に他人事ではありえないはずの殺せんせーは、皆の意見を尊重すると言い、自ら対決を促した。クラスが分裂したまま終わってしまうことだけは嫌だからと。そうまで言われて、異を唱える者はE組にはもういない。

中立の律を含め、全員が己の意見を示したら、多少の準備を挟んで、まもなく開戦となった。今回の実戦形式には覚えがある。対賞金首を想定して、クラス全員で教官を狙う二学期からの訓練だ。裏山を戦場とすることも珍しくない。だから各々円滑に用意を終え、審判を買って出た烏間の合図の直後、——早速これが訓練でないことを、訓練とは決定的に異なることを、絶対的に思い知らされた。

狙撃。開幕の。一発、いや二発。奥田ら殺さない派の青色から、二体の死者が両手をあげる。それは波のようにチームメイトの視線を集めた。打って変わって下手人の姿は見えないが、正体は明らかだ。クラスきっての狙撃手二人だ。彼らは戦争をすると決まって真っ先に、殺す派の赤色に名乗りをあげた。訓練教官どころかあの超生物をして警戒されるほどの狙撃は敵に回すとかくも恐ろしい。

急遽、青チームの耳元を、指揮官の指示が走る。狙撃を警戒するように。奥田は姿勢を低くして、武器を握りしめる。わかっていた、はずだった。だが相手も同様にこちらの布陣を警戒していたのだ。真っ先に殺された二人のうち、一人はクラス委員の片方で小隊指揮能力が高く、もう一人はそれこそ爆発的な打開力を持つ。幸いにして指揮官であるもう一人のクラス委員は生きているけれど、磯貝自身はそれを幸いだと思っただろうか。

これはクラスの総意を争う、クラスメイトとの戦争である。標的は教官でも賞金首でもない。共に暗殺のために切磋琢磨してきたクラスメイトを全滅させるか、降伏させるか、互いの陣地の旗を奪うか。勝利条件も訓練とは異なる。

磯貝は矢継ぎ早に指示を出した。ただでさえ人数が劣る中で、早速二人も、それも専門家の二人を失ってしまった。特定の分野に秀でているといえば奥田もそちら側ではあるが、今回は役に立てないだろう。もちろん青チームの専門家は三人や四人ではないけれど、その数も赤チームには劣る。そのうえ特に戦争を有利に進められる人材は、ほとんどが殺す派の赤色をとった。

しかし赤色の狙撃は続かなかった。かわりに奥田の耳に、四名死亡の報が届く。なんと赤チームから三名、内一名は例の狙撃手だ。それもクラス随一の狙撃可能距離を誇る彼は、青チームの大きな課題だった。だが彼らを、なんと神崎が一人で殺してしまったというのだ。一人で敵陣の深くまで切り込んだ彼女も、またあえなく殺されてしまったのだが、この活躍は青チームの士気を助けた。

——私もできることをしよう。

正直意外な戦績だった。暗殺での神崎といえば、これまでは暗殺も含めて後方支援が主だった。奥田が言えることではないけれど、進んで前に出ることがなければ、特に目立ったような印象もない。それが早々に一人で三人も、厄介な敵まで仕留めてしまった。

一方で決してまぐれ当たりでもなかった。神崎はたしかに印象のない暗殺者だったが、今にして思えば専門家ではあったのだ。今日の彼女の戦術は、彼女の言葉に直してしまえば、裏をとった、ということになるのだろう。つまりゲーム用語では。彼女の趣味にして特技、いわゆるゲームの全般において、その腕前はクラス随一である。その彼女が夏頃から熱をあげているものが、戦争のゲームだということだった。

暗殺とは一見関係なさそうで、しかし神崎も神崎の得意分野を暗殺のために伸ばしてきた。その成果だと多少なりともわかるから、なおさらチームの闘志に火がつく。

とはいえ劣勢を覆すには至らず、青チームはさらに数を失うことになった。その間に敵も倒したが差は開く一方だ。

茅野も死んだ。彼女は彼女でまるで別人のように身体を操り、また敵の主力を追い詰めたのだが、このことに関しては、むしろ以前が本調子ではなかったのだろう。イトナのように。触手から解放されて、ようやく真の実力を発揮できるようになったのだ。

奥田は意外にも、あるいは順当に、終盤まで生き延びた。いつもみたいに後ろから、それこそ支援に努めたから。それでも最後は前線に出た。

「いいか、みんな。この劣勢で勝つにはリスクをとる必要がある」

磯貝は、守備を捨てる決断をした。もはや敵の全滅は望めない。青チームが勝つ道は、旗をかすめとること、そこにしかなかった。そして、そのためには、赤チームが配置した狙撃手いや移動砲台を最優先で倒さなければならない。

「速水たち三人を全力でるぞ」

赤チーム二人目の狙撃手は大木を陣取って、青チームを狙い、牽制し続けていた。そして攻撃にして防御である彼女の射撃に加えて、傍らに二人の護衛。その二人もまた暗殺力の高い者たちで、

「三人さえれれば、赤の旗を守るのはカルマ一人! 一気に方をつけるんだ! 行くぞ!」

降り注ぐ銃弾の中で、奥田は最初に死んだ。こればかりは運だと言えるような雨だったが、彼女は口を閉じて、戦場を離れた。皆を邪魔しないようにと。その皆は敵も味方も次々と一人ずつ死んでいったけれど。最後は一対一になった。ナイフ術クラス一位のチームメイトと、移動砲台の護衛のもう一人だ。

奥田は驚かなかった。細腕がナイフを振るったとき、その斬撃が阻まれたとき、逆にナイフ術一位の二刀流をかわしたとき、まるで互角みたいに殺し合っていたとき、赤色の唇が笑みをかたどったとき。もう奥田は驚かなかった。何も驚くことはなかった。何を祈ることもなかった。